第9話 紅炎1(前)

 防衛省 LET本部


 市ヶ谷地区にある敷地約25ヘクタールの国防省とも呼ばれる我が国の防衛の要。威厳の塊のような見た目はいかにも堅牢強固という言葉が相応しい。その敷地内の地下にLET本部は配置されている。

 本来は未曾有の大災害に備えて、国民のための備蓄品を保管しておく秘密裏の広大な倉庫だった場所を改装し、フロウティス部隊の訓練施設、雑務、指揮、そしてメテウスの研究と併用しアスピオンの研究を担っていた。

 国民のためと聞こえのいい言葉で偽られたこの場所は、政府要人とその関係者が優先して保護され、避難できるように作られていた。無駄に広い空間、際限なく使えるように工事された水と電気の設備、そして極め付けに、避難のため蟻の巣のように掘られた地下道は、様々な駅や地上に繋がるように設計されていた。意図せずその道は今日までの追弔に役立っている。

 棚ぼた、とはこの事だろう。


 その地下深くのLET本部、フロウティス部隊専用の更衣室に隊長である美剣は立ち尽くしていた。

「う〜ん」

 更衣室のロッカーに備え付けてある鏡をみながら唸る。今日、愛夢と会うときの為だけに買った高級スーツは、品のある黒色で美剣の赤毛によく映え彼の長身をピッタリと包んでいた。だが何かが引っ掛かり気に食わずかれこれ15分、上下左右と角度を変え鏡に映る自分と睨めっこしていた。

「やっぱ、隊長の威厳のために顎髭はあったほうがいいよな・・・。」

 女子高生である愛夢を怖がらせないように数日前から無精髭は剃ったが、まだ何か足りない気がした。顎を触る自分の右手を見てそれが何か気付く。

 自身のフロウティスであるライオンハート。右の親指に嵌めたその指輪は、とても武骨で優美とは言い難い見た目をしている。

「おっさんがこんな厳つい指輪してたら怖いか?」

 美剣は4年間アスピオンを追弔し続けてから一度も外したことのない相棒のライオンハートに囁く。

「すまん・・・。少しの間だけ我慢してくれ。怖がらせたくないんだ」

 抗議の紅炎を出しつつもライオンハートは大人しく指から外れてくれた。

「このスーツ高かったんだ。燃やさんでくれよな?」

 そう相棒に頼みスラックスのポケットに入ってもらう。炎を出すか出さないかは気分次第だ。

【ライオンハートがキレたら、オレの人生が終わる】

 愛夢の前でスラックスが燃え尽き下半身が丸出しにならないことを祈る。フロウティスを纏えば服は燃えないが、そうでなければこの高級スーツは一瞬で消炭になるであろう。

「さて・・・。問題は誰と説明会に行くかだな」

 今日、愛夢が通う高校でLET勧誘における説明会を行うことは誰にも言っていない。就職希望の愛夢に何度もこちらから面談の希望を出しているにも関わらず、学校側が是と言わずにいた。理由は場所が提供できない、テスト、体育祭の準備、学園祭の準備などなど数多で、どれもすぐに嘘だと分かった。

 できるだけ早く、一人でも多くの学生に進路を決めさせ合格させてやりたいのが学校というものである。にも関わらず、なぜそんな嘘をついてまで愛夢と自分を接触させないようにするのか。

 数日前にきた学校からの連絡でよくやくその疑問に合点がいった。

 向こうの言い分は"男子生徒を一人、説明会に参加させてくれるならば西宮愛夢との面談の場を設けてもいい"とのことだった。

 男子生徒の名は向井邦彦、両親が国会議員だという生粋のおぼっちゃまだ。

 

 学校側にはLETは厚生労働省の食客職員の集団だと説明してあった。結成当初は防衛省の所属で自衛隊の傘下だったフロウティス部隊であったが、あるいざこざの後に厚生労働省の所属へと移された。

 フロウティス部隊は追弔においてのみ銃火器の使用が許可され交通と情報の規制の権限、そして自衛隊、警察などへの命令権が与えられる。

 少し系統は違うが強めの麻薬取締部のようなものである。だから学校側への説明は完璧に嘘というわけではない。

 ASPワクチンの普及、特異であるメテウスを持つフロウティス部隊の行使、アスピオンの研究そしてコレを追弔すること、それが国民の生活と安全の保証に繋がっている為だという名目での鞍替え。

 だが美剣たちにとってはそれはこじつけで、自分たちを縛る荊の手綱を持つ者たちの名前が変わっただけに過ぎない。

 今だに防衛省の地下を本部として使わせて貰えているのはただ使い勝手が良いという理由だけではなかった。

 美剣たちがメテウスを使い上層部に牙を向いたとき、武力による制圧を即時に行う為でもあった。

 政府の特例で結成され、彼方へ此方へと移された謎の化け物を殺せる人間の形をした化け物の集団。それが美剣たちフロウティス部隊。その正体を知るものは政府の上層部、警察、自衛隊、東京都知事、アスピオンとメテウスの研究に携っている専門家、そして医師。

 LETはそれらの人間で構成されていた。

 アスピオンを私(ひそ)か追弔し続け、そのことを国民に匿(かく)すためだけにつくられた機関LET。


 向井夫妻がどういった経緯でそのことを知り、何を思って息子にそのことを話したのか、美剣にはわからなかった。だが政府の特例機関であるLETの最高機密であるフロウティス部隊は、バカ息子の心を動かすに足り得たのだろう。

 良く言えば、フロウティス部隊とは密かに国民の安全を脅かす謎の化け物を狩る特殊な能力を持った特別な集団なのだから。


 それに興味を持ってしまった向井の息子の学校への圧力か、それとも学校側が愛夢よりはマシだと良かれと思ってサラブレッド向井をねじ込んできたのか、それも美剣にはわからなかった。

 上の人間は「適当に話を聞いてやって丸く収めろ」というだけで向井夫妻の説得すらしようとしなかった。それだけではない。「西宮愛夢を部隊に入れ、必ずフロウティスを生み出させメテウスを発現させろ」それが上層部の意向であり命令でもあった。

【クソガキが!フロウティス部隊は正義のヒーローだとでも思ったのか?】

 苛立ちを抑えつつ必要最低限の荷物とネクタイを掴んで更衣室を出た。

 家柄や血ではない。そんなものは全く意味を成さない。アスピオンを屠る唯一の能力、メテウスを持つものだけがフロウティス部隊たり得るのだから。

【できれば本人から了承を得てから説明会をしてやりたかったのに・・・】

 学校へ送った調査員から愛夢は卒業後は就職を希望しているとの情報が入ると、誰にも彼女を獲られたくなくてすぐに学校へLETからの勧誘の面談を申し込んだ。

 だが学校側からの答えは、言葉は濁していたが西宮愛夢はやめた方がいい、だの、もっと相応しい生徒がいる、だった。

 此方から赴くと言っても聞いてもらえず、声だけでも聞きたくて、話がしたくて学校から美剣と愛夢の電話を繋いでもらえないかを頼む。だが愛夢は学校が終わるとすぐにバイトへ行ってしまい、休日においても全く彼女を捕まえることができなかった。 できることなら美剣は愛夢のために勉学の邪魔はしたくなかった。だが今日、学校が指定してきた説明会の時間は午後の授業の真っ只中の時刻であった。

 

 ミーティングルームに向かう通路を進みながら美剣は二年前のことを思い出す。

 

 愛夢の通う都立高校へ様子を見に行ったときのことを。季節は初夏で、その頃はまだ漁火も今ほど索敵能力と探知に優れておらず、追弔は難儀しフロウティス部隊は消耗しきっていた。その合間を縫って、やっと見つけることができた愛夢に美剣は隠れて会いに行く。

 だが声をかけることはできなかった。

 不審者に間違われぬように、乗ってきたバイクを道の端に停車させスマホで道を調べるフリをしながら、フルフェイスヘルメットから見える範囲の視界で愛夢を見る。

 待ち望んだその姿に、覇気は全くなく、長く伸ばした前髪の隙間から見える目には高校一年生特有の夢と希望に満ち溢れた光は無かった。

 校舎の脇を力なく歩く姿は、ただ惰性で息をして仕方なく生きていると言っているように見え、その姿に胸が締め付けられ息苦しくなる。

【何であんな元気ないんだ?体がどこか痛いのか?学校が楽しくないのか?】

 放課後の校舎では授業を終えた生徒が、部活動に勤んでおり活気ある声が溢れていた。部活に入っていない愛夢はちょうど掃除を終えたところなのか、大きなダストボックスの側で、手についた埃を払っている。

 途端に愛夢は何かに気付いたのかピタリと動きを止めその場から微動だにしなくなる。静止画のように止まった肉体の眼球だけが2階にいる男子生徒と女子生徒の二人を捉えていた。その二人はごく普通でどこにでもいるような真面目そうな生徒だった。

 飲みかけの水の入ったペットボトルを空中に投げてはそれをキャッチしている男子生徒と、それを見て下を指差す女子生徒。その二人は見るからに人を見下したように嗤笑に美剣の中の瞋恚(しんい)の炎(ほむら)が揺らぐ。

【イヤな感じがする・・・!】

 愛夢がその場を離れ歩き出すと、二人は明らかにその姿を見て嗤い、男子生徒はペットボトルの蓋を開け、女子生徒は愛夢が自分たちの真下にくるタイミングを見計らい男子生徒に合図を出す。

 中身が入ったままのペットボトルが2階から愛夢の頭に向かって真っ逆様に落とされる。

 愛夢に見つからないように距離をとっていたことが仇となった。美剣の声もメテウスも届かないこの場所からではただその、ことの顛末を見届けることしかできなかった。

 だがそれは美剣が予想していた、最悪なことの顛末とは全く違った。

 先程と同じようにゆっくりと力なく歩く愛夢はペットボトルが落とされた瞬間、ほんの僅かに身を引く。それはメテウスによって肉体を強化された美剣の動体視力をもってして、やっとわかる程度の些細な動きであった。上の階でニヤニヤと嗤う二人には絶対にわからなかっただろう。

 ペットボトルは愛夢の鼻先擦れ擦れを落下していき、彼女の足元で地面にぶつかり跳ね上がりその場を濡らす。愛夢は地面をころがるペットボトルからこぼれる水がコンクリートの色を変えていくのをただ黙って見つめていた。

【アイツ・・・。気付いてて避けた】

 いくら2階からの落下と言えど、当たりどころが悪ければ怪我では済まなかった。

 美剣は2階の生徒たちを睨むが、二人はその視線に気づくことはなく、そのまま嗤いながら教室へと入っていく。

 愛夢はその場で屈み、落ちたペットボトルを拾って再び何事もなかったかのように歩き出した。

【何で、そんな平然としてんだよ!?】

 ダストボックスから上の二人の生徒との距離はかなり離れていた。愛夢はそこから何かに気付き二人を見た。ペットボトルを落とした二人の生徒は声を発しておらず、ジェスチャーのみでイジメのフリをした傷害を行ったのだ。耳からの情報ではなく、愛夢は二人の悪意を感じ、その身に迫る危険を最小限の動きで避けた。騒ぐでも、怒るでも、泣くでもなく、上の階にいた二人を最も刺激しない方法で。

 その危機回避能力は一朝一夕に身につくものではない。だが愛夢にはソレが身に染みついていた。四年前、美剣たちは向上した身体能力に脳の処理と肉体の強化が追いつくまで相当な鍛錬を要したが、愛夢はワクチン接種からそこまで時間は経っていない。だが体は慣れたように、ソレを当たり前にやってのけた。

 美剣にはこれまでに愛夢がどれほどの危険を察知し、それを避けて生きてきたのが想像できてしまう。怒りのあまりに周囲の外気温を上げてしまった。

【まだアイツは高校に入学して三ヶ月だぞ?】

 上にいた二人の生徒が愛夢の同級生なのかは判別することができなかった。もしそうだったとしても、違っていたとしても学校で愛夢はイジメを受けている事実に変わりはない。

 イジメの理由は彼女の両親のことが生徒たちに露見してしまったとしか思えなかった。美剣が調べあげた西宮愛夢の人生は、清廉潔白そのものだった。だからきっと彼女に非は何もないのだ。

 大人しく、口数は少ない、引っ込み思案で、優しく真面目で、おまけに可愛らしい顔つきの愛夢は、学校の中では恰好のサンドバッグなのだろう。

 愛夢の諦めたような人形のような表情。

 美剣はかつては自分その表情をしていたことを思い出す。全ての人間が自分を嫌い罰してくる。それに悲しみ嘆いたところで何も変わらず、ただ黙ってその責苦を受けとめ、自分の心を殺すことしかできない。前科を持ち、同じような状況を経験した自分だからこそ愛夢の深い悲しみも絶望も手に取るようにわかった。

 その表情で愛夢は自販機の隣に置いてあるゴミ箱に持っていたペットボトルを捨てる。

【お前が出したゴミじゃねぇだろ?そんなことしなくてもいいんだよ!】

 愛夢はそのまま、誰とも話さずに、何にも目をくれず校舎の中へと入っていく。

 すれ違う生徒たちは、一瞥するだけの奴もいれば、本人に見えるように嗤う奴、ヒソヒソと噂をする奴、視界に入った瞬間に過剰に避けていく奴、様々な奴がいた。

【アイツを苦しめて、あんな顔をさせるこの場所を、燃やして消炭にしてやりてぇ!】

 様々な勢力から圧力に、縛りに、がんじがらめられた美剣にそんなことはできるはずもなく、その場に立ち、ただ心で自分を責めながら、拳を握り締めることしかできなかった。

 親指のライオンハートが徐々に熱を帯びてくる。

【何の為に強くなったんだよ!?】

 肌を刺す初夏の日差しにすら嗤われているような気さえして、暑さが苛立ちを加速させる。それはさらに美剣の瞋恚の炎を煽る。その怒りに呼応したライオンハートから、チリッという音と共に小さな一筋の炎が上がりそして揺らぐ。

 握り締めていないほうの手に持っていたスマホの着信音が鳴り、苛立ちは強制的に画面に逸らされた。

 液晶に表示されているのはLETが作成したグループ通話アプリからの着信画面であった。"フロウティス部隊"の文字とメンバーのアイコンが、隊長である美剣の心を冷静にさせてくれた。

溝呂木 翼

漁火 星雪

旭夏 晄嗣

 今はもう、そしてまだ、三人しかいないお互い背中を預けあう美剣の同僚たちの名は否応なく自分のやるべき事を突きつけてくる。

【アイツを守るためには、今は何もかもが足りない】

 政府は美剣たちにしたように、愛夢にも戦うことを強いようとするだろう。

 今のフロウティス部隊では力が足りなかった。アスピオンを追弔する力も、政府の圧力から愛夢を守る力も。

 できることはフロウティス部隊に好意的な味方を増やし、自分たちの有用性を確かなものにすることだった。

 その為に一体でも多くのアスピオンを迅し私かに還し、政府からの命令を遂行し続ける。

 アプリのトーク画面に表示された座標をナビに入力する。そして通話を開始しバイクに跨がった。

【イジメは学校に匿名で連絡してやめさせてやる!】


『今日って私たち休日ですよね?私、行きたくないんですけど?行かなくてもいいですか?』

『旭夏君・・・。そこを何とか頼むよ。どこかで代休とって構わないから!』

『その代休の代休が未だにとれていないんですけど?』

『ごめん・・・。必ず何とかするから』

『説得力がありませんね。溝呂木さん自身も全く休めていないのに・・・』

『返す言葉もないよ、本当・・・』


 ワイヤレスイヤホンから聞こえる声を無視し、美剣は愛夢の優しくて美人の養母のことを思い出す。きっと彼女といれば愛夢は折れることはない。美剣が自分の家族に救われたように、愛夢もまた彼女に救われるはずだということを確信していた。

 エンジンをかけ、バイクを発進させる。

 もしかすると今から、一生ものの友情を育む相手と出会えるかもしれない。

 身を焦がすほどの恋が、イジメから心を救ってくれるかもしれない。

 熱血な教師が、イジメの加害者を排除してくれ、これから学校が楽しくなるかもしれない。

 マトモな人間が、まだあの学校にいることを信じ、アクセルをひねりバイクを加速させる。

【ごめんっ・・・!卒業まで待っててくれ!】

 学生でいる間は、未成年でいる間は、政府も愛夢には手を出せない。だがそれは美剣も同じであった。

 学校という愛夢を苦しめる鳥篭は、皮肉にも愛夢を守ってくれる。

【きっと楽しいことが、これから先たくさん待っている!追弔なんかより学校の方がまだマシなはずだ!】

 だがそのタイムリミットは卒業まで。

 それまでに追弔のシステムも、自分たちフロウティス部隊の立ち位置も、全てを万全にし愛夢を守れるようにしておかねばならなかった。

 自分の辿った道を、愛夢が歩むときに少しでも楽に進めるように。

【どんな道を選んでも必ず俺が守ってやる!】

 スマホのナビは到着時間を優先する道を美剣に示している。

 バカな自分にはこのナビのように愛夢に困難を回避させることも、最短で平坦な道を歩ませてやることもできない。

 だから時がきたら彼女と共に考える。

 政府が望むような、フロウティス部隊と共に戦う道ではない。美剣のそばで、安全な場所で、アスピオンと政府の上層部も手を出せない環境で心から穏やかな時間が過ごせるそんな道を。


『すみません皆さん、私の探知が遅いばかりに!昨日の時点で探知できていたら・・・。またアスピオンの凶暴性が増した状況での追弔になってしまいました』 

『漁火君はこれ以上ないくらいに良くやってくれているよ?いつも君たちには無理を強いて申し訳なく思っている。本当にすまない・・・!』

『溝呂木さんだって、いつも私たちのために無理をしてくださっています!戦闘でお役に立てない分は必ずシステムを万全にすることでお返しいたします!』

『ありがとう。送ってくれた座標の場所まで最短で行けるよう警察に手配はしてあるから』

『はい、では後ほど』

『私は追弔が終わったらそのまま直帰しますので』

『わかったよ、じゃあ気をつけて。後でね』

二人分の通話が切られた音がした。その直後、先程まで品行方正な猫を100匹は被っていた男が、聖人君子の皮を脱ぐ。

『おいっ!さっきから気持ち悪いくらい静かだな?ちゃんと聞いてんか!?まさか寝てんのか!?』

 その男の名は溝呂木翼(みぞろぎたすく)、フロウティス部隊の植物を操るメテウスを持つ美剣の仲間。

出会いが最悪だった為か、同い年の為か、庶民と金持ちの違いなのか、炎と植物というメテウスの相性の為か、とにかく二人はとことん反りが合わず、口を開くとは言い争いが絶えない、犬猿の仲という言葉が相応しい関係だった。

「オレ今、運転中なんだわ。もう座標の場所に向かってるから安心しろ」

『お前がさっきまでいた場所、報告にあったワクチンに反応があった子がいる高校だろ?』

「何でオレの居場所見てんだよ!?お前はオレのストーカーか!?このメンヘラ野郎!」

『覗きという犯罪を、僕は許せない質でね。揉み消してはやらないからな?捕まっても助けない』

「やっとらんわ!お前、ほとんど猫被りと面の皮の厚みで出来てるんじゃねぇの?中身ちゃんとあるか?」

『悪いな、それでもお前より中身が詰まっていて』

「お前みたいな、腹の底の底まで真っ黒な中身ならいらんわ!」

『お前の頭の中身は燃えかすしかなくて、僕よりも真っ黒だろうな!』

 そう言い終わると同時に通話の切れる音がした。溝呂木が悪態をつくのを終える前に、こちらから通話を切ってやりたかったが、バイクの運転で両手が塞がっていたため、それはできなかった。

「クソッ!猫被り野郎がっ・・・!」

 隊長としての能力も才能も、溝呂木のほうが持っているにも関わらず、本人がやりたがらない上に戦闘能力が高い方が隊長をやるべきだという理由で挑まれたゲームの結果、美剣に決定してしまった。

 もちろん反対はしたが残りの二人もそれに賛同し、美剣は多数決で負けてしまったのだった。

【どう頑張っても仲良くやれる未来が見えんー!!】

 溝呂木はもちろん、旭夏とも、漁火ともプライベートで会ったことなど一度も無い。

 かつて憧れた少年漫画のような仲間同士の熱い関係性は、自分たちフロウティス部隊には皆無であった。

 正義も友情も努力も夢もない。

 狸と狐の親玉たちに尻を叩かれ、馬車馬のごとく働かされる。ビジネス関係で結ばれただけの、たいして仲が良いわけでもない同僚と、金払いが良いことくらいしか取り柄が無い仕事を命懸けでやっている。

 こんな状態では、愛夢を迎え入れるどころではない。あと二年の間に何としても、ありとあらゆるものの改善に努める。それが愛夢のため、ひいては彼女に続く後継のためになる。

 人間関係については諦めた。

 

 二年の間に死にものぐるいで追弔を行いながらも、時々は愛夢の様子を見に行った。

 イジメられて怪我をしていないか、政府の関係者が愛夢に接触をしてきていないかを確かめる。

 そこで体育の授業でわざと手を抜く姿を、困っている妊婦を助けている姿を、自身が汚れても清掃のバイトに勤しむ姿を見た。

 その姿を見て美剣は、自身を奮い立たせる。

【オレの頑張りなんて、アイツに比べたら、まだまだ全然足りねぇな!!】

 愛夢の笑顔が一度も見られていないことを気がかりに思いつつも、追弔と上からの無理な要求をこなす日々に追われ、彼女を見守ることしかできなかった。

 

 漁火システムの完成に合わせ、衛星とドローンを使った追弔に向かうまでの、最も人通りの少ない最短のルートへのナビ。無駄で無理な規制を行わなくてすむ最も最適解といえる道へと導くLET独自のシステムを作成した。

 これにより迅し私かに、を遂行する。

またデコイ設置場所に高性能カメラを置きアスピオンの監視、観察を行い研究者にリアルタイムに映像を送る。だが二年ではアスピオンの研究はあまり進まず分からないことは増えていく一方だった。

 都内になるべくアスピオンとなる新しい死骸を増やさないよう第三者機関も設立させた。しかし、これも芋蔓式に増えるネズミや虫、猫などは対処しきれず、あまり効果があったとは言い難かった。

 

 美剣たちはこの二年で、目紛しく変わる状況に即時に対応できるほどに追弔の場数を踏んだ。

 変化を嫌い責任をとることを恐れ首を縦に振らない上の人間に頭を下げて何とかここまできたのだった。

 それはもちろん一人の力ではなかった。

 

 漁火は文字通り寝る間を惜しんで、自身のメテウスコントロールの研鑽を積み、漁火システムを万全のものとさせた。

 猫被り溝呂木も、狸と狐との化かし合いを利用しヤツらを上手いこと煽て持ち上げて、数多の書類に判を押させた。

 旭夏は追弔をサポートする機械システムの作成に大きく貢献していた。アプリでデコイの設置場所の確認から人気のない最短ルートまでの案内をタップ一つで出来るようになったのは旭夏のおかげだった。

 美剣も何度か一人でアスピオンを追弔した。

 死闘を経験した甲斐あって美剣の戦闘力は部隊で頭ひとつ抜きん出た。その力と想い、炎という最強の能力も相まって美剣は各組織から恐れられる存在となった。


 まだ足りない部分はあるが準備は整った。

 

 やっと愛夢を迎えに行ける日がやってきたのだ。


 思い出に浸り、初心を思い出した美剣は、フロウティス部隊の為に用意されたミーティングルームの扉を勢いよく開ける。

 三人の視線が美剣に集まる。昨晩のうちに、始業時にミーティングルームに集まるようにメッセージを送ってあった。

 不機嫌な溝呂木。

 困惑気味な漁火。

 無表情な旭夏。

「おはようさん!」

 やっと念願の日を迎え、上機嫌な美剣の明るい挨拶がミーティングルームに響く。

「おはようございます、美剣さん」

「おはようございます・・・」

 漁火と旭夏は朝の挨拶と会釈を美剣にするが、溝呂木は不機嫌な顔のまま睨みをきかせ低い声で問いかける。

「・・・コレ、どういうことだよ?」

 挨拶も無しに溝呂木はミーティングルームの真ん中に置かれた一台の電動雀卓を指差した。

「今日、オレ昼一で高校に新しいメンバーの勧誘に行くから、一緒に行くヤツをコレで決めようと思って」

「えっ・・・!?今日?今これから?麻雀で!?」

「・・・美剣さん、私たちが新メンバーの加入に反対していることをお忘れですか?」

 慌てる漁火と淡々とする旭夏からの質問にどう答えるかを考えていると、怒鳴り声を耳を劈く。

「何を勝手に決めているんだ!?勧誘!?僕はお前に言ったよな?上を騙すためのフリだけでいいって!」

 掴みかかる勢いで、溝呂木は美剣に詰め寄る。

 本当は一人で行けるものなら行きたかった。

 だが愛夢と話をしている間に、向井邦彦の相手をする人間がどうしても必要だった。向井という人間は誰の言うことも聞かず己が実力で得たワケでもない権力を振りかざす横暴な人間だということは会わなくても分かる。

 ただでさえ肩身の狭い思いをしている愛夢をこれ以上、萎縮させない為に二人きりで話をすことが必要だった。それを可能にする為の二人目を決める為の麻雀であった。

「いいじゃん!どうせ上のヤツは、どうやってもあの手この手でアイツを捕らえようとするんだ。だから、ちゃんと状況を説明して守ってやろうと思ってさ」

「そもそも僕は上には彼女は適正がないと報告するつもりだった!わかっているのか!?まだ18歳でしかも女の子なんだぞ!?」

「まだ18歳で、しかも女の子だからだよ。秘密にしてどっか目の届かないところで巻き込まれるよりは、近くで守ってやりたいだろ?」

「お前っ・・・!どうなるか分かってんのか!?」

「もうあの頃のオレらじゃない。今のオレらなら上手くやれる。そうだろ?」

 無言で美剣の胸ぐらを掴んだ溝呂木と睨み合いの冷戦が始まる。両者は一歩も引かない。いつも二人はこうだった。だがこんなことをしていては最後にはメテウスを持つもの同士で殺し合いになってしまう。だがそれは自分たちだけではなく周りにも最悪の結果をもたらす。だからこその麻雀勝負だった。

「お二人とも、そこまでにしましょう!」

 漁火の制止に溝呂木はワイシャツを掴む手を緩めた。旭夏は無言で電動雀卓のサイコロボタンを押す。

「揉めたら麻雀で勝敗を決める。これはフロウティス部隊、四人で決めたことですから・・・」

「半荘してるほど暇じゃない。ルールは?」

「東風戦にしよう。ケツだったヤツ、オレとこい!」

「速攻で終わらせてやるよ!」

「やってみろよ!赤と裏ありにしようぜ!オレがケツだったらその時はお前の言う事聞いてやるよ!」

「その時は、二度とその子に関わるなよ!いいな!?」

「分かってる。そうなったら、この勧誘は無しだ」

 美剣と溝呂木の間に見えない火花が散った。


 東1局 

 東 溝呂木 25000

 南 旭夏  25000

 西 美剣  25000

 北 漁火  25000


 最新鋭の電動自動雀卓が配牌を終える。フロウティス部隊の身体能力を持ってすれば、手積みでイカサマなど容易いだろう。だがそれが通るのは対するものが普通の人間の場合である。

 美剣は部隊の人間はイカサマなどしない人間だというのは百も承知だった。ただ時短のためだけに自費を叩いて買ったこの自動雀卓はアスピオンを屠れる最強の戦士たちの公正な私闘の為にここにあった。

 

 溝呂木の親で始まった局は、6巡したところで戦局が動く。

「リーチ」

 溝呂木の長い指が八索をきって、リーチをかける。

「オレもリーチだ」

 断么九のだが美剣も追いかけてリーチをかける。残る二人は様子をみている。

 美剣以外の三人は、自分たちのような人間が増えるのが嫌で、愛夢の加入に反対していることは痛いほどによく分かっていた。累が及ぶのを避ける為に、あえて接触をしないようにしていることも。

 それはむしろ愛夢の為であり、美剣が憎くて反対している訳でも、愛夢を認めたくなくて反対している訳でもない。

「ツモだ。リーチ、門前ツモ、平和、ドラ、裏ドラ。4000オールで12000。満貫だ」

 正当性は自らにあると言わんばかりに溝呂木の無慈悲な声がアガリを告げる。雀卓の電子点数版の数字が切り変わる。

「今日も勝利の女神の愛が重くて困るよ、本当・・・」

「メンヘラ女に後ろから刺されんように気をつけろや」


 東 溝呂木 37000

 南 旭夏  21000

 西 美剣  20000

 北 漁火  21000


 東1局2本場、4巡目にして美剣はリーチをかけた。

「リーチだ!」

 決定的ではないにしろ、何とかして早めに溝呂木の親を流したくて打ちつけた牌に願う。

【絶対にこれ以上は負けられねぇ!】

 美剣も愛夢を戦わせたいわけではなかった。大切な誰かと笑い、今を楽しく過ごせているのなら無理に勧誘することはやめようと思っていた。だが愛夢の学校生活と私生活を調査した結果は二年前と差して変わってはいなかった。


 溝呂木が伍萬を捨てた瞬間、静かに告げる。

「ロン」

 一睨と舌打ちが美剣に向けられる。

「リーチ、ドラ2、5200は6500だ」

「連荘で飛ばしてやろうと思っていたのに・・・。つまらない手で僕の親を流すなよ」


 東 旭夏  21000

 南 美剣  25500

 西 漁火  21000

 北 溝呂木 32500


 美剣は愛夢のこれまでの人生を調べあげていた。それは裸足で砕けた硝子の上を歩かされているような人生であった。どこにいても常に異端の愛夢は清廉潔白に生きてきた。だがそれはそうあることを強いられてきたからだ。一つのミスすら許されない、ミスをしたならば、たちまちに糾弾される針の筵のような環境で生きるしかなかった愛夢のことを思うたびに美剣は心が痛んだ。

 美剣以外のメンバーには愛夢の出自はおろかイジメのことすら伝えてはいなかった。それは愛夢にとっては、誰にも知られたくないことであり、それを他人に触れ回ることは彼女が一番してほしくないことだと美剣には分かっていたからだ。


 東2局が始まりミーティングルームには牌を打つ音と鳴きの声だけがしていた。

「リーチ」

 安手だが次の局の自分の親番で勝負を決めるために速攻をかける。その瞬間、凛とした声がそれを断ち切った。

「美剣さん、それ、ロンです」

 美剣がリーチの為にきったニ萬を、旭夏が指差す。

「断么九のみ、1500は1800です」

「旭夏君がこのまま勝負を決めてくれそうだね」

【クッソ・・・!!】

 美剣は奥歯を噛み締める。


 東 旭夏  22800

 南 美剣  23700

 西 漁火  21000

 北 溝呂木 32500


 東2局2本場

赤ドラが一枚と心許ないが、贅沢は言わない。次の自分の親番で盤面をひっくり返す心算はできていた。

「リーチだ!!」

「ロンです」

「断么九、赤ドラ。2900は3900です」

「旭夏君、ジワジワ行くね?今日は僕の勝利の女神が君に浮気しちゃってるのかな?」

「そう言う溝呂木さんも全部の局でテンパイかイーシャンテンしてらっしゃるじゃないですか」

 鼻で笑う溝呂木、相変わらず淡々として何を考えているかわからない旭夏、困ったようにただ傍観するだけの漁火、三人の視線が美剣に集まる。

「まだ終わっていない・・・!次だ!」


 東 旭夏  26700

 南 美剣  19800

 西 漁火  21000

 北 溝呂木 32500


 東2局3本場

そして7巡目にして戦局は動く。

「リーチします」

 静かにそして丁寧な所作で四萬をきった漁火がリーチをかける。漁火は初手でドラをきっていた。目指せる高みを望まずに、速攻で目的を果たす戦い方がいかにも漁火らしいと美剣は思った。

 そこから4巡したところでその静かな局は終わりを告げる。

「ツモです。リーチ、門前ツモ、平和、裏ドラ。5200です」

「私の親番が・・・」

「すみません、旭夏さん。ですが溝呂木さんは今日、厚生労働省の方と会議があります。私もこれから新しいデコイの設置場所の視察に行きたいので、準備の為に局が長引くことは避けたいのです。ですのでご容赦ください」

「残念です・・・。決まればいい手だったのに・・・」

 そう言い旭夏は自分の手牌を倒した。

 筒子の一気通貫が出来上がった旭夏の牌はあとは萬子が揃うのを待つだけだった。

 それが決まっていたら平和、一気通貫、ドラ、赤ドラ、にアガリの役が乗り、旭夏以外の三人に満貫かあるいは跳満の振込みが襲いかかっただろう。

【直撃していたら危なかった!だがやっとオレの親番か。なんとしてでも、ここで引き離す!】

「漁火君の言うことはもっともだ。できれば痛い目をみせるためにそのバカを飛ばしてやりたかったけど・・・。僕としたことが熱くなってたね。ごめん」

「・・・いいえ、あの・・・、えっと、すみません」

 困った顔で美剣を見た漁火は何かを言いたそうにしていた。美剣も、残りの二人も、それが何かは検討がついていた。3対1のこの状況が、美剣を虐げているように感じられて心苦しく居た堪れないのだろう。

 漁火星雪はそういう男なのだ。


 東 美剣  18500

 南 漁火  26200

 西 溝呂木 31200

 北 旭夏  24100


 東3局

「ポン」

 旭夏が捨てたドラの西牌に溝呂木が鳴く。

「さっき漁火君が言っただろ?僕は今日、厚生労働省のお偉方に呼ばれているんだ。遊びは終わりだ」

 ドラ3を得た強者の冷たい笑みが美剣を絶望の淵へ落とす。

「ツモ!自風牌、ドラ3、赤ドラ。8000点、満貫だ。ごめんな?こんな手でお前の親番を流して」

「・・・っ」

 自分の好きな色である赤が入った牌が、勝利へ導くどころか今日はずっと自分の首を絞めていた。

 

 東 漁火  24200

 南 溝呂木 39200

 西 旭夏  22100

 北 美剣  14500


 オーラスの東4局の幕が開いた。電動雀卓が自動で並べてくれた配牌は眩暈がするくらいに最悪だった。

 ここで満貫も跳満も狙えない自身の運の弱さを呪った。溝呂木ならばこの状況であっても華麗なアガりを見せただろう。

 ここぞという時に役に立たない自分よりもよっぽどリーダに向いている。

 だがリーダを決める麻雀勝負でも美剣は溝呂木に負けた。勝った人間がリーダを決める、その対決でも溝呂木は頂点に立ってみせ格の違いを見せつけた。

 きっと美剣の勝利の女神は愛夢で、彼女は今この瞬間も全てを諦めたあの表情をして、笑うことはないのだろう。

 だから自分は勝てないのだ。そう自分に言い聞かせれば今のこの状況も妙に納得がいった。

【せめて一目だけでも笑った顔が見たかった・・・】

 自分の為ではなく愛夢の為に絶対にこの勝負を諦めたくはなかった。だがこの最悪な手でアガったところで順位は変わらずに終局するだけで美剣はもう詰んでいた。

 

「アガってくれるなら誰でもいいよー。早く終わろう」

 気怠そうに言う溝呂木に残りの二人は無言を貫く。美剣には、親である漁火は自分にトドメを刺すことを嫌い自らアガることはしないと予想ができていた。だから溝呂木と旭夏、二人のうちどちらかが美剣に引導を渡すのだろう。

 しかし12巡しても、鳴きの声こそすれど誰のリーチもなかった。

「リーチ」

 このまま流局するのでは、というほんの少しの淡い期待を抱いたその局に旭夏が容赦無くリーチをかける。

 美剣は悔しさで震える手で牌を捨てる。

 それに旭夏は無言を貫き、その牌が通ったことを示した。

 次順の漁火はツモ牌をジッと見つめ、しばらく悩みそれを河に捨てる。

「漁火さん、それ・・・。ロンです」

 漁火がきった七萬に旭夏が鳴く。

 七萬は溝呂木がすでに2枚を捨てていた。通るかは微妙なところだが自分も同じ状況なら漁火と同じようにしたであろう。

【終わった・・・】

 美剣は長く息を吐いて敗北を噛み締めた。

「あっ・・・、はい」

 虚しさだけが残る麻雀勝負の決着に漁火は喜ぶでも悲しむでもない煮え切らない顔をしていた。そしてオープンされた旭夏の牌に、驚愕の声が集まる。

「えっ!?」

「はあっ?」

 漁火と溝呂木のその声に驚き、美剣も旭夏のアガり役を見る。

「・・・旭夏?お前、何で?」

「リーチ、一発、七対子、ドラ2、裏ドラ2、赤ドラで九飜、16000点です。倍満ですね」

 それは美しいアガりであった。漁火がきったことで生まれた七萬の対子と索子の対子に含まれた赤ドラ。ドラの白牌の対子、裏ドラの南牌の対子。

 このアガりにより順位は変動する。

 あまりの完璧な手に誰もが絶句し微動だにできない。普段は無表情の旭夏から微笑が浮かんでいる。

【ケツじゃない・・・。負けたけど敗けじゃねぇ!】

 溝呂木との約束は"美剣が最下位だった場合は愛夢の勧誘を諦め、彼女に二度と関わらない"だった。

 美剣が一位である必要はなかった。

 試合には負けたが勝負には勝った。その事実に美剣は胸が熱くなる。


 東 漁火  8200

 南 溝呂木 39200

 西 旭夏  38100

 北 美剣  14500


「一位に届かなかったことが残念でなりません・・・」

「えっ・・・と、旭夏さん・・・。何で?」

 倍満を喰らった漁火は戸惑い子鹿のように震えていた。その問いかけに旭夏は答えずに淡々と言い放つ。

「溝呂木さん、私、実は一度も貴方に麻雀で勝てたことがないんですよ」

「えっ・・・?あぁ、そうだっけ?ごめんね、僕の勝利の女神の愛はいつも重くてさ」

「ええ、ですから一位の必要点数を40000点に変更して今から南入しませんか?」

「する訳ないだろ!?一体何を考えているんだ!?」

「何・・・、とは?」

「ここは適当な手でアガって、順位をそのままに終わらせるところだろ!?美剣をビリにして勧誘を諦めさせる!それが僕たちの目的だったはずだ!」

「私にとってゲームとは勝つためにやるものです」

 旭夏と漁火には優しい溝呂木も、今回ばかりは声が荒ぶる。

 普段ならばすぐにそんな状況を止めに入る漁火も流石に放心状態で、二人の声が耳に入ってこないのかそれを止めることはしなかった。

 美剣はそれをただ見つめる。

「これはゲームじゃないんだよ!人の人生がかかっているだぞ!?」

「溝呂木さん、ワクチン反応者が出るたびにコレやるんですか?そうして、その度に適性が無かったと嘘の報告をして影ながら政府の人からその人を守るんですよね?そうして貴方だけが疲弊する・・・」

「君だって僕と一緒に美剣に反対していたじゃないかっ・・・!?一体どうしたんだよ?」

「誤解しないでほしいんですけど、私も今回のことには反対ですよ?ですが、もし件の女性に接触せざるを得ない状況に陥ったら?それは必要最小限の接触にすべきだ。ですが美剣さんにそれができると思いますか?言っておきますが私は画面越しではない麻雀が楽しくなってしまい暴走してしまったワケではないので・・・」

 饒舌な旭夏をはじめて見た美剣と溝呂木の二人は、同じことを思い、同じ顔をして心でツッコむ。

【コイツ、目的を忘れてただ普通に打ったな・・・!】

「南入しようとしたくせに?」

 溝呂木は笑顔で旭夏にキレていた。

「・・・つまり、私が言いたいのは、そんな状況に陥る前に手を打つべきなんですよ。その担当の人選は美剣さんより適任がいるということです。子供の相手が上手くて、穏やかで、説明上手でアスピオンとLETの危険性を十分に理解させ、自ら勧誘を断る方向へ導くことができる人物が・・・」

 旭夏はそう言い漁火を見る。

「なるほど・・・。まぁいつまでも政府の人間を騙せないからね。向こうに説明をきちんとして納得してもらった上で断ってもらい、政府が接触してくる可能性を念頭においてもらうのか」

「はい。影ながら私かに守るよりも、ずっと効率がいいです。向こうからもこちらに助力を頼めますしね」

「ごめんね旭夏君、誤解してたよ。僕に勝ちたくて熱くなったワケでも、漁火君に親を流されて腹が立って仕返ししたワケでもなかったんだね?」

 溝呂木は怒りを抑え、旭夏の言い訳を承諾した。

「・・・・・・勿論です・・・」

「そこは即答してほしいところだったんだけど?」

 二人は放心状態の漁火に目を向けた。

 今までの会話は全く聞こえてないようで、目が合うことは無く彼の口からは呪詛のような言葉が次々と溢れ出てくる。

「えっ?えぇ!?嘘ですよね?有り得ない!今回のお話に出ていた方って、女性でしかも高校生・・・!?つまりは女子高生ってコトですよね!?無理です無理です無理です無理です無理ぃでぇすぅってぇ・・・。絶対に舌打ちされたり睨まれたりするぅ・・・。スマホ触ってて、話なんか絶対に聞いてくれませんってぇ・・・。ていうか若い女性相手なんだから、旭夏さんと溝呂木さんが行けばいいんですよ。二人ともイケメンだし!そうだ!きっとその方だって、そのほうが喜びますよ!!!そうしましょう!!!」

 それは美剣も思っていた。

 悔しいが大概の女性が振り返るほどに溝呂木はハンサムで、旭夏は美形だった。

 どちらかと勧誘に行っていたなら、愛夢は外見のみに心を奪われてLETへの加入を即決していたかもしれない。

 愛夢はそんな子ではないと思いたい美剣にはそれはあまり面白くない上に、他のメンバーにとってもそれは最も避けたい結果だろう。

 だからこの麻雀勝負の決着は最適解と言える。

「諦めろ漁火!最初に言ったとおりケツだったヤツがオレと一緒に行くんだよ!」

 美剣は小さくうずくまるように座っていた漁火の背中を叩いて喝を入れる。

「えっ・・・?絶対イヤです・・・」

「ごめん、漁火君・・・。そのバカの監視をどうか頼んだよ?いざとなったら君のカラスを使ってそいつを拘束してもらっても構わないから!」

「構うわっ!」

「私には・・・無理です・・・」

「くれぐれも!LETに、フロウティス部隊に入りたい、なんてバカなことをその子が言うことがないように!ちゃんと危険性を説明するんだよ!?」

「うぅっ・・・!溝呂木さん・・・せめて一緒にぃ来てくださぁい・・・」

 涙目で溝呂木に縋り付こうとする漁火に旭夏が言う

「漁火さん、フロウティス部隊において麻雀で決めたことは絶対で覆りません。諦めてください。貴方ほど今日という日に適任な人物はいませんよ?」

「旭夏さん?麻雀ですので勝ち負けがあるのは当然です・・・。しかし私には貴方が純粋に勝負を楽しんでいるように見えたのですが、まさか違いますよね?親番を流された恨みをオーラスの倍満で晴らしたのではないですよね!?」

「・・・・・・そんな、漁火さん酷いです・・・」

「そこはせめて私の目を見て即答してほしいところなのですが?」

 何が何だかわからなくなっている漁火を、三人で囲んで説得を試みる。

「頼んだよ、漁火君!君にしか頼めないんだ!」

「頑張ってください、漁火さん。女子高生の相手」

「オレは最初からお前について来てほしいと思ってたんだよ〜!漁火〜!」

「えっ?えっ?えっ?何で誰も私の味方をしてくれないんですか!?」

 溝呂木が百万匹の猫を被った慈愛の笑顔を漁火に向け、肩に手を置く。

「ごめん、でも僕は絶対に行きたくないから!!!」

「私もです・・・。子供の相手なんて冗談じゃない」

「まさか、お二人とも・・・。美剣さんの順位を落としつつ、自分だけは最下位にならないようにしていたのは・・・!?」

「いや・・・。でも途中までは本当に美剣を飛ばしてやろうと思って打ってたんだよ?オーラスも別に誰がアガりでも構わなかったし、譲ったんだけど」

「チャンスは何度もあったのに、下手に美剣さんを哀れむからこんなことになるんです」

 漁火が自分の親番でアガれるように、溝呂木と旭夏はテンパイしていてもギリギリまで待ったのだろう。その証拠に高目を目指した旭夏に対して、雀卓の上に残された溝呂木の手牌と捨牌はわざと振聴したことを物語っていた。

「本当に3対1で戦っていたのは、私だったということですね・・・」

 優しさが仇となり漁火は自滅した。

 だがその顔には、悔いなどは微塵も感じられず、却って誇らしげであった。

 誰かを傷つけるくらいなら自らが傷つくことを厭わない。漁火星雪は常にそうあるのだ。

「視察は明日にします。こういったことは初めてなので至らない所も多いと思いますが、精一杯努めてさせていただきます」

 漁火は椅子から立ち上がり、三人に微笑む。

「漁火君、極力問題は起こさないでくれる?揉み消すの面倒だから」

「漁火さん、揚げ足取られて女子高生に泣かされないよう気をつけてくださいね?」

「漁火、車で行きたいから運転よろ〜!」

 漁火の顔から笑顔は消えた。

「私・・・、貴方達のおかげで、どんな人がきても対応できる自信があります!」


 愛夢の通う都立高校へと向かう車中、美剣は漁火から再三に注意を受ける。

「美剣さん、今朝のような突然の横入りは二度しないでください。きちんと情報は共有すべきですよ。まずは今日お会いする学生さんのお名前は?」

「西宮愛夢」

 美剣は愛夢に会える嬉しさで完璧に向井のことが頭から抜け落ちていた。

「今時の可愛らしいお名前ですね。最近の面接はハラスメントにあたるとしてプライベートの質問は禁止されているので美剣さんも気をつけてくださいね?」

「おーう」

 時々こっそりと様子を見に行っていたことに関しては口を閉ざす。

「高校三年生はとても多感な時期です。無理強いをせずに断られたら絶対にすぐに諦めてください。一応、私も説明に関しては全力を尽くしますが、加入反対派ですのでそこはあしからずお願いいたします」

「わかったよー」

 ただでさえ多感な上にイジメで傷ついた愛夢の心が今どうなってしまっているのか、美剣はただそれだけが気がかりで堪らなかった。


 何度か外観を見ているだけだったその場所へ、初めて足を踏み入れる。

【ようやく会える・・・!】

 西宮愛夢が通う学舎は、昼過ぎの学生達の声があちこちから響き活気にあふれていた。

 職員と来客用の入り口には美剣と約束を取り付けてくれた女性が一人佇んでいた。

 白髪混じりの清潔感のあるミディアムヘアの50代くらいの女性でロングスカートを履いたシルエットが艶かしかった。

 美魔女の部類に入る見た目をしており美剣の年上のお姉さんセンサーが反応する。

【電話でも美しい声だと思ったが実物もいい!】

 女性は美剣と漁火に気付き頭を下げて出迎える。

「初めまして、お電話では何度か。教頭の臼井と申します」

「初めまして。厚生労働省から参りました、美剣です。こっちは漁火。本日はよろしくお願いします」

 美剣と漁火はLETの名前が入っていない一般向けの名刺を臼井に渡す。

「頂戴いたします。私はこちらで教頭をしております臼井琴美と申します。本来は担当教諭が対応にあたる所ではございますが、特殊な事例でしたので僭越ではございますが本日は私が担当させていただきます」

【琴美さんか!美人は名前も礼儀も美しい!!】

「それでは応接室へご案内させていただきます。どうぞ、こちらです」

 臼井に続き、美剣は歩き出す。その後を漁火がついてくる形となった。

「すみません、西宮さんにお会いする前に、彼女について先生にいくつか質問があるのですが構いませんか?」

「はい。私に答えられることであれば」

 美剣はこの場から外れてほしいという意図を込めて漁火を見る。ただの同僚だが、共に死線を潜り抜けた二人だからこそ、目が合った瞬間に漁火は察してくれた。漁火は自ら臼井に話しかける。

「すみません、こちらの学校に自販機はございますか?少し長い話になりそうでして、生徒さん用の飲み物をご用意したいのですが・・・」

「それでしたら・・・。この先の廊下の右手に中庭に続く通路がございます。そちらに設置していますものをご使用ください」

「ありがとうございます。すみませんが、少し外します」

 漁火が横を通り抜ける瞬間に臼井に聞こえぬように小声で礼を言い、周りの気配に気を配りながら話を続けた。

「西宮さんのプライバシーに関することなので答え難いとは思いますが、実はこちらは大体の状況は把握しています。ですので学校での彼女の様子をお聞かせ願います」

「西宮さんは大変真面目な生徒です・・・」

「そうですね。だからイジメられても誰にも助けを求めない・・・ですか?」

 美剣は臼井の反応をみる。イジメのことを知らないのか、止めたのか、容認しているのか、些細な表情の変化を注視する

【どっち側だ?琴美さん?】

「言い訳に聞こえるかもしれませんが、私がこの学校に赴任したのは今年です。ですから西宮さんのことは半年前に知りました」

 そう話す臼井の眉間の皺は寄り、拳は固く握られる。

 自らもその感情を糧にここまで来たから分かる。 臼井が今この瞬間に感じている感情は悔しさだった。

「二年前、オレは彼女へのイジメの現場を目撃してしまい匿名で学校へやめさせるように連絡をしました。その後、どうなったのかご存知ですか?」

 臼井は美剣の望んだマトモな人間だった。ただ少しその到着は遅かった。

「その記録は学校に残っておりました。美剣さんでしたのね・・・。結果的に言うとイジメは無くなってはおりません。お恥ずかしい限りです」

「分かる範囲で構いません。先生の知っていることを教えてください」

「端的に申しますと、身体を傷つけるようなイジメ、犯人に結びつく証拠が残るようなイジメは無くなりました。ですから学校側はイジメ問題は解決したと結論付け今日に至っております」

「・・・つまり言葉や態度でのイジメは今も続いていると?」

「私の立場で許される発言ではありませんが、今の子供たちは大変狡猾です。言葉や態度の他に、生徒間で行われるSNSでの誹謗中傷、盗撮した写真の悪用などが確認できました。これはいわゆる鍵アカで行われており、先日スマホを募集した生徒の画面から発覚したことでこざいます」

「それ、消させたんですよね?」

 愛夢は本人も知らぬ所でデジタルタトゥーを刻まれていた。

 気温を上げぬよう、ライオンハートに憎悪の感情を気取られぬよう美剣は静かに怒る。

「勿論です。運営にも連絡済みですが、こういったものは指先一つでどこまでも拡がってしまいます。私共の力が及ぶ範囲で全力で対応いたしておりますが正直どこまでやれているのか・・・!」

「その件はうちの漁火が何とかできると思うので安心してください。他に何か気付いたことはありますか?オレは今日、あの子の憂いを祓いにきたんです」

 漁火のカラスの探知と索敵の能力は電子の海にも潜ることができる。それを使えば警察よりも早く愛夢のデジタルタトゥーを全て消すことが可能だった。

 その言葉に安心したのか、美剣に対する信頼度が上がったのかポツリと臼井は言う。

「あの・・・。これは本人の意思もあるのですが彼女・・・、修学旅行を欠席したんです」

 プライバシーに関わるかどうか微妙なところの情報を臼井は戸惑いながら美剣に話す。

「この学校は多様性の時代に合わせて個人での行動を許可した修学旅行を実施しております。修学旅行は学校生活の中で一番と言っても過言ではないほどの大きなイベントです。修学旅行が終わってから退学する生徒もいるくらいなのに・・・」

「だけど、欠席した・・・。金銭的な問題ではなく?」

「わかりません・・・。所持金の上限は学校で指定はしましたが守っている生徒はほとんどいませんでした。行かない理由を担任が彼女に聞くとこう答えたそうです。他の生徒から来てほしくないと直接言われた、自分なんかが行くと皆んなの思い出が汚れるから行かないと・・・」

「自分なんか・・・か」

 愛夢は美剣が望んだ、楽しいことを経験せぬままに高校生活を終えようとしていた。

 それが悲しくもあり悔しくもあり目頭が熱くなる。

「現在の高校の学費は全て免除されております。それなのに西宮さんは毎日、学校公認のアルバイトに勤んで私がイジメに関する話を彼女に聞こうとしてもバイトがあるからとスルリと水のようにかわされ続けて今日に至ります」

 愛夢が育ての親に仕送りをしていることは調査結果にあがってきていた。だが己の青春までをも犠牲にしていることまでは調べあげられなかった。

「助ける為に手を伸ばしてもそれを掴もうとしないか」

「どんなにイジメを回避する提案をしても、卒業までの我慢だからと聞く耳を持ってはくれませんでした。西宮さんは何をされても、怒りも泣きも訴えもしてくれないので私も手をこまねいております・・・」

「オレがこの学校に西宮さんとの面談の申し込みをしたとき、学校側は西宮さん以外の生徒を薦めてきました。現に今日まで日程は伸ばされ、更には呼んでもいない生徒を押し付けてきた。先程、臼井さんは彼女は真面目な生徒だと言いましたが、他の教員の方々からの評価は良くないのでしょうか?」

「教師の中に生徒たちに広まる噂を鵜呑みにしている者がいるのも確かです。更には学校という場所で上手く生きる為に、西宮さん一人の味方にはならずに、声の大きな人気のある生徒の味方をする者がおります。そしてその者が彼女の担任になってしまった・・・」

「その声の大きな生徒が向井か・・・。まぁ学校側も圧をかけられてやり難かったでしょう」

「西宮さんは頼まれたことは絶対に断りませんし、誰であっても逆らうことも、助けを求めることもしません。欠席も体調不良と修学旅行のみで、教師の中にはあんなに扱いやすい生徒はいないと言う者までおります・・・」

 これも調査結果にあがってきていた。

 欠席日はワクチン接種日だった。

 大の大人の美剣ですらその苦痛に動けなくなったのだから愛夢が学校を欠席するのは当然のことだった。

「彼女に特別仲のいい生徒はいないんでしょうか?」

「西宮さんが特定の誰かと仲良くしている姿は見たことがございません・・・。そういえば・・・、飲食物を口にしている姿も見たことがありませんね」

「昼飯を食ってないんですか?」

「はい。それどころか、真夏ですら飲み物を飲んでいる姿も、持っている姿を見たことがありません。他の生徒は持ち歩いたり、机の上に置いていたりしますが、西宮さんは・・・。もしかすると飲食物にイタズラされたことがあるのかもしれませんね・・・」

【ガキ共が!戦争してんじゃねぇんだよ!メシくらいゆっくり食わしてやれよ!!】

 美剣は臼井の手前もあり舌打ちを堪えた。

「こんなに彼女のことを、お話しするつもりはなかったのですけど・・・。今でも西宮さんをそちらに勧誘するというお気持ちに変わりはないでしょうか?」

「勿論です。オレは西宮さんだからここまで迎えにきたんですから」

「高校を卒業後、就職を希望する生徒は最近は増えてきております。西宮さんもその一人でしたが、美剣さんから彼女を指名するお電話を頂いたときは、とても嬉しく思いました。やっと彼女の良さを理解してくださる人が現れた、と」

「臼井さんは彼女をとても気にかけてくれているのですね」

「ええ!この半年ずっとあの子を見てまいりました。品行方正でまるで学生の鑑のような生徒です。ですが・・・あの子は自分で自分の可能性を潰してしまっている」

「何があったんですか?」

「おそらくですが・・・。西宮さんは、テストの問題をわざと間違えて点数を平均値の少し上になるように調整しています」

「何でそんなこと・・・!?」

「彼女は高校1年の中間試験で一度だけ学年3位なっています。そのことでカンニングを疑われ、順位を落とした生徒たちから嫌がらせを受けたと記録に残っております」

 理不尽なイジメの理由に腹が立つ反面、愛夢は3位になったことを誰かに褒めてもらえたのだろうか、という疑問が頭をよぎり美剣は切なくなった。

「彼女の解答用紙はいつも同じ点数になるように記入を抜かしたり、間違えたりしているんです。これは私の推測なのですが・・・。西宮さんは他の生徒に気を使ってわざと全力を出さずに、力をセーブしているのではと・・・」

「一度、彼女が授業で走っている姿を見たことがあります。でもなぜかオレには、西宮さんがわざと手を抜いて走っているように見えました」

「あぁ・・・、彼女は一度、体育の短距離走の授業で高校新記録を出しています。その時に一緒に走った体育推薦で入学した生徒と圧倒的な差をつけて大騒ぎになってしまったそうです。そしてそれがイジメの引き金になったのだと思います・・・」

 推薦をもらった生徒は、それなりには足が早かったのだろう。情熱も実力もあり、学校に選ばれてそこにいる生徒はその足で大学推薦も狙っていたのかもしれない。

 だがASPワクチンにより身体能力が向上した愛夢に普通の人間が太刀打ちできるわけがなかった。

 突然の自分の変化に戸惑う暇もなく、周りから迫害されるようにイジメられた愛夢がどんな気持ちで学校にいたのか想像するだけで、色々な感情が入り混じり美剣の瞋恚の炎が段々と煽られていく。

 知らぬうちに周囲の温度を上げてしまったのか、汗ばんだ臼井が「もう10月だというのに暑いですね」と言い廊下の窓を開けた。

「私も長年に渡り教師をしてきましたが、人のために自分の人生をわざと棒に振るような生徒は初めてで戸惑いました」

 美剣のポケットにあるスマホが震える。取り出すと漁火から"今からそちらへ戻ります"とメッセージが届いていた。

 午後の授業の予鈴が鳴り美剣は先程からずっと考えていたことを口にする。

「もしかすると今日、彼女を外に連れ出すかもしれません。この場所は彼女にとっては地獄みたいなものだから、少しの間でも離してやりたいんです」

「それがいいのかもしれません・・・。狭い水槽の中ではどんなに大人しい魚でも攻撃的になって弱い個体を蹂躙してしまう。西宮さんにとって今ここはそんな場所です」

「卒業まで登校はしない、ということは可能ですか?」

「西宮さんはほとんど欠席はしていないので二ヶ月弱は休んでいただいても卒業に支障はありません。それ以外は保健室に登校することも可能です」

「ありがとうございます。その話、オレから彼女にしてみますよ」

「応接室は二部屋ご用意してございます。教師である私の言葉は届きませんでしたが、未来の先輩かもしれない美剣さんの言葉なら届くかもしれませんね」

 窓に吹き込む秋の穏やかな風が臼井の髪を撫で、一呼吸の間を置いて彼女は言葉を続けた。

「・・・でもお話していると美剣さんはまるで西宮さんのお父様のようですわ」

「そんな歳じゃないですよ。まだ28です」

 応接室が二つ用意されたのは愛夢と向井を離す為だろう。臼井が本当に生徒のことをよく見て考えてくれていることに美剣は感心する。

「あら、では・・・まるでお兄様ですね」

 クスクスと笑う臼井につられて美剣も笑う。

【お兄ちゃん・・・か】

 こんな風に愛夢も笑ってくれることを美剣は心で強く願った。

「お話はお済みでしょうか?あと少しでお約束の時間になってしまっていますが・・・」

 漁火が、距離をとって遠慮がちに話しかけてくる。

「大変!応接室は3階にございます。ご案内しますわ」

 早足で歩き出す臼井に二人は続いた。

【琴美さんと別れる前にこれだけは言わねばならん!】

「臼井先生、お渡しした名刺の番号にいつでもご連絡ください!どんな些細なことでも構いません。寂しい夜でも、悲しい朝でもオレがお側に駆けつけます!」

 キラリと目を光らす美剣に対し、臼井の早足は止まらない。漁火は白い目で美剣を見ていた。

「まぁ、こんなオバさんにそんなこと言うものではありませんよ?」

 驚き早足のまま逃げるように前を行く臼井に、美剣はにじり寄ろうとするが首根っこを漁火に掴まれてしまう。

「女性の年齢はカラットです!増すごとにその価値は上がり続ける・・・。重ねられた貴女の美しさはまるで真珠のようで、今この瞬間もその魅力はオレの心を掴んで離さない・・・!」

「美剣さん、それ以上は本当にやめてください!聞いているこっちが恥ずかしい!」

「何恥ずかしがってんだよ!?お前に言ってねぇんだよ!勝手に聞いてんじゃねぇよ!」

「そっちが勝手に言い出したんでしょう!?聞かれたくないならメッセージでやり取りしてください!」

「あの・・・、お二人ともあちらが応接室でございます。もうすでに生徒が中で待っておりますので・・・」

「大変失礼いたしました!それでは、ありがたくお部屋を使わせていただきます!」

「さっきのお話の続きはオレから臼井先生に連絡しますので〜!」

 漁火に引きずられながら美剣は臼井に手を振る。

「美剣さん!声の大きな生徒は少々粗暴なところがございますので気をつけてください!」

 美剣は臼井の心配に笑顔で手を振り答え、応接室の扉の前に立つ。

 その言葉を聞く前から向井の相手は自分だと決めていた。学生目線から見た愛夢の近況も知りたかった上、優しい漁火は愛夢の相手に丁度よく、向井の相手には荷が重かった。

【ガキの粗暴なんてオレにとってはお遊戯みたいなもだわ。しかし琴美さんは困った顔も美人だ〜】


 漁火が遅れたことを謝罪し応接室1の扉をノックし入室する。美剣もそれに続く。

 応接室は中央に黒の合皮のソファをガラスの机を挟んで向かい合わせに置かれており、上座側のソファには向井が大きく足を広げて座っていた。

 美剣の視線は部屋の隅で下を向いて不安そうに立ち尽くす愛夢に釘付けだった。

【お前、全然変わってねぇな・・・】

 セミロングヘアの少女はこの学校の紺色の制服がよく似合ってる。だが長く伸ばした重たい前髪が目にかかり、その可愛らしい顔がどこを見ているのかがわからなかった。

「あれ?二人いらっしゃいますね」

 そう美剣に問う漁火の声に微かに愛夢の肩が動いた。

【怯えているのか?こんな部屋の隅に立ちっぱなしなんて可哀想に・・・】

 漁火には向井のことはわざと伝えていなかった。

 向井に"オレたちにとってお前なんぞ気にかける価値もない存在だ"と知らしめる為に。

「一応聞くけど、どっちが西宮愛夢?」

 そしてコケにされた向井がどんな態度をとるのかを見る為だった。

「西宮は私です」

 鈴が転がるような可愛らしい声で愛夢が答える。

「だよな」

【喋ってくれてよかった〜!!無視されたら悲しくて泣いてたわー!】

 美剣と愛夢が話している間も向井の舌打ちと足を揺する音は止まらなかった。

【うるっせぇなぁー!!アピールがしつこいぞ!】

「先輩が、来るまで立って待ってるとは偉いねー」

 美剣は笑顔で向井を挑発する言葉をわざと選び、彼と向かいの席に座って対峙する。

 挑発に乗った向井の口から雑言が捲し立てられ、その度に愛夢の体が強張るのが見てとれた。

【態度が良くて熱意も見えればLETの末端くらいには入れるよう考えてもよかったんだが・・・。】

 この態度ではフロウティス部隊はおろか、協力関係にある組織にすら推薦することはできないと心の中で結論付ける。

 美剣は困惑する漁火に愛夢を任せ、向井を飄々とかわす。

 そして前髪の隙間から怯えながらこちらを見つめる愛夢に口の動きで「あとでな」と伝え二人を見送った。


【あの様子じゃオレらがどこの誰かもわかってないんだろうなぁ・・・。このバカが情報を止めさせて最初から勧誘も何も無かったようにしたのか?】

「おっさんさぁ!俺が誰かわかってんの!?俺が一言かけるだけでアンタなんかどうにでもなるんだぜ?」

【こっちは俺が俺がで、あっちは私なんか、か】

 向井の怒鳴り声をBGMに美剣は愛夢のことを思う。不安な顔を直接見てしまったためか隣の応接室のことが気がかりで仕方なかった。

「まぁ!その無礼な態度はアンタを俺のパシリにしてやることで許してやるよ!」

【あんな細い体で小さくなって震えて今日まで耐えてきたのか・・・】

「さっきの眼鏡も使いやすそうなヤツだったな!パシリ2号だな!殴るフリでもすれば泣いて言うこと聞くだろう!?」

【漁火は優しいから、話してて安心してくれるとは思うんだが・・・それで全部うまいこといってくれたりしねぇかなぁ・・・。てか何で皆んな漁火を見た目だけで弱いって決めつけるんだ?】

 美剣は漁火ほど我が強く信念を曲げない男を他に知らなかった。だが自衛隊員も警察官も目の前の向井も、皆んな漁火を見た目と態度で弱いと決めつけ彼に対しては高圧的に振るまう。

 それがいつも腹立だしくて仕方なかった。

「おいっ!聞いてんかよ!?」

【本日は私どもの組織に感心を寄せてくださっただけではなく急遽、説明会の場にまで参加してくださり誠にありがとうございます。ですが当組織は厳正な選考を行い適性者のみを採用することとなっております。ですので今回はそちらのお話は見送らせていただく結果となりました。熱意とご期待に添えず申し訳ございません。誠に残念でございます。これだな!】

「ぎゃあぎゃあ、うるせぇガキだなぁ・・・!親の脛齧って偉そうにしてんじゃねぇよ!」

「あぁっ!?テメェ今何つった!?」

【やべぇ!丸くおさめる文言考えてたら、口が勝手に本音を言っちまった!!】

「・・・えっと、悪いんだがウチは適性がないと無理なんだわ!」

「チッ!今の言葉、忘れてねぇからな!一番偉いヤツここに連れてきて、ちゃんと俺に謝りにこいよ!?」

「重ねて悪いんだが・・・。一応、オレがその一番偉いヤツなんだわ」

「マジかよ!?まぁ、西宮なんてクズをスカウトしにくるような低脳だから仕方ねぇか・・・」

 向井にはできることならこのままフロウティス部隊のことを諦めて帰ってもらいたかった。

 だが彼の口から愛夢の名が出たことで美剣は彼に問いかけてしまう。

「君から見て西宮さんはどんな子だ?」

「あっ!?知らねぇよ!あんなど底辺の人間のクズ!あんなの女ってことしか使い道ねぇだろ?」

「・・・勧誘するにあたって彼女の為人を同級生の口から聞きたかったんだが、知らないなら仕方ないな」

 美剣のその言葉を聞いた向井の目の色が変わる。

「おっさん、西宮の親のこと多少は知ってて声かけたんだよな?どうせアレだろ?何かあっても文句言ってくる家族もいないし、使い勝手が良さそうだから勧誘するんだろ?」

 自分の評価を上げる為、愛夢を評価を下げにきた向井は聞いてもいないことをベラベラと話し始めた。

 それは美剣の瞋恚の炎に続々と憎悪という薪を焚べていく。

「アイツは絶対頭おかしいって!何をされても顔色ひとつ変えない!昼飯を踏みつけてゴミ箱に捨ててやったときも、掃除のときにゴミばら撒いて這いつくばらせて拾わせたときも、泣きもしねぇ!つまんねー女だよな!?」

 愛夢が経験したのは臼井と美剣が考えていたイタズラなんてかわいいものではなかった。そんなことを経験し学校での食事をやめたことで、彼女の身体は細く痩せていた。

 向井の下卑た話が耳に入るたびに美剣は血が沸々とするような怒りに襲われていく。

「でっ!俺たちで誰がアイツ泣かせられるか勝負してんだわ!それを1年の時からずっーとやってる!グループ作って賞金出すってなったら盛り上がってよぉ!だけど修学旅行で勝負かけようと思ったらアイツ欠席しやがったんだよ!」

 なぜだか分からないが美剣はこの話を絶対に聞かねばならない気がして、平静を装い向井に問うた。

【落ち着け・・・怒るな・・・】

「・・・っ、勝負って?」

「アイツを男部屋に拉致って輪姦(まわ)そうって計画してたんだ!一回500円でクラスの隠キャ共の童貞卒業企画まで用意してたのに本当使えねぇし、空気読めねぇ女だよな!?」

 その言葉に美剣の中の瞋恚の炎は爆ぜた。

 途端、下半身に感じた違和感に慌ててポケットに手を入れるが時はすでに遅かった。

【ああ〜!ライオンハート!やりやがったなぁ!】

 美剣の怒りに呼応したライオンハートがポケットに焦げた穴を空けた。そこに指を通すと少しだけ冷静さを取り戻せた気がした。

「まぁ、アイツってパパ活しまくってるらしいし、そんな汚ねぇ穴なんて俺は使わねぇけどな!」

【可哀想だが・・・。アイツは修学旅行に行かなくて本当によかった・・・】

「あっ!?おっさんコレ知ってる?西宮って中学の時に浮浪者みたいなのにレイプされそうになったって?未遂だって話だけど結局ガバガバなのは変わんねぇと思わねぇ?」

 愛夢とライオンハートのことを思い穏やかになりかけた心に向井は再び特大の憎悪を焚べる。

「わかったよ。もういい・・・」

 何を言っても美剣が逆らわず両親が自分の思い通りにしてくれると思っているのだろう。

 愛夢が最も触れられたくない心の傷を平気で吹聴する向井と、これ以上の会話をすることはできなかった。

 ポケットの中でライオンハートを指にはめる。

 そうしなければ怒りの炎が美剣の服だけでなく、この場所までをも灰燼と化してしまうからだった。

「やっと、わかったのかよ?西宮なんかより俺のほうがいいって!おっさんの仲間になれば特殊能力がもらえるんだろ?」

「それ・・・。お前の親父が言ったのか?」

「親父の机にあった資料に書いてあったんだよ!俺は喧嘩強いからその能力があれば無敵じゃん?ついでにおっさんたちの事も手伝ってやるからさ!」

 戯言にもならない向井の言葉を聞きながらネクタイを外す。

「今の話、他の誰かにしたか?」

「はっ?誰にも言わないことを条件に親父に今日捩じ込んでもらったんだよ!西宮みたいな異常者より俺の方がその場所も能力も相応しいからな!」

 おそらくは自身が他の生徒から注目を集めたいがために、授業の時刻に説明会を指定したのだろう。

 どこまでも自分勝手で非道な行いをする向井に、金輪際関わらないための最後通告の試験を始める。

 美剣は立ち上がりポケットからスマホを取り出してタイマー画面を開いた。

「5分・・・、は短いか。温情で10分やるよ。オレを認めさせてみろ・・・」

 ソファに脱いだ背広を置き向井を睨みつける。

「何?いきなり脱ぎだして・・・。まさかおっさんそっち系なの?俺はそんな趣味無いんだけど?」

「うるせぇよ。世界で穴がお前だけになっても絶対使わんから安心しろ」

 美剣が一歩近づくと向井は一歩後ろへ下がる。

 美剣の剥き出しの闘志が、向井の動物的な本能を揺さぶった。

 無意識に力の差を感じ恐怖を感じたのか、それを誤魔化す為か、向井の声がさらに大きくなる。

「俺の親は離婚してるけど、どっちも現役議員だ!金もあるし交友関係も広い!喧嘩だって負けたことねぇし、大学合格も決まってる!」

「それの何が凄いんだよ?今から10分の間にお前がオレの体に触れることができれば合格だ。望む通りにすればいい」

「体力テストってか!?おっさんが若者相手にして勝負になんのかよ?」

「お前は若者ってか、馬鹿者だろ?」

 上からは丸くおさめろと言われた。だが当の向井は愛夢を蹴落とし自分がその座に座ることしか考えていない。ならば圧倒的な実力差を目の当たりにさせ屈服させる。

 これが美剣ができる最大の譲歩だった。

「ぶっ殺してやる!」

 キレた向井の怒号と同時にタイマーのスタートボタンを押す。それを見やすい位置のソファの上に放る。


 向井の動きは単調だった。

 美剣は触れることができれば合格と伝えたが、彼が向けてくるものは固く握りしめた拳でそれは顔ばかりを狙ってきている。

 応接室1は戦いの場、リングと化す。

【全て100%の力での単調な攻撃、次の攻撃に繋がるフェイントもなし。喧嘩に負けたことがないってのは複数でボコってんのを盛ってるな】

 全力で攻撃しながら美剣を追う向井に対して、ただ後ろへ下がり攻撃を見切るだけの美剣との勝負の結果は明白だった。

「何でウチなんだ?お前の思っているような集まりじゃねぇぞ・・・」

「特殊能力でその辺の雑魚い動物殴って・・・!それでっ、金もらってっ・・・!自衛隊も警察もっ!何でも言うこと聞かせられるっ!!っんな楽な仕事ねぇだろ!?」

 向井邦彦は美剣を煽る才能だけは世界一だろう。 彼の口から放たれた言葉はアスピオンに殺された人間を、ここまで努力してきた美剣たちを侮辱するものだった。

 溢れ出る殺意を抑え心を落ち着ける為、美剣はただ愛夢のことを思う。

【早く顔が見たい!声が聞きたい・・・!】

 相も変わらず単調な攻撃を繰り返すだけで、向井は美剣の周囲の温度が上がっていることに気づくことはない。

 暖まった空気は向井の体力を奪っていく。

 それでも息も絶え絶えになりながらも威勢だけは変わらずに美剣に立ち向かうことをやめなかった。

【執念だけは認めてやるか。でもそれを別のことに向けてくれねーかなぁ・・・】

 そう思っていると向井の視線がソファの上の美剣のスマホに向けられる。

 進み続けるタイマーに焦ったのか向井はスマホを掴んで窓へと全力で投げつけた。

「何すんだテメェ!」

 向井の全力の投てきなど、美剣の前では児戯に等しい。ガラスに当たる直前に手の中にスマホをおさめタイマーを見る。

 タイマーは残り5分をきっていた。

 注意を逸らすために投げられたスマホを心配するフリをして、美剣はわざと向井に背を向ける。

 向井はもう拳は握っておらず、指先だけでも美剣に触れようと必死に手を伸ばしてくる。

 ヘタに避けて向井が窓ガラスに衝突し、怪我でもされては大事になる。美剣としてもそれは困るので、窓の支柱にぶつかるように横に逸れつつその手を避けた。

「・・・っはぁ、はぁ!クッソ・・・!」

 部屋の隅へと移動し、さらに向井を誘い込む。

「散々逃げ回りやがって・・・!これで終わりだ!」

 自身を追い込む側だと勘違いした向井が、美剣を捕まえようと両手を伸ばす。

 その動きを膝を屈伸させ屈んでそのまま左へ飛び避ける。学生時代にやっていたボクシングのダッキングと呼ばれるパンチの回避方法は、今この場のみならず追弔でも美剣を助けてくれていた。

 積み重ねた経験と強化された身体能力、そして鍛え上げたしなやかな筋肉が、美剣の強さであるこの動きを可能にしていた。

「あと2分半だぞー!頑張れ〜名も知らぬ馬鹿者君!」

 美剣はスマホの画面を向井に向け言葉で煽った。

「おいっ、おっさん!この部屋暑いんだよ!エアコンつけろよ!」

 そう言い向井は美剣の横を指差す。そこにはエアコンのワイヤードリモコンがあった。

「ったく・・・。おっさん使いが荒いねぇ」

 室温はすでに30度を越えていた。

 しかしこの部屋の暑さの原因は自分にあるので、美剣は向井の要望通りにリモコンを操作し冷房をつける。

 すると背中側に回った向井が再び美剣に飛びかかってきた。

「フェイントが卑劣なんだよなー」

 美剣はそう言いながら目の前の壁を蹴り天井擦れ擦れに高く飛び上がる。

 そして再び壁を蹴って後方宙返りをきめ向井の後ろに着地した。

 驚き振り返る向井に、面倒くさそうに美剣はタイマーを見せる。

 表示は1分28秒でそれを見た向井の顔が焦りで豹変していく。

 だがそこから向井は美剣の掌の上で踊るかのように右方左方へと走り回された。

 向井の突進に近い掴みを美剣は上に横にとかわす。来客用のスリッパは、ハンデに丁度良く美剣の跳躍を制限してくれた。そのおかげで天井に頭が着くことなく向井をいなしていく。

 それは側から見れば二人の演者による喜劇のようだった。

「何なんだよ!?アンタ・・・化物かよ!?」

 政府とその関係者に、自衛隊員に警察、研究員に幾度となく言われてきたその言葉に、傷つく心はもう持ち合わせてはいなかった。

 タイマーの電子音が応接室に響く。

 美剣はそれに合わせてソファの背もたれに着地する。

「本日は緊急採用試験にご参加いただき誠にありがとうございます。しかし試験の結果大変残念ではございますが貴意に添い得ぬこととなりました。何卒ご了承いただきますようお願い申し上げます。僭越ながら名も知らぬ馬鹿者君の今後一層のご活躍をお祈りしております」

 美剣は背もたれの上で大袈裟なカーテシーをし、向井に別れを告げる。

 最上級の経緯を示し、さらに上が言ったように丸くおさめてみせた完璧な仕事をした自分を心で褒めた。

【今のオレの勇姿を隣の二人に見せたいっ・・・!】

 反対側のソファにおいてある自分のネクタイと背広をとり鼻歌をまじりに応接室2へと向かう。

「ちょっと・・・待て・・・よ!」

 納得のいかない向井は肩で息をし、床に座って尚も美剣を引き止める。

「お前の親父がしたことは秘密漏洩にあたる。黙っていてやるから今日のことは忘れろ。そしてこれから先、西宮愛夢に二度と関わるな!!!!」

 そう美剣は喝破し応接室1を出ていくが、またすぐに引き返し向井に言う。

「エアコン消しとけよー!」

 今度こそ美剣は応接室2をノックし中へと入っていった。

「バカにしやがってーーー!!!!」

 向井の乾いた喉から出る叫び声は掠れ美剣の耳にしか届くことはなかった。


 応接室2に入り飛び込んできた光景に美剣は頭が真っ白になった。

 気がつくと漁火を地面に組み伏せていた。

 美剣の突然の行動に驚いて今は止まっているが愛夢の頬は涙で濡れていた。

 向井が言っていた胸が悪くなくようなイジメにも泣かずに耐えてきた愛夢が泣いている。

 何だってできて、何にでもなれる愛夢を勧誘をしにきた分際に、追弔は危ないからお前には無理だ、だから勧誘を断ってくれ、そんな風に言われて気分を害したのかもしれない。

 原因が何かもわからないが、自分が信じて送り出した漁火がその一端を担っているのは明らかだった。

 感激や嬉しさで流れた涙かもしれない、そんな風に考える余裕は今の美剣にはなかった。

 漁火のカラスが主人を守ろうと美剣の手にまとわりつこうとする。

 それに怒ったライオンハートもカラスを攻撃しようと熱を放とうとする。

 だがカラスは漁火の屈強な意志の力で押さえ込まれ消えていった。

【この状況でも自己防衛すらしねぇのかよ!?】

 苦痛に顔を歪める漁火に罪悪感を抱きつつ、愛夢にできるだけ優しく問う。

「何された?大丈夫か?どっか痛いのか?」

 先程まで聞いていた愛夢の過酷な日々は美剣の心をザワつかせていた。

「触られたのか?パンツは脱がされてないか?」

 愛夢の傷を抉るかもしれない質問をしてしまったことに後悔の念を抱きつつも美剣はもう自分の怒りを止められなかった。

 足元から漁火の否定の言葉が聞こえるが、今の美剣の怒りをおさめられるのは愛夢のあの可愛らしい声だけだった。愛夢が美剣に向かって口を開こうとする。だが求めたその声は怒りを煽るあの声にかき消された。

「そっちの眼鏡のほうが被害者に決まってんだろ!」

 まだ息が切れたままの向井がこちらの応接室へと入ってきた。それに合わせ愛夢の体が硬直する。

 向井の口からは漁火に無理矢理体を触らせた、パンツを売ろうとした、パパ活をしているという侮辱の言葉が飛び出してくる。

 そのたびに何か言おうとする愛夢が言葉を失っていくのが見てとれた。

【そんな顔しないでくれ!】

 泣くのを我慢しているような表情をしている愛夢に向井はさらに畳みかける。

「さすが父親が人殺しで母親に殺されかけた女はエグいわ!異常者のミックスちゃんは卒業後の為にそっちの眼鏡を狙ってんだよなぁ?」

 その言葉に愛夢の呼吸が一瞬止まるのを感じた。

 愛夢のひた隠しにしてきた過去。

 美剣も細心の注意をはらい、部隊の人間にもその情報が行き渡らないようにした。

 それを向井は簡単に叩き壊す。

 このままでは向井は愛夢のもう一つの傷までをもひけらかすだろう。

 漁火の拘束を解きゆっくりと向井に近づく。

 それは逃げる隙を与える為だったが向井は一歩後退りをするだけだった。

 愛夢がいるから抑えておきたかったが、この怒りをコントロールする術がなく周囲の温度は上がり続けていく。

 漁火の静止の声も、今の美剣を止めることはできなかった。

「向井君の言ったことは本当です。私の父は人を殺しました、そして母も私を殺そうとしました。こんな人間の為に、皆さんのお時間を無駄にさせてしまったことを本当に申し訳なく思っています」

 その声に美剣の動きは止まる。

 待ち望んだ愛夢の声は、可愛らしく美剣の名前を呼ぶものではなかった。

 見たいと切望した笑顔は曇り、いつか見た通りのあの諦めの表情をしていた。

 そして大人顔負けの謝罪の言葉を述べ、当たり前のようにその場で土下座をした。

 漁火が慌てて愛夢に止めるよう叫ぶ。

 向井は笑いながら、そんな愛夢を雑巾モップ扱いした。

【そんなことしなくていい!床なんて汚いだろ?ウイルスとかハウスダストとかいっぱい危ないのがあんだから頭あげろよ!綺麗な髪が汚れるぞ】

 頭を上げない愛夢の姿に声が詰まり、かけたい言葉が心で留まる。

「次はない」

 美剣はライオンハートがいる右親指を包み込んで拳を握る。

 殺意に呼応したライオンハートが炎で周囲を焦土にしない為に、美剣は必死の思いで踏み躙る。

 だが向井の言葉による愛夢への蔑みは続いた。

 パパ活で金を稼げと言われた愛夢は下を向いていてその表情を窺い知ることはできなかった。

【バイトだって楽して稼げる方法が山ほどあるのにお前はそれを選ばなかった!同い年のヤツらがバカやって笑ってる間も、お前はちゃんとしたバイトで働いてた!本当に偉いよ】

 美剣に敗北し不合格を言い渡され、プライドが傷ついた向井は愛夢を貶すことで自己肯定感を高めている。

 もしかすると万が一にも、再び自分にチャンスが巡ってくるのではと思ってそうしているのかもしれない。

 もう美剣は我慢は限界だった。

 早く目の前から向井を消し去らないと、死人を出してしまう恐れがある。

「テメェがその汚ねぇ舌で床を舐めろ」

 美剣が左の小指で放ったデコピンの風圧で向井は床に沈んだ。

 右手はライオンハートのいる指と決まっている。

 その手で向井をデコピンをした場合、美剣ですらどうなるかはわからなかった。

 さすがに思うところがあったのか、漁火はこの行為を止めることなく黙認してくれた。

 こんなものでは美剣だけではなく、愛夢の気も晴れないことは百も承知だ。

 だが耳障りな音が無くなり目の前から不快なものが消え、ようやく落ち着いて話ができるようになる。


 向井を引きずり応接室1の床に放り投げる。

「エアコン消せって言っただろうが!」

 エアコンの電源を切るために手を伸ばすと、親指のライオンハートが目に入る。

「もうちょっとだけ待っててくれよ。今のオレへの心象最悪だろうしさ?」

 ライオンハートを穴の空いていないほうのポケットへ入れる。

 向井という憂いは一つ晴れたが愛夢の問題はまだ何も解決してはいない。

 美剣が思っていたよりも愛夢のおかれている状況は悪かった。精神も限界ギリギリのように見え、美剣の焦りは苛立ちに変わる。

【こんな学校、やっぱり燃やせばよかった・・・!】

 周りから壁をつくられ迫害され、さらに自分でも壁を作りその中で息を潜めるようにして生きている姿は、見ているだけで痛ましかった。

 そのとき美剣の頭に臼井の水槽の中の魚の話が浮かんだ。

 それは見事に愛夢に当てはまっていた。

 彼女はこの学校という名の水槽の中にいて他生徒から蹂躙され続けた。そして追い立てられ、自ら狭い金魚鉢に閉じこもってしまったのだ。

【この水槽、さながら中身は泥水だな・・・】


 美剣が応接室2に戻ると愛夢は漁火に平謝りし、ごめんなさいを連呼している。

 二人の間に入り愛夢の謝罪を妨害する。

「私のせいでお二人の貴重なお時間割いてしまい申し訳ありませんでした。きっとこの勧誘は何かの間違いです、お役に立てなくてすみません・・・」

【もしそうであっても、それはこっちのミスでお前が謝ることじゃないんだ。そんなペコペコしなくてもいいんだよ】

 謝ることが癖になっている今の愛夢には、きっと美剣が何を言っても届かないと思い諦める。

 それは漁火も同じだったのか、困った表情をし愛夢と美剣を交互に見てくる。

 美剣にできるのは愛夢がこれ以上頭を下げないようにすることだけだった。

【気分転換にどっかに連れ出してやりたいが、納得してもらえる理由がない・・・】

 説明会の続きをしようとするが、立つ立たないの押し問答が始まりそれどころではなくなる。

 漁火に指摘され自分が愛夢の体に無断で触れたことに気付き謝る。

 しかし当の愛夢は自分には触れる価値はない、自分は一女子高生に劣ると言い切った。

【自尊心が皆無じゃねーか!もっと自分の大切さに気づけー!!世の中の変質者に狙われるぞ!】

 愛夢に変質者に気をつけてほしくて注意を促すが、なぜか漁火に警察を呼ばれそうになる。

 呼ばれては敵わないので美剣は急いで本題に入った。

「オレはお前を迎えにきたんだ、うちの部隊に来いよ!」

 その誘いに愛夢はキョトンとした顔をし、首を横に振った。

 美剣は電話口の担当教諭に愛夢が稀有な才能の持ち主であること、その才能を自分たちの組織に入り発揮してほしい、と伝えていた。

【まだ漁火がメテウスの話を全てしていないにしてもこの反応・・・。本当に学校側からは何も聞いてないんだな】

 向井の自己肯定感を高めるため、担当教諭の保身のため、そんなくだらないもののために愛夢は可能性を潰されかけた。

 漁火が呆れたような視線と声で勧誘を止めてくるので、美剣は二人に状況を説明した。

 驚く漁火に対し愛夢はただ淡々と否定と肯定だけで返事をしていく。

【ここは悔しがったり怒るところだ!なんでそんな旭夏みたいに無表情なんだよ!?】

 何にも動じず表情を変えない愛夢に行きつけのラウンジにいる熟練の熟女の教訓を授けようとするが漁火に妨害されてしまう。

 再び警察を呼ばれそうになり、それを妨害をしていると突然漁火の目が外に釘付けになる。

【この反応・・・!アスピオンか!?】

 この四年の間に何度も見た。

 漁火の探知にアスピオンがかかった時に見られる反応、それが今起こった。

「美剣さん、アスピオンです。送電線建設現場のデコイにかかりました!」

「数は?」

「一体です」

 美剣と漁火、二人の会話に愛夢は不安の色を隠せないでいる。

【そんな顔をさせたくなくてオレはここにきたのに!】

 後ろ髪を引かれる思いで一歩を踏み出す。

 漁火が愛夢に別れを告げようとするがその時、美剣の頭に妙案が浮かぶ。

【そうか!!追弔に連れて行けばいいんだ!そうすればここから連れ出せるしオレ達の仕事も見せてやれる!】

「西宮愛夢、今から企業体験にこないか?」

 その言葉に二人は固まる。呆気にとられた愛夢からの反応は無く、反対する漁火との問答は決着はつかない。だが思いついたが吉日。その言葉が相応しく美剣は愛夢を抱えて窓から飛び降りた。

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