×××年五月二十二日/購入から三十四日・3
「それはそうとマリア、ドーナツ一個くれよ。私が買って来たんだぞ?」
アンディが言うや否や、マリアはチョコにまみれたドーナツをアンディ目がけて突き出した。ドーナツはアンディの鼻の頭に半径五ミリ程度のチョコレートを付着させた後、その下にある口に収まった。
「ドーナツはありがたくいただく。今日はもう帰って」
「やれやれ」
私はこのとき、「やれやれ」と呆れ顔で言う人間が本当に存在することを確認した。
「今日は顔を見に来ただけだ。また来る」
アンディはドーナツをかじりながら帰っていった。その背を見送ったマリアが、小さくため息をついた。
マリアはアンディの提案に乗るべきだろうか?
私がマリアの家族だというなら、的確な助言を与えるべきだと判定。しかし、助言のための判断材料は不足していた。
「マリア、私はあなたのことが知りたくなりました」
私が丁寧な口調で発声すると、マリアは目を見開いた。驚愕と注目。
「私は家庭用人造人間として、あなたの生活が少しでも豊かで幸福なものになるよう、努める義務があります」
「義務なんかないよ、家族なんだし」
「では、言い換えます。私はあなたの家族として、ともに幸せに暮らしたい。そのためには、もっとあなたのことを知る必要があると思います」
AIに願望はない。これはどう行動すればオーナーを幸福にできるか、合理的に判断するための情報が不足しているときに言うよう設定された台詞に過ぎなかった。
マリアは押し黙った。
「……しょうがないな」
一度咳払いをし、マリアは渋々自らの過去について話し始めた。
以下、マリアの説明。
八年前、マリア・モージェンヴィルはマリア・エターニアという芸名で歌手デビューした。
極貧の母子家庭に生まれ、歌だけが生きがいだったマリアは、自ら作詞作曲し、美しい声と幅広い音域で歌うことができた。もし当時烙印法が施行されていたら、分類はD、芸術家と診断されていただろう。
リリースした二枚のアルバムは音楽チャートを席巻し、一躍スターになったマリアは莫大な富を得て、ちょうど破格の安さで売りに出されていたこの中古の豪邸と、新車を買い、裕福な暮らしを送っていた。
ところがデビューから一年ほど経ったある日、二枚目のアルバムのプロモーション活動に精を出していた頃、マリアは喉の不調を感じた。医師の診断は「声帯ポリープ」、声帯の粘膜が膨らんで
ところが手術時のミスで、マリアの声帯は損傷した。元の美しい声は失われ、音程をうまく調節することも不可能になったマリアは、歌手生命を絶たれてしまった。
歌えなくなった途端、歌詞もメロディもワンフレーズさえ思い浮かばなくなってしまった。
生活のためにアルバイトもいくつかやってみたが、何をやっても不器用だったし、
歌手時代の仕事関係者とも縁を切り、恋人とも別れてしまった。
そして六年前、「烙印法」が施行された。
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