第8話 夕飯
美剣は建物の三十階に相当する高さを愛夢を抱えて飛び降りた。
三階から飛び降りた時とは比にならない落下の速度と肌を抉るような風の圧を感じ、愛夢は目を開けることができなかった。
カンッという美剣が鉄塔を蹴る音と体がグンッと前に飛ぶ感覚を同時に感じる。
美剣の一蹴により落下していた体が浮き上がり、次の瞬間には二人は地面に滑り降り立っていた。三階から飛び降りたときより、少し強い衝撃を感じたが痛みは全くなかった。
土埃が宵闇に舞い上がり、そこにいる人影を際立たせる。
「待たせたな、帰ろうぜ漁火」
愛夢を抱いたまま美剣は人影に話しかける。秋の夜風に飛ばされた土埃が消えた先に現れたのは不機嫌さを隠そうともしていない漁火だった。
「・・・えぇ、待ちました!帰ります!ですがその前にっ!!」
言い終わる前に足早に美剣の横を通り過ぎ背中に回った漁火は愛夢の顔を覗き込んだ。
「目が赤く腫れている!?可哀想にっ!あんな場所に無理矢理連れていかれて、さぞ恐ろしかったことでしょう!?大丈夫ですか!?」
驚きつつ愛夢に話しかける漁火の声は優しかった。
「美剣さん!西宮さんに何をしたんですか?何を言わせたんですか?あんなの脅迫と変わりないですよ!」
漁火は静かな怒りのこもった声で淡々と美剣を問い詰めた。
「漁火さん・・・、ちがっぅ」
すぐに否定しようとするが疲れ切った体で泣き腫らした喉から出る声はかすれ、美剣の首筋に埋もれ漁火には届かなかった。
「まぁ、ちょっと聞かれたくない内容の話をしたかったからな。柄にもなくカッコつけていいこと言おうと思って恥ずかしくなって上に行った。悪かったよ」
鉄塔の上での会話は愛夢にとって誰にも知られたくない、一人で死ぬまで抱えていく秘密の暴露だった。美剣の言った漁火に聞かれたくないがゆえの行動は愛夢のためを思ってのことだと今ならわかる。地上で漁火がいる状態で本音で話せと言われても愛夢は絶対に意地でも話はしなかっただろう。
「先程、貴方を西宮さんの担当から外すことが我々三人の総意をもって決定しました」
「そうか、さっきはアイツらに連絡してたのか。残念だが仕方ねぇな・・・」
担当から外される。それはもしかすると美剣とはもう会えなくなるのではと、そんな不安が胸をよぎり体が震えた。自分の中の彼の存在の大きさに驚く。
「ところでいつまで西宮さんを抱えているつもりですか?過度な接触です!下ろしてあげてください!」
その言葉を聞き美剣の首に回していた手に力が入る。ここにくるまでは優しい漁火にあんなに安心感を覚えていたのに、今はもう美剣から離れたくなかった。あたたかく、どこか懐かしく感じる美剣のぬくもりをまだ感じていたいと思ってしまった。
「あー、今コイツ腰抜けてんだわー。じゃあ、お前が抱っこ変わるか?」
美剣はその意図を汲んでくれたのか愛夢を地に下ろすことはしなかった。十年あまり我慢していた甘えるという行為を最後に堪能したくて、首をふって抱きつく力を強めた。
「だっ・・・!〜っできる訳ないでしょう!いいですか?その行為を許すのは車に乗るまでですからね!?それ以降は西宮さんに接触禁止ですからね!?」
「へいへい、わかったよ〜」
「西宮さん、申し訳ないですがあと少し辛抱願います」
聞き慣れた優しい声で話す漁火が歩き出すと美剣も愛夢を抱えたままそのあとに続く。一歩、一歩と帰路につくたびに、この心地よい時間が終わる事実が突きつけられているようで美剣をそっと盗み見て悲しさを誤魔化す。
「どうした?学校に置きっぱなしの鞄は寮に届けるように連絡しといてやるぞ?」
「ありがとうございます」
自分でも忘れていた心配のタネを少しでも取り除こうとしてくれる美剣の優しさがまた愛夢を離れがたくさせる。甘えること、弱さをみせることを許せる相手がいるということの安心感というものが今朝までの心を殺せる、欲張らない、分相応を弁える自分に戻ることを拒否していた。
駐車場にはもう人は誰もおらず三人が乗ってきた車だけがぽつんと主人の到着を待ち侘びていた。自衛隊員のいた痕跡は何も残っておらず、立つ鳥跡を濁さずという諺が相応しく追弔が完璧に匿されたことを示していた。
運転席側の後部座席のドアを漁火が開ける。美剣は愛夢を優しく座席に下ろすとシートベルトをつけながら声をかけた。
「門限に間に合うようにするが一応遅くなるって連絡もしといてやる。着くまでは寝てていいぞ?」
「・・・はい」
「疲れただろ?今日はよく頑張ったからな、偉いぞ」
そう言い頭を撫でようとする手が伸びてくる。嬉しく思っていると美剣の後ろから大きな咳払いが一つ聞こえた。
「美剣さん、接触禁止ですよ?」
そう言われた美剣はすぐに手を引っこめ愛夢から離れる。
「おー怖い!怖い!帰りは安全運転で頼むぜー?」
「美剣さん次第ですね・・・」
二人の話す声を聞きながら愛夢の意識は眠気に勝てなくなっていく。
今日は緊張の連続だったうえに、子供のように大きな声でたくさん泣いた。肉体も精神も疲れ果てていた。泣くという行為はこんなに疲れるものだったのかと、いつも夜に枕を濡らしていた涙はきっと本当の涙ではなかったのだろうとそう思えた。
落ちていく意識の中で愛夢は美剣に頭を撫でてもらえなかったことだけをひどく残念に感じていた。
帰りの車中は驚くほどに快適で、行きの蛇のような道のりが嘘のようだった。時折感じる段差のある道路を走る些細な振動さえも揺籠の中にいるように思えてるほどで、深い眠りにさらに拍車をかける。いつも感じる不安や孤独は昨日までずっと愛夢に悪夢をみせていた。自身を取り巻く環境はまだ何一つ変わっていないにも関わらず今は悪夢どころか夢すらもみることなく深く泥のように眠る。
「西宮さん、起きられますか?」
「おーい、そろそろ起きんと夜に眠れなくなるぞー」
二人の声が心地よい眠りの終わりをつげる。目を擦り冴えない頭で返事をする。
「・・・寝てしまってごめんなさい。今日一日大変お世話になりました。ここまで送っていただき本当にありがとうございます・・・」
運転席と助手席から後ろの愛夢を見ている二人に向かってお礼と同時にお辞儀をすると返事ではなく二人の優しい笑い声が返ってきた。
「まだ寮についてないぞ」
「やっぱりテイクアウトにしますか?」
「えっ?」
寝ぼけてしまった自分を腹立たしく思いながら窓の外の景色を確かめる。そこは見慣れた寮の前ではなく大型ショッピングモールの駐車場だった。訳がわからずに右の窓から左の窓へと視線をうつして何度も外を確認するが、そこは来たこともなければ見たこともない愛夢の知らない場所であった。
「ご迷惑でなければ今日のお詫びに夕食をご馳走させていただけないかと思いまして・・・」
「何食うか一応聞いたが返事しなかっただろ?男二人で考えてもお前の好きな食べ物がわからんかったので数打って当てる戦法をとることにした!」
記憶を辿ると確かに追弔を終えた美剣に食事のことを聞かれていたことがうかぶ。勧誘を断ることで有耶無耶に終わらせてしまった会話だったが、その結果がこの大型ショッピングモールだ。
話しながらシートベルトを外し終えた二人は同時に車をおりた。漁火が後部座席の扉を開ける。困惑するしかない愛夢に出会ったときと同じ優しい朗らか笑顔で車からおりるように手招きで促す。二人を待たせるわけにもいかず早々に車をおり断りをいれる。
「ありがとうございます。お気持ちだけで充分です」
これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。そう思い深くお辞儀をすると頭の上から困った漁火の声が聞こえた。
「西宮さんならそうおっしゃると思っていました。ですが申し訳ありません、勝手を承知で寮に夕食の断りと21時帰宅の連絡をさせていただきました」
「えっ・・・」
ただ驚き、困りながら笑う漁火と「早くこい」と言いながらショッピングモールの入り口へ早足で歩いていく美剣を見つめた。愛夢の中の漁火は勝手にそのようなことをする人物ではなかったので率直に浮かんだ疑問をそのまま口にしてみた。
「もしかして美剣さんが?」
「提案したのは美剣さんですが寮に連絡したのは私です」
漁火は駐車場を走る車に注意を払いつつ、愛夢の足取りに合わせて一緒に歩く。
寮規則により部活動をしている生徒以外の門限は原則19時となっている。部活動をしていないうえに勝手な外出をした生徒に特別な取り計らいをしてくれるようにわざわざ連絡をいれてくれた漁火の苦労を思うと申し訳なさで胸が痛くなった。
「私なんかの為に・・・。ご面倒をおかけして申し訳ありません」
「面倒などではありませんよ!私が貴女に温かくて美味しいものを食べてもらいたいと思ったんです。今日は色々と大変でしたし、労いとお詫びの気持ちをこめて食事をご馳走させていただけないでしょうか?」
夜の駐車場を走る車のヘッドライトと路灯が漁火の照れた笑顔を鮮明にさせる。見ているだけで胸の辺りがあたたかくなる。それと同時に鉄塔から降りたあとの自分の無礼な態度を思い出し漁火の顔を見られなくなってしまった。何度も漁火は心配してくれていたのに愛夢は返事すらまともにしていなかった。
「漁火さん、本当にごめんなさい」
今日一日でかけた迷惑を、先程の無礼を、そして美剣によって呼び起こされてしまった"願い"によって後ほどしてしまう漁火に対する非礼を詫びた。
「謝らないでください。西宮さんが食事をご一緒してくだされば私が救われるのです」
「えっ?」
ショッピングモール入り口の自動ドアが開く。今まで歩いてきた少しひんやりとする秋の夜の黒から一転し眩い照明が織りなす白が愛夢の目をくらませる。
様々な店を両側に挟んだ長い通路の少し先にフロアマップと不機嫌そうに睨めっこしている美剣が見えた。漁火と愛夢はそのままその場所へ歩みを進める。
「ご覧のとおり、美剣さんは今とても空腹でご立腹です。あの状態の彼と二人きりになるより三人で食事をしてから職場に戻ったほうが私の心労が減ります」
美剣は追弔において常人離れした動きをでアスピオンを還し、さらには愛夢を抱えて鉄塔を上まで登りきった。息こそきれていなかったが確実に体力の消耗はしているはずだ。加えて時刻は19時を回っているので彼の空腹は相当なものなのだろう。
「ですので私を助けると思って食事に関しては気兼ねしないでださい」
「はい・・・」
「お!そ!い!」
フロアマップの前で仁王立ちしていた美剣が二人に気付き、むくれながら歩み寄ってくる。
「すみません」
愛夢と漁火の声が綺麗に重なる。
「調査結果には何も書いてなかったがアレルギーとかないよな?嫌いなもんは?」
「ありません」
「ならばよし!!食いたいものを選べ!!!!」
フロアマップのレストランの区分を指差しながら美剣は愛夢に躙り寄る。
「ち!か!い!接触禁止なのをお忘れですか?話をすることは仕方ないので今日だけ許可しましたが、そこまでの接近と接触は許可していません!!」
漁火が愛夢を庇いながら美剣との間に滑り込む。
「あー!わかったよ!とにかく腹減って死にそうだから早く店決めてくれ〜」
美剣の哀願の叫びにより行き交う人々が冷たい視線だけをこちらに向けてくる。
「お二人が決めてください。私は何でも大丈夫です」
「まぁ、そう言うと思っていたけど一番困る返答だな」
「西宮さん、今の気分でいいので何が食べたいですか?好きな食べ物でもいいので、和食とか洋食とか・・・」
「本当に何でも・・・」
食べ物であれば美味しく食べられる。どんなものであっても生ゴミやティシュペーパーよりマシなのだから。そんなものを食べるしかなかった最低だった頃の記憶が呼び起こされそうになるが、それは各レストランの店名横にある美味しそうな料理の写真たちが愛夢の腹の虫を鳴らすこと掻き消しててくれた。
急いで腹を押さえ「お二人の食べたいもので!」と音にかぶせるように大きめの声を出して二人を見るがすでに遅く、わざとらしく愛夢から目を逸らし小刻み震え笑いを堪えていた。腹の音が鳴った瞬間に声を発したはずだったが、対アスピオン部隊である彼らの聴力に愛夢の反射神経がかなうわけがなく、しっかりと気を使われることで返事をされてしまう。
「事態は一刻を争うようです。とりあえず移動しましょう」
「よし!お前が気兼ねしない、スピード重視の店をオレが決めてやるよ!」
「すみません・・・」
穴があったら入りたい気持ちで顔を真っ赤にしながら下を向き、ただ前を歩く二人についていく。
美剣が選んだ夕食は日本で一番有名であろうアメリカに本社があるハンバーガーチェーン店だった。早く安く美味いが三拍子揃った根強い人気が長き歴史を支えるその国民的ファーストフードは老若男女を問わず全国で知らない者を探すほうが難しいであろうほどの不動の人気と店舗数を誇り今日まで変わらずその王者たる地位を築いている。
「今!完璧に!ハンバーガーの口なんだわ!オレ!」
「確かに若い人に人気で、尚且つ早さに定評がありますね」
店内は夕食どきということもあり、家族、恋人、友人、または一人でと様々な客層の人々が席に座り食事をしていた。
別の店舗ではあったが愛夢は子供のとき養母とこのハンバーガーを食したことがあった。引き取られてすぐのことで、殴られると思い勝手に食事を手に取って口に運ぶことを恐れていた愛夢に、優しい養母は一本一本ポテトを冷まして口まで運んで食べさせてくれた。愛夢にとって初めての外食の場所で、そんな優しい思い出の場所であるこの店に再び足をはこぶことになるとは思っておらず体が固まってしまう。
「ハンバーガーは嫌か?」
硬直している愛夢を心配する美剣の声が優しい思い出から意識を引きずり出してくれる。嫌どころか、むしろこの場所に連れてきてくれて嬉しいくらいなことを伝えたくて全力で首を横に振った。自分でこの場所を再度訪れられるほどの心と金銭の余裕が今まではなかった。
「決定ですね。では席に座ってモバイルオーダーしましょう」
三人で座れるテーブル席は空いておらず、向かいが窓ガラスのカウンタータイプの席に三人横並びで座ることになった。真ん中を漁火にし、彼の左隣りに美剣、右隣りに愛夢という接触禁止を全力で遂行する席順となっており、愛夢にはそれを覆す術はなかった。だがどうしても美剣は愛夢に酷いことなど何もしていないことを漁火に理解してもらい接触禁止を解いてもらいたかった。こんな自分に優しくしてくれた美剣が誤解されたままでいるのが嫌で、いつ言おうかと迷っている自分の失礼な"願い"などよりそちらを何より優先する。
「あのっ、漁火さん!」
「はい、どれにするか決まりましたか?」
机に置かれたスマホ画面をスクロールしながら漁火は愛夢に問いかける。
「えっと・・・さっきのー」
美剣が漁火から見えないように横から顔を覗かせ愛夢と目を合わせてくる。人差し指を口元に当てるジェスチャーをしてから両手を合わせ、何も言うなと身振り手振りで伝えてくる。指示された通り言いかけた言葉を止めると美剣は静かに頷き愛夢から目を逸らす。
「さっき・・・あぁ!この秋季限定バーガーですね!毎年人気ですよね。飲み物はどうされますか?」
美剣がタイミングを見計らってくれたのか漁火はうまい具合に勘違いをしてくれた。
「あっ・・・お茶で、お願いします・・・」
「はい、では注文しておきますね」
そう言い漁火は手際よくスマホを操作し三人分の注文を終えた。その流れに任せっきりだった愛夢は自分がどんなものを注文してしまったのか分からぬままに静かに食事が届くのを席で待つ。
目の前には窓ガラスに映る自分の姿、隣には仕事の話をしている美剣と漁火がいて、制服姿の自分がスーツ姿の二人の横に並んでいることが違和感に感じる。それはジワジワと不安に変わっていく。
今、自分が周囲の人々にどう見えているのか、そのせいで二人がどう思われているのかが気になり始めてしまい辺りを見回す。誰かがこちらを見ているのではないか、自分を知っている人間がいたらという不安に怯える。ただでさえ学校でやってもいないパパ活をしているという噂がある自分が今のこの状況を同級生に見られでもしたらという想像が不安を恐怖に変え愛夢を苛む。あのスマホを触っている女性は誰かに告口をしているのではないか、大声で笑っている男性の集まりが自分を笑っているのではないかという疑心暗鬼に襲われ動悸が止まらなくなる。
迷惑がかかる前に別の席に移動しようと、声をかけようとするが二人は小声で話をしている最中だった。
「やはりお詫びなのですからハンバーガーではなくもっと女性が喜ぶようなオシャレなお店にすべきだったのでは?」
「知り合ったばっかの男に最初の食事でそんな気合い入った店で奢られたら女は下心あるかもって警戒するんだよ。周りの目もあるし、そんなところに連れていかれるアイツの気持ち考えろ。絶対、遠慮して何も食わんぞ」
「下心っ!?昨今、社会問題になっているような関係に西宮さんと我々が見紛われる可能性があったということですか・・・?」
「素直にパパ活って言えよ。ここに女子連れてくるような"おぢ"は店入る前に即切られるだろうな。そういう意味ではこの店にしといてよかっただろ?とりあえず、オレらがそんな関係には見られることはないからな。まぁ、手練れの頂き系女子だったらどうするかは分からんがな・・・」
「・・・美剣さん、なぜそんなに詳しいんですか?」
「よく行く呑み屋のお姉様が教えてくれるんだよ」
「まさか・・・、その方とそういったことを?」
「おい、その目は何だよ!?オレはそんなことやってねぇからな?オレの好みは年上なんだよ!貢がれるより貢ぐ!ママ活より、お姉様に尽したいんだよ!」
「心の底から興味のない情報ですね」
「お前が聞いたんじゃねぇか!てか変なこと言わすから西宮愛夢がすげぇ目でこっち見てんだよ!」
左耳から聞こえるああでもない、こうでもないという漁火と美剣の話し声は薄っすらと聞こえる小粋なトークが流れる店内BGMよりも愛夢の心を落ち着かせてくれる。
憶測ではあるがパパ活に見られることはないという美剣の言葉に安堵する。
丸椅子に座っている漁火が体ごとこちらを振り返って頭を下げた。
「お聞き苦しい会話があったことをお詫びいたします。主に美剣さんの所為ですが・・・。すみませんでした西宮さん」
「いいえ、大丈夫です。学校で美剣さんから教わった熟練の熟女の教えは私の心にも刻まれていますから」
学校にいる時には信じられなかった美剣の言葉が、今では信じられる。教えの通りに笑おうと口角を無理矢理上げるが、能面ような生き方をしてきた表情筋は引くついてしまいそれは失敗に終わってしまう。でもいつかは美剣の言葉と笑顔が愛夢を変えてくれたように、熟練の熟女には及ばなくても笑顔でいられるようになろうと努力をしてみる。
愛夢の失敗した笑顔を見た漁火は、驚いた表情をした後、すぐさま美剣に向き直る。
「美剣さんっ!西宮さんに何を教えたんですか!?こんな何とも言えないような表情までさせて!!」
漁火の詰問に美剣は、頭を抱えて机に突っ伏した。
「どっちにもツッコミたいが腹減りすぎてもう無理だわオレ・・・」
何とも言えない表情といわれた愛夢は、わかってはいたことだったが少しだけ落ち込む。少しでも表情筋を緩めようと頬肉を揉む。その間にも「熟練の、じゅっ・・・熟女だなんて言葉を西宮さんの口から言わせるなんてっ!」、「教えって何ですか?心優しい西宮さんに一体何を教えたんですか!?」などと漁火の詰問は続いていた。
「モバイルオーダーでご注文のお客様〜!大変お待たせいたしました!」
荒んだような空気をものともしない活発な男性店員の声が漁火の尋問を強制的に終わらせる。テキパキと確認作業と注文品の配膳を終えると「ごゆっくりお召し上がりください〜!失礼しました〜!」と慌ただしく去っていく。
「とりあえず一旦食おうぜ!いただきます!!」
「そうですね、温かいうちに食べましょう。いただきます」
ハンバーガーを前に手を合わせている二人が食べ始めるのを確認し、食材に、作ってくれた人々に感謝を込めて手を合わせ愛夢も言う。
「いただきます」
出来立ての熱々のハンバーガーの包み紙を外すと、蒸気と共に良い香りが目の前を漂い口の中を唾液で溢れさせる。香りが、腹の虫が、包み紙から伝わる熱が、今が最高にソレを美味しく食べられる瞬間だと愛夢に伝えてくる。学校で食事をしていたら嗤われことがある。おそらく自分の食べ方に問題があるのだろうという結論に至り人前でなるべく食事をしないようにしてきた。その為、一緒にいる二人に恥をかかせないように意を決して誰にも見えぬよう下を向き小さめに口を開き静かにハンバーガーに齧り付いた。
「・・・っーーー!!!!!」
いつも学生寮で人目を避けるために誰もいない広間で食べる冷え切った食事とは違う、口に広がる食材の風味と旨味は熱と共に味覚を刺激し脳へと駆け巡る。
フワッとしたバンズに挟まれた塩気の効いたスモークされたベーコンに、秋の名月に見立てた目玉焼きのプリッとした食感が主役であるトマトソースを載せたパテを引き立ててくれ、噛むたびに深みへ変わり舌の上で弾む。絶妙に互いを邪魔しない相乗効果を計算し尽くしたその佳味に下を向くことも忘れ今度は大口でソレに食らいつく。
「ーーっ〜〜〜〜!!!!!」
ベーコンの脂身の甘味が卵の黄身を、ホロリととろけさせそのコクを深くする。ソースの酸味と合わさったパテの肉汁に、咀嚼が止まらない。濃厚でクセになる美味しさに、自然と目尻に涙がたまる。
一心不乱と言っても過言ではないほどに無我夢中に熱々の美味しい食事を噛み締め幸せに浸っていた愛夢だったが、目の前のガラスを見てギョッとし静止する。隣に座る二人が目を丸くしてこちらを見ている姿が映っている。ハンバーガーを貪るように意地汚く食す姿に驚き呆れているのか二人の手は止まっていた。
名残惜しくはあったが、口の中のものを嚥下し二人に謝る。
「大変お見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした・・・」
いまだにその手からハンバーガーを離すことができない自分の卑しさに恥ずかしくなり二人の顔を見ることができなかった。
「めっちゃ、うまそうに食うなぁ・・・」
「あ〜!私もそっちの限定のハンバーガーにすればよかったなぁ・・・」
二人は愛夢が食事を楽しんでくれたことが嬉しいと言わんばかりに楽しそうに笑う。バカにするような同級生の嗤いとは違う優しい笑顔が目尻にたまった涙を溢れさせた。
「おいおい!泣くなー!今度もっと旨いもん食わせてやるからさ。ほら、コレも食べていいぞ!」
「美剣さん、もし接触禁止令が出ているのをお忘れなのでしたら痴呆かもしれないので病院に行かれることをおすすめします。あっ!西宮さんコレは私から」
美剣は5ピース入りのチキンナゲットを漁火をつたいに渡す。漁火は季節限定のパイを愛夢のトレイの上に優しく置いた。
「えっ?えっ!?」
困惑している愛夢をよそにまた二人の会話だけの会話が始まる。
「普段甘いものなんて食わないお前がパイなんて頼むからおかしいと思ったんだよ。オレの好感度下げて自分だけ上げようって魂胆だな?いい根性してるぜ」
「ビッグバーガーを二つと15ピースのナゲットも頼んでいらしたので、痴呆よりも生活習慣病を心配したほうがよいかもしれませんね?食生活を改めたほうがよろしいかと・・・。メタボで追弔は辛いですよ?」
「やっかましいわ!オレのこの筋肉美が見えてないとは・・・。お前の本体である眼鏡の度があってないんじゃねぇか?眼科行ってこいよ?」
「視力に問題はありません。そして私の本体は私自身ですけど?」
「マジか!?オレずっと眼鏡が本体だと思ってそっちに話しかけてたわ!」
「えっ・・・?逆に美剣さん視力は大丈夫ですか?もしかして痴呆な上にメタボ予備軍でさらには老眼まで・・・?」
「誰が老眼だ!?オレとお前、歳は二歳差な!?」
「二年でこの差とは・・・。呑み屋の方の教えよりも健康の反面教師として美剣さんのことを心に刻んだほうがよさそうですね」
「ならば教師で隊長でもあるオレをもっと敬わんか!」
「美剣さんへの敬いの気持ちは西宮さんの高校と山頂の鉄塔に置いてきました」
「拾ってこーい!!!」
「お断りします!!!」
投げては返る会話はまるで変化球を投げ合う仲の良い兄弟のキャッチボールのようで、なんだかそれはとても面白く思えた。二人にそのことを言うときっと「冗談じゃねぇよ!」「やめてください!絶対嫌です!」などと返答されることが容易に想像できてしまい、愛夢はさらにそれも微笑ましく思えて二人を見つめ続けた。向かい合って言い合いをしているため、漁火の背中ごしに頭しか見えていなかった美剣と目が合う。
美剣は目と口を大きく開けて驚いた顔をしたと思った矢先に、漁火を横に強く押しのけ上半身を乗り出させ愛夢に顔を近づけてきた。
「やっと、笑ったな!」
「えっ?」
笑ったつもりはなかったが二人のやりとりを見て自然と口角が上がったのだろう。先程のように何とも言えない表情ではなく今度こそは上手に笑えたらしい。嬉しさより驚きが勝る。自分なんかに笑われてしまった二人に心の中で謝罪した。そんな愛夢の思いとは裏腹に、美剣はニカッと夏の太陽のような眩しい笑顔をしてみせた。
「いきなり何するんですか!?接触禁止ですって!」
押しのけられた漁火が美剣を押しのけ返したことで二人の距離はまた遠のく。
「いい笑顔だった!追弔の疲れが吹っ飛んだぞー!」
「えっ!?今、西宮さんが笑ったんですか?私も見たかった・・・!」
ガックリと項垂れる漁火の隣りで美剣が高笑いをしていた。
「ざまぁみろ!!あー、いいもん見たわぁ!痴呆もメタボも老眼も吹っ飛ばして寿命がグーンと延びた!」
「くっ・・・悔しいっ・・・!」
「そんなっ・・・それほどのものではないですし漁火さんのご期待に添えるものでもないかと・・・」
「漁火なんか放っておけ!冷めるから早く食え!」
宣言通りに愛夢の笑顔を見た美剣は上機嫌に大口で自分のハンバーガーに齧り付く。4枚のパテが挟まれた普通のハンバーガーの倍あるソレは一口で大きく削られていきあっという間に美剣の手から消えた。
愛夢もずっと手に持ったままの、まだ半分も食べられていないぬるくなってしまった自分のハンバーガーを齧る。温度が下がろうと舌の上に広がる旨味は変わらず愛夢を幸せな気持ちにしてくれた。
揚げたてのポテトは三人が話をしている間に熱々とは言い難くなってはいたが、優しい温かさとなりカリッとした食感を損なわせることはなかった。ほふっと軟らかい箇所もありそれがまた食べることを楽しませてくれる。塩味により引き立てられたジャガイモの甘味はハンバーガーを支える準主役に相応しく、しっとりと口に広がった。
5個入りのナゲットの小さな箱を開けると閉じ込められていた熱が放たれる。触るとポテトよりも熱を持っていた。まずはそのままのナゲットを齧る。サクッとした衣が砕けジュワッとしたジューシーな鶏肉から滲み出る熱が歯に伝わり、肉汁と一緒に口の中で暴れる。火傷しそうになりながら「はふっ・・・」と熱を外に逃し鶏の旨味を堪能する。今度は美剣が一緒に渡してくれたバーベキューソースをつけてナゲットを食す。甘辛いソースが衣を包みトマトをはじめとする様々な旨味を纏わせたナゲットは舌を刺激する濃い味ではあるが決してくどくはない。最後に口の中にスモーキーな風味を残していき満足感を与えてくれる。
温かな食事と楽しい優しい時間は、愛夢の胃袋と心を充分に満たしてくれた。目の前のトレイの上に残るのは、漁火がくれたデザートのパイだけだった。
無礼な願いで漁火を怒らせるかもしれない自分にコレを食す資格があるのだろうかと愛夢は憂いていた。横にいる漁火に体を向け姿勢を正す。
もうすでに食事を終えてアイスコーヒーを飲んでいる漁火と目が合うと、愛夢が話をしたいことを察してくれたのか彼も愛夢に体を向けてくれた。
「どうかされましたか?」
漁火は熟練の熟女が百点満点をくれてもおかしくない優しい笑顔で、優しい声で答えてくれる。この笑顔を心に刻んで手本にして今日から生きていこうと愛夢は思った。
「漁火さん・・・、失礼なのは承知の上なのですがお願いがあります」
「はい、何なりと仰ってください」
頬杖をつきながらコーラを飲む美剣に見守れながら愛夢は我儘な願いを口に出す。
「私っ・・・!説明会を最後まで受けたいんです!一度勧誘を断っておいてこんな無礼なことを言うのは道理が通らないことはわかっていますっ・・・。でも中途半端じゃなく最後まで話をちゃんと聞いて答えを出したいんです・・・!」
最後まで聞くと決めたくせに泣いて中断させてしまった説明会、断って無理矢理に終わらせようとした。
心の奥底にあった自分の本当の気持ちを声に出した今だから漁火との説明会で泣いたもう一つの理由が、追弔終えた美剣と無理矢理に話を終わらせようとした理由が明確にわかってしまう。
愛夢は孤独な戦いに身を投じる漁火を可哀想に思うと同時に羨ましく思ってしまっていた。
彼らしか戦える者がいないということ、それは彼らが唯一無二の存在であるということ。
選ばれたものしかその戦いを知らない、それは選ばれたものに勝利を信じて戦うことを許され平和を守ることを託されたということ。
漁火は愛夢が喉から手が出るほどに欲していた自身の存在価値も、生きる意味も、生きた証も全部をひっくるめて持っていた。
大変な思いをして孤独に戦い、命懸けで人々を守ってくれている彼を勝手に哀れに思い、あろうことかその境遇を羨望した。
惨めで哀れな自分なんかが抱いたその恐ろしい不相応な感情は、おそらく鉄塔の女神に見透かされていたのだろう。その思いは彼女の膝下で美剣によって無惨にも粉々にされた。臆することもなく勇猛果敢にアスピオンを追弔する心優しき戦士には非の打ち所はなく愚かな愛夢との違いをまざまざと見せつけてくる。
勝手に羨望し、そして現実を見せつけられて、勝手に絶望した愛夢の自己嫌悪は最高潮に達っし、もうそれ以上は耐えられず、早くその場を去りたくて勧誘を断り無理矢理に話を終わらせようとしたのだ。
「無理をしていませんか?」
恥ずべき自分の行動を思い返して険しい顔をしていた愛夢に、漁火は心配そうに声をかけてくる。
「していません。今までの私は何もなくて、何をしたらいいのかもわからなくて・・・。でも今日やりたいことを見つけて、なりたい自分になっていいと言われました。だからそれを探してみたいと思ったんです」
愛夢と向かい合っていた漁火はそっぽを向いている美剣を一暼し、すぐに愛夢に目線を戻す。
「LETに関する説明を最後まで受けなくとも西宮さんならきっと、自分で望む未来を見つけだすことができるしょう。私も協力を惜しみませんから・・・」
「・・・っ!私っ、二人と繋がることが、関わっていられることがっ・・・したいんです・・・」
「えっ・・・!?」
「んっ・・・!?」
これにはそっぽを向いていた美剣も驚いたのか空になったコーラが手から落ちる。トレイの上に落ちた紙コップの中からは細かい氷がぶつかり合う音がした。
「助けになることは出来なくても、少しでも二人を支えることができればいいんです!そのためにはLETのことをもっと詳しく知らなきゃと思ったんです!」
食事の用意でも、ケガの手当でも、この際、美剣が鉄塔で提案してくれたことでも何でもいい、自分にできることを探したかった。
唯一無二の存在価値を持つ彼らに必要とされることが、自分の願いなのだと愛夢は気付いた。
「西宮さん・・・。LETは貴女が考えているようなところではないんです。どうか我々のことは忘れて普通の道を探してください」
やはり断られてしまった。優しい漁火はあっさりと掌を返した愛夢を責めることも怒ることができないのだろう。彼から貰ったパイを返したほうがいいのかもしれないと思った。もしかすると別れの品つもりで渡したかもしれない、だがコレを返すと漁火との最後の繋がりまでが消えてしまうような気がした。愛夢は悲しくなり、その目にはジワリと涙がたまった。
「やっぱりっ・・・ダメでしょうか?」
わかっていても諦めきれず最後に問う。壊れないように貰ったパイを優しく胸に抱いた。涙で視界がにじみ漁火の顔が見えなくなる。
「ふっぐぅっ・・・!!」
愛夢は漁火にそう言われて魚の河豚を思い浮かべた。突然、胸に手を当て苦しそうにその場で崩れた漁火は、なぜか鉄塔へ向かう道を走る車の中での会話のときのように耳まで真っ赤だった。
「河豚?」
なぜ今、魚の名前が出てくるのか疑問に思っていると、美剣が助け船を出してくれる。
「何?漁火は河豚食いたいの?どうしてもって言うなら帰りに付き合ってやってもいいぞ?あっ奢れよ?」
「・・・っ!結構です!!美剣さんに食べられる河豚が可哀想なので!」
「・・・おい、この野郎・・・!」
「漁火さん、私が最初に河豚のお店を選んでいたらこんなことには・・・。ごめんなさい・・・」
「あっ!河豚の話はもういいので、西宮さんは気になさらないでください。話を戻しますが、繋がることがしたい、支える、とおっしゃいましたがそれは西宮さんが我々を近くでサポートをしたいと思っている、という認識で合っていますか?」
「はい!わからないことは学びます。体力が必要ならつけます。何がしたいのか、何ができるのか、そのために何をするかを決めるために説明会を最後まで聞かせてください。お願いします!」
「今日見たものが我々の仕事です。危険なんですよ?いつもあんな風に追弔がうまくいくわけではないですし・・・」
「正直・・・怖かったです。本当はちゃんとやれる自信もないです。何ができるかもわからないし・・・。結局何の役にも立てなくてご迷惑をおかけすることになるかもしれない・・・。でもっ!私、頑張ってみたい!自分がどこまでできるのか試してみたいんです!信じてくれた人に報いたいから!」
こんな自分なんかを信じてくれた美剣のためにだったら頑張れると思った。少し優しくされたくらいでそこまで盲信するチョロい女だと、人には言われるかもしれない。だが人の悪意に晒されて続けてきた愛夢のひび割れ渇いた心には、打算も下心もない美剣の真っ直ぐな言葉は、まるで清らかな水のようにスッと染み込み澄み渡り馴染んだ。
漁火もそうだった。愛夢がこんな風に変わることができたのは美剣だけの力ではなかった。漁火がいたからこそであった。何度も漁火の優しさに癒された。ジワジワくる犬の絵に笑いそうになった。穏やかであたたかいあの時間があったから今がある。出会ったときは粗暴なイメージしかなかった美剣だけでは、愛夢は警戒し怯え話を聞くどころではなかっただろう。美剣に心を開くきっかけは、漁火がくれたのだ。
「お願いしますっ!漁火さんっ・・・!」
このチャンスを逃してしまえば、接触禁止の美剣はおろか、漁火にも二度と会うことができなくなるかもしれない。そんな不安な気持ちが先走ってしまい体が前のめりになり、漁火との距離が近づく。
「ぐぁっ、はぁっ・・・!」
顔を赤くし胸を押さえ椅子からずり落ちた漁火は床に片膝をついた。
「漁火さん・・・?」
「河豚からのグアバって、お前は食べ物しばりでしりとりでもしてんのか?」
「してません!罪悪感で・・・心が痛いっ!」
「しりとり・・・?グアバ、ば・・・バナナ!」
「なっ・・・つぅっ・・・!!」
漁火は今度はくずおれるように両膝を床につき椅子にもたれ掛かる。
「ナッツ?・・・つ、ツナ!!あぁっ!また、な!漁火さん、ごめんなさい・・・」
「西宮さん・・・。もう、わかりました。大丈夫です」
よろけつつも椅子を支えに苦しそうに立ち上がった漁火は手で愛夢を制した。
「私の思考と判断力を試されたのでしょうか?ご期待に応えられなかったですか?私っ・・・しりとりの練習も頑張りますから!どうかお願いしますっ!!」
「んんっ・・・!癒されるっ!普段は勝手気儘、牽強付会、得手勝手な人たちと働かざるを得ない私の荒んだ心が浄化されていく!眩しすぎるっ!!」
「それな〜!上のヤツらってそんな感じだよな!マジでひでぇよな?わかるわ〜!」
「まさかその中にご自身が含まれていないと思ってますか?その鈍感さ、逆に羨ましいです」
「ふぐー!漁火の言葉のナイフが胸を抉るー!」
美剣は、わざとらしく胸を押さえて痛そうなフリをし、台詞のような棒読みを披露する。
「ぐっ・・・!美剣さん、LETに帰ったら言いたいこと、聞きたいことが山ほどありますからね!」
「ぐあば〜」
美剣は手をヒラヒラさせ欠伸をしながら漁火の言葉をかわした。
気持ちを切り替えるためか、コホンと咳払いをした漁火は愛夢のほうを向く。
「話が脱線してしまいました。それで結論から申し上げますと、やはり私は西宮さんがLETに関わることは反対です・・・」
「ーーっ!やっぱり・・・そうです、よね・・・」
絶望感からか眩暈がした。
「ですので、その為の進路相談にのろうと思います!LETが霞むような魅力的な普通の進路を、私が西宮さんにプレゼンいたします!」
「えっ・・・?」
「まぁ、その中でLETがいかに非魅力的かをお話しせざるを得ないこともあるでしょう・・・。あぁ!図らずも説明会の内容もお話しせねばならないなー!」
ずっと胸に握っていたパイの温度はもう感じられなくなっていた。けれど悪戯ぽく笑う美剣と、面映ゆそうな漁火の表情で、愛夢の胸と指先は熱くなる。
「じゃあ!私、説明会を受けられるんですか!?」
「はい、再びよろしくお願いします」
「・・・っ!ありがとうございます!!」
愛夢は持てる瞬発力の全てで最速で深くお辞儀をする。安堵と嬉しさで口元が緩んだ。今日、三度目のその笑顔は下を向いた為に誰にも見られることはなかった。
食事を終え、今度こそ帰りの途につく。地下鉄を使うほうが早く帰ることができるので、車での送迎を断った愛夢であったが、二人に夜道は危ないからと強く言われ逆に断られてしまう。
漁火の運転する車は行き急ぐ夜の街でも変わることなく安全に道路を走行する。愛夢は並走する車とさまざまな色に彩られた夜の街を眺めていた。
心の持ちようが変わるだけで普段は何でもないと思っていたもの全てが違って見え、その美しさに少しだけ心が躍る。
「進路相談の日程のことですが、今日のような妨害が二度とないように西宮さんに直接ご連絡をさせてもらいたいのですが・・・。如何でしょうか?」
「はい、あのっ・・・私、実は」
愛夢はスマホを持っていないため連絡手段がないことを漁火に伝えようとした。だがそれは二人の流れるような会話の前にして飲み込まれる。
「放課後、この組み合わせで外で二人っきりってのは今の時代ヤバい。説明会するなら学校の空き教室とかでやらせてもらえー。教頭先生に諸々頼めばいいから!」
「進路相談ですよ。まぁ色々聞かれたくない内容の話ではありますから、学校という場所を提供してもらえるのは助かります」
「あの勘違いおぼっちゃま、あんなもんじゃヘコたれねぇだろうなぁ・・・。一応、邪魔が入らないようにウチの小うるさいヤツにお説教と釘刺ししてもらうように頼んどくか」
「そのように言っていたとご本人にお伝えしておきます」
「オレ、溝呂木のことなんて一言も言ってないけど?」
「私も溝呂木さんのことだなんて一言も言ってませんけど?」
沈黙という名の戦いのゴングが鳴った。愛夢はただ黙ってそれを見守るしかできない。
「なぁ?お前らは今から連絡先交換すんだよな?それってお前だけなの?オレはいつまで西宮愛夢と接触禁止なわけ?」
「その仰りよう・・・。まさか美剣さんも西宮さんの連絡先を知ろうとしているのですか?なぜ彼女の連絡先が必要なのでしょうか?」
「オレにだけ連絡したいことあるかもしれないだろ?」
「ある訳がないです!絶対にダメです!」
「オレの名刺渡せてないのに・・・!」
「連絡先の交換はおろか、SNSならびにゲームアプリなどでのメッセージの交換も禁止します!」
「厳しいんだよ!小姑かよ!?」
「あのっ!すみません・・・。私、スマホを持ってないんです」
「はぁっ!?」
「えっ!?」
学校から貸し出しされるスマホとタブレットは使ったことがあった。突然に起こる学級閉鎖や授業変更、配信授業などに対応するためだ。生徒間の経済的格差が明るみにならないようにするための措置であったが、愛夢にはそれがとてもありがたかった。
だがこのスマホは学校外との連絡及び、外への持ち出しが禁止されていた。
「お前マジで絶滅危惧種みたいなヤツだな!誰かと連絡とりたいときはどうしてんだ?」
「西宮さん今日、一度もスマホを触った姿を見ないと思っていたら・・・。ひとまずは進路相談の連絡は学校の電話で西宮さんと連絡するということにします。ご不便でしたらLETから端末を貸与いたしますが?」
「いいえ、不便はありません。今のところ誰かと連絡はとることはありませんし、とりたくないんです」
スマホがないことで不便を感じるのは連絡したい相手がいる人間だけだ。同級生は教師に携帯を取り上げられただけで発狂するのではないかと思えるほどに落ち着きをなくしていた。
それはもう依存のようだった。おそらくはスマホがないと周りから取り残され疎外されるかもしれないという不安がそうさせるのであろう。
友人のいない愛夢には縁のない話であった。
養母と連絡を取らざるを得ないときは共通の知人を介している。何度もスマホを購入するように説得されたがそれは頑なに断った。きっと優しい養母は愛夢を心配して毎日のように連絡をしてくることがわかっていたから。愛夢もその優しい養母の声を聞くときっと彼女に会いたくなって甘えてしまいそうになるだろう。そんな図々しい自分が許せずに意地をはって、突き放すようにして彼女の側を離れ今日まできた。
養母は愛夢が持たないならばと自身のスマホを解約した。意地っ張りの愛夢を育てた優しい養母も、どこか意地っ張りで共通の知人を板挟みにしている状態なのだ。
半月に一度、必ずその共通の知人と相見し、そこで安否確認と近況を報告するという条件でこの無茶は通されている。普段、愛夢はGPSを持たされ、それに搭載されているトーク機能を用いその知人と連絡をとっていた。想見のついでにバイトを紹介してもらっていたが、その現場を同級生に見られパパ活の噂を流されたのだ。
この三人の奇妙な関係はその知人が養母を恋い慕うことで成り立っていた。美しく優しい養母に邪な思いを向けているだけではなく、愛夢を使って彼女に取り入ろうとしているその知人が愛夢は好きではなかった。だがその男との関係は卒業と同時に終わる。
寮の前に着いたのは約束した時刻の10分前だった。
「何でも相談したいことがあったらいつでも呼んでくれていいからな〜?」
「美剣さんではなく私を呼んでください!」
たった今、気分は好きではない人間のことを考えてしまったことで暗く沈んでしまっていた。だが今日、出会い半日を共に過ごしただけで大好きになってしまった二人の声がその最悪な気分を晴らしてくれる。
「はい!」
シートベルトを外すと、外で漁火が後部座席のドアを開けて愛夢を見送ってくれる。
「それでは後日、必ず私の方から連絡いたします」
「お手数をおかけしますがどうかよろしくお願いします」
お互いに深々と頭を下げて別れの挨拶を済ます。
「西宮愛夢!」
助手席から美剣が愛夢を呼ぶ。開いたままの後部座席ドアから外に出ようとしていた愛夢は振り返る。
「しんどい時は学校なんか行かんでいい!休めよ?」
そう言う美剣の顔は笑ってはいるが、心配の色が隠せていなかった。
「ありがとうございます、美剣さん・・・」
鉄塔での美剣がしてくれた約束。教頭に頼み愛夢が学校へ行かなくてもよくしてくれるというもの。
だが愛夢は明日も学校へ行く。少しでも多くの情報を、知識を、高校で得られるもの全てをものにして二人の為に役立てる。目的があるから力が湧いてくる。あと半年耐えれば済む話だと自分を奮い立たせた。
二人の乗った車を最後まで見送りたかったが、門限がある為に仕方なく二人に別れを告げ寮の中へと入った。
いつもと変わらない、食事をする為、寝る為だけに帰る、大嫌いな場所は愛夢の心を今朝までの愛夢に戻そうとしてくる。朝起きると全部が夢で何も変わっていないのではと不安が襲う。
一歩踏み出す。ポケットの中にある食べ損ねたパイの質量が、今日のことは現実だと励ましてくれた気がした。
いつもなら入念に周囲の警戒を怠らない愛夢であったが、今日は浮き足だってしまった。そのため寮の二階の窓から愛夢たちの様子を見ている同級生がいたことに気付けなかった。
次の日、学校は新しい愛夢の噂で持ちきりになった。
西宮愛夢が、ヤクザの愛人になった。という噂が。
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