第二十九話 魔術オタクは叱られてしまう
夜。王都の下町の中でも貴族街にほど近い、商業地域の外縁部。貴族街をぐるりと囲んで下町と隔てている、内壁沿いの通りを走る馬車があった。夜半も過ぎようかというこの時間には珍しいが、自覚があるのか御者も努めて掛け声を上げたりせず、至って控えめに馬を走らせている。
その馬車に装飾の類いは一切無く、そればかりか車体も車輪も濃い藍色の塗料で塗り上げられ、灯りの乏しい下町では夜闇に溶け込むように見えた。更に言えば牽く馬は鼻先から蹄に至るまで見事な青鹿毛で、御者も濃紺の外套で身を包んでいるという念の入れ様だ。この馬車を用立てた人間の、「絶対に目立ちたくない」という強い意志が感じられる。
内壁には数カ所貴族街と下町を繋ぐ門が存在しているが、その門と門の中間地点、一番人目につかない辺りで馬車は静かに停車した。音も無く扉が開き、御者と同様の濃紺の外套を着込んで、深くフードを下ろした人物が馬車から降りる。
何の会話も無く馬車は再び走り出し、降りた人物も無言で近くの建物へ歩き出した。途中、王都上空を覆っていた厚い雲に切れ間が生まれ、半月が顔を覗かせる。何処かの子爵家子息が見たら「上弦の月」と呟いたであろうその月を見上げ、その人物は小さく舌打ちをした。
本来ならば、集まるのは月の無い晩と決まっていたのだ。だが、ここのところ思ってもいない事態が次々と起こり、不本意ながら前回の会合から僅か一週間で、再び集まることになってしまった。
こんな夜更けに、月明かりの下で路地に佇んでいても良いことは何も無い。フードの人物は取り出した鍵で扉を開けると、建物の中へ静かに身を滑り込ませた。完全な暗闇である室内を迷わず奥へ進み、壁に手を当てると手探りで窪みを見つけ、指を掛けてスライドさせる。真っ暗な中で壁の隠し扉が開き、なお暗い通路の入口が現れた。
フードの人物はその中へ踏み入ると、後ろ手で背後の戸を閉めてから歩き出した。通路は闇の中幾度も折れ曲がり、それを手探りで確認しながら通り抜けた先で、扉のある行き止まりへと辿り着く。
建物内に入ってからは常に真っ暗闇の中だったが、目前にある扉の隙間からは微かに明かりが漏れ出ていた。謎の人物は、扉の向こうの気配を伺うかのようにしばらくその場で息を潜めた後、懐から何かを取り出した。仮面だ。顔全体を覆うように作られたその仮面は、何か爬虫類めいた面相に二本の角を備えている。
フードの影に隠れたままの顔にその面を装着すると、仮面の人物は扉をノックした。最初に三度、少し置いて一度、最後に二度。そしてそのまま
そこは薄暗い光に照らされた、正方形の部屋だった。中央に円形のテーブルが置かれ、その上に唯一の光源であるランプが灯されている。明かりは覆いで光量を絞られており、テーブルの上だけをどうにかまともに見られる明るさに保っていた。
テーブルには四つの椅子が、部屋の四つの壁をそれぞれ背にする形で置かれ、内三つには既に先客が腰を下ろしていた。皆一様にフード付きの外套やローブを身に纏い、顔には仮面を付けている。
彼等の背後にはそれぞれ扉があり、それは最後に入室した人物同様、彼等もその背後の扉を開いてこの部屋に入ってきたことを示唆していた。事実、彼等は四人全員が別々の建物から、別々の通路を通ってこの部屋に辿り着いている。
「遅かったな竜。まずは座れ」
最後に入室した人物から見て右手、獅子のような仮面を付けた人物が声を発した。落ち着いた壮年の男の声だ。竜と呼ばれた人物は、唯一空いている目の前の席に座りながら発言した。
「遅参は詫びよう。急な召集だったので、都合をつけるのに時間がかかったのだ。許せ」
獅子の仮面の男に比べれば、まだ若く聞こえる男の声だった。それでもその落ち着いた口振りは、竜の仮面の下に隠された顔には若さに見合わぬ貫禄があるに違いないと思わせる。
「丸っきり悪いと思っておらん口調だの。獅子よ、良いから始めようではないか」
竜と呼ばれた男から見て左手に座る人物が、低い男性の声で少々不機嫌そうに提案する。この人物もまた仮面を付けていたが、細く長い面の額部分から長く鋭い角が突き出している、少々変わった仮面だった。
「そうだな、時間を無駄にしてはならん。今日集まって貰ったのは、例のアルカライ家についてまた新しい情報が入ってきたからだ」
この集まりでは、「獅子」が進行役なのだろう。彼が召集の理由について口にすると、「竜」がすかさず口を挟んだ。
「学院に入った次期当主と分家の娘が、もう卒業資格を得たという話か?確か、一週間で新しく四つの呪文を覚え、今は八つ使えるとか」
その発言に、角のある仮面の人物は意表を突かれたように身構えるが、「獅子」にも、まだ発言のない残り一人の人物にも動揺した様子が無いのを見て取ると、憮然とした仕草で腕を組んだ。
「フフフ。一角獣の耳には入っていなかったと見える。既に学院では、知らぬ者の無い事実だぞ」
「竜」の揶揄するような声に、「一角獣」は腕を組んだまま仮面に隠された顔を背けた。
「黙らっしゃい。儂が急いでこの会合に出立したので、届くはずの報せが入れ違いになったのであろうよ……。しかしそうなると、儂等も前提を疑わねばならんのではないか?」
「……と言うと?」
「一角獣」は不機嫌そうに吐き捨てるが、続けて含みを持たせた口調で周囲に問い掛けた。進行役の「獅子」は至って平静な声音で、問いの先を促す。
「アルカライの次期当主は魔力に乏しい、落ちこぼれだという話よ。どこぞの若造が吹聴していた噂話だったが……」
「噂などではない。かの少年は私塾時代、呪文を一日一回唱えるのが精々だった。初めて呪文を教わった日など、詠唱後に魔力の急速な欠乏により気を失ってさえいる」
「一角獣」が倍返しだと言わんばかりに当て擦るが、「竜」は動じた様子も無く、淡々と返答する。それは相手の嘲笑を無視するための無反応というよりは、自身の入手した情報を確信しているが故のものに見えた。
「だが実際にはその子供は、一年後には過去最年少でありながら過去最高の成績で学院に入学し、入学後僅か一週間で『第一階梯の呪文七つ以上習得』という学院の卒業基準を越えてしまった。それほどまでに魔力の弱い子供が、一年でそこまで変貌するものなのか?」
「獅子」が落ち着いた声音のまま、疑問点を口にした。それに対しても「竜」は淀みなく答える。
「過去最高成績は分家の娘で、次期当主は二番だがな。まあそれはいい。可能性としては二つあると思っている。一つは私塾時代のアルカライ家次期当主が欺瞞のために、魔力が少ないふりをしていたということ。こちらを油断させるためと考えられなくもないが、そもそも分家の娘は当初からその才能が知られており、次期当主だけそのような演技をする理由は考えにくい。実際私塾で学んだ期間は一年足らずで、その後すぐに学院の入試で実力を明らかにしているからな」
「……続けてくれ」
「もう一つの可能性。私はこちらが本線だと睨んでいるが……。アルカライ家は、魔力の少ない者でも呪文習得を容易にする技術を編み出した。あるいは、魔力そのものを増大させることに成功した。次期当主がその最初の成功例ではないかということだ」
「そんな事があり得るのか?確か魔力というものは、その人間の生涯を通じてほぼ変わらんと聞いておるのじゃが」
「一角獣」の問いに、「竜」は
「一般的にはそう言われているな。それと、魔力の大小が呪文を覚える速度や到達できる階梯に影響する、とも言われている。もっとも、それを言い出したのがあの”
嘆息するようにそう言うと、「竜」は腕を組んで黙した。後を引き取るように、こちらも腕組みしたまま「獅子」が話を続ける。
「先代当主の第七階梯到達に加え、魔力が無いと思われていた次期当主が凄まじい才を見せた。分家の娘は元より、”魔女”の後釜に座るとさえ評されている。”魔女”が老齢によりその力を振るえなくなれば、アルカライ家与し易しと考えていた我等の予想は、完全に裏目と出たというわけか」
「それだけではあるまい」
「一角獣」がひらひらと手を振りながら、少々投げやりな口調で続ける。
「もし連中が竜の予想したような技術なりなんなりを手に入れているとすれば、アルカライ一派の魔法使いどもは更に力を増し、今後もあやつらの私塾から強力な魔法使いが次々と輩出されるということになろう。これまで以上に魔法はアルカライ家に牛耳られ、この先数十年、儂らは真綿で首を絞められるようにゆっくり追い詰められる。そうなってからでは、もはや事を成すのは不可能じゃぞ」
その言葉を機に、室内に沈黙が満ちる。この場に居る四人はそれぞれ己の思考に沈み、咳払い一つ、身じろぎ一つしない時間が長く続く。そうして
「……やはり、牽制は行うべきだろう。これまで以上に直接的な手段は採りにくくなったが、このまま手をこまねいていてはあちらが有利になるばかりだ」
「その通りだな。それとアルカライ家の秘法、次期当主を一流の魔法使いにした秘密も探るべきだ。可能であれば、それを入手したい」
「獅子」の言葉に、即座に「竜」が同調する。その時、これまで一言も発していなかった四人目の人物が顔を上げ発言した。
「危険ではないでしょうか?」
若い女性の声だった。フードの下に隠れていた顔につけられた仮面は、鋭い
「魔法に於いてはあちらに一日の長があります。相手の得意とする戦場で対峙するより、政治での駆け引きや我々の持つ経済力で圧力を掛けていけば……」
「勿論、それらの方面での工作も並行してだ。一つの事柄に集中していては、状況に変化があった場合対応できぬ」
「それに鷹よ、結局の所いざという時に物を言うのは武力なのだ。ここで遅れを取っていては、どんな優勢も最後に力勝負に持ち込まれ、全部ひっくり返される。我等の魔法戦力の底上げも、喫緊の課題なのだよ」
「獅子」、「竜」と立て続けに諭され、「鷹」と呼ばれた人物はそれ以上自論を述べることはせず、再び口を閉ざした。代わりに「一角獣」が再度口を開く。
「それで、どの様にちょっかいをかけるつもりじゃ?以前の様に中途半端なやり方では、何の成果も得られまい。いっそ竜の言う連中の秘密とやらを探る方向に、完全に舵を切るかの?」
「当面は、そうすべきだと私は思う。しかし、もし機会があるなら次期当主と分家の娘、両方を始末するべきとも考える。あの二人、放っておけば”魔女”並みの化け物に育つやも知れん。そうなっては”魔女”が衰えても、何ら事態は変わらないということになるだろう。手がつけられなくなる前に……」
「竜」がそこまで言い掛けた時、「一角獣」がその言葉を鋭く遮って言った。
「それこそ、逆鱗に触れるぞ。若いお前達は知らんだろうが、あの”魔女”は損得などでは動かん。例え損しか無くとも、報復として平然とこの国の半分を焼き滅ぼすじゃろう。『大義も無く』とか『関係ない者まで』とかいう寝言には、耳を貸さんぞ?そんなもの、あの女は三十年前の戦争で聞き飽きておるからな」
「一角獣」の言葉に本気の恐怖の匂いを嗅ぎ取ったか、「獅子」も「竜」もしばし言葉を失った。二人はエステル・アドニ・アルカライを脅威と認めていながら、そして彼女に連なる魔法使い達の強大さを理解していながら、この緊張関係をどこか通常の貴族同士の政争、その延長のように考えていたのだ。
正しく「竜」が自分で言った通り、エステルは最後に全てをひっくり返すことが出来る。それも、自分一人で。その危うさに、二人は今更ながら思い至ったのだろう。
再び、四者の間に沈黙の時間が訪れた。先程同様に長い時間が経過した後、「鷹」がこれみよがしに溜息を吐く。そしてその繊手を掲げると、発言した。
「提案します。当面、アルカライ家に対する直接的行動は、『次期当主を変えた秘法』に関する調査のみとする。それ以上の誘拐や暗殺を含めた強硬手段については、再度集まって協議を行わない限り実行しない。これで如何でしょう?」
「鷹」の言葉に、残る三人は揃って頷いた。
「では、そうする事としよう。それで実際の調査は、どこが主導する?」
「獅子」が進行役として話をまとめると、「竜」が挙手して応じる。
「それは当家が。王都と学院都市、双方に配置してある人員を強化しよう。いざとなれば、学院内部にも伝手が無いわけではないからな」
「ふむ。他に意見がある者は?」
「獅子」は他の二者へ顔を向けるが、「鷹」も「一角獣」にも異論を申し立てる気配は無い。それを見て取ると、「獅子」は大きく頷いて言った。
「よし、ではそのように。これにて会合は終了するが、いつものように同時に退出することは避けてくれ。以上だ」
その言葉を聞いた途端、「鷹」が席を立って一礼すると、背後の扉を開けて部屋を後にした。「獅子」と「竜」は黙ってそれを見送り、「一角獣」は肩を竦めるような仕草を見せる。そのまま三人は一言も喋らぬまま着座していたが、やがて「一角獣」が立ち上がると二人に背を向け、肩の辺りで手をひらひらと振りながら扉を開け、出ていった。
残った二人のうち、「獅子」は「竜」の方を向いて仮面の奥から視線を送るが、「竜」は腕組みをしたまま動く気配がまったくない。「獅子」はその後もずっと「竜」を見据え続けていたが、とうとう諦めたように首を振ると、自身の背後の扉を開けて退出する。
自分一人になっても「竜」はなお腕組みをしたまま、仮面の覗き穴から炯々とした目の光を放ちながら、いつまでも席に座り続けていた。
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昨日大演習室で呪文動作の省略に成功した俺とルリアは、しばらくして再起動したハザ教授によってそのまま連れ去られた。勿論、ロシェやイサク、エリシェ嬢も一緒にだ。
そして別室にて一人ずつ、アザド主任教授とハザ教授によって聞き取り調査が行われた。結果、主犯・俺、従犯・ルリア、ほか三人は無罪放免という判決が下る。俺達は取り敢えず「絶対に他言無用」と念押しされた上で寮に帰され、翌日改めて俺とルリアの二人だけが、アザド教授に呼び出されることとなった。
「サキよ。お前は成績は優秀なのに、こういう所は抜けておるんじゃな。何の為に、大演習室とは別に魔法実験室があると思っておる」
「……全くもって、弁解のしようもありません。迂闊でした」
主任教授の執務室、机に座ったアザド教授の前で、俺は項垂れたまま答える。呆れたような、いや実際呆れているであろう教授の言葉に、俺はただただ恥じ入るばかりだ。
「実際に目撃したのが、ハザとあの三人だけで助かった。他の学生にまで見られておったら、もう学園中に広まっておったであろうからな。ハザは儂やレヴィの兄弟弟子だし、ラメドやベギンの息子は一門だ。あやつらが自分からこの事を漏らすことはない」
アザド教授はその見事な顎髭を捻りながら、そう口にする。
「シャミールの娘は微妙だが……、ま、大した事にはなるまい。それはともかく、サキよ。今回の件は正直、儂の手にも余る。そういう訳で呼ばせて貰った」
「呼んだ?誰をですか?」
俺はそう言いながら、誰を呼んだのかは見当がついていた。いやだってほら、この部屋の扉の向こうにとんでもない強さの魔力の光が見えてんだよ。俺の隣で、教授の話も聞かずに俺の腕に顔を擦り付けている、ルリアに次ぐ大きさの魔力が。
「あたしだよ」
ガチャリ、と扉が開いて部屋に入ってきたのは、俺の予想通りの人物だった。言うまでもない、俺の祖母であるエステル・アドニ・アルカライその人である。
「お祖母様!?どうやって
婆ちゃんだというのは分かっていたが、それでも俺には驚きだった。この学院から馬車でも数日かかるアルカライ村で隠居しているはずの婆ちゃんが、昨日の今日で何で此処に居る?
「あんたが驚くのを見るのは気持ちがいいね。何せこっちは、毎回毎回あんたに驚かされているんだ。溜飲が下がるってもんだよ」
婆ちゃんが部屋を横切ってこちらへ来ると、アザド教授が立ち上がってそれを迎えた。そして先程まで自分が座っていた椅子を引いて婆ちゃんを座らせ、自分はそのまま脇に控える。婆ちゃんは至極上機嫌な様子で、俺とルリアを眺めて言った。
「何であたしがこの場にいるか、分からないって顔だね?サキ、あんたがあたし達に隠していることが山程あるように、あたしにだってあんた達に隠していることぐらいあるよ。それで何だい、また何かやらかしたそうじゃないか。一つ、あたしにもそれを見せちゃもらえないかい?」
「……分かりました。<
婆ちゃんが頷くのを見て、俺は目の前の空間を見つめると、そこにイメージだけでオレンジ色の正三角形を描き出す。そのまま「<明かり>」と唱えると、目の前に光球が出現して周囲を照らした。婆ちゃんは机から身を乗り出すようにして俺の詠唱を見ていたが、やがて一言漏らす。
「確かに<
「どうでしょう?多分、出来ると思いますが……。ルリア、<
「ん」
ルリアは短く答えると、俺の腕に両手で掴まったまま正面を見据える。ルリアの眼前に黄色の四角形をした印が結ばれるのが見え、「<盾>」という呟きとともに魔力で出来た盾が姿を現した。
「<盾>も問題なく詠唱可能かい。恐らく他の呪文も全部、動作を省略できると考えてもいいだろうね」
婆ちゃんが顎に手を当て、考え込むような素振りで言った。婆ちゃんは俺と同様に<盾>の呪文を直接視認できるので、ルリアの詠唱が終わった直後に成否が分かる。なお、アザド教授は机を回り込んで、ルリアの前に<盾>があるかどうか触って確かめていた。
「サキとルリアが、印を描かずに呪文が詠唱できるのは分かった。でも問題は、あんた達以外にこれが可能な人間が一人も居ないって事なんだよ」
あれ、そうなの?俺が婆ちゃんとアザド教授を代わる代わる見ると、教授が咳払いしてから俺に答える。
「儂もハザも、昨日の内に自分で試してみたわい。第一階梯の呪文ですら、一つも成功せんかった」
「あたしや息子達も同じだよ。サキ、これはどうしてだと思う?あんた達が出来て、あたし達が出来ない理由を説明できそうなのは、あんたしかいないんだよ」
婆ちゃんは溜息をつきながら、懐から長煙管を取り出した。その様を眺めながら、俺はしばし考える。
婆ちゃんの言う理由だが、俺には大体当たりがついている。だが、理論には実験が伴わなければいけない。そう考えると、この状況は好都合とも言える。俺はアザド教授に向かって、丁寧に頭を下げながら言った。
「教授、大変恐縮ですが、普段詠唱されるように<明かり>の呪文を唱えていただけないでしょうか?」
「む、儂か?いいぞ、やってみせよう」
教授はその場で印を結ぶと、素早く「<明かり>」と唱える。オレンジ色のしっかりした線で描かれた三角形が現れ、次いで呪文名とともに明るい光球が生み出された。流石は第四階梯魔法使い、見事な詠唱だ。印を描く手付きは無駄なく素早く、空中に現れた印も実にはっきりとした像を結んでいる。
「ありがとうございます、教授。重ねてのお願いで大変申し訳無いのですが、今度は動作を省略して詠唱してもらえませんでしょうか?」
「う、うむ。分かった」
アザド教授は少し躊躇して、手を後ろ手に組んで「<明かり>」と唱える。教授の眼前に現れた印は、先程指で描いたものと全く違っていた。オレンジの光は弱く、線は細く切れ切れで、三角形の形を成していなかったのだ。当然、光球は生まれなかった。
「アザド教授、ありがとうございました。ご協力いただいたおかげで、よく分かったように思います」
僅かに肩を落として悄気げている様子の教授に、俺は改めて礼を述べる。すると俺達の様子をじっと見つめていた婆ちゃんが、煙管をくゆらせながら俺に問いかけた。
「何か、違いが分かったのかい?あたしにはさっぱりだよ」
「これはあくまで私見ですが」と俺は前置きして、これまで考えていた仮説を披露する。
「呪文の発動に必須なのは、『印を正しくはっきりと思い浮かべる』ことです。指で印の形をなぞるのは、印を力強く思い描くための補助に過ぎません。ですので、指で線を引かずとも印を正しく思い浮かべられれば、呪文は正しく発動するのです」
「それだけかい?」
婆ちゃんが驚いたように尋ねてくる。俺は一つ頷いて、さらに自論を述べた。
「これまで魔法を学んだ方々は、先人の教えをしっかり守っていました。指で描いた通りに印を思い浮かべるのは、既に身に染み付いている行為です。そこで急に印を描く行為を省いて呪文を唱えても、勝手が違ったり不安があったりして、正しく印を思い浮かべられないのでしょう。訓練次第で、どなたにでも出来る技術だと思います」
俺の言葉に、婆ちゃんと教授は揃って考え込む素振りを見せた。ややあって、教授が首を振りながら零すように言う。
「儂には到底信じられん。これでもアルカライ一門の高弟として、この国でも有数の魔法使いの一人であると自負しておる。そりゃ確かに、師匠には遥かに及ばんが、それでも第一階梯の呪文の印を正しく思い浮かべられないとは……」
「まあ、サキが言うからにはそうなんだろうね。あんた、ひょっとすると他人の描く印も見えてるんじゃないかい?」
婆ちゃんの言葉に、俺はぎょっとしてアザド教授の方を見る。すると教授も目を見開いて、俺を見つめ返していた。婆ちゃんはそんな俺達の様子を気に掛ける風でもなく、言葉を続ける。
「ああ、こいつは確かに不肖の弟子だけど、口は堅いから安心していいよ。あたしが魔力を見ることが出来ることも知っているしね。アザド、今まで黙っていたけど、サキも『魔力視』だよ。しかもあたしより、遥かに優れた眼を持っている」
「そ、そうでしたか。サキが『魔力視』……」
アザド教授が俺を見る目が、何だか恐ろしいものを見るような目つきになっている。いやいや、確かに珍しいらしいけど怖くはないからな?それはともかく、婆ちゃんの質問に答えておこう。
「はい、先程教授が呪文を唱えられた際に、一回目ははっきりとした見事な印が描けていましたが、二回目は不完全な形でした。それもあって、今申し上げたような道理であろうと推測したわけです」
「それで『訓練次第』かい。その訓練っていうのは、例のアレのことだろう?」
婆ちゃんの問いに、俺は黙って頷く。例のアレとは勿論、現在
婆ちゃんは既に火が消えている煙管を口にしたまま、しばらく難しい顔をしていた。やがて煙管を仕舞いながら、誰に聞かせるでもないように話し始める。
「身振り無しで呪文を成功させたのも大概だけど、他人の描く印まで見えるとはね。もうあたしも驚き過ぎて、感覚が麻痺してきたよ」
そして椅子から立ち上がると、俺達を見回して言った。
「この新しい技術については、学院も無関係じゃない。今から学院長のところへ行って、どう扱うかを話し合ってくるよ。アザド、あんたも一緒に来な」
「あ、いや、師匠。急に学院長に会われると仰られましても」
「大丈夫だよ。以前、『うちのサキが問題起こすかも知れないから、その時は勘弁してくれ』って伝えてあるからね。ま、入学して十日も経たない内にってのは、ちょっと予想外だったけど」
ちょい待ち婆ちゃん。あんたそんな事を学院長に言ってたのか?というか、学院長と知り合い?仮にも自分の孫だぞ、もう少し信用してもいいんじゃねえの?
「あんた達、これから呪文を試す時は他人に見られないようにするんだよ。そんなに度々、この学院に呼び出されたら堪らないからね。ま、これからもしっかり勉強おし」
婆ちゃんは言うだけ言うと、アザド教授を引き連れて執務室から出ていった。そうして、俺とルリアだけが取り残される。
「……教室に戻ろっか」
「ん」
その日は結局、アザド教授の姿を見ることは終日なかった。
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