2.シカゴ・スラッガー

コルクを出ると確かにそこはドック的ではあったが正確には違った、空母のドックを縦にしたような空間が広がっていたのだ、

その空母を縦にすっぽり納められる空間に紫の闇が立ち昇っており彼女がドックの全像を掴む事を阻害していた。

見知った構造物が騙し絵のように、縦にあるべきものが横配置され、横にあるべきものが縦に配置されている、このチグハグ感が先述の闇と共に彼女の脳にテンカンのようなダメージを与えた。

猛烈な吐き気が再び込み上げ彼女は、先ほど一瞥し永遠の別れをつげた青いポリバケツにかけより抱きしめ吐いた。

若干涙目になりながら、目を慣らす為に彼女は再び縦ドックと紫の闇をゆっくり舐めるように視線を上へと向けた。

彼女は大声で叫んだ、女性の悲鳴ではなく生物としての叫びであった。


その紫の闇は、闇ではなく巨大な生物であった、いや生物では無かった、紫の巨大な女体にタコの顔をつなぎ合わせたモニュメント?機械?であった。

いや、やはり機械ではない。

その濡れたゴムのような質感の表面には波打つ息遣いを感じる、生物?いや機械?思考が目まぐるしく反転・反復するも結局何かは分からない、ただ一つ正確な言葉がよぎった「冒涜」。

それは生命への冒涜である事は確かだった。冒涜という認識の澱を見つけた事で、彼女の体はその冒涜への正常な反応を示した。彼女は再びポリバケツを抱きしめて吐いた。


「さっきっから吐いて叫んで、また吐いて。お姉さん、ひょっとしてパリピ?」

風邪で掠れつつも落ちついた女性のような声がポリバケツを覆う彼女の頭に降ってきた。

その声色は静かな親しみとも、小さな嘲りともとれる。

コルクとドックを隔てるように円状に設置された仕切り手すりにいつの間にか腰かけていた人物から発せられた言葉だった、

バケツを抱えへたり込む彼女の横で見下ろすように腰かけていた人物は緑の野球帽にスタジアムジャンパーを羽織り、少し眠そうな眼をした小柄な少年だった、

女性ともとれるような掠れた声色は彼が今まさに声変わりを迎える年齢なのだと推測させた。

このあべこべで冒涜的な場を更にかき回すような絵にかいたような普通すぎる民間人の少年、それが彼女の第一印象だった。

その普通さがかえって彼女を強張らせた。



少年は手に持っていたペットボトルを彼女に差し出しながら彼女の正面を向いた、

少年の顔にはこの冒涜的な場所と普通過ぎる民間人の彼を繋ぎとめるかのような印があった、ほほの下から眉間までの斜めに走る大きな傷だった。

街で少年を見かけたら彼の過去と傷に同情心だけを寄せただろうが、この歪な場所では傷を含めた彼の存在こそが、

この場を安定させる役割を果たしているように彼女は感じた。

彼女はペットボトルを受け取りながら

「違う!パリピじゃない。アタイはル・リエ、ここに呼ばれた軍人」

否定に込めた怒気は彼に対してではなく、少年の傷に安心感を感じた自分にである。


「知っているよ、僕と彼女がリエさんをここへ読んだんだ」

リエに渡したペットボトルを自分に返す必要がない事を示すかのようにポケットに手を突っ込み少年は紫の闇に向かって歩きだした。

「彼女って、アレ?そもそもここは何さ?」

少年の後を追いながら彼女は尋ねた。

本来聞かない軍人である彼女が職能を押さえつけてでも問わなければならない事がここには山のようにあった。


「"シカゴ・スラッガー"それが僕のあだ名。本当の名前は…忘れた。」

シカゴ・スラッガーがスラングが示す"喧嘩っ早い職人"だったとしても、そのままのシカゴの強打者の意味であっても少年のイメージとはかけ離れている。

シカゴはドックの中央に置かれた古めかしい茶色い本を模した大きなテーブルの前で歩みを止めた、テーブルは彼の腰より若干低い高さだった。

そのテーブルは目を縫われ口を開いた巨大なミイラの顔のような意匠が施されていた、デスマスクをハムの先端のように薄く切って張り付けたようなデザインであり、

大御所デスメタルバンドのギタリストがイメージづくりに自宅に誂えたような"いかにも"なテーブルであり、ともすれば行き過ぎて滑稽に見えるデザインだが、

この場にはあるべくしてあるという有無を言わせない存在感があった。

シカゴはテーブルを見下ろしながらポケットから粗削りな黄色いボールと共に手を出した。

「ちょうどナイアルラトホテップの遺骨が泣き出した」

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