第三十一話 魔術オタクは狙われる

昔読んだことがある本に、地獄の門について書いてあった。その本いわく、地獄の門には『この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ』との銘文が刻まれているという。


――だとすれば、今の私にとっての地獄とは、この<学院>のことを指すのだろうな。


師の後ろに続きながら学院への門をくぐった私は、心の中でそう呟く。若年の頃を過ごした懐かしいはずの学び舎は、その偉容をもって私を押し潰さんばかりに聳え立ち、学院を囲む壁は高く高く張り巡らされ、「お前はここから逃げられない」と私に語りかけてくるようだ。



私の名など、ここで述べても大した意味はない。どのみち、破滅がすぐそこまで迫っているのだ。私がこれから行う愚行とともに、速やかに私を知る人々の脳裏から、私の名が消え去ってくれることを願うばかりである。


学院に立ち入ることを許されていることから分かるように、私は魔法使いだ。幼い時分、当時西方に知らぬ者無しと謳われていた大魔法使いモルデカイの教えを受けるという幸運に恵まれ、学院を卒業して一端いっぱしの魔法使いとなることが出来た。兄弟弟子や学院での同期と比べて特に優れているという訳では無かったが、それでも修行を続け第二階梯に登った時は、これでようやく「私は魔法使いだ」と胸を張って言えると、大変に嬉しかったものだ。


残念ながら、一流の魔法使いと称される第三階梯には遂に手が届かなかった。惜しい所までは行ったのだが。私は独り立ちせず師のもとに残り、師の代わりに若人に魔法を教えたり、師に持ち込まれる種々の頼まれごとを代わりに引き受けたりする、助手兼秘書のような立場になっていた。


やがて結婚をし、娘も授かり、気がつけば三十路をとうに過ぎた年齢となった。若い頃の情熱や野心はすっかり遠いものとなり、この先も代わり映えのせぬ穏やかな日々が続くのだろう。私はそう愚かにも信じ、疑っていなかった。そんなある日の事、師がさる大貴族より招聘を受け、私もそれに同行してその貴族領へ赴く事になる。そこが、私にとっての死地となるとも知らずに。



師はこの国有数の大貴族にその御曹司専属の教師として迎えられ、助手の私までが下にも置かれぬ扱いを受けた。家族揃って住む家すら与えられ、私は喜び勇んで妻子を呼び寄せ、一緒に住み始めた。そうして年が明けた頃、私は師から呼び出され、そこで告げられたのだ。


「久々に、学院に顔を出そうと思ってな。お前にも供をしてもらいたい」


師が専属教師として魔法を教えていた御曹司は、この度見事学院の試験に合格し、学生として学び始めていた。師は教師の役目を終えた後も相談役として召し抱えられていたが、このところ無聊をかこっていたのも事実。それ故、気分転換に学院行きを思いつかれたのだろうか。


いや、そうではあるまい。現在我々魔法使いは、魔法の世界に於いて何か重大な変化が起きているのではないかと感じている。その根底にあるのは、「世界が自分を置き去りにして先へ進んでいるのではないか」とでもいうような、漠然とした焦燥感だ。


しかし言葉にしづらい感覚的なものだからこそ、理屈と違って我々の心底に届き、「このままでいいのか」という不安を一層募らせる。そして間違いなくその変化の中心に存在しているのが、かの名家アルカライ家であり、また学院という場所なのだ。


アルカライ家の先代当主エステル殿が、先日遂に第七階梯に登られたという知らせは、衝撃などという表現では済まされない威力を以て、我々の身を震わせた。第七階梯、あまりに現実味の無い話だ。この国はおろか、近隣諸国の歴史を遡っても聞いたことがない、まさに前人未到の領域。最初にその知らせを聞いた際に師が何度も何度も聞き返し、遂には放心したまま、その場で<金縛りホールド>の呪文にかかったかの様に固まってしまった程だ。


そして今年学院に入学したエステル殿の孫が、これまた信じられないような成績を修めていると聞く。まだ学院に入学して一ヶ月と少々のはずなのだが、既に習得した呪文は十に届いているというのだ。自分の学生時代を振り返ってみれば、私は結局卒業までに十個目の呪文を覚えることが出来なかった。そこに入学直後の僅かな期間で到達するなど、尋常とは思えない。


更に言えば、エステル殿の孫は僅か七歳。未だ幼子おさなごと呼べるような年齢で、史上最高得点で学院の入試を突破し、史上最速の歩みで呪文を修めている。もはや異常などという言葉では、到底表現するに足りないだろう。


間違いなく、アルカライ家は魔法の深奥に迫る秘密の一端を手にしている。いや、そう思わなければ我々の心が持たない。僅かな手がかりでもいい、その秘密に近づくことが出来たら。私は師がその様に考え学院行きを決めたのだと理解し、微笑んでこう答えた。


「大変よろしいことかと存じます。是非お供させてください」




師の元を辞した私は、妻子の待つ家へと帰った。学院行きがどれほどの期間になるか分からない。留守をお願いする妻には迷惑をかけるな、とか、娘には土産の約束をしてご機嫌を取らねばな、とか、そんな事を考えていたからだろう。扉を開けて自宅へ踏み入った際、異常に気づくのに一拍も二拍も遅れてしまったのは。


「お帰りなさい」と私を迎える妻の言葉がない。帰りを待ちわび、駆け寄ってくる幼い娘の姿がない。それどころか我が家の団欒の象徴であるテーブルに、仮面で顔を隠した不審な人物が腰掛けているではないか。


「何者だ!」


私は反射的に叫ぶと、呪文の<シジル>を結ぶため腕を突き出した。その瞬間、扉の両脇に潜んでいた男達が左右から私に飛びかかり、腕を捉えて床に押し倒す。しまった!腕を取られては口が利けても<印>を結ぶことが出来ず、呪文が使えん。如何な魔法使いであろうと、この状況では一般人と何も変わらない。


「安心したまえ。別段怪しい者ではない」


怪しさしかない人物は若い男の声でそう言うと、テーブルから立ち上がった。一切飾りのない、濃い藍色の上着ジャケット脚絆ズボン。同じく濃紺のマントを纏い、黒い仮面は覗き穴だけが細く空いた、顔全体を覆うもの。どう考えても真っ当な人物の出で立ちではない。


しかしその言葉通り、この人物は本来怪しさとは無縁の身分であることは窺えた。その口調も、椅子から立ち上がった所作も、市井の者には到底身に着けられない洗練されたものだ。その様な人物が斯様な格好で、人気のない我が家に押し入って私を捕らえている。想像以上に、今の私の状況は危うい。


「妻と娘をどうした!」


「心配無用だ。別の場所で安全に過ごしてもらっている。君が我々の依頼を引き受けてくれれば、無事にこの家へ返そうではないか」


「断れば、無事には済まないということか。その言葉に、何の保証がある?」


「疑ってみたところで、このままでは一生妻と娘には会えんぞ?話を聞くが得策と思うがな」


私は奥歯を砕かんばかりに噛み締め、罵声を撒き散らしたいという衝動を必死に抑える。先ずは妻と娘の安否を確かめねば、何も始まらない。


「……私に何をさせたいのだ」


「君は一両日中に師に随行し、学院へと赴くはずだ。そこで学生を一人、亡き者にしてもらいたい」


「正気か!?」


「正気だ」


若い男の言葉とは裏腹に、私はその短い返答に狂気の匂いを嗅ぎ取った。それはやろうとしている事がどの様な事か理解していながら、それでもやらねばならないと断ずる、「信念」という名の狂気。


学院は何よりも独立と自治、政治的な中立性を尊んでいる。そんな学院で暗殺騒ぎなどを起こそうものなら、実行犯は即死罪。背後関係をつぶさに調べ上げられ、黒幕が居た場合その報復は想像を絶して厳しいものになろう。王家ですら、そんな愚行を犯せば王城が灰燼に帰す。学院の面子を潰すことは、すべての魔法使いを敵に回すことだからだ。


だがこの男、もしくは彼が仕える者は、その危険を理解しながら不可侵の学院を侵そうとしている。私は半ば諦めに近い気持ちであったが、それでも説得の言葉を口にせずにはいられなかった。


「この様な企てが明るみに出たら、事は貴殿の命一つでは治まらないぞ。当主の首すら飛び、貴家は取り潰されて後世まで汚名を残そう。そうまでして、この様な後ろ暗い暗殺を行わねばならないのか?」


私はこの時点で、既にこの男がどんな素性の人間なのかを察していた。師が私に学院行きを告げたのは、つい先刻の話だ。それを知ることが出来る立場の人間は、限られている。そして漸く、彼らがこの家に無理やり押し入った形跡が無い事に納得した。この家は、彼らが私に用意したものだったからだ。


若い男はふ、と仮面の奥で自嘲的に笑った。まるで私が言うことなど、最初から予想していると言わんばかりに。


「それでも、やらねばならないのだよ。君は縛られて大鍋に放り込まれ、少しずつ薪を足されて時間を掛けて煮殺されるのと、剣を持って果たし合いの末に討ち果たされるのと、どちらを選ぶ?どちらかしか選べないであれば、僅かなりとも抗うすべがある方を選ぶのではないかな?」


嫌な予感は的中した。この男は、生半な覚悟でこの馬鹿げた陰謀に手を染めていない。どんな犠牲を払おうとも、「敵」に一太刀浴びせるつもりで事に当たっているのだ。それに巻き込まれる方は、たまったものではないのだが。


「立たせてくれ。大丈夫だ、抵抗などしない」


「……いいだろう。だが、手を放してやるわけにはいかんよ」


私の態度が変わったことを察してか、若い男は私を押さえつけている男達に向かって頷いた。男達は両脇を抱えるようにして私を立たせ、私は仮面の男をしっかりと見つめながら答えを返す。


「妻と娘に会わせてくれ。二人の無事をこの目で確認出来たら、詳しい話を聞こう」




その後、私は目隠しをされて馬車に乗せられ、見知らぬ館の一角で妻と娘に再会することが出来た。不安な様子を隠せない妻と、家に帰りたいと泣く娘をどうにかなだめ、しばらく我慢すれば元の生活に戻れると説得した。


二人は到底信じられない様子だったが、私の言う通り待つしかないと理解してくれた。「無事に帰ってきてくださいね」という妻の言葉に、普段通りに笑えたのは我ながら大したものだったと思う。


妻子が軟禁されている部屋から出ると、私は別室に通されて再び仮面の男と相対した。彼はテーブルの向かいに座り私にワインを勧めてきたが、全くそんな気にならないので無視して問いを発する。


「馴れ合う気はない。詳細について話してほしい」


男は無言で肩を竦めると、自分もワインには手を付けず語り出した。


「学院行きには、君の兄弟弟子も何人か参加するはずだ。移動手段や途中の宿泊などは全て手配するので、心配しなくていい。随行する人員が増えれば学院の負担も増え、逗留客への監視も甘くなるだろう。そこをうまく突いて、事を成し遂げてもらいたい」


「簡単に言ってくれる。それで結局、誰に亡き者になってもらいたいのだ?」


「……王室魔法顧問、アルカライ子爵家が嫡子、サキ・アドニ・アルカライ」


「馬鹿野郎!!」


私はほとんど我を忘れて、椅子から立ち上がり叫んでいた。学院で騒ぎを起こすことだけでも信じがたい愚行なのに、よりによってあのアルカライ家の跡取りを害するだと?ドラゴンの尾を踏むのと同程度、いやそれよりも救い難い行いだ。


「そんな事をしてみろ、私もお前達も本当に破滅だぞ。最悪戦争になって、私の縁者も、お前達の都市も領民も炎の中で息絶える。誰も抗うことは出来ん。そう、私の師であっても……」


ああそうだ、私の師匠。家族のことで頭が一杯で忘れていたが、このままでは師にも累が及ぶ。もう何時引退されてもおかしくないお年だというのに、その晩年を私のせいで汚してしまうことになるなんて……。


「確かに、そんな結末はこちらも望んでいない。それを回避するための策も講じてある。要は政治的な暗闘であるから問題が大きくなるのであって、もっと個人的な、情状酌量の余地のあるものにしてしまえば良いのだよ」


政治的な暗闘以外の何だと言うのだ、と私は思ったが口にはしなかった。もはやこの狂人には、何を言っても響くまい。一つ頷くだけで、先を促す。


「子爵家の跡取りは学院に来る際に、他家の伝令と揉め事を起こしている。これは学院都市の門衛をはじめ、多くの者が目撃した事実だ。その際、伝令の騎士は自身と主家を悪しざまに罵られた上で、地に頭を擦り付けて詫びさせられるという恥辱を受けている」


その様な事があったのか。伝え聞く、アルカライ卿の嫡男の人物像とはかなり違っているようだが……。


「騎士はこの事を主家に報告できず、思い詰めた挙げ句自害を選んでしまった。その際、かねてより親交のあった魔法使いに己の受けた仕打ちと無念を記した遺書を残していたのさ。それを読んだ君は義憤に駆られ、事の真相を明らかにし友人の汚名を雪ぐため、子爵家の跡取りに決闘を挑む、という筋書きだ」


私は頭を抱え、テーブルに突っ伏した。話に粗が多すぎる。確かに学院では一切の私闘が禁じられているため、決闘を行うためには誰にも止められない場所でやる必要がある。例えそれが闇討ちに等しいものだったとしても、生き残った者が決闘と言い張れば真偽は不明だろう。相当無理矢理な主張ではあるが。


「それで、私の親友だったという騎士は如何なる人物なのだ?そこがぼやけていると、事後に取調べを受けた際にあっという間に襤褸が出るぞ」


「君の知らない人物ではない。騎士バウマンだよ」


バウマン殿だと!?確かに知っている。彼は師が教えていた御曹司の近習で、その関係で何度か会って話をする機会があった。結構な話好きで、気のいい騎士だったと記憶しているが……まさか!?


「貴様、もしやバウマン殿をも……」


「君が気にする必要はない。それに彼はくだんの揉め事以外にも色々あって、放逐寸前だったのだよ。主人からの慈悲として最後に毒杯を賜ったのは、むしろ彼の名誉を保つことになったのではないかな?」


私は怒りに震えながら、それでも次々に湧いてくる非難の言葉を必死に飲み下して、思考を巡らす。こいつらはこんな下衆な陰謀を巡らせるだけのために、仕えていた家臣に詰め腹を切らせるような連中だ。この話を断れば、私や私の家族、師や兄弟弟子までどの様な憂き目に遭うか分かったものではない。


「これ以外にも、幾つも策は用意してある。我々は一心同体なのだ、出来うる限り被害は小さくするための努力は惜しまない。君の家族が罪に問われることは無いと思ってくれ。それで、最終的な返事はまだ聞いていなかったな?我々の頼みを引き受けてくれるかね?」


男の仮面の奥の目が、常軌を逸した光を放って私を見つめている。何が一心同体だ。私とこいつらの利害が一致するのは、暗殺の実行まで。それさえ成してしまえば、連中は私の妻子や師匠、同門など簡単に切り捨てるだろう。


そして私は、アルカライ子爵家の跡取りを害したとして潔く自首せねばならない。そうせねばこれは決闘であるという主張が崩れ、多くの者にその責めが及ぶことになる。そして私は、そのまま死罪に処されることになるだろう。つまり、決行した時点で私に出来ることは何もなくなる。八方塞がりとはこの事か。


しかし……それでも!それでもだ。目を閉じて悩み苦しむ私の脳裏に浮かぶ、妻と娘の顔。二人の命が助かる可能性が、僅かでもあるならば。


この様な下らぬはかりごとで命を落とすサキ殿には、詫びようにも詫び切れない。大事な跡取りを失うアルカライ卿やエステル殿の無念は、如何ばかりか。救いようのない大罪と分かっていても、それでも、私には妻と娘の命を救うしか道が無い。


「……引き受けよう」


私は地獄の案内人に、私自身の意志で地獄堕ちする覚悟を伝えた。




そうして今、私は学院の迎賓館に逗留している。学院には本より魔法使いしか入れない(例外は入学試験の受験生だけだ)が、卒業してから再度学院を訪れた際は、学生寮とは反対側にある迎賓館に逗留する事を求められる。一つは学生達の勉学を妨げないため、もう一つは自由に行動させないため。


我々市井の魔法使いは学院の卒業生であり、また卒業後も誓いを守り合う同士であるが、それはそれとして秘すべき機密は多くあるということなのだろう。私だって許されるのであれば、最高位の魔法使いにしか知ることの出来ない魔法の知識に触れてみたいという思いはある。


「それにしても実に久しぶりですな、モルデカイ殿。最後にお会いしたのは、二十年も前でしたかな?」


「本当に久しぶりじゃ、アザド殿。貴公が軍を辞して教職に就いたと聞いて、正直耳を疑ったものですぞ。”鬼の師団長”と恐れられていた貴公が、よもや学院の教授とは」


現在私は師や同門の者と共に、迎賓館の応接室にて学院代表者の挨拶を受けている。応対していただいたのは、学院の主任教授であられるアハブ・アザド殿。我が師と並ぶ第四階梯の魔法の使い手で、アルカライ派閥にその名も高き、エステル殿の高弟である。


アザド殿は昨年まで、王国最強と言われる魔法師団の師団長を務められていた。三十年前の王国統一戦争ではエステル殿と並んで参戦し、”魔女ザ・ウィッチ”の伝説を間近で目撃された、叩き上げの軍人だ。正直、学院で教鞭を振るう姿がこれほど似つかわしくない方もいないだろう。


「もう儂もよい年ですからな。最後のご奉公と思い、学院に骨を埋めるつもりで引き受けました。それに引き換えモルデカイ殿は、何時までも壮健なご様子で羨ましい限りですな」


「いやいや、儂もいつお迎えが来るか分かったものではないですからな。学院を訪れるのもこれが最後の機会かと思い、老骨に鞭打って参った次第。それでやはり、アルカライの俊英には面会すること叶いませんかの?」


「それがですな、あまりにもサキとルリアに会って話がしたいと望まれる方が多く、学院としても困り果てている有り様でしてな。こちらで選ぼうにも角が立ちますし、かと言って全員の面会を許せば、学院がまともに運営できないほどでして。サキ達が勉学に励む時間も無くなりそうですので、誠に申し訳ないのですが全てお断りしておる次第でして」


「左様ですか、誠に残念。それにしても、昨今のアルカライ家の躍進ぶりは目を見張るものがありますな。エステル殿の第七階梯到達に加えて、お孫さん達まで信じられない様な才能を見せておられる。御子息のアルカライ卿は宮廷で重きをなされ、もはや全ての魔法使いが『斯く在りたい』と羨望しておりましょうぞ」


「モルデカイ翁こそ、同伴のお歴々をはじめ立派な弟子を多数育てておられるではないですか。教職に携わる者として、手本とせねばと常々感心しておりますよ」


「いやいや」


「いやいや」


師匠と教授の遣り取りを兄弟弟子達は少々呆れ顔で見守っていたが、私は集中して話を聞いていた。どんな些細な情報が、これから行うことに有利に働くか分かったものではないのだ。アルカライの跡取りに直接会うことが出来ないことは分かっていたが、どの道多人数で会いに行っては仕掛けることなど出来ない。ここは機会を待つしか無いだろう。


幸い、師は数日間は学院に逗留する意向だ。多くの教授と会談し、出来うる限りの情報収集をするに違いない。それはまた、私にとっても好都合である。人間というものは見慣れない者が視界に入ると警戒するが、何度も見たことがある者はそのうち気にも留めなくなるものだ。私を迎賓館の外で見かけることがあっても、即座に誰何すいかされる危険は小さくなる。


夕食はアザド教授ともう一人、ザマ教授も加えての会食となり、我々は迎賓館の食堂で様々な話を交わした。ザマ教授は私の学院での一年後輩にあたるのだが、当時からその優秀さと、魔法にしか興味がないその人柄が広く知れ渡っていたので、教授になっていたのは不思議でも何でもなかった。


「僕がサキ君やルリアさんに教えている?先輩、そんな事は恥ずかしくてとても言えませんよ。確かに新しい呪文を覚える時には、どんな呪文なのか、どの様に発動するのか説明しますけどね。それで僕が『やってみて?』と言うと、彼等は直ぐに出来てしまうんです。教本だけしか無くとも、彼等に不都合は無いんじゃないかなあ」


ザマ教授は彼の昔からの癖である、頭を掻きながらの台詞で私にそう教えてくれた。成程、エステル殿の孫と又姪は噂通り、いや噂以上の天才のようだ。聞けばこれまで殆どの呪文を、初回で発動することに成功しているという。聞きしに勝るとはこの事か、と感心を通り越して呆れさえする。


同時に、それ程までに優れた学生の未来をこの手で閉ざしてしまうことに、強烈な罪悪感が沸き起こる。自分がこれから行うことは若い生命を摘み取り、多くの者を悲嘆に嘆かせるだけでなく、この国の魔法の未来すら奪う行為ではないのか?人として最低な行為であることは勿論だが、魔法使いとしても最も唾棄すべき存在、<背信者アポステイト>以上の裏切り者ではないのか。そんな思いに囚われてしまったのだ。


教授達との会話は実に刺激に富み、食事も酒も普段味わえないような豪華な内容だったが、私の胸の内は苦いもので一杯だった。




夕食後、私は何となしに迎賓館の扉を開け、その玄関口に佇む。まだ春が遠いこの冬の時期、既に陽は落ち学院内部は薄闇に包まれている。そのまま少しばかり寒いのを我慢して立っていると、学院の扉が開いて出て来た人影が、ちょっと逡巡する様子を見せながらこちらへ歩いて来た。


「失礼いたします。この様な時刻に外へ出られているとは、何かお困りな事でもありましたか?」


声を掛けてきたのは、未だ年若い少年だ。かなり小柄だが、言葉遣いはしっかりしていてそんなに幼くはないのではないだろうか。学生なのは間違いないが、今年入学したばかりの新入生かも知れない。


「いや、あそこで自分が学んでいた頃が懐かしくてね。眺めているうちに、気づいたら日が暮れてしまったようだ」


「そうでしたか。あまり遅い時間に建物の外へ出ていると、守衛に見咎められますからお気をつけて。では、失礼いたします」


少年はそう言って踵を返すと、学生寮の方に向けて立ち去っていく。私はその背中が夜闇に消えるまで見送ると、迎賓館の扉を開けて与えられた客室に戻った。そのまま寝台に横たわり、暫し待つ。


「月に吠えるものは?」


横になって半刻もした頃、頭の中に先ほど迎賓館の玄関で会った少年の声が響いた。私は<印>を結んで「<伝言センディング>」と唱えると、定められた合言葉を返す。


「海原を泳ぐ竜」


「標的について現在調査中です。後ほど、こちらから連絡します」


至極簡単な返答が再度頭の中に響き、私は寝台から身を起こしてかぶりを振った。これが、仮面の男が言っていた策の一つ。現地での協力者だ。事前に息がかかった者を学生として送り込んでいるあたり、流石はこの国有数の大貴族、とその手の長さを褒めるべきだろうか。


同時に、やはり仮面の男とその背後の者達には、私単独では抗い難いという事実が重く伸し掛かってくる。巨人同士の争いに巻き込まれてしまった、我が身の不運を嘆くべきなのか。それとも、これまでの日々の中でこの結末を避けるための横道が、何処かに隠されていたのだろうか。


考えても仕方がない。既に事態は抜き差しならぬ状況まで進んでいる。この学院にもあの仮面の男の目が届いている限り、怪しい素振りを私が見せれば即座に妻と娘の生命は失われるだろう。私はもうそれ以上思い悩むのを止め、目を閉じて再び寝台に身を投げだした。



「標的が夕食前の時間に、金竜館と紅竜館の間を一人で移動します。巡視の目無し」


協力者から急を告げる連絡が飛び込んで来たのは、学院に逗留して四日目の午後だった。これまで目標の人物は常に複数人と行動を共にし、単独になる時間が無かった。もしかせずとも、私が師とともに学院へ留まっていられる間に、こんな機会は二度と訪れないかも知れない。


夕食まで、もうさほど時間がない。私は何食わぬ顔で迎賓館の扉から出ると、人目につきづらい経路を辿って学生寮の方へと足を向ける。もう二十年近く昔になるが、私だってこの場所で三年暮らしていたのだ。勝手知ったるとはこの事だ。


やがて学生寮にかなり近づいた頃合いで、建物と木立の間に身を隠しながら、素早く二回<印>を結んで呪文を発動する。


「<透明化インビジビリティ>」


第二階梯のこの呪文は術者の姿を透明にし、まるで何も無いかのように見せる事が出来る。透明になっている間に他の呪文を唱えたり、他人に襲いかかったりすると術が解けてしまうのだが、不意打ちを行うにはこれ以上無い呪文だ。私はそのままゆっくりと進み、やがて二つの学生寮を見渡せる場所まで歩を進める。


夕闇が迫り、赤く染まった空の下、双子のようにそっくりな学生寮が間を隔てて立ち並んでいる。その片方、金竜館で過ごした若年の日々を思い出し、思わず涙が零れそうになる。自らの前途に希望しか持っていなかったあの頃の私が、今こうして誰からも後ろ指を指される行いをしようとしている二十年後の私を見たら、どれほどの絶望に襲われるだろうか。


そして金竜館の扉が開き、そこから一人の少年が出て来た。上等な仕立てのローブに、金の髪と緑の眼。ローブの胸元には、「交差する杖と梟」の紋章がある。間違いなく、標的たるアルカライ子爵家の嫡男、サキ・アドニ・アルカライだろう。


非常に整った容貌だが、まだ可愛らしいと表現したくなる幼さだ。確か、数えで七歳だったか?私の娘と、さして変わらない年頃だ。そんな幼気いたいけな子供を、これから手に掛けるのか。益々以て、自分の行いが大罪に値するとの思いを強くする。


本当に済まない。だが、我が最愛の妻と娘よ。私を度し難い罪人と罵ってもいい、どうかこの先も生命長らえてくれ……。


私は腕を突き出し、呪文を詠唱する構えを取った。だが違和感を感じ、その手を下げる。おかしい、何故あの少年は道の途中で立ち止まっている?いや、それどころか顔がこちらを向いていないか?<透明化>の呪文は解けていないはずだぞ!?何故?何故?


混乱し、疑問で頭を一杯にする私に構わず、少年は明らかにこちらへ向かって歩き出していた。そしてあと十歩といった距離で足を止めると、首を傾げながら問いを発する。


「あの、どうしてこんな所で隠れているのですか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る