第8話 姉ちゃんと由梨江さん


「堀江流……」

 ゴスロリの人──もとい、由梨江さんが紡いだその言葉に、僕は思わずオウム返しに呟いた。

 堀江流拳法。

 あの既視感のある技の出し方からして、釘宮流と縁のある──そうじゃなくとも、なにかしら関係のあるものと考えて間違いはないだろう。

 ともすると『堀江』という名称も、釘宮流と同じくどこかの声優さんの名前を元にした拳法なのかもしれない。

 それにしても、こんなとんでもない拳法を使う人がレジェンドさんや姉ちゃん以外にもいたなんて……ましてこんな身近にいたなんて、まったく考えもしなかった。

 ああでも、ここに駆け付ける前に、釘宮流以外にも似た拳法があるとかなんとか姉ちゃんが言っていたなあ。不良たちのせいで結局聞きそびれてしまったけれど。

「なあゴスロリ。ケチャップかマスタード持ってないか? そろそろこのまま食うのも飽きてきたんだよなあ」

「──って、未だにポテト食ってたのかよ姉ちゃん! いい加減、落ちてるもん拾って食うのはやめろっ!」

 この驚愕の事態にまだフライドポテトを食べ続けていた姉ちゃんに、僕は全力で叱声を飛ばした。

 なにやってんのこいつ? バカなの? 脳みその代わりに胃袋でも入ってんの?

「ケチャップはありませんが、マスタードならありますわよ?」

「由梨江さんも由梨江さんで、なに素直に応じてるんですかっ!」

 ていうか、なんでマスタードなんて持ってんの⁉

 まさかの携帯用⁉

「おっ、サンキュー。へへ、やっぱポテトにはマスタードだよなあ」

 言って、由梨江さんから手渡されたマスタード(なぜかポケットに入れていた)を嬉々とした表情でフライドポテトに塗り付ける姉ちゃん。

 いやいや、そうじゃないだろ。ここは釘宮流に勝るとも劣らない拳法の出現に驚くところだろうに。なんで呑気にフライドポテトなんて食ってんだ、この愚姉は。

 あれか? おかしいのは僕の方なのか? ここはあえてスルーする方が正しいのか?

「……これで少しは時間が稼げそうですわね」

 懊悩とする僕に、ふと由梨江さんの方から、そんな囁くような独り言が聞こえてきた。

 稼ぐってなんのことだろう。単なる聞き違いかな?

「ところで、あなたの名前を教えていただいてもよろしくて?」

「え? 僕ですか?」

 そういえば、まだ名前を言っていなかったっけ。

 でもこういう時って、まず助けてくれた人……この場合だと姉ちゃんの方から名前を訊くべきなんじゃないかという気もするけれど、まあ姉ちゃんはフライドポテトを食べている最中だし、別に僕からでもいいか。

「えっと、湖太郎です。凪宮湖太郎って言います」

「湖太郎さん、ですか。良いお名前ですわね」

 にこっと、上品に口許を綻ばせる由梨江さん。

 なんていうか、いかにも育ちの良さそうな人だなあ。所作がいつも丁寧というか。姉ちゃんも少しは見習ってもらいたいものだ。

「見た感じ、小学六年生くらいの年齢でしょうか?」

「ああいえ、もう中学二年生です」

「あら、そうなんですの? それにしては少し背の低い……いえ、ずいぶんと可愛いらしい顔をされていますわね」

「はあ……」

 あまり褒められている気がしない。直前に背が低いとか言いかけていたし、男としては微妙な気分だ。

 やっぱ男なら、女子にカッコいいとか言われてみたいものだ。姉ちゃんみたいに童顔じゃなかったら、ちょっとは周りからも男として見られていたかもしれないのに。

 いや、僕だってまだ成長期なんだ。展望がないわけじゃない。きっと今にぐんと背が伸びるに決まっている。

「あ、それと、あっちのフライドポテトを食べているのが僕の姉ちゃんで、名前は早絵って言います」

「なにか部活はされていますの?」

 話を強制的にスキップされた。

 あれ、おかしいな。姉ちゃんの紹介をしたはずなのに、なかったことにされたぞ?

「えーっと、部活はしてないです。両親が共働きで家を空けることが多いので、その代わり僕と姉ちゃんとで家事を分担しているんですよ。まあ、姉ちゃんがどうしようもない怠け者なせいで、ほとんど僕が家事をしているようなものですけど」

「なるほど。両親が共働きで、現在は湖太郎さん一人で生活することが多いと」

「…………………」

 なんか、姉ちゃんが存在ごと抹消された!

 さっきからもしかしてとは思っていたけれど、もしかして由梨江さん、姉ちゃんのことが嫌いなのかな……?

「それより湖太郎さん、これからお茶でもしませんこと? この近くに『うさぎ小屋』という良い喫茶店があるんですの」

「えっ? お、お茶……?」

 いきなり距離を縮めてきた由梨江さんに、僕は困惑気味に言葉を返す。

 なんなのこれ? なんで急にお茶に行く流れになってるの?

 僕、どうしたらいいの⁉

「おいおい、あんま弟をからかうなゴスロリ」

 と、当惑する僕の横から、さっきまでフライドポテトを食べていた姉ちゃんが満足そうにお腹をさすりながら会話に乱入してきた。どうやら、やっと食い飽きたようだ。

「ね、姉ちゃん……? もしかして僕を助けようと──」

「こいつ童貞だから、わたしやオカン以外の女に慣れていないんだよ。そのくせ性欲が強い方だから、今ごろ頭の中でゴスロリを凌辱しまくってんぞ」

「おいこら愚姉」

 てっきり助け船を出してくれたとばかり思っていたのに、なに誤解を招きかねないことを言い始めてんだこのアマは。

「わたしにはわかる。どうせ脳内でゴスロリの服をひん剥いて、触手プレイとかアブノーマルな真似して恥辱の限りを尽くしてんだろ? エロ同人みたいに!」

「してねぇよ! だいたい、僕のどこに触手なんてあるっつーんだ!」

「股間に一本ぶら下がってんじゃねえか。伸び縮み自由なご立派やつが」

「下ネタやめろ!」

 初対面の人がいるんだぞ! ちょっとは場をわきまえろ!

「あら、ご立派なんですの……?」

「やめて! 由梨江さんもそこだけに反応しないで!」

 困るから! 返答にめちゃくちゃ困るから!

「ほら、湖太郎も困った顔してんだろ? だからもうそれくらいで勘弁してやれ。わたしもさっさと帰って夕方アニメを見る準備をしたいし。なんてたって、今日は釘宮さんが演じるキャラの主役回だしな! 死んでも見逃せねえ!」

「それって、あれのこと? 夕方五時にやってるゼーガなんとかっていう……」

「ひょっとして『ゼーガグレンアクエリゲリオン』のことを言いたいんですの?」

 僕の代わりに答えてくれた由梨江さんに「あ、それですそれ」と言葉を返す。

 そうだったそうだった。確かそんな感じの長ったらしいタイトルだったわ。略してゼグアゲとかって言うんだっけ? 今、姉ちゃんがハマっているアニメの一つだ。

 でもまさか由梨江さんまで知っているとは思わなかった。詳しくは知らないけれど、割と有名なアニメなのかな?

「ていうか姉ちゃん、まだ午後の二時だよ? 今から帰っても二時間半近くも余裕があるのに、その間一体なにすんの?」

「ばっきゃっろう! アニメの前に体を清めて、菓子やジュースを用意しつつ、精神統一をするっていう重要な準備があるだろうがっ!」

「知らねえよ、んなもん。つーか、あれだけフライドポテトを食べておいて、まだなにか食うつもりかなのかよ」

 胃袋ブラックホールか、こいつ。

「ところで、湖太郎さんもゼグアゲを観ているのですの?」

「え? ああいえ、姉ちゃんが訊いてもいないのによくそのアニメの話をするので、たまたま知っていただけです。そういう由梨江さんも観ていたりするんですか?」

「ええ、毎週欠かさず観ていますわ」

 力強く頷く由梨江さん。なんとなく見た目からして想像は付いていたけれど、どうやら由梨江さんも姉ちゃんと同じオタクのようだ。

「おおっ! ゴスロリもゼグアゲ好きなのか? なんだ、わたしと話が合いそう──」

「湖太郎さんは、他に好きなアニメはあったりしませんの?」

「じゃ、ん……」

 スルーした!

 今度は本人を前にして思いっきりスルーしちゃった!

 うわー、今ので姉ちゃんの瞳から完全に光が消えちゃってるよ。今にも鉈をぶん回しそうな昏いオーラを漂わせちゃってるよお……。

「あのー、もしかしてうちの姉がなにか気に障るようなことでもしましたか? もしそうなら、代わりに僕が謝りますけれど……」

 さすがに不憫に思えてきたので、姉ちゃんをフォローするつもりでそう訊ねてみると、由梨江さんは緩やかに首を横に振って、

「いえ、そんなことはありませんわ。ただ少し、そこのアフロの方とは文化が合いそうにないと思っただけで」

 と、笑顔で返答した。

「ぶ、文化って……。でも、姉ちゃんにマスタードを貸してあげたりしていたじゃないですか。普通苦手な相手なら、そんな親切はしませんよね?」

「あれは、そうした方がそこのアフロの人を静かにできると思ってやったことですわ」

 あー、そういえば独り言で「時間を稼げた」とかなんとか言っていたっけ。あれってそういう意味だったのか。

 けど、これでようやく確信が持てた。



 由梨江さんは、姉ちゃんを明らかに嫌っている。これはもう疑いの余地すらない事実だ。



 しかし、由梨江さんはなんでこうも姉ちゃんを嫌うんだろう?

 そりゃ、お世辞にも褒められた性格でないし、なんならクズと言っていいタイプの人間ではあるけれど、いくらなんでも初対面の人に嫌悪感を抱かれる謂われはないはずだ。

 まして由梨江さんと姉ちゃんは同じオタク同士。嫌う理由なんてどこにもないように思えるのだが……。

「そんなことよりも、湖太郎さん。先ほどのお茶の件、考えてくれまして?」

 と、思案に耽っていた最中、不意に由梨江さんが僕の手を握って、その綺麗な顔を思いっきり近付けてきた。

「わたくしとしては、どこか落ち着いた場所で湖太郎さんとゆっくりお話がしたいのですが。ああ、お金なら心配しないでくださいまし。わたくしがご馳走しますわ」

「えっ。いや、ちょ、近っ……」

 ぐいぐい詰め寄ってくる由梨江さんに、僕は顔を引きつらせて後ずさる。

 だが、手を力強く握られているせいで、逃げるどころか、離れることすら叶わない。それどころが、お互いの鼻が当たりそうなほど接近してくる始末だった。

 なんでこの人、こうも僕に積極的なの? 綺麗な人だから好意を持ってくれること自体は嬉しいけれど、ぶっちゃけ困惑しかない!

「うふふ。顔を赤らめたりして可愛い……。イヤですわ、早く擦り合わせないと」

「なにを⁉ なにとなにを⁉」

 怖いぃぃ! なんか言動がめちゃくちゃ怖いぃぃぃぃ!

「怖がらなくていいんですのよ。湖太郎さんはただ、わたくしに身を委ねるだけでいいのですわ。言うなれば……ながされて、愛」

「ひいいいいいいいいいいいっ⁉」

 嫌だあああああ! 犯されるううううう! だれか助けてえええええええええ!



 ぶちゅうううううううっ。



 と。

 突如として横から飛んできた黄色い絵の具のようなものが、由梨江さんの綺麗なドレスに降りかかった。

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