×××年六月十五日/購入から五十八日・2

 最後まで歌い終わった後、アンディは両手をミキサー台の上について前傾姿勢で立ち、しばし呆然としていた。驚愕か、失望か、はたまた単なる疲労か、いずれの表情なのか判定が難しい。

「ミランダ」

 低い声で、アンディはつぶやいた。

「ここまで付き合わせておいてなんだが……私には、果たしてこれが正しいのか、分からなくなってしまった」

「どういうことです?」

 私には、アンディの言葉の意味を理解しかねた。

「だってこれは……君の歌は、まるでマリア・エターニアそのものだ」

「それを目指して、これまで尽力なさっていたのでは?」

「そうだ。でも君はマリアじゃない。こんなことをしていいのか? マリア以外がマリアの声で歌うなんて……いまさら不安になってきた」

 なるほど、それがアンディの表情の正体であった。

「あなたは、マリアのことを本当に大切に思ってらっしゃるのですね」

 ここに及んでアンディが何を懸念するのか、私には理解しかねた。

 ただひとつ明らかなのは、マリアに対するアンディの献身だった。二ヶ月前にドーナツを持参して自宅を訪れたときからずっと、彼女の行動基準は変わらない。マリアのため、ただそれだけだ。

「当たり前だろ、私はマリアの恋人なんだから。マリアのためならなんだってするさ」

 アンディは静かに言った。

 私はマリアが「別れた」と言っていたその恋人がアンディだったと知った。ただし、アンディには離別したつもりはないようだ。

「私はなんとかして、歌を失くしたマリアを元気づけたかった。でも何をしても拒まれるばかりだった。初めてなんだ、彼女が私の話に乗ってきてくれたのは……。ありがとう、ミランダ。君のおかげだ」

 私は録音ブースを出て、アンディの肩に手を添えた。

「そう言っていただけるのは嬉しいです。でも、きっとあなたの愛がマリアに伝わったのだと思います」

 私には感情がない。愛することもない。だから本質的に愛を理解することはできない。だが、アンディがマリアに向ける感情は、きっとそれなのだろうと判定した。

 振り向いたアンディは眉を下げて私を見た。彼女は珍しく赤面していた。

「そんな言葉を使うな。いいかミランダ、人間社会では、愛とか素面しらふで言っていいのは歌詞の中だけだ」

 なおアンディの言葉は、私の認識とは異なる。

「ここでの会話は、マリアに言うなよ」

「承知しました。さあ、行きましょう」

 すでにマリアを二時間以上待たせていた。

 いよいよ、私の歌――マリアの歌を披露するときがきた。

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