第三話 魔術オタクは偉大な祖母と邂逅す

祖母の来訪を知らされた次の日から、我がアルカライ家はいつもと違った緊張感に包まれることになった。


料理長(前世では男性のイメージだったが、当家は年配の女性)は特別な食材を商店から買い入れ、今から時間のかかる料理の仕込みを始めている。ダニおじさんはお手伝いの男性を数人雇い入れ、樹木の剪定や庭園と菜園の手入れを急ピッチで進めていた。清掃担当のメイドさんたちはいつもより入念に家具や階段を磨き上げ、そんな彼女たちの働く様子を、家令がいつも以上に厳しくチェックしているのだった。変わりないのは俺とルリア、俺達付きのハンナぐらいだ。


「お祖母様はどんな方なの?」と尋ねる俺に、ハンナは「私もよくは存じ上げませんが」と前置きしながらも、自分の知るところを語ってくれた。


祖母、エステル・アドニ・アルカライは、この国最高の魔法使いなのだという。もともとアルカライ家は旧家ではあったが、いわゆる村の庄屋的な存在で、貴族ではなかったそうだ。ところが30年ほど前にあった戦争で祖母は大変な戦功を立て、国王から子爵位に王都の屋敷、宮中での役職までいただいた。父が家督と役目を引き継いだ現在は、故郷の村に帰って隠居を決め込んでいるそうだ。


「国で一番の魔法使いか。凄いね。どんな人なの?」


「実は、私も殆どお目にかかったことがなくて……」


「あれ、そうなんだ」


「私がこの屋敷に上がる少し前に、先代様は旦那様にご当主の座をお譲りになり、故郷の村にお戻りになったそうです。それから先代様がこの屋敷に来られたのは、お二人がお生まれになった時の1回だけ。その時も、お二人のお顔を見られてすぐにお帰りになったとか。ですので、お話しさせていただく機会もございませんでした」


「ふーん」


随分とせっかちな人のようだ。もしかしたら、サーラ母さんと仲が悪かったりするのだろうか。この世界でも嫁姑問題は、永遠のテーマなのかも知れない。


「私は、父がご当主様と懇意にさせていただいている縁でこのお屋敷に参りましたが、古い使用人の中には先代様が故郷から呼び寄せられた方もいらっしゃいます。若い使用人にも、古参の方々を親に持つ者がおりますので、そういった者にお尋ねになられるとよいかと」


「分かった。他の人に聞いてみるよ。ルリアも行く?」


俺とハンナの会話中、ルリアは黙って横で子供向けの文字の本を読んでいたが、俺の声に顔を上げると無言で手を差し出してきた。その手を取ると、二人並んで子供部屋を後にする。ハンナは何も言わず、俺達の後ろからついてくるようだ。さて、誰に尋ねようか?


二階の子供部屋から階段を降り、一階の端にある厨房へやってきた。お昼はもう少し先の時間だが、料理メイドさん達が慌ただしく動き回って料理の下準備をしている。火にかけた鍋をかき回しながら、大柄でふくよかな女性が彼女たちに大声で指示を出していた。


「野菜を洗い終わったら、パン窯の様子を見ておくれ!アンタたちはスープを頼むよ!」


この胴間声の女性が、当家の料理長だ。この屋敷の厨房に勤めて三十年という、叩き上げの料理人である。三十年ということはつまり、この屋敷が建てられた当時からの生え抜きということで、使用人の中でも幹部格の人だ。


「料理長、確認をお願いします!」


石窯の蓋を開けたメイドさんから声がかかると、料理長は鍋の前を離れ、パンが焼かれている窯の中を覗き込む。


「よし、もう窯から出していいよ。何度も言うけど、気をつけてやるんだよ」


はい、という返事を背にして、料理長は先ほどまで見ていた鍋の方へ戻る途中、厨房の入り口に立つ俺達に気づいたようだ。エプロンの前掛けで手を拭きながら、こちらへ歩いてくる。


「どうしたんだい、坊っちゃん達。見ての通り、今忙しいからあまり構えないよ」


「ごめんね料理長。お祖母様のことを聞きたくて」


俺の言葉に、料理長は視線を外して俺達の背後を見る。気配で、ハンナが頭を下げたのが分かった。料理長は軽く肩をすくめると、「こっちで話そうかね」と言って鍋の元へ向かう。俺達も黙って、その後を追った。


再び鍋をかき混ぜながら、料理長が問うた。


「先代様についてだったね。何を聞きたいんだい?」


「お祖母様が、この国で一番の魔法使いだというのは教えて貰ったんだけど、どんな人なのかなって」


「どんな人、ねえ……。一言でいうと、おっかない人だよ」


ホントに一言だな。どんな風におっかないんだ?夜な夜な首が抜けて、辺りを飛び回るのか?


「怖い人ってこと?」


料理長は手を止めると鍋を見ていた顔を上げ、宙に視線をさまよわせながら話し始めた。


「あたしが田舎の村で親の手伝いをしてた頃、先代様はあの辺りじゃ有名な、飛びっ切りのお嬢様だった。上品で、とんでもなく頭が良くて、あたし達村の小さな子供の憧れだったさ。魔法使いになるっていうんで街に行っちまったけど、戦争が始まっちまってそれきり村には戻って来なかった。戦争が終わってこの国ができた頃、お嬢さんが王都で貴族様になったって聞いてね。お屋敷で働く人間を集めてるっていうんで、あたしは真っ先に手を上げたよ。それで、十年ぶりぐらいかねえ、久々に先代様にお会いしたのさ」


そこで料理長は話を切ると、俺とルリアを順に見てから話を続けた。


「久しぶりに見た先代様は、昔知ってたお嬢様じゃなかった。相変わらずお綺麗だったけど、目も、声も、優しげなのに凄味があってねえ。正面に立つと、自然と縮こまっちまうんだ。昔みたいに気安く話しかけたりなんか、とても出来やしなかったよ。そりゃそうさ。先代様はもうお嬢様なんかじゃなくて、魔法使いで、貴族のご当主様だったんだからね。滅多に怒る人じゃなかったけど、偶に叱られた使用人はいい大人なのに泣いてたねえ」


幼児にする話じゃないよな、と思いながら俺は黙って聞いていた。ルリアは本より喋らないが、一緒にじっと料理長の話を聞いている。ハンナもだ。あ、もしかして若い使用人であるハンナに聞かせる意味もあって、こんな話をしているのかもな。


「魔法使いは皆おっかないけど、中でも先代様は格別におっかないね。アンタ達も先代様がいらっしゃったら、行儀よくするんだよ」


「わかったよ、料理長。忙しいのに、話を聞かせてくれてありがとう」


礼は言うが、頭は下げない。貴族たるもの、平民にむやみに頭を下げてはならない、と教えられたからだ。正直日本の会社勤めの経験がある身としては、どうしても反射的に頭を下げてしまいそうになる。散々矯正されたので、今は滅多に失敗しないが。代わりにハンナが頭を下げて、仕事を邪魔したお詫びをしている。料理長は気にするな、とばかりに手を振ると、再び鍋に集中し始めた。俺はルリアの手を引いて、いよいよ昼時が近くなって戦場と化してきた厨房を後にしたのだった。


しかし、魔法使いが怖いというのは、魔法使いの家に生まれた俺にとっては、よく分からない感覚だ。俺の両親も、屋敷の外では恐れられているのだろうか。そう言えば祖母は昔戦争で功を上げ、貴族になったのだという。村の名主の娘という一種豪族的な立場だったとしても、平民がいきなり一代限りじゃない世襲貴族に叙されるのだから、その活躍はとんでもないものだったに違いない。戦場で大活躍、つまり大勢の人を殺したということだろう。うはあ、皆が怖気づくわけだよ。


ともあれ、もう少し祖母についての情報が欲しい。俺達は次に、祖母について近くで見聞きしていたであろう人物を訪ねることにした。




「それで、私の所にいらっしゃったという訳ですか」


俺達の前に座った初老の男性が、穏やかな口調で語りかけてくる。この人はアルカライ家の家令で、ギルさん。家令というのは屋敷の総支配人のようなもので、多忙な当主に代わり、屋敷の運営の総指揮を執る立場だ。白いものが混じった髪をオールバックに撫で付け、口髭は綺麗に整えられ、上級使用人の服をきっちりと着こなしているその姿は、前世で貴族の屋敷に付きものだった『執事』のイメージに近い。実際には家令の方が執事より時代が古く、執事は主に男性使用人の総支配という、家令より幾分業務範囲が狭い役職である。あくまで前世では、だが。


「はい。長年お祖母様の側に仕えておられたギルさんなら、また違ったお話が聞けるかと思いまして」


俺の返事は、他の使用人に対するものとは違った口調になっている。ギルさんは礼儀作法に厳しいので、丁寧な言葉遣いでないとお叱りを受けるからだ。とは言え、貴族らしい持って回った語り口など、俺的には勘弁して欲しいところなので、多少敬語混じりの丁寧口調で押し通させて貰っている。当主の息子が使用人に敬語を使うのは、ギルさんからすると良くないことらしいが。


「成程、先代様のお人柄をもっとお知りになりたいということですね」


そう言ってギルさんは、俺達に茶菓子を勧めてくれる。今俺達がいるのは、屋敷の一階にあるギルさんの執務室だ。ここには彼の執務机以外に、椅子とテーブルの簡単な応接セットがある。家令の仕事として、新しい使用人の面接をしたり、主人に直接会わせるまでもない来客を迎えたりするためだ。俺とルリアがギルさんの正面に腰掛け、ハンナは後ろに立って控えている。幼児の身には、成人用の椅子は登り降りが大変だが。


「料理長からは、お祖母様が使用人達に大変敬意を持たれているというお話を聞きました。他にもお祖母様について、教えていただけることはないですか?」


バカ正直に使用人達がビビってたと聞いた、などという話はしない。


「そうですか。先代様は、何も屋敷の者にだけ尊敬されていたのではありません。屋敷の外でもそれこそ宮廷から庶民に至るまで、大勢の方々から崇敬を受けておられます。それは当主の座を退かれた現在でも変わりません」


「それは、貴族としてでしょうか?それとも、魔法使いとしてでしょうか?」


「両方ですが……そうですね。世間的には貴族としてよりも、魔法使いとしての先代様の方がより高名であると申せましょう」


ギルさんは苦笑しながら、重ねて茶菓子を勧めてくれる。俺は失礼します、と断ってからお茶に口をつけた。当家の使用人は俺が幼児らしからぬ言葉を使うのに割と慣れてきているが、やっぱり違和感は拭えないようだ。あ、我慢できずにルリアが黙ってお菓子に手を出した。ギルさんの眉が僅かに顰められたのを見て、俺は急いで会話を再開する。


「お祖母様はこの国で一番の魔法使いでいらっしゃると、皆に聞きました。国で一番というのは、具体的にはどれ程のものなのでしょうか」


「魔法使いの方々の事情に関しては、平民である私には詳しく知り得ないことですが」


ギルさんは断りを入れてから、話を続ける。


「先代様は三十年前の戦争当時、既に実力で並ぶ者無しと称されておいででした。しかし先代様の真に偉大であられる所は、戦争が終わってからであったと私は愚考致します。先代様は私塾を開かれ、多くの優れた少年少女を見出し魔法学校に送り込まれました。ご自身の息子であられるご当主様を始めとする、そのような若き魔法使いの方々は立派に成長され、この国を支えておられます。高位の魔法使いと称される方の殆どが、先代様の薫陶を受けていらっしゃると言っても過言ではありません。そして現在に至るまで、先代様を師と慕っていらっしゃいます。こう申し上げれば、先代様の偉大さについて幾分なりともご理解いただけるのではないでしょうか」


「魔法使い向けの塾に、魔法学校ですか。そんなものがあるんですね。僕も通えるのでしょうか?」


やっぱりあったか魔法学校!なるべく平静を装って尋ねたが、俺のテンションは爆上がりである。前世のフィクションでもお馴染み、魔法ファンタジー物の定番と言えよう。正直を言えば上○魔法の塔みたいな秘密結社っぽいのがいいのだが、まあこの際ホ○ワーツでも文句は言うまい。


「サキ様は当然、塾から魔法学校にお進みになられると思います。ですが、魔法使いではない私にはこれ以上詳しく申し上げることは出来ません。他の方にお尋ねになる方が良いでしょう」


「他の方、というと?」


ギルさんは柔らかく微笑むと、俺に告げた。


「マリア様ですよ」




「最初から私に聞きに来ればいいのに」


いつもの子供部屋、ルリアを膝に乗せながらマリア母さんはそう言った。その手はルリアが着ている新しいワンピースの、胸元のリボンを直している。それを見る俺の服装も、買ったばかりの上着にズボンだ。ついさっきまで、マリア母さんとハンナが本番前の試着と言って俺達に新しい服を着せ、あーだこーだ言っていたのだ。


「そうだね。でも、今日はマリア母さんいなかったから」


マリア母さんはダニおじさんと一緒に、俺達の服を買いに行ってきたのだという。久しぶりのデートだったのだろう、いつもより上機嫌に見える。そのおじさんはルリアと一緒にしておくとうるさいので、着替えるからと言ってマリア母さんとハンナが子供部屋から追い出してしまった。ごめんよ、おじさん。


「それで、伯母様のことを屋敷の人達に聞いて回っていた、と。どんなことを聞いたの?」


「お祖母様がこのお屋敷の皆や、国中の人達から尊敬されている、凄い魔法使いだってこと。後は、怒ると怖いってことかな」


「まったく、誰が言ったのかしら。まあ、確かに怖いけど」


そう言って、伯母様に言っちゃダメよ、と唇の前で指を立てるマリア母さん。前から思っていたが、この人結構ひどい人だよな。


「ギルさんから魔法使いについてはマリア母さんに聞け、って言われて。魔法使いの塾とか、魔法学校とか」


「そうなのね。でも、サキはまだ魔法使いになっていないから、全部は教えられないかな」


「……ということは、マリア母さんも魔法使い?」


「そうよ。これでも、伯母様の弟子の端くれなのよ?と言っても、あんまり優秀じゃなかったけどね」


そう言って舌を出したマリア母さんは、ハンナに向かって目配せする。ハンナはそれに頷くと、一礼して子供部屋から出て行った。ハンナが子供部屋の扉を開けた時、ハンカチを噛みながら涙を流してこちらを伺うダニおじさんが見えた気がするが、気のせいだと思うことにする。


マリア母さんによると魔法使いの間には厳しい取り決めがあり、一般人には魔法についてほとんど何も教えてはいけないのだという。魔法使いを志して弟子入りしたり塾に入ったりした者に限って、段階的に魔法について教わることができる。全てを教えられるのは魔法学校に入学してからで、入学できなかったり退学したりした者が魔法を使うのは犯罪として取り締まられるのだという。


「だから、サキがもう少し大きくなってお父さんの塾に入るまでは、魔法については教えられないかな」


「お父様の塾?そうか、アルカライの家が開いた塾ということだから」


「そうよ。伯母様が開いた私塾は、今はレヴィが引き継いでいるの。大勢があなたのお父さんに、魔法学校に入るための勉強を教わっているのよ」


「何歳になれば、塾に入るのを許して貰えるのかな?」


「六歳ぐらいかな。私もサーラもレヴィも、大体それくらいの歳で伯母様の塾に入ったから」


あと三年か。正直、長い。これだけ身内に魔法使いがいても特別甘い扱いを受けられないとなれば、真っ当な方法では今から魔法について教わることは出来そうにない、か。


「そんなに昔から、三人一緒だったんだね。あれ、でもそうすると、ダニおじさんは?」


「あの人は、魔法学校に入ってからね。造園作家志望の若い徒弟だったんだけど、街で会った時に凄い勢いで『一目惚れしました!』って言われて。正直、魔法使いって普通の人からは怖がられるから、すごく新鮮でね。あの人ったらいつの間にか、サーラやレヴィとも仲良くなっちゃって。二人ともあの人を応援し始めちゃうし、それで……」


しまった!こんな所に地雷が埋まっていたとは!!気がついたら、ルリアはマリア母さんの胸に顔をうずめ、すやすやと寝息を立てている。ダニおじさんもハンナも、戻ってくる気配がない。俺は結局似た者同士だったんだ、とマリア母さんへの評価を改め、孤立無援の中ひたすら惚気話の聞き役に徹したのだった。


婆ちゃんについて教えてくれるって話は、どこに行ったんだよ、おい。




とうとう祖母が来る日がやってきた。


俺とルリアは新しい衣装に身を包み、子供部屋で待つことしばし。ハンナがやって来て、用意が整った事を告げる。彼女に連れられて向かった先は、今まで一度も入ったことがない父親の私室だ。扉の前で待つ侍従さん(若いイケメンで、屋敷の女性使用人からたいそう人気が高い)は俺達に頷くと、ノックの後静かにドアを開けた。


そっとルリアを横目で見るが、いつもと変わらない無表情ながら、伏せた瞳に緊張の色が見える。俺はルリアの手を軽く握って注意を促し、顔を上げた彼女に「行こう」と笑いかけた。ルリアがこくりと頷くのを見て、手を引いて扉をくぐる。


初めて入った父の部屋は思ったより広くなく、ドアの正面壁際に黒檀っぽい木材で作られた大きな机があり、両サイドの壁に本棚が並んでいる。当主の部屋にしては豪華な調度など少なく、飾り気のない雰囲気だ。棚には羊皮紙を綴った本や巻物、よくわからない置物などが並んでいて、正直猛烈に興味を惹かれていたが、流石に今はそれどころじゃないじゃないと思い直す。


机の前にはソファが二つ向かい合わせに配置されており、片側にはサーラ母さんとマリア母さんが並んで座り、もう片方にはレヴィ父さんが腰掛けている。そして父さんの隣、向かって奥に座っているのが、俺の祖母にしてこの国最高の魔法使い、エステル・アドニ・アルカライなのだろう。


祖母は細身で背が高く、背筋をぴしりと伸ばして座るその姿勢からは気圧されるような迫力があった。何よりその黒く光る瞳が強い意志を湛えてこちらを見つめており、それだけで俺は自分が萎縮するのを感じる。元は黒かったであろう名残を根本に残す白髪は長く、後ろで無造作にくくってあった。二人といないと言われるほどの魔法使いにしては、その身に纏うローブは豪奢な飾りなど皆無の素っ気ないもので、普段着と変わりない。そう言えば、この場にいる大人は四人全員がローブ姿だ。マリア母さんまで普段のドレスと違い、両親と同じような修道士風のローブを身に着けている。


そして、祖母の身の内からは溢れんばかりの光が放たれているのが見えた。その光量は、我が両親のものより大きい。前世での星の明るさに例えれば、両親がベガやアルタイルの一等星だとすると、婆ちゃんはシリウス。マイナス二等星だ。というか、この場にいる人間は皆明るく光っている(俺を除いて。泣くぞ)ので、部屋が妙にライトアップされているような気になる。


大人たちの前へ進むにつれて、ルリアは俺の腕をとったまま、半分俺の影に隠れるように後ろに立った。ルリアは人見知りなところがあり、知らない人が居るとこうして俺の後ろに隠れてしまうのだ。今も俺の背後から覗き込むように、祖母を見ているのだろう。


「サキ、ルリア、よく来たね。こちらが私の母、エステルだ。サキにとっては祖母、ルリアにとっては大伯母にあたる。さあ、二人ともご挨拶しなさい」


レヴィ父さんが口火を切って、俺達に促す。俺は一つ深呼吸して、今日のために必死に考えていた口上を述べる。


「はじめましてお祖母様。アルカライ子爵レヴィが長男、サキ・アドニ・アルカライです。こちらは乳母子のルリア。本日この佳き日にお会いできたことを、心より感謝申し上げます」


どうにか噛まずに言い終え、一礼して顔を上げる。祖母が軽く眉を上げたのが見え、両親たちに「ええ……」という空気が流れたのを感じた。三歳という俺の年齢からすると、やり過ぎの挨拶だったかも知れない。だとしても、ここはカマす場面だろう。相手はこの国の魔法使いのトップ、魔術を修めようとしている俺にとっては、入社を希望している企業の会長職みたいなものだ。つまり、この顔合わせは面接のようなもの。身内だからといって安心したりせず、俺個人に対して強い印象を与えておくことは重要だろう。


続いて俺はルリアが掴んでいる腕を引いて、彼女を促す。しかしルリアは、俺の後ろから出てこようとしない。無言の間に耐え兼ねてか、とうとうマリア母さんが焦った口調で声を上げた。


「ダメよルリア。貴方もきちんとご挨拶なさい?」


ルリアはそれでもしばらく黙っていたが、やがて俺の背から顔を出し「……ルリア」と小さな声でいうと、また後ろに隠れてしまった。俺は思わず祖母の方を伺ったが、ルリアの振る舞いに気分を害した様子は特に無いようだ。ニッコリ笑って、俺達に語りかけてくる。


「はじめまして二人とも。私はエステル。サキ、貴方のおばあちゃんよ。それからルリアちゃん、マリアも私の娘みたいなものだから、貴方もおばあちゃんと呼んでね?」


おお、思ったより全然優しい感じだ。事前の情報収集で散々怖いだのおっかないだの言われたから、少し身構えてしまっていた。確かに第一印象はちょっと近寄り難く見えたが、今はとても柔らかい雰囲気に感じる。よし、ここは一つ畳み掛けるべし!


「あの!エステルお祖母様は、この国で一番の魔法使いとお聞きしました。僕も大きくなったら、魔術を生業にしたいと考えています。どうかお祖母様に、魔術を教えていただくことはできないでしょうか?!」


「ま、待ちなさいサキ!急にそんな事を言われても、お祖母様が困ってしまうだろう?!」


「そうよサキ。その話は、あなたがもう少し大きくなってからと言ったじゃない」


声を張り上げて訴える俺に、両親は慌てて立ち上がり、口々に俺を諌めた。父さん母さん、申し訳ない。大人たちには想定外の事態だったかも知れないが、こっちにとっては予定の一石なのだ。先程面接の例えを出したけど、上司に意欲を見せることは絶対マイナスにならないからな。今、魔法使いの頂点たる祖母に教えを授かることが出来なくとも、「大きくなったら」でも「そのうち」でもいい、将来に向けて何らかの言質が取れれば万々歳だ。


祖母は両親に座るよう手振りで示すと、申し訳無さそうな様子で俺に言った。


「サキは魔法に興味があるのね。とても良いことだわ。でも、あまり小さいうちに魔法の修行を始めるのは、本人に良くない影響があるの。お父様の塾に通えるようになるまでは、他の勉強を頑張ると良いと思うわ」


「良くない影響というと、成長に問題が出てくるとか、そういったことでしょうか?」


「そうね。サキは賢いから分かると思うけど、魔法を使うことは体に負担をかけるの。だから体が小さいうちは、無闇に魔法を使うと大変なことになるのよ。納得して貰えたかしら?」


「……分かりました。父上から教えを受けられるようになるまでは、魔術について学ぶのは我慢致します。お祖母様、それに父上母上も、我儘を言って申し訳ありませんでした」


どうやらこれ以上は粘れないようだ。俺は聞き分けの良い子であるとアピールしつつ、両親の顔も立てておく。祖母を除いた大人達の表情に、明らかな安堵の色が浮かんでいるのが分かった。祖母――ああもう、婆ちゃんでいいや――も慈しむような目で、俺を見て首肯している。


「それにしてもサキは、歳の割に難しい言葉を知っているのもそうだけど、言い回しも古風なのね。『魔術』とか『魔術師』とか、今は使う人も少ないのよ」


「そう言えばそうですね。お義母様、『魔法』と『魔術』は同じものではないのですか?」


「もしかしたら、昔は違うものを指していたのかも知れないわね。でも知られている限り、『魔法』は私達が使うもの一種類だけだし、私の師匠や先輩達も、自分のことを『魔法使い』と呼んでいた。何故二つの呼び方があるのか、調べてみるのも面白いかもね」


残念だがサーラ母さん、その二つは違うものなんだ。前世では、「理屈の分からない不思議な技」を「魔法」と呼び、学問であり技術でもある「魔術」とは区別していたのだよ。前者は経験的・帰納的であり、後者は理論的・演繹的と言い換えてもいい。しかしこの世界では、言葉は別個に存在しているのに、同じ事象を指していると思われている。これはどういうことだ?


ふと、俺の腕を掴んでいたルリアの手が離れていった。見るとルリアは俺の背後から出て、マリア母さんのところへ行って抱っこをせがむように、両手をVの字に上げている。おのれ、さては俺達の会話に飽きてきたな?マリア母さんは仕方がないといった風に首を振ると、婆ちゃんの方を見て頭を下げてからルリアを膝の上に抱きかかえた。そこでレヴィ父さんがわざとらしく「ゴホンゴホン」と咳払いして、エステル婆ちゃんに水を向ける。


「あー、魔法については兎も角、だ。母上は、サキに尋ねたいことがあったのではないですか?」


エステル婆ちゃんは「思い出した!」とでも言いたげに胸の前で手を合わせると、俺に向き直って言った。


「そうそう、おばあちゃんからも一つ質問させて?レヴィから聞いたのだけど、サキは他の人が光って見えるんでしょう?どんなふうに見えるの?」


お、謎の発光現象についてのお尋ねだ。両親やマリア母さんから他人に話してはダメと言われてきたが、今回のケースは大丈夫のようだ。でなくては、今のように三人が揃っている場所で、婆ちゃんに尋ねるよう促したりはしまい。


「はい。僕も含めて、みんな体の内側から光が広がっているように見えます。人によって、明るさの強さが違って見えますね。それから、人だけではなくて動物や植物も光って見えます。人間に比べたら、すごく弱い光ですけど。あと、空中にも光る粒が沢山浮いていますね」


頷きながらそれを聞いていた婆ちゃんは、真剣な口調で俺に言った。


「そうだったのね。サキ、よくお聞きなさい。貴方が見ている景色は、何もおかしいことはないの。サキとは少し違うけど、おばあちゃんも同じ様に他の人が光って見えるわ。それがどんな意味を持つのかは、もう少し大きくなったらお父様が教えてくれるでしょう。それで、一つ聞かせて?今この部屋にいる人で、一番強く光っているのは誰かしら?」


エステル婆ちゃんにも、この光が見えている!俺はちょっと驚いたが、またまた詳しいことは教えて貰えそうにないらしい。いい加減、勿体ぶるのを止めてくれと言いたくなるぞ、おい。


それはそうと、最後の質問はなんだろう。何かのテストだろうか?婆ちゃんが本当に俺と同じような光の見え方をしているのなら、嘘を言ってもすぐバレるだろう。これはあれか、婆ちゃんと俺とで見えている内容が一致するかで、俺の言っていることに嘘がないか、確かめようというのではないか。詰まるところ、正直に言えばいいということだな。


俺は部屋中の人間を見回すと、大きく息を吸ってからはっきりと答えた。


「ルリアです」



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子どもたちが去った部屋では、残った大人たちが言葉もなくソファに座していた。レヴィにサーラ、そしてマリアは緊張の面持ちで、目を閉じて黙したままのエステルを注視している。


面会は終わったが、侍従やメイドはこの部屋に入ってこない。今からこの場で話し合われる事柄にはルリアの将来に関することも含まれているのだが、父であるダニも呼ばれていない。魔法に関することは、魔法使い以外の者には聞かせられないからだ。


長い沈黙の後、エステルはやや大仰に溜息をつくと、静寂を破って語り始めた。


「サキは、変わった子だねえ。あんたみたいな堅物やサーラみたいに大人しい娘から、どうしてサキみたいな子が生まれたのやら」


「申し訳ありません、母上。忙しさにかまけ、あまりあの子に構ってやれず……」


レヴィは力無く項垂れ、そう呟いた。マリアに養育を任せきりで、親としての責任を果たせていない自分を恥じる。本当はもっとサキと一緒に居てやりたいのだが、子爵位と王室魔法顧問の職位を預かる身としては、中々そうも行かないのが実情だ。


「でも、伯母様からレヴィみたいな子供が生まれるんですから、不思議ではないでしょう?」


「ちょっとマリア」サーラが慌ててマリアの袖を引き嗜めるが、マリアはどこ吹く風だ。エステルがじろりと睨むが、マリアは若干口元を引き攣らせつつも、微笑み返した。


「図太くなったねえ、マリア。子供を産んで、一皮剥けたかい」


「サキもルリアも、私が育てた子です。ちょっと変わってはいますが、何ら伯母様に恥じることはありません」


エステルは嘆息を一つ落とすと、居住まいを正して三人に告げる。


「さて、そろそろ私が此処に来た用件を済ませてしまおうじゃないか」


その声に三人はエステルへ向き直り、場には再び緊張した空気が戻る。


「あの子の目は本物だよ」


エステルがぽつりと言うと、レヴィが即座に反応した。


「母上。それではサキは、母上と同じ……」


「ああ、『魔力視』の持ち主だね。とうとう二人目の『魔力視』が現れたよ。世界で私一人かも知れないと思っていたけどねえ」


レヴィの問いに、エステルは額を抑えながら答えた。向かいのソファではサーラとマリアが顔を見合わせ、やはり、と頷く。サーラは義母にして自らの師に向き直ると、疑問を述べた。


「お義母様。サキは、人以外のものも光って見えると言うのですが……」


「人間種や魔獣の持つ魔力が私には見えるけど、あの子の言う草木や空中の魔力は見たことがない。もしかしたら、サキは私より精妙な目を持っているのかも知れない」


そこでエステルは一旦言葉を切り、三人の目を覗き込みながら続ける。


「何れにしろ、これはあの子が成人するまで、私達以外に話しちゃいけないよ。国の内外を問わず、こんな目を持つ子供が居るなんて知れたら、どうなるか分かったもんじゃないからね」


エステルの言葉に、三人は深く頷いた。エステルは道を歩くだけですれ違う者が魔法使いかどうかを判別し、戦場では敵陣に潜む強力な魔法使いの居場所を、遠目からでも特定できる。そのような能力を持つ子供が、敵からも味方からも放っておかれないのは火を見るより明らかだ。


「母上、少なくともサキが自分に責任を持てる年齢になるまで、あの子が他人に漏らすことが無いよう、我々からも言い含めておきます」


「そうしておくれ。まあ、孫達に手を出そうなんていう輩がいたら、この私が黙っちゃいないがね」


エステルのその言葉は静かな口調と裏腹に、その場の三人が息を呑むほどの迫力に満ちていた。エステル・アドニ・アルカライは王国最強と謳われ、国内はおろか近隣諸国にも他には存在しないと言われる、第六階梯の魔法使いである。王国統一戦争で七都市連合軍に甚大な被害を与え、敵軍のみならず自軍にすら恐怖を与えたと言われるその強大な魔力は、隠居を決め込んだ現在に於いても些かも衰えてはいない。


人呼んで、『魔女(ザ・ウイッチ)』。世に女性魔法使いは多くあれど、単に「魔女」とだけ言えば、それは彼女のことを指す。そのエステルは先程までの覇気に溢れた表情から一転、ふと寂しげに息をついた。


「だからこそ、不憫だね。あの子は魔法使いとして得難い目を持っているのに、全くと言っていい程魔力がない」


「母上……本当にあの子は、サキには、才能がないのでしょうか?」


「成長するにつれ、魔力が変化したという事例はある。だけどサキは生まれた時と同じ、とても弱い魔力のままだった。残念ながら、魔法使いとして大成は望むべくもないだろうよ」


「そうですか……」


母であり、師でもあるエステルの言葉に、レヴィは呻くような声で答える。サーラは悲しげに顔を伏せ、内なる感情を堪えているようだった。


エステル・アドニ・アルカライはその魔力視を以って、自分の一子であるレヴィを始めとする魔力に優れた子どもや若者を見出し、数多くの魔法使いを育ててきた。現在、王国でその名を知られる高位の魔法使いは、その殆どがエステルの薫陶を受けている。レヴィが主催する私塾も、元はエステルが次代の魔法使いを育てるために始めたものだ。


そのエステルが、サキには魔法使いとしての未来がないと言い切る。半ば覚悟していたとはいえ、改めて師から突き付けられた現実に、レヴィとサーラは押し潰されそうな思いがした。


「伯母様、それで」


しばらく誰もが口を噤み、重苦しくなった空気を打ち破って、マリアが声を上げた。エステルは「分かっている」と言わんばかりにマリアを手で制すると、三人を見渡した後で、爆弾を落とす。


「私の『魔女』の二つ名は、ルリアが継いでくれるだろうさ」


三人は雷に打たれたかの様に硬直し、言葉が出なかった。魔力視は人間の魔力の大きさを、光の明るさ、大きさとして捉える。サキはこの場に居た誰よりも、ルリアが強く光っていると言った。そしてエステルは、サキの目が本物だと認めている。即ち、エステルはルリアが自身よりも大きな魔力を持っていると認めたという事に他ならない。


エステルは、他の魔法使いと隔絶した魔力を持つ。自身の弟子達を含めて、一流と呼ばれる魔法使いたちが最高でも第四階梯、多くは第三階梯に留まっているのに対し、独り第六階梯の高みにあるとはそういう事だ。では、僅か三歳にしてそのエステルを凌ぐ魔力を持つというルリアは、長ずれば如何程の魔法使いになるのだろうか。


またも沈黙が支配した場に於いて、エステルから追討ちをかけるように次なる爆弾が飛び出す。


「マリア。ルリアを将来、サキの嫁に貰うことはできるかい?」


この言葉はしかし、マリアのみならずレヴィとサーラも想定していたものだ。


「ルリアは、サキのことを好いていると思います。ですが……」


マリアはエステルに返答しながらも、言い淀む。


「なんだい、はっきりしないね。スパッとお言いよ」


「いえ、伯母様が仰りたいのは、サキでなくルリアがアルカライの家を継いで欲しいということですよね?」


「そうだよ。現に、あたしという前例があるんだ。女だろうと平民の出だろうと、問題ないさ」


「ですが、我が子ながらルリアはその……口数が少ない上に、少々人見知りでして。果たして、貴族の当主が務まるかどうか」


「でもねえ、子爵家だけなら兎も角、王室魔法顧問は実力がなきゃ務まらないよ?大丈夫、実力さえあれば文句は出ないさ」


「伯母様が仰ると、説得力がありますね」


「マリア、本当に言うようになったねえ?あの子達が手を離れたら、もう一度修行をやり直してみるかい?あたしの家に住み込みで面倒見てあげるよ。弟も、自分の娘が近くに居たほうが安心するだろうさ」


「す、すいませんお師匠様!生意気を申しました!!」


「まったく……。なんだいレヴィ、何か言いたいことがあるのかい?」


エステルとマリアの言い合いの最中、レヴィはずっとエステルを注視していた。エステルに促され、レヴィは口を開く。


「いや、母上のお考えが分かったような気がしまして。母上はサキに、父上の役どころを期待しておられるのですね?」


そう言われ、エステルは僅かに面食らったような顔をし、やがて視線を逸らしながら答えた。


「あー、まあ、そうだね。サキは賢いし、物怖じしない性格みたいだから。あの人みたいに経営とか折衝とかの面で、ルリアを支えてくれないかとね」


「そう言えばお義母様は、面倒臭いことは全部お義父様に任せておられましたものね」


「なんだいサーラまで……。マリア、あんたの不真面目さがサーラにまで伝染っちまったじゃないか。どうしてくれるんだい?」


「ちょっと伯母様、私が悪いんですか?!」


騒がしくなった女性陣を見て微笑みながら、レヴィは独り言のように呟く。


「それにサキであれば、魔法の才を持つ者を見出して立派に育ててくれるでしょう。それこそ、母上のように、ね」


その言葉に女性たちは騒ぐのをはたと止め、沈黙したままレヴィを見つめた。ややあって、エステルが代表するかのように口を開く。


「そうだね。何も大魔法使いになれなくったって、サキにしか出来ないことは沢山ある。それは誰にも、憐れまれるようなものじゃないさね」


三人は無言で答え、しばし室内には湿った空気が漂う。ややあって、再びエステルが語り出した。


「まあ先の事は分からないし、今のは私の希望とだけ憶えておいてくれればいいさ。差し当たって、二人は今まで通りに一緒に育てて、塾から魔法学校へ進ませるといい。何かあれば相談するんだよ」


そこまで言うと、エステルはパンパンと手を打ち鳴らし、打って変わった明るい口調で言った。


「さ、難しい話はお終いお終い。何もなければ、婆はもう帰るよ」


そう言いながら返事も聞かずに席を立ったエステルに、レヴィは慌てて追いすがり制止しようとする。


「ま、待って下さいよ母上。この後の晩餐の準備も致しましたし、古い使用人達も改めて挨拶したいと……」


エステルは途端に眉を顰めると、嫌そうな顔を隠しもせずに言い捨てた。


「ちょっと顔を見に来るだけだから、大層なもてなしはするなって言ったじゃないか。どんな伝手からあの不肖の弟子共に嗅ぎつけられるか、分かったもんじゃ無いんだよ?此処にあたしが居ると知られて、あのボンクラ共が押し掛けてきたらどうするんだい」


「母上が王都に来たことを隠していたと知れたら、それはそれで面倒な事になるんですけどね!主に、私が!」


レヴィが普段の落ち着いた様とは打って変わった剣幕で詰め寄ると、サーラやマリアもソファから立ち上がって同調する。


「貴族にもお義母様にお会いしたいと考えている者が大勢居ますし、今後しばらく社交界で遠回しに嫌味を言われますね。『どうして教えてくれなかった』と」


「軍の偉い方々とか、伯母様が来られていたのが知れたら怒鳴り込んで来てもおかしくないですよ」


エステルは思い切り顰めた顔の前で手を振ると、三人の訴えを切って捨てた。


「冗談じゃない、そういうのが嫌で田舎に引っ込んだんだ。何のために隠居したのか、分かったもんじゃないよ。弟子共にも有象無象にも、用があるなら村まで来いと言っときな」


「行ったら行ったでアンタ、居留守使って会おうとしないじゃないか!」


遂にレヴィは敬語をかなぐり捨てて叫んだが、エステルが両耳を手で塞いで何も聞こえないという素振りを見せると、肩を落とし目に見えて脱力した。


「あんたたちも息災でね。大丈夫。私の目が黒いうちは、この家に何かあってもすぐに駆け付けて来てやるさ」


そう言い残すと、エステルは指で空中に何かの模様を描く。彼女だけに見える光の軌跡が、一瞬で複雑な文様を宙に結ぶと同時に、一言呟いた。


「――――。」


次の瞬間、エステルの姿が部屋から消え失せる。残された三人の口からは、重い重い溜息が溢れるのだった。

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