第10話 紅炎1(中)

 【あっ!背広とネクタイ忘れた!まぁ漁火が持ってきてくれんだろ!】

 地面に着地し愛夢を降ろすが返ってくる反応は思っていたものと違った。

 愛夢は驚き、戸惑い、諦め、恐怖が入り混じったような表情をして美剣のシャツを硬く握っていた。

 勝手に体に触れてしまったことを詫び、愛夢の顔を覗き込み声をかける。

「おーい、ここは怒るとこなんだぞー?何するんですか!ってさ」

 どんな理由でも良いので感情を隠さずに剥き出して欲しくて愛夢に話しかける。だが当の愛夢は美剣のシャツの心配をするだけであった。

【この状況でも感情を殺して、非を謝罪することが当たり前になっている】

 臼井と向井の言った通り愛夢は何をされても怒りも悲しみもしない。ただ自分の心を殺して耐えていた。

 美剣と話している間も愛夢の意識は校舎へ向いている。そこにいる全ての人間の目を気にして言葉と行動を選んでいるように感じられ納得する。

「そっかお前、今この瞬間も殺されてるんだな、周りに。こんな地獄みたいな場所にいたら当然だよな」

 一瞬だけだが、驚いた愛夢と目が合う。

「ごめんな、迎えにくるのが遅くなって」

 心から謝罪をするが愛夢はただ黙って下を見つめていた。笑った顔が見たくて熟練の熟女の教えを伝授するが反応は薄かった。

 愛夢に会えた嬉しさで調子に乗り、三階から飛び降りる暴挙に出てしまった美剣は、少しの自責の念にかられると同時に決意をする。

 笑顔が見たいと思っていても、その他の感情すら愛夢は殺してしまっている。だからまずは愛夢が殺している感情たちを思い出させ、彼女が閉じこもってしまっている金魚鉢のような自分の殻を破ることに尽力することを。


 合流した漁火に小言を言われるが、その内容は拘束したことを根に持つでもなく、美剣の非常識な行動を責めるのみだった。

 自身を痛めつけられても怒ることのない漁火に、美剣はただ感服するのみだった。


 首都高速道路


 漁火のデコイは都内を格子状に分けた箇所をアルファベットで区分し、小数字は都市部に近く、大数字を過疎部に近くするように定められていた。そして今回は山の山頂のデコイに反応があった。

【B8ってかなり過疎った場所じゃねぇか】

 高速の長いトンネルに入ると、電波が遮断されてしまい、LETと連絡が途絶えてしまう。その前に各所へと漁火と分担して連絡を行う。

 後部座席で置いてけぼりをくらっている愛夢は、隅の方へ身を窄め小さくなっている。早く構い倒してやりたい衝動を抑え、漁火を除いたフロウティス部隊とのグループ通話を開始する。

『僕の方はまだお偉方との話が長引いてる。終わり次第ヘリを飛ばす予定だけど、旭夏君の到着が遅れた場合は二人での追弔になる。大丈夫か・・・?』

『こちらは先程本部を出ました。到着の時刻は美剣さん達と大きな差異はないです』

「おー最悪オレ一人でもやるから大丈夫だって!鳥獣タイプだったら詰むかもだけど、そのときゃ漁火と一緒に何とかするからよ!」

 今回のアスピオンは一体。美剣は何度も一人での追弔を経験している。自身の手に負えないアスピオンであれば、愛夢を連れて漁火に戦線を離脱してもらうことを念頭におき通話を終了させる。タブレット画面にある定点カメラの映像は、四足歩行の動物型のアスピオンの姿を映しており、美剣は今回のアスピオンが自身の戦闘スタイルと相性の悪い鳥獣タイプでないことに胸を撫で下ろした。

【二人が現場に到着する前に、終わらせねぇとな】

 溝呂木と旭夏に愛夢を連れてきたことがバレる前に追弔を終わらせねばならなかった。もしバレた日には大目玉をくらい、美剣は二度と愛夢に関わらせてもらえなくなるからだ。

 追弔現場の最寄りの駐屯地に、封鎖作業応援の連絡を入れている漁火には、二人に現状を報告することは不可能だった。

 緊急連絡を全て終わらせ、残りを書類で事後提出することにした美剣は、満を辞して愛夢に話しかける。

 顔を見たくて少しだけシートを倒すが、愛夢が美剣に向ける表情は硬く強張っていた。

【あー、漁火にあんなことした上で三階から抱えられて飛び降りたんだから、そりゃあオレのこと怖いって思うわなぁ・・・】

 追弔は到着時間を優先する為に今回は公共機関を使えない旨を話すと、なぜか愛夢の背筋が伸びそして何かを決意したように視線は真っ直ぐを向いた。

【なんだこの反応?電車が好きって訳じゃなさそうだし・・・。何か自分の中で勝手に結論出して納得したって感じだな・・・】

 愛夢が何を思ったかはわからない。だが美剣はずっと疑問に思っていたことを愛夢に問うた。

「お前、オレの名前ちゃんと覚えてるか?」

「みつるぎさん・・・です」

 何とも言えない調子のはずれた声が返ってくる。シートに寝転がっていなければ座席からずり落ちていたかもしれない、それ程に美剣は拍子抜けした。

「もっと可愛く呼ばんか!お兄ちゃんとか先輩とかつけてもかまわんから!」

 美剣はそう呼んでほしいと願っていた。臼井すらも認めたのだから間違ってはいないと自信を持っていたが、運転席から漁火の突き刺すような怒りの空気を感じ慌てて愛夢を見る。

 その顔は困り果て、首を小さく横に振っていた。

【スベッたみたいだろうが!せめて笑わんかーい!】

 そう思い笑うよう促すが、愛夢の表情は相変わらずだった。今朝の麻雀勝負のこともあり美剣は声に出して誓う。

「絶対に笑った顔見てやるからな、覚悟しとけよー!」

 そして笑うか、自ら話しかけるまで美剣に見つめられ続けるという苦行に耐えかねた愛夢が先に折れる。

 だが美剣の勝利の女神は微笑むことはせずに、選んだのは自ら美剣に話しかける道だった。


 愛夢に問われワクチン接種によるメテウスの活性化について語ろうとするが、簡単に信じてもらえる訳もなく美剣に向けられる表情が疑念に変わる。漁火が助け船を出したことで、その表情はすぐに安堵に変わるが、美剣はそれが気に食わなかった。

【オレだってあんなクソガキ相手にしてなかったら漁火よりも懐いてもらえたのに・・・!】

 自分でも大人気ないとは思いつつも、拗ねた美剣は愛夢の気をこちらに向けるために、無理矢理に話題を逸らした。

 美剣が突然出した問題に愛夢は完璧に解答した。解答だけではなくその後に続く質問も、漁火から説明されたアスピオスの情報をもとに、自分で推察し答えに辿り着いていた。

 百点満点と褒めると愛夢は少し照れくさそうにしていたが、またすぐにいつもの表情に戻ってしまう。

【コイツ全然褒められ慣れてねぇな!よーし!今日は褒めちぎってやるぜー!】

 称賛の拍手をし次の説明に入ろうとすると、それに気をよくしたのか、愛夢がまた悟ったことを口に出した。その声は少しだけだが、弾んでいた。

「そのワクチンを打っているから人間はアスピオン化しないんですね。まだ打てていない人たちも急がなきゃいけませんね」

 優しい愛夢はワクチンをアスピオン化しないために打つものだと結論づけた。どこまでも純粋に人の善性を信じる愛夢に、真実をどう告げるべきかを考えていると険しい顔をしてしまっていたのか、慌てた愛夢に喋りすぎたことを謝られてしまう。

 心配するなと声をかけても愛夢の不安の表情は消えることはなかった。

 ひとまず美剣はワクチンの中身が生理食塩水であることを説明した。

 それでも愛夢の不安を払拭することはできず、さらには横にいる漁火が追い討ちをかけてくる。

「美剣さん、ちゃんと言いましょうよ。アレはワクチンなんかじゃなくて毒なんだって」

【漁火ーー!!!?お前もーちょい言い方ってもんがあんだろー!?】

 美剣は漁火の言葉を止めようとするが、それは無駄に終わった。ASPワクチンの真実と漁火の怒りは吐露されてしまった。

【ワクチン打ったせいでいきなり身体が変化して化け物と戦う羽目になったんだもんなぁ・・・。上の連中はそれを今度はコイツやらせようしている。漁火が怒るのも無理ないな】

 漁火を一旦宥めた美剣は、再び愛夢にワクチンの真相と愛夢の体に起こった変化について説明した。なるべく笑顔で優しく、硬く握りしめた愛夢の手が緩んでくれるようにと。

 説明不足な部分は何とか心を落ち着けた漁火が補足してくれたが、それは政府に対する棘を含んでいた。


 高速をおり、三人を乗せた車は山道を登っていく。

 愛夢の憂いを祓うために勧誘にきたのに、今日はずっと彼女に不安な顔をさせてしまっていた。

 愛夢からすれば政府と医療機関が薦めたワクチンを打っただけで、その結果が集中力と運動能力の向上を引き起こした。そしてそれが勝手にイジメにつながったのだから混乱するのも無理はなかった。

 これ以上は愛夢を混乱させたくない気持ちと、残酷だが真実を知らせるべきだという義務感が、美剣の中でせめぎ合う。

 わざと明るい声で問題を出し、少しずつ正解へと導こうとするが、それも漁火に阻まれてしまった。

 愛夢をLETに加入させたくない漁火の暴露した政府の非道の行いは、全て真実だった。

 場を和ませようと美剣はビブラートをきかせ漁火を注意するが、その結果車内はより一層の静けさを際立たせた。

【オレの美声でもダメか!!!!】

 漁火の怒りも、愛夢の戸惑いも、どちらも理解できる美剣は腕を組みどうしたものかと考える。すると後部座席から可愛らしい声が飛んできた。

「あの、いるんじゃないでしょうか?メテウスを持っている人、拒絶反応が出た人をニュースで見たことがあります!」

 その澄み切った声は、他の者に責任転嫁をするためにその言葉を言っているのではないということが、伝わってくるほどだった。

 だが純粋に人の善性を信じる愛夢が、一生懸命に考えてくれたその憶測の答えは否だった。

 反ワクチン派と呼ばれるワクチンによって健康被害が出たと国を訴えてきている集団のほとんどは、詐病であった。

 上は80代から下は5歳と幅広い年齢層の人間がバラバラの健康被害を訴えてきており、真実を公表することのできない国とのイタチごっこが続いている。

 接種の年齢制限は守るべき対象である子供たちだけは戦いに巻き込みたくないという思いで、溝呂木が政府の人間を死に物狂いで説得し勝ち得たものだった。

 そして40代より上の人間にワクチンを接種を推奨しないのは、その年代の人間たちが議員に多く在籍しているからだった。

 彼らは自らに反応が出ることを恐れたのだ。

 追弔に巻き込まれたくないという姑息な理由で年齢制限を隠れ蓑としたのだ。

 そうしてフロウティス部隊に全ては押し付けられ、今日に至っている。

 しかし対象内であっても全ての人間にASP接種をさせる訳ではなかった。政府関係者、財界人、それらの親類縁者にも、生理食塩水の投与のみを行っていた。

 そしてその影響力の大きな人物のワクチン接種の絵面は、国民へのパフォーマンスのために使われた。

 そんな最悪な贔屓の真実を全て端折り、愛夢にはひとまずの説明として対象の年齢以外には生理食塩水だけを接種させたことを伝える。

 すると愛夢には珍しく素直に受け入れられない様子で言葉を返してきた。

「本当にただの一人もいないんですか?ニュースでは二十代の人もいるって・・・」

 美剣は何度か遠目から健康被害を訴えてきている人間を見てきた。万が一にもメテウスを持っている可能性があり、自分たちと同じ苦しみを背負うことになる人間がいるかもしれないと思ったからだ。

 だがその全員は同じような目をして金の話をし、わざとらしく自身の症状を見せつけてくるだけだった。そして内密な調査を行った結果は、訴えを起こした全員が、人目がないところでは国に訴えているような健康被害の確認ができない上、精密検査すら拒絶した。

「私、あの人たちとは一緒に戦いたくないですね」

「同感だ、まぁここにやっと一人だけ見つかってくれたことに感謝しよう」

 どんな人間であったとしても歓迎できる職場ではないが、苦しみを最小限にすることだけは可能だろう。

 声は沈んでしまったか、心は穏やかであった。

【やっと見つけたお前に、また会えてオレは嬉しいよ】

 意気消沈してしまった漁火と愛夢の二人の会話が途切れ車内には走行音だけが響いていた。

【よ〜し!ここはオレが盛り上げねばな!】

 美剣は自分の持てる全て可愛さを声帯に集中させ、自分ができる最大の高音で愛夢のセリフを真似た。

「その日に〜たまたま体調が悪かっただけで〜す!それとも〜薬との相性が悪かったとか〜」

 渾身の出来を自負する美剣の、今世紀最大の愛夢の物真似の結果は酷評だった。

【まだだ!オレの本気はこんなもんじゃない!】

 漁火に冷たくあしらわれ美剣はリベンジに燃えた。     

 愛夢の可愛さは、自分が一番よく知っている。

 心の中に愛夢を思い浮かべて、自分が愛夢になったつもりで本気で演じる。

「きゃ〜!やだ〜もぉ!漁火さぁんがこ〜わ〜い〜!」

 結果は漁火は美剣の物真似のあまりの可愛さに身震いをし、ハンドルをとられるほどであった。

 完璧すぎる物真似に、自分で自分の才能が恐ろしく思えた。

 愛夢の可愛さを全力で表現しきった物真似は、自身の可愛さを認識するきっかけなっただろうと、そう思い美剣は笑顔で愛夢を見た。

 だが当の本人からは、なぜか涙目で震えながら自分の話し方が気持ち悪いことを謝罪されてしまい美剣の目は点になる。

【そりゃあ、お前の可愛さには敵わないけどよぉ!気持ち悪いはねぇだろ!?】

 愛夢の消えそうな声は謝罪から感謝へと変わる。

「美剣さん、私こんな話し方だったなんて知らなくて。気付かせてくれてありがとうございます・・・」

 子犬のように震え、今にも泣きそうな顔をしている愛夢を見て、美剣は自身のしでかした大きな過ちに気付く。

「あっー!ごめん!誤解だ!!!!西宮愛夢!!!!」

 誠心誠意の謝罪をするが、愛夢は下を向き俯いてしまい、顔を美剣に見せないようにしていた。

 愛夢の憂いを祓いにきた自分が、逆に心に傷をつけてしまったことに罪の意識が芽生える。いかに心を込めて謝まろうと、言葉だけの謝罪は軽く感じられるのか愛夢からの反応はなかった。

 美剣にとって今は緊急事態だった。シートベルトを外し愛夢のそばに移動しようとしたその刹那、車のスピードが上がる。

 そして漁火の運転は上り坂のガードレールに擦れるほど近くでカーブを曲がり続けた。

「その通り!誤解してらっしゃいますよ!!!西宮さん!!!貴女は大っ変可愛らしくていらっしゃるし!さらに礼儀も正しく!声も優しく綺麗で聞いているだけで心安らげます!さらに私を幸せな気持ちにさせてくれると同時に!笑顔にさせてくれますっ!!」

 ハンドルをとられたときの漁火とは明らかに違う攻めと怒りのカーブは美剣を恐怖に陥れた。

【漁火ー!?お前、口説いてんじゃねぇぞーー!!】

 美剣がやろうと思っていた褒めちぎりの役目は、漁火に盗られ、拷問のような助手席側のカーブ擦れ擦れ攻撃は延々と続いていた。

「貴女の天文単位級の可愛さにっ!美剣さんの醜悪で!下劣で!低俗な!物真似なんてっ!足元どころかっ!同じ時空に立つことすらっ!許されませんっ!!!!!」

【そこまで言うか〜!!!?】

 漁火は人のために本気で怒れる男であり、今それは愛夢のために遺憾無く発揮された。

 たとえ公用車であろうと、美剣に制裁を加えるためならば車体を擦ることも厭わないのであろう。

 もとより愛夢に許してもらえるまで謝罪をするつもりだった美剣は、さらに漁火に強制され叫ぶ。

「申し訳ないっ!ごめんっ本当っにオレが悪かった!」

 山にこだまするほどの大声で愛夢に謝罪するのと、山道のカーブが終わるのは同時だった。

 愛夢を傷付けたことへの申し訳なさと、公用車を破損させるのではと冷えた肝、そして数々の失態を晒してしまった漁火へのうしろめたさ、それらで美剣の心労は限界に達した。

 

 賛辞のかぎりをつくした漁火と、それを受けた愛夢は思春期の学生同士のようにお互いに照れながら「すごい」と「いいえ」を繰り返していた。

【・・・ていうか・・・。オレの方が昔から可愛いと思ってるけどー!?】

 そう心の声のままに叫びたい衝動はあったが、今はただ力なく項垂れることしかできなかった。


 山頂に着いた美剣たちは、最寄駐屯基地の隊員に見守られながら建設現場へと向かった。

 完璧に閉鎖されたフェンスはアスピオンとフロウティス部隊を閉じ込めるために作られ、どこの追弔現場であろうと当初から設置されている。

 入り口の鉄製の扉が閉まる瞬間、一人の自衛隊員が「化け物共がっ・・・!」と呟いた。

 幸いにもその声は愛夢には聞こえておらず、美剣は漁火と目を合わせ安堵した。

【今のヤツと、クソガキので本日二回目だな!】

 LETに所属している自衛隊員には、追弔の現場を何度も見られているために、フロウティス部隊は恐れられていた。何度アスピオンを還そうと美剣たちに向けられるのは恐れや誹りであった。

 

 美剣はポケットのライオンハートを取り出し、右手にはめる。ようやく元の位置に戻れたライオンハートは長く放っておかれた怒りから抗議の炎を奔らせる。

 愛夢はそれを怯えるでもなく、ただ驚いた顔で見つめていた。

【これがオレの相棒だ。怖がってなくてよかった】


 下車したタイミングで装着したワイヤレスイヤホンから着信音が聞こえた。通話ボタンをタップする。

『旭夏です。通話できるということは山頂の自衛隊と合流したということですね。そちらの現状は?』

「こちら漁火、アスピオン一体を視認しました。タイプはアニマビーストで猫だと思われます。周囲に他のアスピオン反応はありません」

『そちらの現状は把握しました。カメラ映像と相違なく安心しました。こちらの進行ルートは交通誘導に不備があり玉突き事故が発生、現在は公共機関との併用でそちらに向かっています』

「到着時刻はいつ頃になりますか?」

『・・・おそらく30分以上はかかるかと・・・』

「そんなっ・・・!溝呂木さんのGPSも厚生労働省から動いていない!?」

『私の現状を連絡した時に、狸と狐に嵌められた、と言っていました。おそらく溝呂木さんのお父様の差金でしょうね』

「ーーっ!!わかりました・・・。こちらで、できる最善を尽くします」

『私も全力を尽くします。どうかご武運を』

 通話は切られ、耳には木々がざわめく音と鳥の鳴き声だけが入ってくる。

 女神を模した鉄塔が美剣たちを見下ろす。美剣は、戦い易いようワイシャツのボタンを外し、愛夢を後ろ手で制した。

【旭夏も溝呂木も足止めされてここにこられない!イケメン2人に邪魔されないとは逆に最高の状況だ!】

 今日の美剣は空回り、愛夢ためを思ってしたこと全てが裏目に出ていた。

 今の美剣にできることは追弔を1人で完璧にこなし、汚名を返上して、名誉を挽回させることだけであった。

「美剣さん、せめて溝呂木さんだけでも・・・」

【あいつが来たら今この状況を見て何て言うか!絶対ロクなこと言わんぞ!?しかもアイツ、ヘリで来るって言ってなかったか?】

 ヘリから降りてきた溝呂木に愛夢がときめく姿を想像してしまった美剣は、急いで漁火を一蹴した。1秒でも早く追弔を終わらせ、愛夢とじっくり話したい美剣は、漁火を急かしようやく了承を得ることができた。


 美剣は、大きく息を吸いフロウティスを纏う準備に入る。


「終焉を告ぐ 瞋恚の炎 昇華し 埋めろ」

 炎に包まれる美剣を心配そうに見つめてくる愛夢に優しく微笑む。そして美剣はアスピオンに向き直る。

「猛り吼えろ」

 漁火のデコイよりも強く大きいメテウスの存在を感じとったのかアスピオンは一瞬、その動きを止めた。

 愛夢と漁火にアスピオンの注意が向かぬよう、正面で対峙できる位置へ真っ直ぐに走り出す。

「フロウティス ライオンハート!!!」

 何百回と纏ってきた美剣の相棒は、先刻の向井への憎悪を喰らい最高の状態で戦闘に臨んでくれた。

「デコイ解除します!」

 その声に合わせカラスは散り散りになり漁火の元へと戻っていく。

 美剣は人差し指に炎を纏わせ猫型アスピオンを挑発する。こんな挑発は何の意味もないことはわかっていた。

 アスピオンのその瞳は何を見ることもない、そしてその耳は何かを聞くことはもうない。

 生き物としての本能を失った動く死骸は、メテウスを貪欲に求め、目の前にあるもの全てを殺戮し続けていく。

 愛夢と彼女を守る漁火に、意識が向かぬようにという祈りを込めた挑発に、アスピオンは乗ってくれた。


 大型犬とほぼ変わらぬ体躯が美剣に襲い掛かる。アスピオンの牙を避けカウンターを狙うが猫特有の体の捻りで美剣のアッパーは避けられ空を切った。

【アスピオンのこの動き・・・。骨も脆くなってねぇし、老猫じゃねぇな。】

 老衰した個体ならば身体のどこかに弱点を見つけることができたが、目の前の個体にはそれは無かった。

 常に4人で臨んできた追弔は、1人で臨めば当然かかる時間は倍以上になる。

 アスピオンは時が増すごとに凶暴になり、そして体はさらに大きく変異する。

 そんなアスピオンの頭部にあるASPを、正確にメテウスで砕く。そうしなければまた別の死骸にASPは乗り移り、新しい凶暴性の増した死骸が動き出すことになる。

 部隊結成当初はその研究も進んでおらず圧倒的に情報が足りていなかった。そうして追弔を補助しようとした自衛隊と警察の援助攻撃が、かえって美剣たちフロウティス部隊を窮地に追い込んだのだった。

 それ以来、追弔の補助にはアスピオンの動きを止め、美剣たちのトドメへと導く正確無比な射撃の腕が要求された。そのため自衛隊員の中でも選ばれし精鋭のみで結成されたLETのSDF(Self-Defense Forces)だけが政府により追弔の補助を許されている。

 その彼らも今、旭夏と共に玉突き事故の影響によりここへの到着は遅れていた。

【オレのカッコいいところを見せるチャンスだ!!】

 他の人間ならば窮地だと嘆くこの状況も、美剣にとっては名誉を挽回し、汚名を返上し、愛夢の信頼を勝ち取れるチャンスであった。


 追弔が長引くことを予想し美剣は、伸びた鋭い爪による連続の薙ぎを最小限の動きで避ける。左脚に生まれた一瞬をつき、炎を纏った拳をアスピオン叩き込んだ。爆ぜた炎によってアスピオンがバランスを崩したタイミングを見計らい連撃を繰り出す。

 しかしそのどれもが決定打にはなり得なかった。

 全てのアスピオンは、動く死骸としての本能なのか頭部にあるASPへの攻撃を嫌う。そして逃げ回ることはせずに、攻撃を防御として立ち向かってくるため現状、相手に隙を与えることは死に直結するのだった。

 加えてアスピオンには失う体力も気力も無く、無尽蔵に戦い続けることができる。

 追弔が長引くほど生身の美剣にとっては、不利であり、追い込む側が、いつの間にか追い込まれ袋小路に入ることにならぬよう、部隊がそんな状況に陥らぬよう美剣は今日まで休むことなく研鑽を積んできた。

 そしてこれからは新たなメテウスを持つ愛夢を、アスピオンから守るために美剣はその拳を強く握る。

【もう誰にもお前を傷つけさせない・・・!】

 紅炎がより強く揺らめく。愛夢を想い、彼女にまとわり付く憂いを憎む美剣の心に瞋恚の炎が呼応する。

 掠めた紅炎が爆ぜアスピオンの筋肉は削がれる。

【弱点が無いなら作るまでだ!】

 美剣は強制的に弱点を作り出し隙を生み出していく。

 アスピオンを還すことができるメテウスと名付けられたこの能力は、想いに左右されるのだ。

 そう言っていた前任の隊長の教えを思い出す。

【憎しみや恨みが力になるとは・・・オレらしいな】

 痛覚すら無いアスピオンは美剣の猛攻に怯むことはなく、ただひたすらにその命を刈り取る爪と牙をふるった。

 その攻撃を避けつつカウンターを喰らわせ後方へと飛ぶ。

 そのまま資材置き場まで距離を取り、アスピオンの動きを止めるために使えるものを一瞥し探す。

 美剣の先の攻撃も溝呂木の蹴り技に特化したフロウティスならばこのアスピオンの顎の半分は抉れていただろう。

 近接戦闘タイプである美剣と違い、中距離からであっても対象を凍らせることのできる旭夏の技ならば、今のようにアスピオンを自由にさせることはなかっただろう。

 そんな頭の中をよぎるたらればが、自らの無力を物語り、それは自分自身への怒りへと変わった。

 人工物である鉄の女神が、ただ冷たい表情でその戦いを見下ろしていた。

【澄ました顔しやがって!好みじゃねぇ!】

 美剣は自身の身長よりも長い鉄の斜材を踏み抜きそれを手元へと引き寄せる。

【溝呂木と旭夏がいればこんなことしなくて良かったんだけどなっ・・・!】

 アスピオンのするどい牙による攻撃を斜材で受け止める。

 わざと力を抜き押し返すことはせずに爪による攻撃を誘った。

 そして美剣はそのまま斜材を回転させアスピオンの顎を外し、爪を横に逸らせる。

 牙による攻撃の威力を削がれたアスピオンに残された美剣を狩る手段は爪のみだった。

 これにより戦況は変わる。

 警戒するべき攻撃は爪だけとなり、美剣はただそれを斜材で受けるだけでよかった。

 ヤケになったのではと思えるほどの単調に繰り返される爪攻撃により斜材は歪んでいった。

 漁火の「また始末書だ・・・」だと嘆く姿が美剣の脳裏に浮かんだが、構わずアスピオンの爪による攻撃を受け流していく。

 漁火のメテウスにより探知され発見したアスピオンをデコイへと誘導し、溝呂木の植物のメテウスで拘束する。そうして旭夏の氷のメテウスで四肢を凍らせ行動不能にした後に、美剣の炎のメテウスでトドメをさす。

 このフォーマンセルによる追弔が定石であり、最も効率的に迅し私かにアスピオンを還すことができるスタイルであった。

【本当にオレは1人じゃ何にもできねぇな・・・】

 アスピオンの攻撃に合わせて受ける場所を少しずつずらした斜材はようやく美剣の思う形に成る。

 蛇腹と呼ぶに相応しいその形状は、アスピオンの体を貫きその動きを止めるためにそう成った。

 それは溝呂木と旭夏の代わりとなる、アスピオンを拘束するための楔でそれを美剣は地面に突き刺す。

 そして既に満身創痍でありながらも美剣へ殺意を向けることをやめないアスピオンに心で詫びた。

【長引かせて悪かったな。今、還してやるから】

 自らの意思で再び死ぬことすらできぬ死骸の最後の攻撃は飛びかかりだった。しかし美剣は斜材を足場にしアスピオンの上を獲り、そのまま背骨を砕く。

 痛みに苦しむことも、怯え逃げることもしないアスピオンは這いずり続け美剣の命を刈り取ろうとする。

 最後の抵抗ができぬよう、楔である蛇腹の斜材をアスピオンの体に突き刺す。

「来世は綺麗なお姉様に、膝の上で撫でくりまわしてもらえよ」

 弔いの言葉を贈り、炎を纏った美剣の拳でアスピオンの頭蓋を砕き脳を潰す。

 そして黄泉返りの原因であるASPを決して逃さぬよう、頭部をメテウスで全て燃やした。

 突き立てられた斜材の墓標にオレンジ色の光が射す。冷たい鉄の女神と美剣に見下ろされながら、アスピオンは塵へと還った。

 

「もう夕方か、思ったより時間がかかったな・・・」

 追弔という問題は片付いたが、美剣の心には霧がかかっていた。

 美剣にとって追弔よりも、愛夢の抱えている問題を解決することよりも、愛夢の心を開かせることの方が困難で難関であるからだ。

 愛夢に警戒されている今の状態では、美剣が何を言おうが臼井の二の舞になってしまう。

【まずは一緒に夕陽でも見て打ち解けるか・・・】

 こちらを心配そうに見つめる愛夢と目が合い、美剣はフロウティスを指にはめたライオンハートに戻し、笑顔でそれに答えた。

 愛夢が何かを言いたそうにしているように感じたが、美剣も愛夢のことが追弔中ずっと心配で堪らなかった。

 その思いが溢れ、口から洪水のように言葉が流れ出る。

 しかしそのどれにも答えはもらえず、漁火が美剣を静めた。

 美剣は愛夢が話しやすいように、できる限り明るく振る舞い、話しやすい雰囲気を作る。

「美剣さんの戦い、凄かったです。こんな風に守られていたこと、全然知らなくてごめんなさい。そして、こんなにも危険なアスピオンと戦ってくださり、本当にありがとうございました・・・」

 部隊結成当初には様々な人間から内々ではあったが感謝されていた追弔も、今では義務になった。

 そして今、その感謝をくれた者は美剣たちを恐れている。

 今もらった愛夢の心からの感謝の言葉は、美剣が何より渇望していたものだった。

 かつて政府の重鎮たちがくれた褒賞や上辺だけの賛辞とは違い、追弔を目の当たりにし、その危険性を理解した愛夢の真摯な言葉は美剣の胸を熱くした。

【憂いを祓うつもりが、逆に祓われちまったな・・・】

 可愛らしい声から紡がれたその言葉で、今までの苦労が報われたように感じた。

 だがその和んだ心は愛夢の次の言葉によって掻き乱された。

「今日、追弔を目の当たりにして、自分には絶対に無理だと痛感しました。貴重な時間を割いてくださったにも関わらず、ここまで連れてきてくださったのにも関わらず、こんな答えしか出せなくてごめんなさい」

 愛夢が言った"自分には絶対に無理" という言葉が、美剣の心を鑢のように削っていく。

 それは年上の美剣を立てるための謙遜でも、今見た追弔に対する恐怖から出た結論でもないことは、愛夢の表情ですぐにわかった。

 一刻も早くこの話を終わらせたい、この場から去りたい、そんな思いが表情と声に現れていた。

 愛夢が何を思って、考えてその思いに至ったのかわからなかった。

 だから理解したい、そう思った美剣は会話を膨らませる。

【昼飯食ってないって話だし・・・。とりあえず何か食わしてやらないとな】

 笑って欲しくて言った冗談も、食事の誘いも、失敗に終わった。

 愛夢にとってはそれら全ては美剣に茶化されたように感じられたのだろう。

「鎧が嫌なんじゃなくてっ!美剣さんみたいに強くないし、足も早くないし、力も強くないし、頭も良くないし、私なんかっ・・・本当に何にも出来ないし、何の役にも立てないんですっ!」

 愛夢にしては大きな声だった。鈴が転がるようだが小さな消えてしまいそうな声は、成人女性の普段の声量ほどになり、自分を卑下した。

【私なんか・・・?またそれか・・・】

 美剣は愛夢が本気で勧誘を断わったなら、それを承諾するつもりでいた。

 それが愛夢が持つ数ある選択肢の中から、自らがやりたい事を、自らの可能性を信じ、考え選んだ末の結論であったならば、美剣は喜んで愛夢を送り出し、協力することも厭わなかった。

 だが今、目の前で俯き唇をかみしめて震えている少女には、溢れ出る夢への活力も、明るい未来への希望も何一つ感じられない。

 漁火の励ましの言葉も、今の愛夢には届いてはいなかった。

 それどころか愛夢との見えない壁はさらに厚くなっていく。

 今日、今、この瞬間、これを逃すと愛夢の心は二度と開かれない。

 そう直感した美剣は、フロウティス部隊としてではなくただ一人の人間として愛夢と向き合う。

 漁火に端末を預け愛夢を抱き抱える。

【軽すぎるっ!抜いてんの昼飯だけじゃねぇな!?】

 スカートの中が誰にも見えぬよう、三階から飛び降りた抱え方はしなかった。

 まるで世界で一番大切な宝物を抱えるように、それを壊さぬように美剣は翔る。

 一瞬、呆気に取られた漁火がその後ろを追った。

 ただの人間ならばその距離を大きく引き離すこともできた。

 だがメテウスを持つ漁火との距離を広げることは容易ではなかった。

 二人きりで話せる場所の目星は、追弔の途中で見つけていた。

 あとは漁火がそこまで大人しく美剣たちを見逃してくれるかが問題で、今はただ走り回り漁火を少しずつ引き離していくことしかできなかった。

「みんな、すごい・・・」

 遠くで残余の回収をしている自衛隊員を見ながら愛夢が呟く。

【すごいって何がだ?何で自分は何にもできなくて役に立たないなんて思ったんだよ!?何でお前の言うみんなに、お前が入ってないんだよ!?】

 言いたいこと、聞きたいことが溢れてくる。

 だが今の美剣と愛夢では、その言葉が届くことも、本当の答えに辿り着くことも不可能だった。

「西宮愛夢」

 愛夢の名を呼ぶが返事が返ってくることはなく、視線すらも美剣に向けられることはなかった。

 後方から漁火の美剣を呼ぶ声が響く。

 愛夢に首にしがみつくよう言う。

 聞き入れてもらえぬと思っていたが、美剣の焦りと必死の思いが通じたのか愛夢は美剣の首に強くてしがみつく。

【すまん、漁火!これしか思い浮かばん!!】

 思いに応えてもらえた嬉しさに浸る余裕はなかった。美剣は大きく息を吸い、そして叫ぶ。

「自衛隊員の皆さーん!漁火が、女子高生のパンツを覗こうとしてまーす!!」

 漁火はたとえ億超の金を積まれようと、自らの命と天秤にかけられようと、そんなことをする人間ではないことはわかっていた。

 愛夢を抱えたこの状況で、漁火はカラスを使った拘束することは絶対にしない。

 冤罪をかぶせた罰は、全てが終わった後に甘んじて受け入れる。

 そう決心し、今はただ目の前の愛夢に向き合う。

 追弔を終え疲労した体で、愛夢を抱え鉄塔を登ることに不安はあった。

 だが抱き抱えた愛夢の体は、見た目以上に軽かった。そのため、美剣の体力は損なわれることはなく、軽々と鉄塔を攻略していく。

 自らに向けられた漁火の叫びにも、愛夢は反応を返すことはなかった。

「美剣さん!!そっちがそういうつもりなら、こっちにだって考えがありますからね!」

 流石の漁火も、今回ばかりは堪忍袋の尾が切れたのだろう。その声に含まれた怒りは、背中を伝って感じられるほどであった。

「なぁ、アイツ、今何してる?」

 愛夢に今、こんなことをしでかしている自分はもう本気で嫌われて返事すらしてもらえないかもしれない。内心ではそう思い、怯えながら愛夢に質問した。

「誰かと、通話?、をしてるみたいです。画面を私たちに向けています」

 その声には少しだけ怯えが混じっていた。だが愛夢は質問に的確に答えをくれた。

 そのことに美剣は安堵する。

「通話?通報してねぇって信じたいが・・・」

 今、美剣がしていることは拉致と監禁に近かった。愛夢が訴えれば美剣は即時に捕まる。

 そして美剣たちが、高校生で他人である愛夢と共にいることが許される時間は限られている。

 そのタイムリミットまでに、漁火が美剣を信じこのまま任せてくれるのか、それとも縄をかけられてしまうのか。

 そのどちらになっても自分が愛夢にかける言葉も対応も変わることはない、そう思い鉄の斜材を握る手に力を込め登るスピードを早めた。

「私、警察の人に美剣さんは悪くないって、ちゃんと言います。アスピオンのことは言えないけど、助けてくれたんだって!守ってくれたんだって!伝えます」

 愛夢のその言葉で鼻の奥がツンとし、瞳が潤んだ。

 16歳で傷害の罪を犯し、警察に連行されたときの記憶が蘇り、斜材を握る力が弱まりそうになる。

 今の28歳の自分にかけられた言葉が、16歳の自分を赦してくれたような気がして、嬉しさで美剣は泣きそうになる。

 そして現在進行形で自分にこんなことをしている相手を許し、守ろうとする愛夢の過度な優しさに、美剣は不安も感じていた。

 それを誤魔化し、明るく愛夢に礼を言う。

 警察が協力関係にあることを伝えた途端、愛夢の表情は後悔に変わった。

 まるで取り返しのつかない失敗をした、そのことが許せず居た堪れない、そんな怒りと悲しみが混同した表情をして美剣に謝罪をする。

【あぁ・・・車の中でもこんな顔してたな】

 些細なミスや失言をするたびに周囲に嗤われ蔑まれた愛夢のこれまでの経験が、彼女をそうさせるのだろう。

 無知であることが、相手を煩わせたことが罪だと、自分自身に怒り、それが自己嫌悪に変わる。

 そんなふうになるように相手を追い詰める人間を、美剣は嫌と言うほど見てきたからわかった。

 言葉より先に手が出る美剣と違い、優しい愛夢はその度に心を痛め、涙を流して堪えてきたのだろう。

【完璧を求めてこんなに頑張って踠いてんのに、肝心なときは自分は人より劣ってるって諦めて・・・!お前のソレは一体いつ終わるんだよ!?】

 そこから愛夢は完璧に心を閉ざした。

 美剣との間に幾重にも透明な壁を作り、自分の心の殻に閉じこもって鍵をかけ、そして感情を殺していた。

 

 愛夢の閉ざされた心は、鉄塔の上に登り切っても、美剣がいくら話しかけても開かれることはなかった。      

 誰にも邪魔されることなく、二人きりで本音で話せると思って連れてきたこの場所は、愛夢には少し怖かったのか拒絶を態度で示される。

 相槌だけで美剣の言葉に応える愛夢に幾つかの提案をするが、そのどれも心を開かせるには至らず首は大きく横に振られるだけだった。

「そっか、嫌か。じゃあさ、お前が住める場所を用意する。普通の仕事をしててもらって構わないから、時々オレが様子を見に行ってもいいか?」

 愛夢にとっても、彼女がLETに加入することを反対しているメンバーにとっても、最善の道を提案する。

 だが愛夢は頑なだった。

 首を縦に振らないだけではなく、美剣と距離を取るために座ったまま少しずつ後ろへと退がっていく。

 愛夢は美剣から離れることに必死で後方の確認をしてはいなかった。

 菱形状に建設された鉄塔の隙間は、小さく縮こまった愛夢の体を容易く飲み込める大きさであった。

「危ないから、そこから動くなっ!」

 その声に驚いた愛夢がギリギリのタイミングで静止する。

 愛夢が落下しないよう、落下したとしてもすぐさま助けに行けるよう、美剣は一瞬たりとも気を抜くことはなかった。

 山頂にある鉄塔の上は、愛夢の頑なな心をも溶かすことのできる最高の絶景スポットだと思っていた。

 だがもう美剣も愛夢も景色どころではなかった。

 上空の強い風が、愛夢の髪を巻き上げる。

 重く長い髪が隠していたその顔は、美剣の記憶の通りにとても可愛らしかった。

 愛夢は近づこうとする美剣を睨む。だが凄みのないその顔は子猫が必死の威嚇しているようで、美剣はその可愛さに悶えそうになるのを何とか堪える。

【何だソレは!?可愛いな!必殺技かよ!?】

 自らの不謹慎さを申し訳なく思いつつも、愛夢が殺していた心が、殻の中に閉じ込めきれず外に出ようとしていることに美剣は安堵した。

 愛夢の近くに来て欲しくないという威嚇を聞き入れ、その場で止まる。

 美剣は愛夢が本音で話せるように、慎重に少しずつ彼女が自分で作った心の壁を壊し、閉ざした殻を開いていくつもりだった。

「すまん、オレは今からお前を傷つけるかもしれん」

 心を殺し文句も言わず、ただ淡々と、清廉に生きる生き方のままでは愛夢はこれから先も、今のように周りに搾取され続けるだろう。

 同年代の学生や、教師からも扱いやすいと思われ、捌け口にされている。

 そのまま社会に出たとしても、搾取する側が同僚や上司に変わるだけで、状況は今のまま何も変わらないことは目に見えていた。

 そうならないために、そうさせないために、美剣は今の愛夢を否定して彼女を変えなければならなかった。

 彼女の本音を聞き、その弱い考え方を変えさせる。 

 心の傷を曝け出させ、触れられたくないと思っている問題についても説き伏せなければならない。

 今、この無茶はそのために行なっていた。

 それによって美剣との断絶を望んだとしても、愛夢がこれから最良の人生を歩んでいくために、これは絶対に必要なことだった。


「美剣さんは、ご遺族の方ですか?」

 自分からは声を発することはないと思っていた愛夢からの突然の質問に美剣は困惑した。

「何?遺族?すまん、意味がわからんのだが・・・」

 美剣は愛夢からの質問には何でも答えてあげたいと思っていた。初体験でも、経験人数でも、好みのタイプでも、聞かれれば何でも答えたであろう。

 だが愛夢から投げかけられた質問の意味が全く理解できずに、美剣はただ首を傾げるしかできなかった。

【親父もお袋も兄貴も健在だし・・・。両家の祖父母に至ってもピンピンしてんだよなぁ】

 遺族の定義を考えるが、愛夢の意図は見えてこなかった。

 察しの悪い美剣に苛立ったのか、不安や恐怖の中に怒りが混じった声で愛夢は問いを続けた。

「私の父親と呼ばれる人が、殺した方の、ご遺族の方ですか?復讐のために私を殺しにきたんですか?」

 その言葉に美剣は頭が真っ白になった。

 体には心臓を貫かれような痛みが走り、足元の感覚がなくなる。

 どんなアスピオンでも、美剣にここまでの痛みを与えたことはなかった。

 細心の注意を払っていたが、もし今、この瞬間に愛夢が鉄塔から落ちたならば、確実に助けは遅れ彼女は地面に叩きつけられるだろう。

【落ちつけっ・・・!冷静になれ・・・】

 心を落ち着けようと深呼吸をする。

 だが愛夢の言った言葉の意味を、考えれば考えるほどに美剣の冷静さは失われていく。

【何でそんなこと言うんだ!?復讐?殺す?お前を?オレが?】

 今日、自分が愛夢にした数々の失態は、嫌われる理由には充分であった。

 だが当の愛夢は美剣を嫌うどころか逆に、美剣が自分を殺しにきたと結論付け、震えて怯えて、土下座をし尚も話を続ける。

【土下座!?お前が!?オレに!?】

 沈黙を肯定と捉えた愛夢の懺悔は、美剣の心をさらに貫いていく。

 首を絞められたように息が苦しくなり視界が眩んだ。

 そして愛夢は自らの命を金に変え、美剣に差し出す提案をする。

 「やっ・・・めろっ!!」

 美剣はやっとの思いで静止の言葉を絞り出す。

【ヤバい・・・死ぬほどツラい・・・】

 だが愛夢の言葉は槍となって、再び美剣の心を貫いてくる。

「私の体は、きっと人を満足させられません。そんなに綺麗ではありませんし、顔もブスだし。ですからこの体が倒れるまで働いてーー」

「それ以上っ、言うなっーーーー!!!!!!!!!」

 美剣はやり場のない怒りを盾にして、愛夢の言葉の槍を防いだ。

 その大声に驚いて顔を上げた愛夢と、ようやく目が合った。

 愛夢の傷ついた心に寄り添い、憂いを祓いたかった。

 そして願いは何でも叶えてやりたいと思った。

 だが今、愛夢が口に出したことだけは、絶対に承諾できなかった。

 世界中の国家予算を集めても、愛夢が差し出そうとしたものと釣り合うことはない。

 美剣が世界で一番可愛いと思える少女は、自らの体を綺麗ではないと言い切った。

 そしてその価値に到底見合うことのない大損な金を稼ぐために、自らの命と時間を使おうとしている。

 美剣が感じている悲しい怒りに、ライオンハートも困惑し燻っていた。

「違う!遺族なんかじゃねぇよ!!オレがお前を殺しにきた?殺されても、そんなことしねぇよ!」

 大声に全ての感情をのせ、言いたいことを伝える。

 美剣は愛夢を殺そうとするものがいるならば、逆にその命を燃やすことすら厭わなかった。

「そうですか、でもさっきのが私の本音で、私のやらなきゃいけないことなんです。美剣さんと漁火さんのような素晴らしい人たちに、気にかけてもらう価値は私にはありません」

 私なんか、価値、愛夢はその言葉にずっと囚われ自らを抑え込んで他人の目を気にして生きてきた。

 だからもう構わないで、という空気が愛夢が全身から出ている気がした。

「どうしてそう思った!?ずっとオレのことをそうやって疑ってたのか?オレの言葉が、行動が、何かが、お前を傷つけたからか?それとも誰かが、お前にそう言ったのか?」

 愛夢が自分を信じてくれなかったことよりも、愛夢自身が自分を大切に思っていないことが、美剣には何よりも辛かった。

「いいえ、美剣さんはずっと申し訳ないくらい私に優しくしてくださっていました。もちろん漁火さんもです。私が勝手にそう思って生きているだけです」

「あんなっ・・・地獄みたいな場所で生きていて、いつか遺族が殺しに来るまで、ただ働くだけの人生を、過ごすつもりなのか?」

 いつか遺族が自分に復讐しにくる。そんなことを愛夢は一体いつから考えていたのか。

 自分が犯したわけでもない罪を、最後に自らの命を金に変えて償う。

 愛夢が夢や希望を持てなかったのは、そんな生き方をすることを決めていたからなのだろう。

「はい、それが私にできる唯一のことですから」

 こんなふうに愛夢の考えが捻じ曲がってしまったのは、彼女一人のせいではない。

 周囲が愛夢を孤立させ、蔑み、疎んだ結果だった。

 そして美剣も静観という形でそれに加担した。

【ごめんっ・・・!オレが全部悪かったんだ・・・】

 美剣は涙を堪えながら、言い訳を並べて謝罪する。

「美剣さんたちの方が、辛くて大変ですよ。私なんてお二人に比べたら、全然マシですから・・・」

 愛夢は驚くでも呆れるでもなく、ただ哀れんだ目で美剣を見つめ返し言う。

「何でオレらの方がお前より辛いんだよ!?お前の方が辛いに決まってるだろ?」

 愛夢がつけられた心の傷は、美剣が今日一日で癒せるほど優しいものではなかった。

 いつか治る肉体の傷とは違い、心の傷が完治しないことは、美剣もその身を持ってよく知っていた。

「アスピオンの追弔の方が、辛くて苦しいに決まってるじゃないですか!あんなに大変なのに、どんなに頑張っても誰にも知られなくて、感謝もしてもらえないなんて!お二人の方が可哀想ですよ!!!」

【お前にとって何よりツラいのはそんなことなのか?】

 美剣にとっての苦痛は、たった四人しかいない部隊で追弔を行い続けるという肉体と精神を襲うプレッシャーだけであった。

 だが愛夢にとっては、誰にも認めてもらえないことが、感謝という結果につながらないことが何よりの苦痛なのだ。

 そう捉えてしまうほどに、今までそれを切に求めて、そして得られずに諦めてきたのだろう。

 自分を愛せない故に承認欲求を拗らせ、美剣たちを哀れむ。

 その言葉は、今まで聞いた愛夢のどの声よりも大きかった。

「それは、お前のことだろう?西宮愛夢」

 もがいて、どんなに頑張っても報われないことが最大の苦痛と言うのなら、今の愛夢はそれを毎日のように味わって生きていることになる。

 息をしているだけで罪を感じ、近しい者が誰もいない状況でたった一人、周囲からの圧に耐える日々は地獄と呼ぶに相応しかった。

 孤独で休まることのない戦いは、アスピオンを還してしまえば終わる追弔とは違う。

 愛夢自身が変わり、戦いを終わらせない限り、この地獄は一生続くであろう。

 それを終わらせるために、美剣は愛夢に語りかける。

「全部、言おうか?お前ほど清廉潔白で真面目に頑張ってるやつはいないぞ、西宮愛夢?品行方正で授業が終わるとは環境保全、自然保護、清掃、その他、どれも汚れ仕事で今日日の女子高生がやりたがらない学校公認のアルバイトをして、そして寮に帰って誰にも見られないように飯を食ってー」

 臼井が学生の鑑だと言った、誰も褒めてやらなかった愛夢の生活を美剣は誰より知っていた。

「もう、いいです!」

 だが自己嫌悪の塊である愛夢には、その言葉は届かなかった。

 なので美剣は攻め口を変え、愛夢の唯一の家族について質問する。

「そうか、じゃあ聞きたいんだが、お前が一番に気に病んでるのは、おふくろさんのことか?」

「私を・・・産んだ人のことですか?」

 どんな事情があろうと幼い愛夢を傷つけた人物を美剣は母などとは呼びたくなかった。

 それは愛夢も同じだったのだろう。

「違う、育ててくれた方の、お前がいつもバイト代を振り込んでいる、おふくろさんだ。」

「あの人は、母ではありません!血が繋がっていないのに、私なんかを育ててくれたっ・・・。私なんかのために人生を無駄にした被害者です!」

【何でそんなふうに思っちまったんだよ・・・。あの人がお前を、誰よりも、何よりも大切にしたから今のお前があるのに!】

「・・・分かった。じゃあ呼び方を変える。養母さんは、お前がそんなふうな生き方をしようとしてることを知ってるのか?」

 美剣が信じた愛夢の優しく美しい養母が、愛夢の今の状況を許すわけがないという確信はあった。

 それを愛夢の口から言わせる。

【お前を一番愛してくれてる人のことを思い出せ!】

「あの人は、そんなこと知らなくてもいいんです!私なんかのこと忘れて、幸せになるべきなんです!」

【大切にされすぎて・・・これ以上迷惑をかけられないと思ったのか・・・。自分のことを厄病神だとでも思ってんだろうな】

 愛夢は大切に思う人のために、自分を大切に思えなくなってしまった。

「またその、なんか病か・・・」

 私なんか。愛夢の口から何度も出たその言葉は、彼女を蝕んでいる病気のようだと思い、美剣はそれを"なんか病"と名付けた。

「私は、蚕じゃないので軟化病じゃないです!!!!」

 それは愛夢の口から出た初めての雑談だった。

 メテウスのことでも、追弔のことでもない。

 西宮愛夢が知っている知識のお披露目であった。

「何!?蚕?なんか病って蚕の病気?そんな意味で言ってないんだが・・・それ、どうな病気なのかちょっと教えてくれないか?」

 西宮愛夢が患っている病気と同じ名前の蚕の病気に、純粋な興味があり美剣は愛夢に教えを乞う。

「軟化病は、悪い桑を食べた蚕がなる病気でっ・・・食欲が無くなって、発育が悪くなったりして、体がぐにぐに、軟らかくなってっ・・・死んじゃう病気です!」

 その症状はまさに、愛夢そのものであった。

 周囲から蔑みや嗤笑と言う名の悪い桑を無理矢理食わされ続け、食事もとれず、心は傷つき、脆く柔らかくなった。そして緩やかに死に向かおうとしている。

 まさしく愛夢の心は、軟化病を患った蚕と同じだった。

「おおー、すげぇな!よくそんなの知ってるな!ってか、まさしくそれ、お前のことじゃん!」

 愛夢の博識に感嘆すると同時に、拒絶している相手であっても、問われれば誠実に応答する愛夢の優しさを美剣はとても誇らしく思った。

「私は、異常者の子供でっ!ど底辺でっ!バカでっ!ブスでっ!今もこれからもっ!誰のっ、何の役にも立てなくてっ!蚕の方が、私なんかよりマシで、まだずっと人の役にたっていますっ!」

 普通の人間であれば虫と同等に扱われたことを怒っただろう。だが愛夢は違った。

 蚕のほうが自分よりマシだと、人の役に立つと言い切る。

「誰がお前にそれを言ったんだ?誰がお前に悪い桑を食わせて、なんか病にした?ぐにぐに、心を壊した?言えよ!オレがそいつらを全部、燃やしてやるから」

 愛夢の自尊心をここまで壊したのは、彼女が今まで関わってきた心無い者たちである。それは美剣にもわかっていた。

 その全てを燃やせば、愛夢の憂いも少しは晴れる。

【あと、さっきから自分のことブスブス言いやがって!お前はめちゃくちゃ可愛いだろ!】

「そんなこと望んでません」

 美剣の瞋恚の炎を打ち消す清らかな声で、愛夢は美剣の不善な提案を跳ね除けた。

【あぁ・・・。こりゃあ、合格だな・・・】

 これは愛夢がフロウティスを所有するに値することを示す答えであった。

 "西宮愛夢が私利私欲のためにメテウスを使うことのない人間であるかを見極めろ"これが政府の上層部から美剣に下された密命であり、他者に勧誘の担当を任せられない理由でもあった。

 愛夢は毅然と復讐を断り、向井のように己が欲のために力を欲することもしなかった。

 問答無用で力を得ることができた自分と違い、愛夢は人として百点満点の応えを示してくれた。

【困るくらいに、いい子に育ったな・・・】

 美剣は愛夢の前に屈んだ。

 今いる場所は狭い世界であることに気付いてほしかった。だから美剣は愛夢に周りの景色を見るよう言う。

 沈みかけではあるが、鉄塔から見る美しい夕日と照らされる街並みは絶景だった。

 だが見る者の心が、その絶景をただの空と、ただの知らない街に見せていた。

 気の持ちようで、景色も、環境も、生き方も、いくらでも変えられることに気付いてほしかった。

 殻の外からかけられた言葉など、彼女にとっては悪い桑の葉と同じだった。

 だからまず美剣は、愛夢が心のままに生きられるように、自分の心を守るために作っている壁と殻を壊す。

 心を殺していない、本当の"西宮愛夢"に戻って、これからを生きてもらうために。


 美剣の美しい夕陽で愛夢と打ち解ける作戦は、苦労の甲斐なく失敗に終わった。

 だが褒めちぎり作戦は功を奏し、愛夢と美剣の間にある透明な壁は砕けていく。

【オレはお前の長所を、お前より知ってるぞ!】

 美剣から見た愛夢、臼井から見た愛夢、そして素行調査の結果、そのどれもが誰に見せても、どこに出しても恥ずかしくない、西宮愛夢の清廉な心がそのまま現れた生き方だった。

 美剣はそれを褒め称える。

「他にも色々あるが、お前のいいところは、挙げたらキリがないからな!オレはそんな"お前だから"あいにきたんだ!」

 愛夢の目から大粒の涙が溢れ美剣の不安を煽る。

 ここにいるのが自分でなければ、もっと上手く愛夢の心を開かせることができたかもしれない、そんな思いが一瞬だけ美剣の胸を刺す。

 だが誰にも負けないと自負する愛夢への想いを言葉にのせて全力でぶつかっていく。

「メテウスなんて持ってないほうが、本当はいいんだが。でも、もし誰かがメテウスを持つならオレは、そんな"お前がいい"と思ってる・・・」

 二人の間の壁は壊れ、残るのは愛夢の心の殻だけとなった。

「私っ・・・、なんかっ・・・」

 十数年かけて作られた強固だった殻は、美剣の言葉によって少しずつだがひび割れていく。

【オレは本当のお前に、あいたいんだ!】

 漁火のように穏やかでもない。

 溝呂木のように猫を被ってキザなことを言えるわけでもない。

 旭夏のような美しい顔と声もない。

 それでも美剣は、自分だけの言葉で、愛夢の心の殻を剥がしていく。

「漁火とオレに泣かされちゃって、3階から一緒に飛び降りた、車の中でメテウスを持っている人間のことを真剣に探してくれようとした、オレのことをお巡りさんから守ろうとしてくれた、オマケに蚕の病気のことまで知ってるすげぇヤツがいるんだ!オレがずっと探してて、今日はソイツにあいにきたんだけど?」

 愛夢がいたから、愛夢だから、今日の出来事があった。他の人間ではこうはならなかった。

 美剣がここまでこれたのは、愛夢が愛夢であったからだ。

 それが如何に大切なことなのか、凄いことなのか、当の愛夢は全くわかっていなかった。

 だから美剣は迷子の少女を探すように問いかけた。

【頼むっ!殻から出てきてくれ!】

 曲がったへの字口の涙と鼻水でボロボロになった顔の愛夢が、美剣に向かって絞り出した声で言う。

「"西宮愛夢"は・・・私ですっ・・・!」

 小さな愛夢が「ここにいるよ!見つけてくれてありがとう!」と言っている気がして、嬉しさで胸の鼓動が大きくなる。

「やっと本当のお前と話せるな・・・」

 ようやく二人を隔てるものは何も無くなった。

 そしてここにきて美剣は、まだ自分が愛夢に名すら名乗っていないことを思い出した。

「それでは、改めて・・・。やっと、あえたな!"西宮愛夢"。政府特例機関LET、フロウティス部隊、隊長の美剣だ!よろしくな!」


 素直なありのままの愛夢は、とても泣き虫で、ネガティブで、遠慮深く、美剣を困らせてくれた。

 だがそれは幼い妹が兄に甘えるような、まるで愛情を試すような、そんな光景だった。

 「置いていかないで」と小さな愛夢が泣いているような気がして、降参するように美剣は両手を広げる。

 おいで、と心の中で少年の美剣が言う。

 ずっとそうして欲しかったと言わんばかりに、愛夢は吸い込まれるように美剣の胸に顔を埋めた。

【あっー!今のオレ汗かいてるし、始業前にタバコ吸ってきたんだった!美剣さん臭いから嫌い!とか言われたらどうしよう・・・泣く・・・】

 あぐらをかいた足の上に乗せた手が、不安と緊張で汗ばむ。

「私っ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃでっ!美剣さんのシャツ、汚してごめんなさいっ!」

【お前はオレのシャツの心配してばっかだな・・・】

「いいよ、そんなもん。お前が戦ってくれてありがとうって言ってくれて、お巡りさんからも守ってくれようとしてくれたから、逆にお釣りが出るくらいだ。ありがとうな」

 今日のために買った、今着ている良質なスーツほどではないが、ワイシャツもそれなりのモノを用意してきていた。

 こんなに可愛い女の子の肌を傷つけずに、涙を拭ってもらえるのなら、ワイシャツとして冥利に尽きるだろう、と美剣は静かに頷く。

 愛夢が本当の愛夢になってくれたから、隊長としての美剣で接することはしなかった。

 長い間、愛夢に心を砕いた身として、高校生活を見守ってきた身として、接する。

「さぁて、今、一番不安なこと、怖いことを聞かせてくれ。じゃないと心配でオレはお前を帰してやれん」

 愛夢は溜まっていた真情を美剣に吐露する。

 美剣が向井から聞いたものよりも多くの嫌がらせは愛夢の心をギリギリまで追い込んでいた。

 そして愛夢は希死念慮を抱くまでになっていた。

 今にも壊れて崩れてしまいそうな愛夢を、支えるように美剣はその背中に腕を回す。

「オレがなんとかするから、心を殺すのも、土下座するのも、そんな風に自分を蔑むのも、頼むからもうやめてくれっ・・・!」

 愛夢が腕の中でしゃくりを上げるたびに、美剣の胸は引き裂かれるような痛みに襲われる。

 人の善意にも、甘やかされることにも慣れていない愛夢には、美剣のどんな言葉も届かず、未だに心を救う決定打とはならなかった。

 自尊心も自己肯定感もない自己犠牲の塊は、自分を無価値だと決めつけ、自己を否定し続ける。

 そして自分は美剣とは違うと、再び見えない壁を作ろうとした。

「美剣さんは凄い人だからそう思えるんです!」

【お前の方が凄いだろ・・・】

 愛夢は美剣が皆を守っていることが、強いことが凄いと言い、その目には少しの羨望の色が見えた。

 追弔は誰にも感謝されずに辛く苦しく可哀想と言った愛夢自身が言った言葉を返すが考えは変わることはなかった。

「でもっ、戦ってくれた事実は変わらない・・・」

「誰の記憶にも残らんぞ」

「美剣さんには仲間がいるじゃないですか」

 ああ言えばこう言う愛夢と美剣との問答は、自分への賞賛へと繋がることに本人はまだ気付かない。

「なら、仲間がいなくて一人で戦ってるやつのほうがもっと強くて凄くないか?」

「そう、ですね・・・」

 キョトンという文字が真横に見えるような、そんな可愛いらしい表情で愛夢は美剣を見る。

【やっと認めたな!】

「じゃあ、お前はオレより強くて凄いな西宮愛夢!」

「えっ?」

 たった一人の愛夢の孤独な、追弔よりも辛く苦しい地獄なような日々との戦い。

 自分とは違い、逃げも隠れもせず、泣かずにただその理不尽に耐えてきた。

 美剣はそんな自分よりも強い戦士を讃える。

「なんの意味もない、誰の記憶にも残らない戦いです」

 今度は愛夢が美剣の言葉を借りて、自らの素晴らしさを否定する。だがそれは逆効果だった。

 今日までの、誰にも認められず、褒められることすらなかった独りぼっちの戦いを、愛夢がもう二度と辛く苦しいなんて思わぬよう、美剣は死ぬまで忘れないことを誓う。

【オレじゃ、嫌かもしれんが・・・】

「私も・・・美剣さんの戦いを死ぬまで忘れません!」

 愛夢のその言葉で、美剣も自分の中の死んだと思っていた承認欲求が満たされるのを感じた。

 それは今日、この日のために、今まで自分は生きてきたのだと、思えるほどであった。

 二人は抱きしめ合い、己よりも強いと信じる互いを心に刻む。

 薄明の下、腕の中にいる愛夢の瞳は少しだけ自信を取り戻したように見えた。


 理不尽に奪われてきたモノを少しずつ取り戻した愛夢は、自己を受容することができるようになった。

 そんな彼女に、美剣が望む愛夢のこれからの在り方を手ほどいていく。

 それは普通の人間からすれば、ごく普通の当たり前の在り方だった。

「よくわからないです。私、これからどうするのか、まだ何も決まってないし・・・」

 今までの彼女であれば、美剣のかけた言葉に無理だ、出来ない、と言い切ったであろう。

 だが今は、不安を口にし、それを表情にも出すことができていた。

 そんな愛夢に最良の道を選択をさせようと、共に進むべき道を考えようとする。

【何の仕事をするにしても、応援するし、贔屓もしてやる!】

 そこで愛夢が興味があり、得意なことを活かせる仕事に就くように薦める途中で美剣は気付く。

 周りから道を閉ざされ、自分でも諦めた愛夢の可能性を、美剣も閉ざそうとしてしまったことを。

【オレのアホ!!同年代のヤツがやりたい事、好きな事を勉強するために進学しようとしてんだ!コイツだって、そうしたいに決まってんだろ!】

 勉強もスポーツも、ASPを投与されたことによって他より優れた、そんな後ろめたさが愛夢にはあるのかもしれない。

 だがそれは体質に過ぎず、愛夢はそんなものがなくても、素晴らしい人間であることは、美剣にはよく分かっていた。

 だから愛夢にメテウスがあろうが無かろうが関係はなかった。

 美剣は、愛夢が笑って幸せでいてくれさえすればそれで良かった。

 だが自分を許さない愛夢と、彼女を取り巻く環境が、その願いを言わないのではなく、言えなくしていることを悟った美剣は、愛夢に謝る。

「オレは卒業してから家業手伝いしてたから進学するって思考が全くなかった。だからお前の気持ちを勝手に決めてた。ごめんな?」

 美剣は思いの丈を全てぶつけるが、それに愛夢は泣きながら目だけで微笑み応える。

「その言葉だけで十分です。そこまでしてもらう理由がありません」

 そう言い頭を下げる愛夢の顔は、満足気であった。

 優しく美しい養母にすら頼ることのない愛夢が、他人の美剣を頼る訳がなかった。

「まぁ、いきなり現れたおっさんがオレを信用しろって言ってきて、金出すって進学勧めてきたらさすがに引くわな」

 愛夢にしてみれば、心底気味の悪い話であっただろう。

 美剣は、愛夢の境遇が理解できることを、自身に前科があることを打ち明けた。

 その暴露に愛夢は、ひどく驚いた顔をし、困惑していた。

【あぁ・・・今度こそ本当に嫌われちまったかもな・・・】

 また見えない壁を作られるかもしれない、そんな不安が美剣の頭をよぎった。

 だが本当の自分を見せてくれた愛夢に、嘘をつくことだけは絶対にしたくなかった。

「すまん、怖いし気持ち悪いよな?前科持ちなんて」

 そんな人間だからせめて他人のために命を懸けろ。LETに関わる人間ですら、美剣の過去を知りそう謗った。

「ごめんな?ろくな学歴もないバカな前科持ちのおっさんが女子高生の手助けしてやりたいなんて言って。見返りを求めてると思われても仕方ねぇよな」

 最終学歴が高校であり前科待ちの美剣に、指揮をとられ頭を下げなければいけない自衛隊、警察官。彼らはいつも不服の表情をしていた。

 その顔が頭の中をグルグルと掻き乱していく。

 こんな自分を隊長として、信じ従う同僚達の方が異常なのかもしれない、美剣は改めてそう思った。

 そんな男が、ただ愛夢の笑顔が見たいと願ってしまった。何て分不相応なのだと、美剣は自分に怒りを覚えた。

「私のために言ってくれたのにそんなこと言わないでください!今日かけてもらった言葉に私は救われました!美剣さんが前科持ちでも何も関係ないです!」

【お前は、本当に優しいんだな・・・】

 なぜか愛夢は傷ついた顔をして、美剣に立ち向かうように目を見据える。

「そっか、ありがとう・・・、気を使わせてすまん」

 今はただ愛夢の優しさが痛かった。そして目の前のたった一人の女の子すら救うことができない、自分の無力さが腹立だしかった。

「謝らないでください!謝まったらっ・・・、美剣さんがくれた優しい言葉が、私が嬉しかったことが全部、否定されてるみたいでっ・・・、悲しいっ!」

 美剣にとっては愛夢が自分を大切に思ってないことが何より辛かった。

 それと同じように愛夢にとっては美剣が己を否定し、向けられた想いに謝罪することが、ひどく悲しいと感じるのだろう。

 だから愛夢に子供のように大きな声で泣かれてしまった。初めて見る愛夢の号泣に美剣は魂消る。

「あー、笑ってほしいだけなのにまた泣かしちまったー!どうしたら泣き止んでくれる!?謝るのはダメなんだよな?あー!困ったぁ・・・」

 考えながら右往左往するが何の意味もなさなかった。泣いている愛夢に責められているような気さえして、美剣はただ周章狼狽するだけだった。

 ひとしきり泣き、くしゃくしゃな顔を上げて愛夢が「んっ」と手を伸ばす。

 その姿は、抱っこを求める小さな子どものようであった。

「訴えられたらオレの負けだな」

 兄妹喧嘩の末、妹に泣かれ、負けを認める兄のように美剣は観念する。

 たとえ訴えられても、溝呂木はそれを揉み消してくれないだろう。

 だがそんな事はどうでもよかった。

 愛夢の腕の中に収まり、そして彼女を腕に収めた。

 謝れない美剣の代わりなのか、なぜか愛夢が謝る。

 それを茶化しながら、あやすようにして愛夢の背中と髪を撫でた。

 美剣の腕の中で次第に落ち着きを取り戻した愛夢が、優しく愛おしそうに耳元で囁く。

「美剣さん、ライオンみたい」

 なぜだかわからないが、顔も見えない愛夢が今、笑ってくれたような気がして、嬉しくなり美剣の顔にも笑みが浮かぶ。

 幼少のときは好きではなかった、ボサボサの自分の髪は、ただ散髪に行くのが面倒という理由で伸ばし続けた。

 だが不思議なもので愛夢が喜んでくれるから、こんな髪も悪くないと心から思えていた。

「そっか・・・、嫌いじゃないよライオン」

 その言葉を嬉しく思ったのか、愛夢の抱きつく力が少し強まる。自身のフロウティスでもあるライオンは今では美剣の一番好きな動物だった。

 気が済むまで抱きしめられていたかったが、辺りはもう暗くなり、気温も山頂のためか肌寒く感じられるほどに下がってきていた。

 いつまでも鉄塔の上にいる訳にはいかず美剣は愛夢から体を離し下へ降りる用意をする。


 俵担ぎも、姫のような横抱きも、子どものように素直になってくれた今の愛夢にはそのどちらも違うような気がして、第三の選択肢である抱っこを持ちかける。

 恥ずかしがり困った末に、嫌がられると思っていた抱っこは意外にもすんなりと受け入れられた。

 長く心を殺していた愛夢がようやく表現することができた甘えは、これから彼女が望むままに、心から笑って楽しく生きる第一歩目だった。

 互いに心を救われた二人分の新しき門出を祝うように美剣は力強く、鉄塔を蹴るように弾みそして跳ぶ。

 

 愛夢を気遣い最大限に着地の衝撃を抑えた美剣を迎えたのは腕を組み仁王立ちをしていた漁火であった。

 その表情は、朝から散々に振り回されたからか、濡れ衣をきせられたからなのか、穏和な漁火にしては珍しく怒りの色が隠しきれてはいなかった。

「待たせたな、帰ろうぜ漁火」

「・・・えぇ、待ちました!帰ります!ですがその前にっ!!」

 そう言い終わる前に漁火は大股で美剣に近づき肩に頭を預けている愛夢の顔を覗く。

 泣き腫らしたその顔に案の定、漁火は驚愕し愛夢を脅迫したのではと美剣を睨みつけて糾弾した。

 掠れて疲れ果てた声で愛夢がそれを静止しようとするが、そのか細い声は美剣の首元をくすぐっただけだった。

 女神鉄塔の上で暴いた愛夢が秘してきた出自と、これまでの生き方を隠すため、美剣はそれらしい言い訳を並べた。

 そして断罪されて然るべきこの状況を受け入れる。

「先程、貴方を西宮さんの担当から外すことが我々三人の総意をもって決定しました」

 ここまでの無茶をした美剣には甘すぎ罰だ、と第三者には思われるであろう。だがそれは確実に美剣の心を抉る処遇であった。

 愛夢の担当を外された美剣には、もう彼女に会いに行ける理由はなくなった。

 さらにLETからの勧誘を断った愛夢との接点は、今まさに完璧に絶たれようとしていた。

 平静を装い、何とかその言葉を聞き入れる。

 だが内心は、ようやく心を開いてくれた愛夢と離れることに焦りを感じていた。

 このまま臼井に愛夢を託したとしても、上手くいくとは到底思えなかった。これまでの学校生活のことを考えれば、愛夢が教師、生徒、全ての人間に警戒し疑心を抱くことは明らかだ。

 そんな状態で嫌なことを全て忘れ、心から笑って楽しむ未来のことを考えられる訳がない。

 他の人間に愛夢のことを丸投げすることだけはしたくなかったが、LETとしての美剣ではなく、一人の個人として愛夢と関わることを許してくれるほど、美剣を除く三人は優しくはない。

 力になると背を押されたすぐ後に、突き放されるように美剣との断絶を言い渡された愛夢は小さく震えていた。

 今の愛夢は、ここまでの無茶をして初めて殻から出てきてくれた。

 また孤独を感じて、再び自分の殻に閉じこもるのではないかという不安が胸をよぎる。

【オレにもコイツにも、味方が少なすぎるっ・・・!】

 愛夢を下ろすよう言う漁火の催促の言葉で、首に抱きつく力が少しだけ強まる。

 それは愛夢による無言の小さな抗議であった。

 人からの好意を受け取らず、甘えることが下手だった愛夢の精一杯の我儘を叶えるよう美剣も応える。

「あー、今コイツ腰抜けてんだわー。じゃあ、お前が抱っこ変わるか?」

 美剣のその返答に愛夢は、小さく首をふってさらに抱きつく力を強めて拒否の意思を示す。

【・・・勝った!漁火よりもオレの抱っこを選んだ!】

 二択ではあるが人当たりの良い漁火よりも、愛夢にとって散々な1日の原因となった自分を選んでくれたことに美剣は悦びを感じそれに浸る。

「だっ・・・!〜っできる訳ないでしょう!いいですか?その行為を許すのは車に乗るまでですからね!?それ以降は西宮さんに接触禁止ですからね!?」

 常識的な漁火は美剣の予想通りの返答を返してくれた。そのことに胸を撫で下ろしながらも、心に棘のように刺さる不安はジワジワと美剣を侵食していった。

【とりあえず琴美さんと連絡を取り合って、卒業までは注意深く様子を見てもらわねぇと・・・】

 美剣がそうして欲しいと願っても、臼井には教頭という立場があるため、自由に動ける時間は多くはない。そして学校に通う生徒は愛夢一人ではない。

 愛夢に対する嫌がらせを無くすことができる、キッカケになる何かを探す為に考えを巡らせる。

 前へと歩みを進めると不安気な顔をした愛夢と目が合う。

 美剣は愛夢の心の心配のタネを燃やすよう、満面の笑みを向けた。

「どうした?学校に置きっぱなしの鞄は寮に届けるように連絡しといてやるぞ?」

 美剣が無理矢理に学校から連れ出したことで、愛夢の学生鞄は学校に置いたままになっていた。

 不在の間に自身の持ち物にイタズラをされるかもしれない、という不安にかられないよう、美剣はそう声をかける。

「ありがとうございます」

 そう答える愛夢の声は、疲れて枯れ果て普段とは違った可愛さを放っていた。

 惨虐的な追弔を目の当たりにして、鉄塔の頂上で極度の緊張状況に置かれた。そして長年閉じ込めていた心の痛みを解放した愛夢は疲労困憊に陥っていた。

 車の後部座席に座らせてやると、瞼が下がり、気怠るげに長く大きな息をつく。

「門限に間に合うようにするが一応遅くなるって連絡もしといてやる。着くまでは寝てていいぞ?」

 美剣はそう言い愛夢にシートベルトをつける。

「・・・はい」

 落ちそうになる瞼と懸命に戦い、舟をこいで返事をする。そんな愛夢の姿が子供のようでいじらしく、美剣は頭を撫でようとするが、漁火に制され仕方なく手を引っ込めた。

 後部座席のドアを閉め、横にいる漁火に軽口をたたいて助手席に乗り込む。

「寒そうだからオレの背広、掛けてやろうかな〜?」

 漁火の機嫌を伺うための美剣の大きな独り言には、エンジンの始動共に稼働されたエアコンとシートヒーターの温もりが返事であった。

 漁火は美剣の方を一切見ようとしなかった。

 行きと同じ人物が運転しているとは思えないほど快適な帰路の車中には、走行音と愛夢の静かな寝息だけが聞こえていた。

「漁火、今日は色々と迷惑をかけて悪かった!腕とか体とか痛めてないか?」

 美剣は愛夢を起こさぬように小声で沈黙を破る。

「問題ないです。運転にも支障をきたしてはいないので心配には及びません・・・」

 安全運転の為なのか、美剣の顔を見たくないのか、漁火は助手席を一瞥すらせず淡々と返答した。

「そっか・・・。本当にすまんかった・・・」

「美剣さんは私ではなく、西宮さんに誠心誠意の謝罪されるべきかと・・・。今日のことは彼女が相手でなければもっと大事になっていましたよ?西宮さんの誠実な人柄に救われましたね」

 普通の女子高生であれば、担がれ三階から飛び降りたならば大声を出す。そしてスマホで助けを求め、最悪の場合は美剣の動画や写真を残され、それを晒し拡散されていただろう。

 向井に罵詈雑言を吐かれても言い返さず、美剣に拉致監禁紙一重なことをされても怒らない。

 漁火は愛夢が、ただ優しさのみでそれらを我慢したのだと思っている。

 実際の愛夢は怒りも悲しみも感じないよう、心を殺して、無気力に受け流すように日々を生きてきた。

 漁火は今からその原因を知ることになる。

 愛夢が知られたくなくても、美剣が隠してやりたくとも、漁火は見てしまう。

 漁火のメテウスであるカラスの能力で、ネットを使った愛夢への誹謗中傷を消すためには、それを見なければならなかった。

「あれがオレなりの最善だったんだ・・・。泣かせたこと、怖がらせたことは悪かったと思っているけど後悔はしてない」

「そうですか・・・。わかりました。その弁明は後ほど、皆の集まった場でお願いします」

 美剣は再び後部座席の愛夢を見る。

 寝たふりをした愛夢が、これから二人がする話を聞くことがないか、そんな懸念を振り払うための確認をする。

 瞼の動き、呼吸、筋肉の状態、その全ては彼女が深い眠りに落ちていることを示していた。

 愛夢の憂いを祓うため、今から美剣は今日戦ったアスピオンよりもずっと手強いに挑む。

「漁火、西宮愛夢のことで頼まれてほしいことがある」

「・・・私の一存では決めかねます」

「勧誘のことじゃない!カラスの力を使ってSNSにある写真とコメントを消してほしい・・・!」

「それは・・・美剣さんと西宮さんの写真ですか?」

「違うっ・・・!お前も学校で見ただろ!?アイツが受けてる扱いを!ネットを使って嫌がらせもされてるんだ!それを消して欲しい!頼む!」

「命令しないんですか?やれって・・・」

「強制じゃなくて協力してほしいんだよ!お前が権力や暴力に屈しないことはオレが一番よく知ってる」

「言い方は悪いですが高校生の人間関係のトラブルはよくある話です。過剰な反応は却って西宮さんの状況を悪くするのではないでしょうか?」

「じゃあお前が判断してくれ。お前のその目で直接、嫌がらせの内容を見ろ。そしてお前が感じた西宮愛夢の人間性と照らし合わせて、どうするのかを決めればいい!」

 二人の間に長い沈黙が続いた。

 そしてウィンカーの規則正しい音がそれを破る。

 高速に入る手前、国道にあるコンビニに車を停車した漁火は、自身のスマホ、そしてLETのタブレットを膝の上に置いた。

「連絡したいところがあるのでしたら今のうちにどうぞ。私は今から作業に集中するので、話しかけられてもお応えできません」

 そう言い終わると漁火の目は、アスピオンの気配を捉えた時と同じように大きく開かれる。

 瞳孔が開ききったその目はカラスのように真っ黒で、対象が映し出される画面を捉えて離そうとしない。

 美剣は漁火の邪魔をしないよう静かに外に出て、愛夢の通う高校へと連絡をとる。

 電話口の事務員に臼井への取り継ぎを頼み、流れてくる保留音に耳を傾けながら目の前のコンビニへと足を進めた。

 入店音を鳴り終わるのと、臼井の声が聞こえてくるのは同時だった。

『もしもし?お待たせしました。臼井でございます』

「お疲れ様です先生。美剣です。こんな時間まで連絡できなくて申し訳ありませんでした」

『美剣さん、本日はお疲れ様でした。あの・・・西宮さんはまだそちらに?』

 店内には立ち読みをしている男と、クジの景品を眺めている女、そして店員がいた。

 美剣はその誰にも愛夢の名も臼井の名も知られぬように話をする。

「はい、まだオレたちと一緒にいます。今日は色々とお騒がせした上に、緊急事態とはいえ先生に直接挨拶できなかったことを申し訳なく思っています」

『向井君のことは漁火さんから熱中症だったと聞いております。今日は暑かったですし、本人も何も話そうとしないので、その件はそれで片がつきました』

 美剣に殴られたと騒がれていたら面倒なことになっていたが、今回は向井に救われた。

 プライドだけは一丁前の向井は、美剣に気絶させられたなどとは絶対に言いたくはなかったのだろう。

 デコピンの風圧で軽い脳震盪を起こして気絶させただけであって、実際に美剣は向井を殴ってはいなかった。傷害の前科があるため、そして愛夢のためにも面倒ごとは避ける。傷も証拠も残すことはしなかった。

『西宮さんはどんな様子でしたか?やはり何も話してはくれなかったのでしょうか?いつ頃こちらに戻るのでしょうか?』

 冷蔵庫に陳列されたペットボトルを吟味しつつ美剣は話を続けた。

「手短に言うと、あの子の心はもう限界でした。先生に聞いた話よりも、オレが知っている話よりも、状況はもっとひどかった・・・」

 臼井の息を呑む音を聞いた美剣は彼女を気遣い、少しの間を置く。

『続けてください・・・』

「声の大きい生徒が言っていました・・・。修学旅行であの子を集団で乱暴する計画があったと・・・」

 美剣は向井から聞いたすべてを、そして修学旅行のおぞましい計画のことを臼井に話した。

 女性である臼井にそのことを伝えるのは躊躇われたが、現状美剣が信用できるのは彼女だけであった。

 紛れもない犯罪行為を生徒たちが計画していたことに臼井は絶句していた。

「泣かないあの子を泣かせる賭けをしていたそうです・・・」

『・・・そのことを西宮さんは知っているのですか?』

「オレからは伝えていませんし、これからも伝えるつもりはありません。知らないほうが良いこともあります。これから前を向くあの子には必要ないことです」

『西宮さんは美剣さんの誘いを受けたのですか?』

「勧誘は断られました。けれどもう以前のようなあの子ではありません。自分の在り方を見直すはずです」

『あぁ、よかった・・・。美剣さんの言葉に耳を傾けてくれたのですね。本当にありがとうございました』

 臼井の声は、本当に心からの安堵の声だった。

 その声を聞き美剣は臼井に愛夢を託す決意をする。

「先生、オレにできるのはここまでです。オレは無茶をしすぎてあの子の担当を外されました。その上、勧誘も断られてしまったので、もうこれ以上は・・・」

『そうですか、残念でなりませんわ。では私共も今まで以上に西宮さんに目を向けるようにいたします』

「お願いしますっ・・・!先生が言われたように保健室へ行くようには言ってあります。後のことは直接、本人に言ってやってください」

『はい。それで、いつ頃こちらに戻られるのでしょう?西宮さんの鞄を私の方で寮まで届けたので、そう言付けていただけますか?』

 臼井の気遣いは流石だった。おそらく美剣と同じ懸念を抱き鞄を手元に置いてくれていたのだろう。

「助かります!実はそちらに戻るのはまだ時間がかかりそうなんです。やっぱり門限とかあります?」

『部活動をしていない寮生の門限は19時でございます。間に合いそうにないのでしたら私の方からも寮に連絡いたしますが、西宮さん本人にも帰寮の時間を連絡させてください』

「そうしてもらえると助かります。あと、食事はこちらでとらせたいと思ってるので、そのことも寮の方にお伝えください」

 冷蔵庫の取手にある"温かい飲み物はレジ横にございます"と書いてあるポップが目に入る。

 外はもう暗く、そして肌寒かった。

【冷たい飲み物より温かい方がいいか?】

 美剣はその場を離れ、レジ横に向かう。

『承知しました。本来なら絶対にこんなことは許さないのですが・・・。美剣さんと漁火さんを信じて、西宮さんをお任せいたします』

「その信頼に必ず応えます。あの子を寮に送り届けたらまた先生に連絡します」

『はい。寂しい夜ではございませんが、西宮さんのことならば朝でも夜でもいつでも連絡をしていただいて構いません。ではまた』

 臼井は美剣の口説きを遠回しに断り電話を切った。

【フラれた・・・】

 美剣はレジ横にある温かいコーヒーと緑茶を手に取り会計を済ませて車に戻る。

 助手席の扉を開けると運転席にいる漁火は俯いたまま頭を抱え、目だけを美剣に向けた。

 膝の上に乗っている端末の画面は真っ黒だった。

【終わった、のか?】

 愛夢が車のドアを閉めた衝撃に少しだけ身を捩る。だが深い眠りは覚めることはなかった。

【もう少しだけ寝かせてやるか】

 臼井に言われた通り本人から寮に門限の引き伸ばしの連絡をさせねばならない。だが起こすのが可哀想に思えるほどに愛夢はよく眠っていた。

「どっちか飲むか?」

「ありがとうございます。コーヒーをいただきます」

 漁火はそう言い美剣の右手の指に挟んだホットコーヒーを手に取り、すぐさま蓋を開けて中身を煽った。二口ほど飲んだところで漁火は長く深いため息を吐く。それと共にコーヒーの香りが車内に立ち込めた。

「とりあえず・・・やれることは全てやりました」

「・・・っ消してくれたのか!?ありがとう!恩に着る!!」

「美剣さんは嫌がらせとおっしゃいましたが・・・。アレはもう犯罪です。イタズラじゃすまない」

「どんな内容だった?そんなにヤバい写真か!?」

 長い高校生活でのイジメが、美剣が知っているものだけのはずがなかった。

「・・・知ってしまうと美剣さんは絶対に正気ではいられません。西宮さんの安全のためにも、この車を燃やさないためにも黙秘します・・・」

「この車を擦ろうとした奴に言われたくねぇんだが?」

「車が黒いから分かりにくかったでしょうが、あの時はカラスで車体を覆っていました。ですので擦っても傷がつくことはなかったんです」

 そんな大層なことをしながら漁火は、都内にデコイを設置し、さらにアスピオンの探査も怠らない。美剣はそんな彼に言葉を失い驚愕するしかなかった。

「オレには臼井先生に西宮愛夢に起こっていることを報告する義務がある!頼む、教えてくれ!!」

「口に出すのも憚(はばか)られますが美剣さんの言うことも分かります。ですので西宮さんを送り届けた後にお教えします・・・」

「・・・今の言葉、忘れんなよ?」

「はい。もう車を出しますからシートベルトをしてください」

「あっ!寮にはまだ向かわなくていいぞ?今からこの三人でメシ食いに行くからな!」

「はあっ!?何言ってるんですか!!??」

 美剣の提案に今度は漁火が驚愕し大声を出す。

「バカ野郎!!!静かにしろ!!西宮愛夢が起きんだろうがっ!!!!」

 つられて美剣も大声で怒鳴り返す。

 そして二人はハッとし同時に後部座席を振り返り、恐る恐る愛夢の様子を確認した。

「んっ・・・」

 愛夢は一瞬だけ顔をしかめたが、モゾモゾと寝やすい位置を探して身を捩り、顔の向きだけを変える。そして同じ姿勢で再び規則正しい寝息を立てはじめた。

 ホッと美剣と漁火は同時に息をつく。

 できる限りの小声で、怒りを込めて漁火は美剣に詰め寄る。

「何考えているんですか?これ以上の接触を私が許すとでも?美剣さんは西宮さんに接触禁止なんですよ!?」

「わかってるよ!でも怖い思いも嫌な思いもさせちまったから最後に美味いもんでも食わせてやって、少しでも良い思いさせて帰してやりてぇんだよ!」

「駄目です!早く西宮さんを普段の生活にっ・・・」

 そう言いかけた漁火は言葉に詰まっていた。

 愛夢の普段の生活は、優しく頑固で真面目な漁火の意見を変えさせるほど苛烈だったのだろう。

「・・・オレと関わるのが駄目だって言うなら、席を外す!お前ら二人で食事してきてもいいし、この車の中でテイクアウトしたの食うのでもいい!頼む!西宮愛夢は昼飯を食ってないんだ!」

「あの寮でこのまま食事をさせるよりはマシか・・・」

「なんか知ってんのか!?言わないと気になってオレの怒りが増して大変なことが・・・」

 美剣は脅すように漁火の首に両手を伸ばした。

 それは手で制され、引っ込めと言わんばかりに短いため息と険しい表情が美剣に向けられる。

「西宮さん、朝食は早朝に一人で召し上がってるそうですが、夕食はっ・・・。他の生徒からの害意を受けて、いつも完食できていないようなんです」

 愛夢が浮いた存在であるのは学校に限った話ではなく、寮でも爪弾きのような扱いを受けていた。

 彼女が高校生活で心安らげる場所はどこにもなかった。

 漁火はカラスの能力で、美剣も知らないその事実をを知ることとなった。

 悔しさから美剣は拳を強く握って自身の膝を殴る。

「アイツの体は細いし軽い・・・。体だけじゃなく心までボロボロなんだ」

 できる事なら学校とも、寮とも別離させてやりたかったが、そこはもう美剣の力が及ばないところであった。

 美剣が愛夢を守る術はもう何もなく、ただ己の無力を嘆くしかなかった。

 腕を組み何かを考え込んでいた漁火が静かに呟く。

「美剣さん、門限延長の連絡はもうしたんですよね?」

「あぁ・・・、だが本人からも寮に直接連絡をしなけりゃならんのだとよ。よく寝てるしギリギリまで寝かせてやってから連絡させるわ」

「・・・その連絡、私がします」

「話聞いてたか?本人だって言ってんだろ?もしかしてカラスで声真似とかできるのか?」

「そんなことはできません。ですが我々からも連絡を入れたほうが、あちらの心象がいいはずです。上手くいけば良し、駄目なら西宮さんにお願いしましょう」

「まぁ、西宮愛夢に損がないなら・・・」

 臼井との通話を終了した直後、美剣のスマホには彼女から自身の携帯電話の番号と寮の番号を知らせるメッセージが届いていた。

 美剣はそれをそのまま漁火のスマホに転送する。

 漁火は画面を確認すると「少し外します」と言いながら運転席を離れコンビニの脇へと歩いて行った。

 二人の話し声も、漁火が車のドアの閉める音にも愛夢は何の反応もしなかった。

 その姿はまるで悪い桑の葉を食わされ続け、呪いで眠り続ける蚕のお姫様のようであり、もうこのまま目を覚さないのではないかとすら思えた。

【お伽話の王子みたいなお姫様のピンチを全部救う力があったら楽なんだけどな・・・】

 そんな馬鹿げた妄想が頭に浮かび、美剣は自分の馬鹿さ加減と無力を鼻で笑った。

 屈強なアスピオンを追弔する力があっても、愛夢の心は救えない。

 そのことが美剣の心を苛んでいく。

【やっぱりあんな学校は燃やすべきだった・・・】

 "女性 人気 ディナー"のワードを検索画面に入力し、ヒットした煌びやかな店と料理の写真をただ無心にスクロールしていく。

 愛夢が望むならどんな店にでも連れて行くつもりではあった。だが検索結果の画面に映し出された写真はどれも目の前で眠る愛夢とは似つかわしくない気がして、美剣はグルメ検索アプリをダウンロードする。

 ダウンロードが終了するまでの間、美剣の常人より遥かに優れてしまった聴力が、車の外で話す漁火の声を所々捉えてしまう。

 とにかく電話口の相手を褒め称え、その家族をも賞賛し、寮の責任者である寮母の仕事が如何に大変なものかとの労いの言葉が聞こえてきた。

 そして愛夢は今、厚生労働省の特殊総務を見学するために席を外していて、帰寮は午刻に起きた玉突き事故の影響で門限を大きく過ぎてしまう、と事実を混じえた嘘が続けて耳に入ってくる。

 美剣がアプリ画面に表示された飲食店の情報と睨めっこしている間にも、漁火と寮母の通話続いていた。

 五分程すると漁火の深い感謝の言葉とお辞儀で通話は終いとなった。

 足早に車へと戻ってきた漁火は、愛夢を起こさぬよう静かにドアを閉める。

「お待たせしました。今回は特別に西宮さんから連絡はしなくていいそうです。門限は最大延長の21時まで伸ばせました」

 完璧に最善をやり切った漁火は音と振動を立てぬよう注意を払い、シートベルトを締め小声で美剣に呟いた。

 そんな漁火に美剣はじっとりとした視線を向ける。

「煽てて丸め込み、嘘の中に少しの真実を混ぜ信用させる。まるで詐欺師だな・・・」

「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ!しかし私は今日ほどカラスの力を有難いと思ったことはありません・・・」

 美剣の手の中のスマホが震える。画面を確認すると漁火から一枚の画像が送られてきていた。

「・・・誰だ、このオッサン?」

 画像は禿げ始めた中老の男とコンカフェ嬢のツーショット写真だった。

 美剣は愛夢への心配で心が苛まれ、さらに追弔で酷使した体は強い空腹を感じていた。

 そんな自分にトドメを刺すように送られた、知らない男と女のイチャイチャ写真。

 美剣は怒りを抑えつつ漁火を睨む。

「その男性は西宮さんが通う学校の校長です・・・」

 心の底から軽蔑をしていることが分かるほどに漁火の声にはその男への嫌悪感が含まれていた。

 漁火が嫌悪を抱くのも無理はなかった。

 男と一緒に写る女はまだ若く、コスプレ用ではあるが学生の制服を着ている。二人は頬合わせ手でハートを作りそれがフレームになるように写っていた。嬢とここまでの距離に至るには相当な金を積まねばならない。

 校長は謂わゆるお得意様でカモなのだろう。

「高校の校長が女子高生がコンセプトの嬢とチェキって・・・。世も末だな」

 普段は他人の趣味嗜好に興味もなく文句すら言わない美剣であったが、漁火が添付してくれた校長のSNSには畏怖を感じた。

 そこにはモザイク処理された先程のチェキの画像と女子高生への尋常ではない思いが投稿されており、特に制服に強い興奮を覚えると書いてあった。 唯一の救いは愛夢の通う高校の制服は校長の嗜好には刺さらないらしく、その鬱憤をコンカフェで晴らしているとのことだった。

 美剣はそれを見て、怒りと呆れが混じった何とも言えない心境に陥る。

「それは西宮さんに何かあった時の最終手段です。環境を変える切り札にはなるかと・・・」

 充分すぎるほどに強請に使えるこの情報を漁火は愛夢のデジタルタトゥーを消しながら見つけ出してくれた。

 ここまでの協力が得られるとは思っていなかった。愛夢がネット上で受けていた仕打ちがそれほどまでに残酷であった為か、それとも愛夢の人柄と誠実さが漁火の心を動かしたのか。

 美剣には後者であることはわかっていた。

 カラスの力を用いれば、回りくどいことなどせずに大金を稼ぐことも、憎い相手を世間的にも精神的にも殺すこともできる。

 だが漁火はそれを絶対にしない。

 人を傷つける為にメテウスを使わない漁火と、自分の復讐の為に美剣の助力を断った愛夢。

 優しすぎる二人はどこか似ていて、漁火が愛夢を助けたいと思うのも必然でだったのだろう。

「ありがとう!本当に助かる!」

「美剣さんが使うのではなく緊急の場合に臼井教諭にその情報をお渡しするんですよ!?貴方はいつもやり過ぎてしまうのですから・・・」

「はいよ〜!ところで話変わるんだが・・・。お前デートの時とか何食う?いつもどこの店行ってんだ?」

 美剣はアプリの検索ワード入力画面を開き漁火に問う。

「デッ・・・デート!?なっ、何で私にそんな事聞くんですか!?」

 4年もの間、共に戦ってきた同僚に初めてプライベートな質問を投げかけたが、困惑させてしまったのか美剣が望む答えは貰うことができなかった。

「えっ?いや・・・何か女の子が好きそうな美味い店知らないかなって・・・」

「・・・っ行ったことがないのでわかりません!」

「家デート派か?じゃあお前の彼女の好きな食い物とかでもいいから教えてくれよ。参考にするからよ」

「お付き合いしている女性はいません・・・。というか、いたことがないので私に聞かれても困ります!」

 何か返答を返さなければと美剣は思ったが驚きと困惑で言葉が出なかった。

 多様性のこの時代、恋人が彼女だけとは限らない。その上に漁火は昼夜問わずアスピオンの探知とデコイまでの誘導を行っている。追弔だけを行えばいい美剣とは違い、漁火に恋人とイチャつく時間などある訳がなかった。

「すまん・・・」

 美剣は言葉選びを間違えたことを深く悔いた。

 顔を赤くした漁火はそれを誤魔化すように残っていたコーヒーを一気に飲み干し、空になったペットボトルを見つめながらポツリと呟いた。

「西宮さんは私が用意した飲み物に一切口をつけなかった・・・。水を選んだのも普段から何かを混入されることを警戒しているからなのでしょうね」

「・・・っ夕飯は、安心して食ってもらおうぜ!」

 美剣が臼井から聞いていた嫌がらせを漁火も知った。

 限りなく大人に近い子供たちの容赦のない残酷さは二人の間にどんよりとした空気が漂わせた。

「そうですね」

 静かに呟いた漁火は車を発進させコンビニの駐車場を後にした。


 高速道路を走る車内では、男二人によるディナーの選抜が始まっていた。

「焼肉は?」

「制服に臭いがつきませんか?我々はともかく高校生である西宮さんにはそれは酷かと・・・」

「寿司とか?」

「遠慮して全く手をつけてくれないことが容易に想像できますね・・・」

「パーキングエリアに何か美味いもんないかな?」

「喜んでくれるかどうかは分かりかねます・・・」

「居酒屋とかじゃダメ?」

「論外です!」

「ダメ出しばっかしてんじゃねぇ!お前もちょっとは西宮愛夢が喜ぶもん考えろ!」

「喜びそうなもの・・・?可愛いケーキとか?」

「飯だって言ってんだろ!?」

「無茶です!西宮さんの好きな食べ物なんて本人に聞かないと分かりませんよ!」

「やっぱファミレスとかのが無難か?」

「そうですね。しかしその場合は西宮さんの心の平穏のために同級生と鉢合わせしない場所を選ぶべきかと・・・」

「ホテルのバイキング形式みたいな何でも食えるやつとかだと楽なんだが、遠慮が服着て歩いてるようなヤツには難しいかもな・・・」

「バイキング・・・。ではフードコートはどうでしょう?西宮さんに好きなものを選んで頂き、我々も好きなものを食べましょう!」

「それだ!一応それなりのレストランも入ってる大型施設に行って食いたいもん選ばせよう!」

 美剣はスマホの画面を、運転中の漁火は前を向いたまま同時に頷く。

 愛夢のための最適な答えを見つけた二人のそれからの行動は早かった。

 門限に遅れないよう学校から遠すぎずない大型の商業施設を探し出す。

 追弔に向かうときのように、速度制限を無視することはできない。

 だが愛夢に1秒でも長くゆっくりと食事をしてもらえるよう最速で目的地を目指す。

 その為にLETのアプリを使い、見つけた裏道でかなりの時間を短縮させた。

 

 真っ暗な後部座席で高速道路の灯りに照らされてスヤスヤと眠るお姫様は、そんな二人の苦労を知る由も無かった。

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No title 一ニ三 @hazimefumi

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