第十八話 魔術オタクは失火騒ぎを起こしかける

夏が終わろうとしているこの夜、空には中秋の名月には少し早いが、それでも見事な満月が冴え冴えとした光を放っていた。夜の帳に包まれたアルカライ村の中で、一軒だけ煌々と明かりが漏れ笑い声が響く屋敷がある。その家、村長宅では広い食堂が急遽持ち込まれた複数のテーブルによりすっかり狭くなっており、そこには多くの人々が詰めかけて歓談に興じていた。


台所からは次々と料理が運び込まれ、村人たちは酒盃を片手に大いに食べては飲み、笑い合っていた。食堂から庭に通じる扉は開け放たれていて、そこから新しい面子が次々と流入してくる。時折料理や酒も運び込まれてくるところを見ると、村の他の家庭でもこの宴のために調理をしているようだ。新しい料理を運ぶ女衆や、テーブルの間を泳ぎ回る男衆のおかげで食堂は混沌としており、全員が一斉に喋るおかげで誰が何を言っているか聞き取れないほどだ。


そんな喧騒の中、俺とルリアは食堂の最奥、暖炉近くの一等良い席に座らせられている。そして先程から村の人達が三々五々と俺達のテーブルにやって来て、自分たちの名を名乗り嬉しそうに何か語っていくのだ。俺は出来る限り子供らしく無垢な笑みを浮かべながら、ただひたすらそれに頷いている。手元のカップ(子供だから果実水)や眼の前の折角のご馳走も、手をつける暇がない有様だ。ルリアは宴の始まりからずっと俺の背に無言で貼り付いていたが、遂に俺の肩に顔を埋めてうとうととし始めた。もう限界が近いらしい。


婆ちゃんは宴の開会を宣言した後早々に姿を消し、マリア母さんは食堂の真ん中で大勢に囲まれて話に興じている。昔馴染みと久しぶりに再会したからか、酒盃を傾ける横顔が実に楽しそうだ。村長さんや村長の息子さんは俺達のテーブル近くにいるが、村人達の挨拶を受ける俺を嬉しそうに見守るばかり。駄目だ、味方がいねえ。


接待する方も大変だが、接待される方もまた大変なのだ、と子供らしからぬ事を考える俺は、前世も合わせれば精神年齢で三十路を超えている。なのでこういった場面でどうしても、子供らしい我儘を口にすることが出来ないでいた。だが、子供ということで助かっているのも事実だ。これで俺が成人男性だったら、次から次へと酒を飲まされ大変なことになっていただろう。


今まで目の前に居た村の若者たちが去り、新たにおっさん達が三人ほど、肩を組んだままやって来た。俺は再び表情筋に活を入れて笑顔を作り、酒も入って更に訳が分からなくなった彼らの言葉に、適当に相槌を打つ。うぁー…………早く終わらねえかなあ、コレ。


心の中で本音を呟いた俺は、未だ途切れる気配のない村人達の列に愛想を振りまきながら、恨めし気な視線で隣を盗み見た。暖炉のすぐ横、この食堂で一番いい場所であるそこには、一脚の椅子が置かれている。他の丸椅子と違って手すりも背もたれも備え、上等な布張りのクッションが付いたその椅子は、長時間空席となっているが誰も座ろうとしない。


そこに座っていた人物こそ、俺達をこの宴会に巻き込んだ人であり、自分は開始早々に席を外して戻って来なかった人。そう、俺の祖母にして前アルカライ子爵家当主である、エステル・アドニ・アルカライその人だ。俺は本当なら今頃、我が家の秘伝の巻物から読み解いた儀式を試しているはずだったのだ。それがこうなってしまったのは、だいたい婆ちゃんのせい。つまり婆ちゃんが悪い。


俺は一向に盛り下がる気配のない村人達を密かに恨みながら、周囲に気づかれないように何度目かの溜息をついたのだった。




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時は、俺が巻物の暗号を解いたところまで遡る。俺とルリアに机を挟んで対峙する婆ちゃんは、「怖い」としか言い様が無い剣呑な光を湛えた瞳を俺に据えたまま、低い声音で問うた。


「……それは本気で言っているのかい?」


「……本当のことです」


前世の知識を使ってこれまで誰も理解できなかった巻物を読み解くことに成功した俺に、婆ちゃんは「俺の知識の出処」を尋ねてきた。正直に「転生者だからです」などと言えるはずもなく、俺は仕方なく「女神に教えて貰った」と言い逃れをした。してしまった。そのせいで俺は、先程までより一層迫力を増し、もはや物理的な圧力さえ感じられる婆ちゃんの視線に晒されているのだが。


婆ちゃんは手元にあった長煙管に手をかけて、火をつけずにそのまま口に咥えた。その間もずっと、俺から目を切らさずにいる。と、そこで俺の腕を取る者がいた。言わずと知れたルリアだ。俺にしっかり抱き着いたまま婆ちゃんを無言で見返すその横顔は、こんな状況だからか「サキを苛めるな」と言っているように見える。何だろう、我が幼馴染が物凄く頼もしく感じてしまう。


婆ちゃんはそんな俺達をじっと見つめていたが、やがて視線を切ると火の点いていない煙管を「カーン」と煙草盆に叩きつけた。そうして再度俺達に向き直るが、その眼差しからは先程までの圧が消え失せている。婆ちゃんは少々、いやかなりぞんざいな態度で机に頬杖を突くと、改めて俺に問い掛けてきた。


「それで、女神様はどんな方だったんだい?」


「はい?」


「女神様の声を聞いたんだろう?サキは、女神様をどんな方だと思った?」


え、なんですか婆ちゃん。さっきまでとは打って変わって、その意地悪そうな、「ニヤニヤ」という擬音付きの笑顔は。問答が始まってからずっと感じていたプレッシャーが消えたのは有り難いが、婆ちゃんの質問の意図が読めずにちょっと逡巡してしまう。


婆ちゃんのことだ、「夢で女神のお告げを受けた」などという世迷い言は、ハナから信じちゃいないだろう。一つ考えられるのは、こちらが予想もしていないような問いを投げ掛けることで、俺が狼狽したり過剰に反応したりするのを期待していること。俺が嘘をついているかどうかを、俺の態度で図ろうとしているんじゃなかろうか。まあ、あのチェシャ猫めいた笑みを見る限りでは、単純に俺を困らせたくてこんな質問をしている可能性が無きにしもあらずだが。


しかし、である。「女神様に教えてもらった」は大嘘だが、俺は事実魔法の女神(自称だが)に会ったことも、言葉を交わしたこともあるのだ。むしろ<聖別>の儀式の最中に無理矢理<召喚>の形で現出するという、言ってみれば「向こうが会いに来た」形ですらある。故にここは嘘偽り無く、思ったままを答えればいい。俺は魔法の女神イシスこと、第八位階の大魔術師シスター・マギサのことを脳裏に思い浮かべながら答えた。


「何というかその、とてもマイペースな方でしたね。こう、人の言うことを聞かないところがあるような」


俺がそう答えると、婆ちゃんは人の悪そうな笑いを引っ込めて真顔になり、まじまじと俺を見つめてきた。えっと、何か言って下さいませんかねお祖母様。折角答えたのに黙り込まれると、こちらとしても反応に困るんだがな。そのまるで珍獣でも見るような、素で驚いているような視線に居心地の悪さを感じていると、婆ちゃんは口元を手で覆って何事かを呟く。


「……」


残念ながら声が小さすぎて聞き取れなかったが、婆ちゃんはそれ以上何かを言うことはなく、何かを考えるような素振りで黙り込んでしまった。自然と俺も口を閉ざしたまま婆ちゃんの様子を伺い、書斎の中を静寂が覆ったまま、時間だけがゆっくりと流れていく。



その時、この手詰まりの局面を打破すべく動き出した存在があった。ルリアだ。彼女は何も言わぬまま少々苦労しながら椅子から降り、そのまま書斎の扉へ向けてとてとてと歩き出す。一体何をするのかと見つめていると、ルリアは扉を開けて外に控えていたメイドさんに小さな声で告げた。


「お茶とお菓子」


俺は思わず、椅子からずり落ちそうになって危うくこらえる。婆ちゃんはそんな俺達を見て、わざとらしく大きく嘆息すると肩をすくめながら言った。


「ルリアには退屈だったかね。まあいいさ、ここらでちょっと休憩を入れようか。メナス、あんたも入れて四人分、茶菓子を用意しとくれ」


その声にメイドさんは無言で優雅に一礼すると、見惚れるような所作で回れ右をして、お茶の用意をするために去っていく。というか、あの秘書風メイドさん、メナスさんっていうんだな。よし憶えた。


厨房へ向かっているのだろうメナスさんの後ろ姿。その素敵過ぎるシルエットから目を離せないでいると、バタンという音と共にドアで視線が遮られた。気づけば乱暴に後ろ手でドアを閉めたルリアが、氷点下の眼差しで俺を見つめている。やっちまったぜ。


どうやら俺はメナスさんや神殿のライラ司書のような大人の女性を前にすると、学習能力が著しく低下するらしい。結局俺は書斎にお茶が届くまでの間、隣に座るルリアに手を齧られ続けることになった。ルリア的には罰を下しているつもりなのかも知れないが、一種のマーキング行為のような気がするぞオイ。あとルリア、骨はやめるんだ骨は普通に痛い。


そうやってじゃれる俺達を、婆ちゃんは面白がるというか呆れているというか、要するに生暖かい眼差しで見つめるだけだった。



そうして話を中断して始まったお茶会は、他愛もない会話に終始することになった。俺は屋敷での生活や塾でのことを話し、婆ちゃんは村での生活を語る。ルリアは無言でお茶と菓子を貪り、メナスさんは逆にほとんど手を付けず黙って微笑んでいる。


ひとしきりどこか薄ら寒い歓談を楽しんだところで、婆ちゃんが切り出した。


「魔法についての話は、今日のところはこれまでにしておこうか。これから弟の家に戻って、色々と準備しなくちゃいけないからね」


「村長さんのお家で、何があるんです?」


「あんた達が村に着いた時にも言ったろう?皆にサキとルリアの顔見世をするんだよ。村を挙げての祝宴になるからね、結構大掛かりなことになるよ」


何すかそれ、聞いてませんけど?と思ったが、よくよく思い返してみるとそんなことを言われていた気がする。話を聞くにどうも村中総出での俺達の歓迎会みたいなものらしく、当然主賓である俺とルリアは強制参加。ぬおおおー、俺は一刻も早く魔法円と詠唱の実験をしたいというのに……。


だがこの村に着いた際の皆さんの歓迎振りを思い返してみれば、とても断れるような雰囲気ではないとも思う。昨日初めて会ったばかりの人達だが、あんなに慕って貰っておいてツレない顔をするのはどうにも気が引けるしな。仕方がない、これも貴族の家に生まれついた者の定めと思って受け入れよう。


……とか思ってたんだよな、この時は。




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夕方から始まった宴は、夜半近くになってもまだ続いていた。村長宅の食堂を埋め尽くしていた人々もすっかり数を減らし、今ではすっかりへべれけになったおっさん達何人かを、「困ったもんだねえ」という目つきで見守る女衆がいくらか残っているだけだ。俺の前に居座っている酔っぱらい達もだいぶ出来上がっており、先程から「先代様は凄い」「御当主様は凄い」「坊っちゃんは凄い」と同じセリフを繰り返し続けている。


ルリアはとうの昔に眠気の限界が来てマリア母さんの手で寝室に運ばれ、そしてマリア母さんも帰って来なかった。畜生、最初からそうするつもりで、あんなにハイペースで飲んでやがったな。最初ハナから戦力には考えてなかったが、マリア母さんと話していた人達まで俺に挨拶に来て、孤軍奮闘に拍車が掛かってしまったじゃねえか。マジで許せん。


そんな訳で、俺一人でひたすら村人達からの親愛の籠もった挨拶を受け、彼らが語る話に耳を傾けていたのだった。いやしかし、始まる前は貴族の務めとか何とか考えていたけど、これちょっと違わねえか?何と言うか距離感が貴族と領民のそれじゃなくて、庄屋の跡取り息子とその村人みたいな感じだぞ。


何だかなー、と思いつつもbotと化したおっさん達の言葉に頷いていると、何に感極まったのか一人が泣き出してしまった。すぐさまそれは伝染し、俺の前に座るおっさん達全員が肩を組み、男泣きに泣き崩れる。オイオイオイ、何があったんだよいやどうすんのこれ。


対応に困った俺は、横目で近くに座っている村長を見る。今まで黙って微笑みながら俺と村人を見守っていた村長は、俺の目線に頷くと立ち上がり、手を叩きながら言った。


「さあさあ皆の衆。すっかり夜も更けたし坊っちゃんもお疲れのご様子。ここらでお開きにしようじゃないか。お前さん達にはすまないが、この酔っぱらい共を連れ帰ってくれ」


「しょうがない宿六だねえ。ほらもう帰るよ」


「すみませんねえ坊っちゃん。ウチの亭主共に付き合っていただいて」


そう言って彼女達は、それぞれの連れ合いに肩を貸すなどして引き上げていく。それを見届けてから村長は、俺に向かって申し訳無さそうに言った。


「サキ様にはこのような時間までお付き合いいただき、本当に有難うございます。さぞご退屈だったと思いますが、なにぶん村の衆がああまで喜んでいると、なかなか止める気にもなれず……」


分かっとったんかい。まあ、喜んでるのに水を差すのは気が引けるのは理解できるがね。


「皆さんが本当に我が家を慕っていただいているのが伝わってきて、有意義な時間だったと思います。ご期待に添えるように、これからももっと精進せねばと思いました」


ひとまず優等生な返答をすると、村長さんは気まずそうな表情で続けた。


「サキ様がお優しい方だと分かって、皆も少々羽目を外してしまったところもあるかと思います。王都の御当主様やサキ様と違い、我が姉は何と言うか……親しまれるより畏れられていると言いましょうか」


ああそうか、とそこで腑に落ちた。宴が始まるなり婆ちゃんが退席したのは、自分が居たら騒げないと思ったからか。あの婆様のことは未だによく分からないが、ただおっかないだけの人というわけでもないのだろう。


「それでは私は失礼して、もう休ませてもらいますね」


「本当にお疲れ様でした。ごゆっくりお休み下さい」


頭を下げる村長さんに背を向けて、奥の客室へと向かう。時間的にはもう、真夜中を過ぎているのかも知れない。前世で言えば未就学児であるこの身には、起きているのはなかなか辛い時分である。さっきから生あくびが止まらないのがその証拠だ。ああ、早く寝台に入って寝てしまおう―――




とか思ってたんですよ、横になるまでは。


寝台に横たわり、天井を眺めながら冴えていく目に我ながら困惑。何故か隣の寝台で一緒に寝ている、ルリアとマリア母さんの寝息を伺う始末である。遠くから微かに聞こえていた宴会の後始末の音は既に絶え、村長さんの家に起きている人の気配はない。そこから更にしばらく待って、俺はこっそり寝室を抜け出した。


向かうは村長宅の裏庭。適度に木立があり、他の民家から死角になるこの場所まで来た俺は、身に帯びていた魔術武器「火の短剣」を抜くと地面に模様を書き始めた。人気のない村外れに、ガリガリと地面を引っかく音が静かに響く。そう、俺は今から魔術の実験――昼間婆ちゃんの屋敷で見た、魔法円を用いた詠唱を試すつもりで抜け出したのだ。


やっぱりね、待ちきれない訳なのだよ。この先婆ちゃんが変に渋って、あの巻物をもう見せてくれないなんてことも考えられるしな。幸い昼間にガン見していたこともあって、魔法円の文様は脳裏に焼き付いている。元々前世で親しんでいた魔法円と、そんなに違いが無かったことも幸いした。詠唱だって一言一句、過たずに諳んじてる。ようし、やってやるぜ。


今回はあくまで実験なので、あまり大きくない直径一m半ほどの円を地面に描き、そこに五つの頂点を持つ星型を一筆書きで書きつける。星型の中央に火のサインを描いて、円と星の隙間に短い単語――多分神名と思われる――も刻みつけた。本当に間に合わせのものだが、魔法円がこれで完成。


神名を踏まないように気をつけて、円の中に立つ。よく前世のフィクションでは魔法陣の中から悪魔や精霊が呼び出されているが、実際の魔術においては術者は円の中に居て、対象は円の外に呼び出される。なぜなら魔法円は、呼び出したものが術者の制御を離れた際、呼び出したものから術者を守る働きをするからだ。なので制御に自信のある達人(アデプト)は、魔法円を使わなかったりする。


ともあれ儀式の実験だ。俺は「火の短剣」を構えると、まずは「十字の祓い」を行った。「火の短剣」で頭上から胸の前へ、右肩から左肩へと十字を切り、「汝、王国。峻厳と、荘厳と、永遠に、斯くあれかし」と唱える。目前に巨大な光の十字架を幻視し、俺のオーラが清浄化されるのをイメージする。


続けて<浄化>の儀式――「追儺式」とも呼ばれている――で、この儀式の場そのものを清める。内容的には<聖別>の儀式と一部同じだ。違うのは四方に向かって五芒星を描く点で、最後は<聖別>の儀式と同じで「我が四囲に五芒星、炎を上げたり。光柱に六芒星、輝きたり」と唱える。魔法円を中心としたこの裏庭が光に包まれ、清められるのをイメージする。


そうしていよいよ、「火の精霊」を喚起エヴォケーションする詠唱を唱える。俺は目前の地面に意識を集中し、そこに「火の精霊」が現れる様をイメージしながら詠唱した。


「永劫のうちに燃え盛りし、全ての命の根源たる原初の炎よ。


我は汝を呼び覚まし、ここに招来せん。


おお、力強き原初の炎よ、いと猛き汝はすべてを滅ぼし、かくて再生の魁とならん。


そは生命の始まりにして、上昇への渇望を齎すものなり。


されば、我は至高の御名において汝を清め、ここに呼ばう。


我は汝を喚起せん。汝の喚起の呪文によりて」


詠唱の最中ずっと地面の上の一点を見つめていた俺は、そこに赤い光点が生まれるのを目にした。光点は不規則に揺らめきながら輝き、やがてそこから一塊の炎が吹き出して、地面に落ちて音もなく燃え続ける。おおっ。やった!やったのか!?俺は「火の精霊」を呼び出すことに成功したのか!?


炎の塊は揺れ動きながら少しずつ大きくなり、小さな焚き火くらいの大きさに成長する。と同時に、無音で燃え続ける炎の方からなにやら焦げ臭い匂いが漂い、それに伴って「パチ、パチ」と何かが爆ぜるような音が……。


「うえええぇ!」


俺は思わず叫んでしまい、その瞬間にいままで目の前で燃えていた炎はかき消されるように消えてしまった。だが俺はそれよりも、別のことに気を取られていた。これから秋になろうとしているこの季節、いい感じに乾燥していた裏庭の下草が、呼び出した炎によって延焼している。


俺は急いで現場に駆け寄ると、ローブを脱いで両手に持ち必死に燃える下生えに叩きつけた。ここで火事を出そうものなら、色々な意味で大変まずいことになる。幸い、火が移ってすぐに消しにかかったため、この小火ぼやはすぐに鎮火できた。そこで我に返った俺は、少々汚れてしまったローブを手に周囲を見渡した。真夜中のアルカライ村は、未だひっそりと静まり返っている。うむ、大丈夫。誰にも気づかれなかったようだ。


安堵した俺は地面に描いた魔法円を足で消しながら、先程の儀式を思い返す。途中で集中が切れて儀式を中断してしまったが、あれは「火の精霊」を呼び出したと見て相違ないだろう。実際に周囲の草が燃えてしまったところを見ても、「火の精霊」がこの世界に実体化していたのは間違いない。


まあ、呼び出したのがえらくかわいい炎だったのはご愛嬌か。よく考えてみればもし巨大な炎の塊である「火の精霊」を呼び出したとしたら、さっきみたいな小火で済まない事態となっていたことも十分に考えられるわけで。うむ、どうしても試したくて儀式の実験をしてみたが、もう少し色々考えてから行動したほうがいいんじゃないだろうか。


俺は興奮した頭の中を夜気で冷ますべく、色々と反省しながらしばらく裏庭に立ち尽くしたあと、家人を起こさないように村長宅の客室へ戻ったのだった。




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「……信じられないね」


同時刻。エステル・アドニ・アルカライは自身の書斎にて、椅子にかけながら呟いた。その顔は中空を見上げ、片目は自身の手で覆われている。そうして何も見えないはずの目隠しされた瞳には、村長宅の裏庭に続く扉を、そっと開けて屋敷に滑り込むサキの姿が映っていた。


サキが夜中に部屋を抜け出したのは、護衛の<見えざる従者アンシーン・サーヴァント>からの知らせで分かっていた。何やら裏庭でこそこそとやっているらしいので、サキの『魔力視』に発見されるのを警戒し、こうして<透視スクライング>の呪文で監視していたのだが、そこで見た光景はエステルの理解を超えるものだった。


あれは第五階梯呪文、<喚起・火の精霊エヴォケーション・ファイア・エレメンタル>だ。呼び出したのは非常に小さな精霊で、しかも途中で制御に失敗して精霊は帰還してしまったようだが。しかし不十分とは言えど、まだ魔法学校にも通っていない子供が第五階梯の呪文を行使するなどということが有り得るだろうか?


第五階梯というのは、少なくともこの王国ではエステルしか到達したことのない境地である。彼女の息子にして愛弟子であるレヴィでさえ、手が届いていない領域だ。そんな高位の呪文をまかり間違って行使しようとしたら、駆け出しの魔法使いなら魔力をすべて失って即死するのがオチだ。いわんや、魔法使いとしては魔力に乏しいサキでは無事に済むはずがない。


「あの巻物に、こんな秘密があったとは……」


サキが不格好ながら<喚起・火の精霊エヴォケーション・ファイア・エレメンタル>を成功させたのは、まず間違いなく今日見せた家伝の巻物に理由がある。サキが立っていた地面に描かれていた文様、あれは巻物に記されていた図形ではないか?<透視>の呪文では見ている先の音を聞き取ることは出来ないが、巻物に同じく記されていた詩篇のような文言も、呪文の成功に関係しているのだろう。


魔力を使わずに、高位の呪文を行使せしめる技。そんなものが我が家に伝わっていたというのも驚きだが、問題はそれを読み解いた挙げ句難なく再現してしまった孫である。


「本当に、どう扱えばいいのかねえ」


そう呟くエステルの表情は、微笑みながらも無力感に彩られていた。

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