第十七話 魔術オタクはクライアントのせいにする

魔法円マジック・サークル>を目にした俺は、内心激しい興奮に襲われていた。この世界にも魔術が存在したことを裏付ける、初めての証拠。恐らくは、魔術が使用されていたという古代王国時代から我が家に伝わっているものだろう。これを長きにわたり、失うことなく伝え続けてくれた代々のご先祖様達に、無限の感謝を。


(星型は五芒星。中央に書かれているサインから考えるに、これは<火の五芒星>だな。で、周りに書いてある文字は多分<聖なる名前ホーリー・ネーム>……分かる、分かるぞ。この世界の魔法円も、俺が前世で学んだものと変わらん!)


俺は感極まりながら、息をするのも忘れて魔法円を端から端まで眺めていく。いかん、これは永遠に見ていられる。あまりに集中してみていたせいか、婆ちゃんが声を掛けていたのにも気づかなかったくらいだ。


「……サキ、サキ。どうしたんだい?」


「ああ、いえ、すいません。あまりに興味深い内容だったもので」


「……ふむ。それで、二人はこの文字が読めるかい?」


婆ちゃんにそう言われて、俺は初めて羊皮紙の上部に書かれた文字列に目をやる。まあそうだよな、普通はこっちの文章っぽいものの方が気になるか。かなりの量が書き付けてあるそれは、未知の文字などではなく現在も普通に使われている文字だ。しかし……。


「子音字しかありませんね」


この世界というか、この国で使われている文字は前世のアルファベット同様、母音字と子音字に分かれている。しかしこの羊皮紙にある文章は、子音字のみで構成されているのだ。これでは単語にならないし、発音も出来ないということになる。


「母音を補えばよいのでは?」


「私もそう思ったよ。だがどんな組み合わせを試してみても、まともに読める文章にはならなかったのさ」


なるほど、これは暗号だな。そして母音字を隠すというやり方は、俺の前世の知識で思い当たることがある。ヘブライ語だ。


紀元前からユダヤ人に使用されていたヘブライ語は、西洋魔術を修める者にとっては基礎的な教養と言って良い言語だ。儀式魔術の詠唱でも、ヘブライ語で唱えることを推奨されているものは多い。そしてヘブライ語で書かれた古い文書には、母音字を省いて書き記すという手法がよく使われているのも有名な話。あの<聖四文字テトラグラマトン>だって、律法に「神の名をみだりに唱えてはならない」という戒律があったせいで、心得のない者が読めないように母音を欠落させていたのだ。


もっともそのせいで、<大離散ディアスポラ>以降は正しい読み方を教えてくれる人がいなくなってしまい、「正しい発音はこうだ」という論争が長きに渡って続くようになってしまったのだが。


そしてヘブライ語には、暗号解読の長い歴史がある。何せあの人達、聖書を読み解くことに大昔から血道を上げていたからな。「この節のこの句をこう読み替えることで、隠された神のご意思が明らかになる」なんてことを延々やってきたのだ。そりゃ、ノウハウも蓄積されるってもんだ。


「お祖母様、羊皮紙とペンを貸していただけますか?」


「いいけど、そのまま書き写すのは困るよ。一応秘伝ってことになっているから、書き写したものを失くされでもしたらいけないからね」


「いえ、ちょっと書き置きをしながら考えたいので。お願いします」


婆ちゃんは少し訝しんだようだが、それでも机から何枚かの羊皮紙を取り出して渡してくれる。俺はペンを手に取りながら、暗号文とにらめっこを始めた。多分これは、複数の手法を組み合わせてあるやつだ。母音字が省かれているだけでなく、子音字も組み替えられている。


問題は、どんな組み換え法則が使われているかだが……<数値変換ゲマトリア>でなければいいが。あれ、死ぬ程面倒臭いんだよな。ひとまず、数あるユダヤの文字変換方法の中でも簡単なヤツから試してみよう。


そのやり方、というか法則は至極単純。前世のアルファベットがAから始まってZで終わるように、この世界の文字にも順番がある。その順番に沿って、最初の文字は最後の文字、最初から二番目の文字は最後から二番目の文字、という風に変換していくのだ。<置換法テムラー>と呼ばれる文字変換の技法の中でも、基本中の基本に当たる。俺はそれに従い、羊皮紙の文字を変換して手元の羊皮紙に書き付けていった。


お、これ当たりじゃね?この書き出しの何文字かは、「永遠」とか「永劫」とか読めるような気がする。俺は手応えを感じ、勢いに乗って残りの文字も変換、猛スピードで書き込んでいく。するとそれを覗き込んでいたルリアが、声に出して読み上げ始めた。


「永劫のうちに 燃え盛りし 全ての命の 根源たる 原初の炎よ……」


おお!俺が変換した文字を書き付けるとほぼ同時に、欠落した母音を推測し当て嵌めて読み上げるとは。以前から思っていたが、ルリアの地頭の良さは凄いな。回転速度が半端ない。


やがて巻物の暗号を変換し終えた俺は、別の羊皮紙に今度は母音字も加えて、ルリアが読み上げた通りに書き付けていく。書き終えた俺は確信した。これは詠唱だ。恐らくは下に書いてある魔法円を使用した、<火の精霊>を呼び出すための儀式の詠唱。凄えよ、大発見だ。


俺は書き終えた二枚の羊皮紙を、一先ず婆ちゃんに手渡す。受け取った婆ちゃんは困ったような表情で、広げられたままの巻物と手元の羊皮紙を見比べながら、ぽつりぽつりと呟き始めた。


「これがこうなって、そしてこうなる、と。巻物の文字と、最初の羊皮紙の文字の関係は……、サキ、これはどうなっているんだい?」


「頭と尻尾を入れ替えました」


「……ああ、成る程。言われてみれば、簡単だねえ」


さすが婆ちゃん。この説明ですぐに理解するとは。やがて全てに目を通したのか、婆ちゃんは両手に持った羊皮紙を机に置き、目の間を揉むように押さえながら言った。


「何というか、詩の一片みたいな感じだね。ものがものだけに当然だけど、古い言い回しや古語が随分と混ざってる。ルリアや、よくその歳でこれが読めたね」


婆ちゃんに褒められて、ルリアが「ふふん」とでもいうように胸を張る。相変わらず表情に変化は乏しいが、「むふー」という鼻息さえ聞こえてきそうな勢いだ。古語については、王都の大神殿にある書庫で古い文書と格闘した成果だな。あの経験がなかったら、俺もルリアも正しい母音字が推測できずに終わっていただろう。神殿の司書であるライラさんには、感謝しかない。


「さて、サキとルリアのお陰で長い間謎だった巻物が読めたのはいいけど、結局何かの役には立ちそうにないものだったね。ここに描いてある図形みたいなものも、詩の内容と関係しているようには見えないし。何でこんなものが、ウチの家に代々伝わって来たのかねぇ……」


巻物の上に羊皮紙を投げ出しながら、婆ちゃんはそう嘆息する。まあ、そうだよな。その巻物の内容は、それだけでは意味不明なものだ。それをどう「使う」か、知っている者以外にとっては。


「お祖母様。お願いがあります」


俺は居住まいを正し、婆ちゃんの目をしっかりと見ながら発言した。婆ちゃんも真面目な顔で、俺を見返してくる。


「言ってごらん」


「私は、この巻物に書かれた内容についてもっと研究したいと思います。お許し願えませんでしょうか?」


その言葉に、婆ちゃんはしばらく考え込む素振りを見せた。いやいや、お願いだから「うん」と快諾してくれ。魔法円に儀式の詠唱まで分かったんだ、こりゃもう実践するしかないんだから。俺が不安になるくらいにたっぷりと時間をおいてから、婆ちゃんから返ってきた答えはしかし、俺の嘆願についての許可ではなかった。


「サキや。あんたは一体、何を知っているんだい?」


「……と、仰っしゃられますと?」


そう聞き返してみたが、実は仰っしゃりたいことは分かっている。分かっているが、これはそう簡単には答えられない部類の質問だ。


「代々の当主達が読み解けなかったものを、ひと目と言っていいくらいの時間で解読した。それだけじゃない、レヴィの塾で教えることになった<幻視>とやらの訓練方法もそうだ。多分そこのルリアには教えていて、私やレヴィ達には黙っていることもまだあるんじゃないのかい?あんたはそれを、何処からどうやって知ったのかと、そう聞いているんだよ」


婆ちゃんの言葉は静かで穏やかなものだったが、その表情は巌を思わせるような重々しいものだった。その「全てお見通しだよ」と言わんばかりの、底光りする両のまなこに射抜かれて、俺は思わず体ごと固まってしまう。心臓がどくどくと胸の内で早鐘を打ち、俺は呼吸することさえ困難なくらい痺れていた。ああ、息詰まるってのは、こういうことを言うんだな。


俺は単なる六歳児ではない。前世でも大概若造だったが、ガラの悪い上司やクライアントに凄まれた経験などいくらでもある。しかし今俺の眼前にいるのは血塗れの英雄、戦争で大勢を殺戮して味方にも恐れられた大魔法使い、”魔女ザ・ウイッチ”エステル・アドニ・アルカライだ。正直に言えば、粗相をしてしまう一歩手前だった。それでも俺は何とか視線に力を込めて婆ちゃんを見返し、一方で体の力を抜くと懸命に震える息を吐き出した。ふう。


そうかー、そうだよな。流石にもう、放置はできないか。一応は六歳の子供であるこの俺が、これだけ我が子爵家やその周辺に影響を与えているんだ。いつかはこうやって、問い詰められる時が来るんじゃないかと思ってはいたさ。


だが、こと魔術に関する事柄については、俺は自重するつもりはない。魔法に関しての色々はまあ、余禄みたいなもんだけど。魔術を極めることは俺の前世からの目標であり、これを譲ることは出来ない。それにだ。いずれ参入するかもしれない結社の指導者が、世界に魔術を広めてくれと俺に頼んだということもある。


だから今後は、俺の行動如何でもっと大きな波紋を我が家に、そしてこの国に生じさせることになりかねない。もしそうなった時、必要なのは周囲の理解と協力だ。自分勝手にプロジェクトを進めようとしても上手く行かないのは、前世の社会経験で嫌というほど思い知った。だから今回も、味方を増やし状況を整えながら進める必要がある。


ただ、その理解を得るということが難しい。納得してもらえる説明を出来る自信が、これっぽっちも無いからだ。素直に「ここではない別の世界での人生の記憶と知識があって、それを使っています」と言って納得してもらえるか?多分、説明に説明を重ねる羽目になることは目に見えている。それでも心底納得はして貰えないだろうし、その労力と時間が勿体ない。


そこで俺は悪手と知りながら、もう一つの選択肢に手を伸ばした。そう、責任をクライアントに丸投げするというヤツである。



「……教えてもらったんです」


「誰から?」


「魔法の女神様から、夢の中で」




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「夢の中で女神様に教えて貰った。その答えで、母上は納得なさったんですか?」


王都、アルカライ邸。サキが巻物の謎を解き明かしたその日の夜。明かりを落とした当主の書斎には、テーブルの上の小さなランプに照らされる三人の姿があった。レヴィ、サーラ、そしてエステルである。先程の問を発したのは、難しい顔をして腕を組むレヴィだ。サーラは頬に手を当て、困惑した様子で夫と義母の話を聞いている。問われたエステルは愛用の長煙管から一口吸うと、細く煙を吐き出してから答えた。


「逆に聞きたいね。あんた達はどう思う?」


「俄には信じられません……ですが、サキが嘘を言っているとも思いません」


レヴィはためらいがちな口調ながら、しかしはっきりとサキが嘘をついている可能性を否定する。エステルはその答えに頷くと、視線をサーラに向けて促した。サーラはエステルの目をしっかりと見返しながら、熱のこもった調子で答える。


「あの子は、私達の子は明らかな偽りを口にする子ではありません。本人にとってはそうとしか説明できない理由があって、そのような物言いをしたのだと思います。少し前に、あの子達が足繁く神殿に通っていたことがありましたが、もしかするとサキはそれよりずっと前に、お告げのようなものを聞いていたのかも……」


妻の言葉に、レヴィは心中で成る程と唸る。塾へ通うようになった頃、急にサキが神殿へ行きたいと言い出したことがあった。確かサキとの会話の中で、魔法の女神イシスについて言及した時のことだ。それより以前からサキは何者かの言葉を聞いており、それが魔法の女神かどうか確かめるために神殿へ向かったとすれば、辻褄が合う。


エステルは二人の返答を聞くと、溜息をつきながら話し始めた。


「ここに来る前に、マリアにも尋ねてみたんだよ。あんた達と似た様なことを言っていたさ。『サキだったら、そういうこともあるかも知れない』ってね。我が孫ながら、変な方向に変な信用があるねえ」


肩をすくめ、長煙管から煙を吸うエステルに、レヴィは再度問い掛ける。


「それで、母上はどう思われるのですか?」


「信じないね」


エステルの返答はにべもない。しかし彼女は反駁しようとするレヴィやサーラを手で制すると、言葉を続ける。


「信じちゃいないが、頭から否定できないのも確かさね。あの子は自分やルリアの魔力を増大させることができ、他人が呪文を唱えるのを見ただけでその呪文を習得できる。友人に教えたという、『幻視』の訓練方法にしたってそうさ。多分、この世の誰もこんな事を教えることはできやしないよ。あの子が最初から、これらのことを知っていたのでもない限り、ね」


「最初から……それこそ、女神様のお告げ以上にあり得ないことのように思えますが」


レヴィは眉根を寄せながら、母の言葉に異を唱える。それに対し、エステルは面白がるような口調で言い返した。


「そうでもないさ。そういった存在についての伝承が、大昔から伝えられているんだよ。『異人まれびと』と言ってね、何処からともなく現れてはその土地の人々に祝福を与えたり、全く新しい文化や知識を伝えて、人知れず去っていくもの。その姿は人間だったり、異形だったりと色々だそうだけど」


この言葉に、サーラが静かにキレた。普段のおっとりとした喋り方から想像もつかない、冷ややかな感情を殺した声でエステルに言う。


「サキは私がお腹を痛めて産んだ、間違いなく私達の子です。何処から来たのかも分からないような、怪しいものではありません。それともお義母様は、サキがそんな得体の知れないものと入れ替わっているとでも?」


「ああサーラ、言い方が悪かったね。私にとってもサキは可愛い孫だよ、それは疑っちゃいないさ。ただ『異人』の伝承を思い出した時、ふと思ったんだよ。『異人』は何処からかやって来るものとは限らず、人々の間に生まれつくこともあるんじゃないか、とね」


申し訳無さそうな様子で答えるエステルを見て、レヴィは「サーラでも『お師匠様』に言い返すことがあるんだな」とどこかズレた考えを抱いていた。ややあって我に返ったレヴィは、思考を切り替えるためにも「んんっ」とわざとらしく咳払いをし、女性陣の気を引く。


「ですが母上。女神様のお告げも『異人』も、ありそうにもないという意味では似たようなものかと」


「そうなんだよねえ……。最初はサキが、神殿で司祭どもに変なことを吹き込まれたんじゃないかとも思ったんだけど、違うんだろう?」


「はい。同行していたラズによれば、神殿でのサキはルリアとともに図書室に入り浸り、司書以外の神職とは言葉も交わしていないとの事です」


「ハンナも全く同じことを言っていますわ」


「そうだろうね。第一、サキが女神のお告げを聞いたなんてあの連中に漏らしでもしてたら、今頃大騒ぎになっているはずだよ。奇跡の子として祭り上げられるか、神を騙る不信心者として迫害されるか。どっちにしろ、碌なことになっちゃいなかったろうさ。サキもそれが分かっていて、これまで誰にも話さなかったんだろうけどね」


エステルは溜息とともに、再度長煙管を口元に運ぶ。面々に考え込む素振りを見せ、三人の会話は一旦途切れたが、やがてサーラが何か思いついたように顔を上げた。


「お義母様、ルリアは何と言っていました?その場にはルリアもいたのでしょう?」


「あの娘が自分から何かを言うと思うかい?」


「そうでした……」


悄気た顔で俯くサーラを見ながら、エステルは「それにね」と続ける。


「サキが何を知っていようが、女神の話が真実だろうが嘘だろうが、ルリアにとっちゃ『どうでもいいこと』だろうよ」


「そうですか?ルリアはその……サキに執着しているように見えますが」


「その通りだよ。これは勘なんだけど、その上でルリアは自分の中の根っこの深い部分まで、サキに預けてしまってるんじゃないかねえ。サキが白と言えば白、黒と言えば黒。あの娘にとってはサキの言うことが全てで、後は些事なんじゃないかって気がするよ」


「それは……」


エステルとサーラ、二人の女性は考え込むような表情で押し黙ってしまう。この場で唯一の男性であるレヴィは、迂闊なことを漏らさないよう最初から沈黙を守っていた。こと斯様な話題に限り、女性の会話に男性が混ざっても良いことは全く無いと身を以て学んでいたからだ。



「ともかくだよ」


長い間三者三様に黙り込んだ果てに、エステルは少々投げやりな口調で話しだした。


「サキの知識については、しばらく私達の間だけの秘密とするよ。塾で教えていることについては、生徒を厳選した上で口外禁止とすること。それから、サキに秘密を明かすよう催促するのは絶対に無し。今回だって、結構危ない橋を渡ったんだよ?あの子は聡いから、こちらが余計なことを考えているとすぐ見抜かれると思っておくんだね」


「そうですね。私に三重円法のやり方を開示したところから見ても、サキには自分の知識を全て秘匿しておこうという気は無いようですし、いずれ他の事についても話してくれるでしょう。それまでは特段気を使ったりはせず、きちんと家族として向き合うこととします」


「サキは本当に手のかからない子でしたけど、こんなことで悩むようになるなんて。もっと世のお母様方と、同じ様な悩みを持ちたかったですわ」


レヴィの返答にエステルが頷く横で、サーラは頬に手を当て溜息交じりにぼやく。それを聞いたエステルは、呵呵と笑って言った。


「残念だけど、諦めるんだね。サキもルリアも、とても普通の子供とは言えないよ。あんたとマリアは、出来が良すぎる子を持った宿命とでも思って受け入れな」


「お義母様のお母様には生前お会いできませんでしたけど、是非お目にかかってお話ししたかったですわ。今の私の気持ちを、凄く分かって下さる気がします」


「サーラ、あんたやっぱりマリアから悪い影響を受けてないかい?そんなことを言う子じゃなかったはずだよ」


どちらかと言うと、母上から影響を受けてるんじゃないですかね、とレヴィは思ったが口にしない。更には飛び火しないように、努めて気配を薄くしようとする。そうして二人の言い合いをやり過ごしているうちに、レヴィの脳裏に音無き声が響いた。


『夜分遅く申し訳ありません。監視対象に動きがありました。集団に加わり、王都を秘密裏に抜け出すようです』


馴染みの部下の声で聞こえてきたその内容に、レヴィは顔を引き締めて口論に水をかける。


「母上、例の標的に動きがありました。集団に混じってこの夜半に王都を抜け出すようです。もしかすると、サキ達を害するために雇われた可能性もあります」


それを聞いた途端、エステルはサーラとの言い合いを止めて立ち上がった。その瞳に、剣呑な光が満ちてゆく。


「随分と時間がかかったね。こちらが王都から出たのを確かめてから人を集めたんで、行きには間に合わなかったってことかい。それで、帰りを襲おうっていうんだね。しかも標的まで混じっているとは、ナタン達を借りといて良かったよ」


「まだそうと決まったわけではありませんが、タイミングから言って可能性は高いかと」


「それこそ『どっちでもいい』だよ。綺麗に片付けて、誰に喧嘩を売っているのかを雇い主達に思い出してもらうとしようじゃないか」


そこでエステルは、ふと脇に目をやった。そこではサーラが立ち上がり、義母と夫のやり取りを不安そうに見つめている。エステルはサーラに歩み寄ると、その背に手を回し耳元で小さく囁いた。


「安心おし。私がついているんだ、サキやルリアに指一本触れるどころか、事があったことも悟らせやしないよ。心配せずに、あの子達が戻るのを待っていておやり」


「……はい」


エステルの言葉にサーラは小さく頷くと、その背に手を回し肩に顔を埋める。しばらくして顔を上げると、サーラの表情から気弱さが消え去っていた。それを見たエステルは「良し」と口にすると、レヴィの方を振り向いて言う。


「あたしは不測の事態に備えて、向こうに戻るよ。あんたも、何かあった時のためにすぐ動けるようにしていておくれ」


「畏まりました、母上」


レヴィの返事を聞いたエステルは一つ頷き、その場で宙に文様を指先で描いていく。一つ、二つとシジルが増え、五つの印が描かれた時、「<瞬間移動テレポート>」という詠唱が聞こえ、エステルの姿が消える。


書斎に残ったレヴィとサーラは、師が消え失せた虚空に向かって頭を下げて見送った。

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