第九話 魔術オタクは気づかぬ間に危機を脱す
「これは何ですか?」
次の日の魔法の講義。俺はロシュ君を捕まえると、昨晩の成果を手渡した。
俺に押し付けられた二枚の羊皮紙を手に、ロシュ君が可愛らしく首を傾げる。年上だが、可愛いもんは可愛いのだ。それはともかく、渡した羊皮紙の片方には三重の同心円の中心に黒い点が書いてある。もう片方には三重円の一番外側のものと同じ大きさの円が一つだけ書いてあり、中心の点はない。
「私が考えた魔法の訓練に使用するものです。私もルリアも、同じ様な方法で訓練しています。差し支えなければ、先輩にも試していただけないかと」
「……よろしいのですか?これは、アルカライ家の秘伝なのでは?」
ロシュ君から返ってきた言葉に、俺は思わず目をパチクリさせる。あー、そうか。そういう風に勘違いしちゃったのか。
「いえ。先程申し上げたように、これは私が考えたものです。ですが、効果はあると確信しています。信じていただけないようでしたら、試していただかなくとも結構ですが」
そう断言する、六歳児。ロシュ君は手元の羊皮紙と俺の顔を交互に見て悩んでいるようだったが、やがて思い切ったように俺に告げる。
「……分かりました。使い方を、教えていただけるでしょうか?」
ふう、良かった。これで断られていたら、正直どうしようかと思っていたのだ。ロシュ君にこの方法を教えるのは、彼の魔法の腕が上達するのを手助けしたいという気持ちからだ。しかし同時に、この訓練法が呪文の習得に役立つかどうかというデータを集める目的もある。いや多分、かなりの確率で効果はあると思ってるけどね?
「では、その羊皮紙を持ち帰っていただいて、自室の壁に貼られて下さい。そして壁から少し離れて立ち、最初は三重の丸の中にある点をじっと見つめます」
「分かりました。それから?」
「最初は、それだけです」
「それだけですか!?」
「はい。他のことは何も考えずに、一心に見つめ続けて下さい。ある程度の時間集中して点を見続けたら、もう一つの丸が書いてあるだけの羊皮紙に視線を移します」
「……ある程度の時間とは、具体的にどれほどの長さでしょうか?」
「五百数える間、などでもいいのですが、実際に数を数えているとそちらに気を取られます。時間は気にせず点を見続けて、集中が途切れてきたらもう一枚に目を移すようにして下さい」
「そうですか……」
「次にもう一方の羊皮紙を見つめながら、先ほど見ていた羊皮紙同様に内側の二本の丸と黒い点が見える様子を思い浮かべます」
「……!」
「最初は上手く行かなくても毎日繰り返していれば、丸だけの羊皮紙に本当に内側の丸と黒い点が書かれているように見えてきます。そうなれば印を結ぶ時や呪文名を唱える際、はっきりとした像を思い浮かべることが出来るはずです。素早く発動しても、失敗しなくなると思います」
「なるほど……」
そう。これは俺やルリアが行っていた「サイコロ法」同様のイメージトレーニングを、より初心者向けにしたものである。いきなりサイコロを頭の中に思い浮かべてそれを転がしてみろというのはハードルが高いと思い、代わりに用意したものだ。直前まで見ていた三重丸に点の像が網膜に残っているだろうから、もう片方の羊皮紙にその映像を再現しやすいだろうという考えである。
ん?なんで俺やルリアは最初からサイコロ転がしたんだって?俺は前世でもこのトレーニングやってたし、ルリアは天才だからいいんだよ!
いそいそと羊皮紙を懐に仕舞うロシュ君を見ながら、この訓練で彼の魔法の腕が上がればいいな、と思う。そして効果があったら父さんにも話を通して、塾全体でこのトレーニングを取り入れるよう進言するつもりだ。その際ロシュ君が成果を出していれば、他の塾生もこの訓練法を受け入れやすいだろう。
「それでルリアは、さっきから何をしてるんだい?」
肩越しに振り返って、俺の背中に貼り付いているルリアを見る。彼女は俺の後ろに隠れたまま、俺達二人の周囲を八つの光球にランダムな周回軌道を描かせて飛び回らせている。テリトリーか?テリトリーの主張なのか?
きょとん、とした視線を俺に返してくるルリア。ロシュ君はそんな俺達を見て、曖昧に笑って流すことに決めたようだ。
結局この日も、他の塾生は遠くからこちらを伺うばかりで話しかけてこなかった。
塾に通い始めてから一週間。俺達とロシュ君はすっかり打ち解け、魔法の講義の時間にお互い色々と話をする間柄になった。俺達といっても、ロシュ君と喋るのは主に俺なのだが。しかし最近はルリアも威嚇行為(?)のようなものを控えるようになったので、ロシュ君に気を許しつつあるのではないかと思う。彼とは長い付き合いになる気がしているので、早く慣れて欲しいものだ。
ロシュ君のプライベートについても少々知ることが出来た。彼の父親はラメド男爵という人物で、王宮に出仕する財務官僚でありながら男爵位を拝領したのだという。しかし一代限りの名誉叙爵なので、子であるロシュ君は平民として扱われるのだとか。彼の父君は厳しい方で、ロシュ君が上流階級と交流を持っても恥ずかしくないようにしっかりと礼儀作法を学ばせたそうだ。魔法学校に入学すれば周りは貴族の子弟だらけなので、その時のために必死で学びました、とロシュ君は苦笑いしていた。
彼に教えたイメージトレーニング(「三重円法」と名付けた)は少しづつ効果を上げているようで、<
そして俺が編み出した周囲の魔力を集める方法。これについても、色々と試してみる内に分かったことが幾つかあった。俺には草花や樹木に宿る魔力の光も見えるのだが、これらの魔力も手をかざして吸収することが出来た。しかし調子に乗って魔力を取り込んでいたら、手を当てていた花が枯れかけてしまったことがあったのだ。
これは多分に想像を含んでいるのだが、この世界の魔力は恐らく生命力と強い関係があるのではないかと思う。集めた魔力を枯れかけた花に戻すことで、しばらくすると元の瑞々しい姿を取り戻したからだ。前世の知識で言うと、やはり仙術の「氣」に近い性質があると思われる。俺が<明かり>の呪文を唱えて気絶したのは、魔力の枯渇が俺の生命力そのものを損なったためではないか。うわあ、洒落にならねえ。
更に言えば、俺は多分動物や人間からも魔力を「吸う」ことも出来ると思われる。しかし今言ったような推測が成り立つ以上、今後それを試すことは差し控えたい。まかり間違っても、俺が吸血鬼や夢魔の類であるなどと噂を立てられたくはないからな。
そしてこの魔力吸収法(「元○玉」と命名しようと思ったが、自重した)については、俺以外の人間が習得するのは難しそうだ。何せ、ルリアが真似できなかったのだ。
「自分の周りに光の小さな粒が沢山浮いていて……それが手の中に集まってくるように……」
「……?」
「んー、集まらないね」
「……体の中にある時みたいに、感じ取れない」
といった感じで、ルリアですら周囲にある魔力に干渉することは出来なかった。俺にそれが可能なのは、やはり周りにある魔力が実際に見えているからだろう。ま、ルリアは元より自前の魔力が充分過ぎる程あるので、魔力吸収法を身に付けられなくとも問題はない。だがロシュ君のような、魔力に乏しい塾生達の助けになるかもという目論見は崩れ去ってしまった。
更に更に、魔力吸収法も万能ではないということ。大気中に漂う魔力は見た目の通り微細で微量なため、これを集めても大した魔力量にはならない。それこそ今の俺では、初歩の初歩の呪文である<明かり>を満足に発動させられる量も集められないのだ。
そして周囲にある魔力を集めてしまえばその場は魔力の真空地帯のような状況となり、それ以上は集められなくなる。場所を移すか、大気の流動に合わせ再び周囲に魔力が満ちてくるのを待つしかない。そうそう都合よく、無限に湧き出る井戸の如きうまい話は無いという訳だな。
以上、この一週間で魔法については良い目も悪い目も出たが、それなりの進捗を見ることが出来た。となれば、魔術についても何らかの成果を出したい。俺はそのためにこの一週間、色々と準備を進めていたのだ。その準備の仕上げとして、明日はハンナの実家に行くことにしよう。
次の日、俺とルリアは午前の講義を休んで街に繰り出していた。お供はいつものハンナにラズさん。普段なら後ろから付いてくるハンナだが、今日は案内役ということでルリアの隣を歩いている。俺の隣がラズさんで、大人二人が子供二人を挟む四人横並びだ。大変行儀が悪いが、貴族街は通りも広いし徒歩で移動する人間も少ないので、時折来る馬車にだけ気をつけていればまあ大丈夫。
この外出の許可を取るため、俺はこの一週間両親に対し粘り強く交渉をしてきた。講義を休むのみならず、子供二人とハンナだけで遠くに行かせられないと言うのだ。結局、俺とルリアが一般教養に関しては他の塾生の相当先を行っていること、貴族の嫡男であろうとも市井について見聞を広める必要があること等を理由に、両親を説き伏せた。それでもラズさんを護衛として連れて行くことだけは、両親は頑として譲らなかったが。
いや、これでも譲歩させたんだ。行ってもいいが馬車を使え、とか最初は言ってたからな。我が家に一台しかない馬車を俺達が使ったら、あんた達はどうすんだと。王室魔法顧問が徒歩で参内とか、他の貴族に侮られること請け合いじゃねえか。
「この辺りには初めて来たけど、随分雰囲気が違うね」
「ふふ。アルカライのお屋敷の周りは、他の貴族様のお屋敷ばかりですからね」
「貴族街も端の方には小さめの邸宅や商店がございます。勿論、身分のある方がお持ちの物件ばかりですが」
ハンナやラズさんと話しながら、石畳で舗装された通りを歩く。道は緩やかに下りながら、遠くに見える城壁の方へと続いている。俺は初めての場所に興味津々なのだが、ルリアはいつも通り会話に参加せず、マイペースで黙々と付いてきている。
王都ハノークは小高い丘の上にある王城を中心として、二重の城壁に囲まれている。内側の城壁は
五m近い高さのある城壁が、間近に迫ってきた。下町との間を繋ぐ門の前はちょっとした広場になっており、ハンナの父親の店ダレット商会はその広場に面するように建っている。ハンナは新参者と謙遜するが、中々どうして立派な店構えだ。貴族街もこの辺りまで来るとぐっと人通りが増えるのだが、少なくない人数が店に出入りしているのが見える。
人気が出てきたので、ルリアがいつもの定位置である俺の背にしがみつく。ラズさんは周囲の人々を警戒するように、俺達の傍で目を配っている。広場には立番の兵士も居るし、大袈裟とは思うがそれが彼の役目なのだろう。ハンナが店の者に取り次ぎを頼み、俺達はダレット商会の奥に通される。
―――遠く離れた街角から俺達を伺う人物がいることに、俺はこの時気が付かなかった。
「この度は斯様な場所までサキ様にお出でいただき、誠に恐縮の限りでございます。このセダ・ダレット、サキ様がご所望されるもので御座いましたら何であろうと、たちどころに用意して御覧に入れましょう。どうぞ、如何様な御用件でもお申し付け下さい」
ハンナの父親であるダレット氏は、店の奥にある応接間で俺達を迎えてくれた。流石は貴族街に店舗を構える商会だけあって、案内された応接間は実に金が掛かっている。貴賓を迎えるためか、ソファやテーブルなどの調度も見ただけで高級品と分かる立派なものだ。多分、ウチの応接間より金が掛かっているだろう。ウチは品を損なわない程度に屋敷や服装に気を使っているが、贅沢とか華飾といった言葉からは縁遠いからな。
ダレット氏は初老を迎えたぐらいの落ち着いた容貌の人物で、穏やかな口調と警戒心を抱かせない笑顔が印象的だった。前世でも常駐先の金融機関の偉い人が、こんな感じだったのを覚えている。腰は低く、しかして卑屈にならず。服装も商会の主らしい上等のものだが、こちらを立てて事更に財力を見せつけるようなものじゃない。一代で貴族街に店を構える商家を立ち上げたというのも、成る程と思わされる。
「過分なご挨拶痛み入ります。私とルリアは生まれてより
「これはまた勿体ないお言葉。娘を預かって頂いております上に、然様に頼って頂けるとは光栄の至りでございます」
うおぅ。自分で言っていても気持ち悪いな、これ。はっきり言って、こんなやり取りは俺の柄じゃないんだが。しかし将来貴族を相手にこういった会話をせねばならないかも知れんし、練習と思って耐えるしか無いな。ハンナの親父さんなら、ちょっとぐらい言葉遣いが怪しくとも悪い方には転がるまい。
その時、ハンナがティーセットを携えて応接間に入ってきた。俺達をこの部屋に案内してすぐ退室していたのだが、勝手知ったる自分の家か、お茶の用意をしてきたらしい。俺達の前に茶を置く様子を、ダレット氏が目を細めて見つめている。そしてルリア、音速で置かれた菓子に手を伸ばすんじゃない。俺は仕方なく「乳母子が失礼を」とダレット氏に軽く頭を下げる。
「とんでもない。サキ様もどうぞお召し上がり下さい」
ダレット氏は笑みを更に深くして、俺にも茶を勧めてくれる。まあ、そう言うしかないわな。俺も逆らわず「では、失礼して」とお茶を一口含む。おお、薬草の深みある苦味に加え、柑橘の爽やかな香り。元日本人としては緑茶が懐かしくなるが、こういったハーブティーのような茶もまた良いものだ。それにしても流石は商家、良い茶を出してくるなあ。
ハンナは俺達とダレット氏に給仕した後、俺達が座るソファの後ろに立って控えているラズさんにも茶を勧めた。「いえ、私は結構です」と固辞しようとするラズさんに対し、
「あら、此処は私の生家ですわ。私は持て成す側、ラズさんはお客様ですもの。どうかお召し上がりくださいな」
実にいい笑顔で繰り返し勧めるハンナ。ラズさんも苦笑して「では、失礼ですがこのままで」と立ったままカップと受け皿を受け取り、口をつける。笑い合うハンナとラズさんを見つめながら、ルリアが菓子を頬張りながら頷いている。なんだその慈しむような視線は。
まあいい。丁度いい間が出来たので、ここで用件を切り出すとしよう。俺は飲みかけた茶をテーブルに置くと、ダレット氏に向かって告げた。
「実は、短剣を一つ購入したいのです」
「ほう。短剣、で御座いますか」
「ええ。子供の玩具には少々物騒かも知れませんが、護身の為にも一つ持っておきたいと思いまして。なに、兵士が使うような本格的な物でなくとも構わないのです。扱い易く、飾りの無いものであれば」
そう、これが今日この店を訪れた目的。魔術武器を入手することである。魔法の武器ではない。魔術を使う際に使用する武器だ。前世の魔術をこの世界でも試してみようと考えついた時、そのために色々と必要になるものが出てきた。そのうちの一つが、この魔術武器だ。
身振り一つ詠唱一つで効果が現れるこの世界の魔法と違い、前世で俺が学んだ魔術は儀式を執り行うことによって発現する。その儀式の際に用いるのが魔術武器だ。いやいや、祭壇で生贄の喉を裂くための短剣かと思ったそこの貴方、そうではない。確かに犠牲を屠る短剣も魔術武器と言えなくもないが、生憎そっち方面は俺の専門から外れるのだ。
じゃあどの様に儀式で武器を使うのかというと、身振りに合わせて振るったり構えたり、所謂カッコつけに使うのである。そう言うと何だそんなものかと思われるかもしれないが、魔術に限らず儀式というものには雰囲気や格好つけは大事なものなのだ。
前世で言えば神主さんが振るう
この魔術武器だが、必ず使用する魔術師本人が手作りせねばならないという決まりがある。自分で手づから作り上げることで、自身のオーラに同調し魔術を発現する助けになるのだとか。ただ、それは何も鉄を打って短剣を鍛えろという訳ではない。
「それから、金属に塗ることが出来る赤い塗料も手配して頂けるでしょうか。子供のやることのようで恥ずかしいのですが、短剣の刀身を赤く塗りたいと思っていまして」
子供だろうが、と自分で自分に突っ込みながら俺はぬけぬけと言い放った。魔術武器を作る際の「手作り」とは、主に装飾部分のことを指している。今回俺が作るつもりなのは「火の短剣」なので、赤い装飾を施すことが必要なのだ。これで今回の短剣購入が両親に伝わることがあっても、我が家の坊主が男の子らしく自分だけのカッコいい武器が欲しくなったのだ、ぐらいに思ってもらえればいいのだが。
「ふむ。短剣はともかく、金属に塗っても落ちない塗料となると手配の必要がありそうですな。ひとまず、店にある短剣だけでもご覧になって頂きますか」
ダレット氏はそう言うとテーブルにあったハンドベルを鳴らし、店の者に在庫を見てくるように言いつけた。予めハンナから話を聞いていたが、ダレット商会は武具や農具、馬具に食料品、その他雑貨など、非常に手広く扱っているのだという。尤もハンナに言わせれば、「それ専門の大店には後発では敵わないので、何でも手を出しているだけ」だそうだが。
このタイミングでラズさんが俺の耳元に屈み込み、こう囁いた。
「少し用がありまして、席を外させて頂きます。すぐに戻って参りますので」
珍しい、と思いながら俺はラズさんに頷いてみせる。彼はダレット氏に一礼すると、ハンナに「すぐに戻ります」と言って応接間を出ていった。その時、彼の背後に渦を巻いたような強い魔力の煌めきが見えた気がして、思わず振り返る。しかし一瞬見えたと思った魔力の渦は、すぐに消え去ってしまう。今のは何だったんだ、と俺は内心首を傾げながら、待ち時間に退屈させまいと話を振ってくるダレット氏に応じるのだった。
結局ラズさんは商談が終わるまで、戻って来なかった。俺とダレット氏はハンナの子供の頃のエピソードなどで盛り上がり、ハンナはひたすら恥ずかしいを連発し、ルリアは無心で菓子を貪っていた。
そのうち店の使用人が、幾振りかの短剣を持って戻ってくる。テーブルに並べられたそれらを慎重に見比べ、俺は手頃な大きさでシンプルな片刃の短剣を一つ選んだ。握りも俺の手に大きすぎるということもなく、刀身も短めで子供が持つのに向いていると思われる一品だ。
塗料を塗った際に刀身が厚くなることも考え、鞘を僅かに大きめに作り直してもらうことにする。腰から下げる際の革製ベルト等の拵えも含め、十日程で屋敷に塗料とともに届けてもらう手筈となった。
この日のために貯めておいた小遣いから手付金を払い、ダレット氏と商談成立の証として握手する。そこで漸く、席を外していたラズさんが戻って来た。丁度全員揃ったのでお暇することとし、ダレット氏に世話になった礼を述べると、「また、何時でもお立ち寄り下さい」との言葉を頂いた。今後も色々物入りになる予定なので、言われずとも頼りにさせていただこう。
「結局、用事って何だったの?」
屋敷に戻る道すがら、俺はラズさんにそう尋ねた。この分なら昼食に間に合うから、午後から塾で魔法の講義に出られるな、等と考えながら。
「いえ、本当に大した用事ではなかったのです。戻るのが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」
ラズさんは用件を明かさず、神妙に頭を下げる。気にしないよ、と返してハンナを伺うも、彼女も「何か?」という感じで見返してくるだけだった。まあ別に、彼のことを疑っているわけじゃない。彼は親の代からアルカライの家に使用人として仕えているというし、生まれた頃からその実直ぶりはよく知っている。多分だが、主家に報告するような話じゃないか、子供に聞かせたくない話かのどちらかだろう。
俺はこの件を忘れることとして、お土産に菓子を持たせられてご機嫌なルリアが歩きながら食べようとするのを窘めつつ、屋敷へ帰ったのだった。
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時は少し戻る。
男は広場に面した家屋の二階、覗き窓の近くの椅子に腰を下ろした。その視線は不自然ではない程度に、標的が消えた商店の入り口に注がれている。
普段は屋敷と塾の往復以外に全く外出をしない標的が、今日に限っては朝早くから全く別の方向へ向かっているのを見て、男は焦った。急いで仲間に連絡して跡をつけさせ、自分は一旦引き上げ拠点に取って返す。やがて貴族街の外れにあるダレット商会へ標的が入ったと連絡を受け、急いで王都中の拠点を再度確認する作業に入る。幸運にも件の広場に面した空き物件があることを確認し、尾行していた仲間と交代して建物に忍び込んだ。
男はこういった張り込みを得手としていた。アルカライの屋敷も塾も、おいそれと手出しができないので監視が主たる任務になる。普段は屋敷や塾から十分以上に距離を置いた拠点から観察しているが、今回は場所が悪かった。下町の広場なら露天商なりなんなりに扮することも出来るが、外れとは言え貴族街でそれをやったら場違いもいいところだ。
結局、急場凌ぎで不法侵入した建物の二階に潜伏することになったのだが、窓から見張るのには慣れている。人は意外に、自分の頭より高いところに目線を移すことはないものだ。みだりに動かず、問題の商店から見えにくい角度から監視を続ければいい。
息を殺し、気配を消すよう努めながら男は考える。あの商店は標的の屋敷に仕える使用人の実家らしいが、なぜわざわざ足を運ぶのだろう?御用聞きを屋敷に呼びつけるのが普通ではないか。店主と会いたいと思っても、店主の側から屋敷を訪れるのが常識だ。そもそも、あのような子供が商会の主に会って何を話すというのか?
標的が今日は屋敷から離れた場所にいることも気になった。依頼主の考え次第だが、もしかしたら店からの帰り道に行動を起こす可能性があるかも知れない。男の役目は監視であり、荒事は別の人間の担当だが、あんな子供を
男は疑問は疑問として、仕事はきちんとやるタイプだった。店の方向だけを見ないようにしながら、顔は動かさずぼんやりとした目つきで広場を見渡す。焦点を結ばずに両方の目で真っ直ぐ平行に視線を飛ばす目の付け方は、視界を広くし何か変化があったらすぐに気づく、警戒の基本形だ。そうして行き交う通行人にも注意を払っていると、商店の入り口から標的の付き人が出て来た。
ラズ・ハイムという名の、若い男だ。アルカライ家の侍従をしており、最近は標的が塾へと行き来する際にいつも付き従っている。男は以前から、このラズという男が油断ならないと感じていた。仲間にもこの男に気取られないよう、監視には十分な注意を払えと常々言っている。
ラズは店を出てから、他の通行人を避けつつこちらの方向へ真っ直ぐ……真っ直ぐ過ぎる!明らかに、こちらを目指した足取りだ。監視がバレた?途中交代した仲間が、何かヘマをしていたのか?思考は千々に乱れ、心臓は早鐘のように胸を突く。侍従がこの建物の入り口まであと数歩と迫った時、男は耐えきれず椅子から立ち上がった。
「どうしたい?そんなに慌てて」
振り向いた男の眼前に、背の高いローブ姿の老女が立っていた。音も無く、気配も無く、男がこの建物に入った時には確かに無人だったのに。
「え……」
男が何か言いかけるより早く、老女の指が素早く印を描き、唇が短く詠唱を囁く。その光景を最後に男の視界が暗転し、その意識もまた闇に飲まれた。
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ラズは空き家の裏口から入って階段を上り、二階の部屋の扉を開ける。中には倒れ伏した男を見下ろす、エステル・アドニ・アルカライの姿があった。扉を閉めたラズはエステルのところへ歩み寄ると、膝を突く。
「先代様におかれましては、お手を煩わせた事面目次第も御座いません」
エステルは腕を組みながら、実にどうでもいいといった口調で答えた。
「いいさ。こういうのはね、大袈裟なくらいで丁度いいんだよ。油断しておざなりに備えておいて、いざ大事が起こったら後悔してもし足りないからね」
そう言いつつエステルは、靴の先で倒れている男を転がす。どこにでもいそうな面相の、如何にもどこかの貴族の従僕といった服装をした男だ。その胸は微かに上下しているが、乱暴に蹴られた男が目を覚ます気配はない。
「店の裏手をうろちょろしてた奴と同じで、何も知らないとは思うがね。一応尋問するだけしてみて、その後は適当に脅して放り出せばいいさ」
「せめて何れの貴族の命を受けたのか、それだけでも分かれば良いのですが」
「ウチを煙たがってる連中は、それこそ掃いて捨てる程いるさね。どこのどいつだろうと、ちょっかい出すなら思い知らせるだけだよ」
鼻で嗤って、エステルは指を一つ鳴らした。同時に、ラズの背後に控えていた<
「さて、後始末は任せたよ。これに懲りて無識どもが少しは大人しくなってくれれば、あたしも暇暮らしできるんだけどねえ」
ラズは無言で頭を下げる。頭上で短い囁きが聞こえ、しばらくして頭を上げたラズの前にはエステルの姿は無く、床で眠り続ける男だけが残されていた。
「では、手早く済ませますか。サキ様達を待たせ過ぎては、従者の名折れというもの」
ラズはそう独り言を漏らすと、伏した男に近づいていった。
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