3
唐突に現われた葵に引き摺られるようにして、ハンスは公堂に入った。中は半町歩ほどの大きさで、蟻のような有象無象が集まっていた。ハンスは、余りの人数に辟易し、思わず顔を顰めていた。
人憂さに当てられて、溜息を付いた彼を見て、何を勘違いしたのか解らぬが、またしても彼の、小さな体躯を抱き締めて、
「そうだよねぇ、そうだよねっ。まだ十一歳だから不安だよね。心配しなくて良いよっ」
「……は、離してくださいよ……恥ずかしい」
「うんうん! そうだ、今日は
と、葵は独断専行し、ハンスを抱えていこうとした。外面は花顔柳腰の葵だが、今は、子供のような衝動で動いている。片腕でハンスを胸に抱え、もう片方で、重そうな荷物を軽々と、振り回しながら持っていた。
周りにいた者達は、明らかに他人である二人に眼をやって、首を傾げるばかりである。見るに見かねた茜が、姉の側に近寄って、
『ちょっと姉上……。流石に今日はそれぐらいにしてください。皆様見てますよ。
『えー、そう? ママ上だってこの子、気に入ると思うけど』
『否定は出来ませんが……それはそれとして、ほら、姉上には準備がありますから』
茜があれこれ説得したので、漸く葵も落ち着いたらしい。彼女は、お預けを喰らった子犬のように、淋しげな表情でハンスを離し、また後でね、と頭を撫でた。
人群れに消えていく、葵の背中を見送って、茜は大きな嘆息を一つした。破天荒で欲望に忠実な姉の所為で、毎日、神経を磨り減らしているのが彼女である。反対に茜は生真面目で、ユーモアの才能は欠片も無い。
どうも、兄弟姉妹というものは、片方がもう片方の才能を奪って生まれるらしい。
茜がハンスの方へ向き直ると、彼は、気の抜けた表情で茫としていた。恍惚と棒立ちになっているのを見て、茜は、心配そうな表情で、
「姉が申し訳ありません。締められたようですが、大丈夫ですか?」
「……あ、いや、大丈夫です。でも、柔らかかったなぁ」
「え? どういうことです?」
前後の文脈も無かったので、茜が理解出来ない様子で反問すると、ハンスは恥ずかしそうに、面に仄かな朱を差し、頭を手で掻きながら、
「えっと。武田さんのお姉さんの……胸が、顔と手に当たって……えへへ」
と、このふざけた果報者は、転がり込んできた幸運に、密かに小躍りしていたのだ。決して豊満ではないが、程良く柔らかい双丘に、思いがけず、顔を押し当てられたので、僥倖だとばかり思っていた。
しかし茜は、眼を三角にして、ぷいと一人で席に向かって行った。ハンスが慌てて追い掛けていこうとすると、
「助平! 話し掛けないでください!」
と、公衆の面前で、鋭く一喝されてしまい、ハンスは最早、形無しという他無かった。
――式が始まるまで時間がまだあるので、集められた連中は、自然と思い思いに会話を重ねていた。
雑音や大声で、騒然とした公堂で、ハンスも、後ろにいた者と二、三の会話をしていたが、横の茜は凜々しく背筋を伸ばしたまま、誰とも口を聞かず、静かに時を過ごしていた。
すると、後ろにある入り口から、男女関係無く、歓声が響いてきた。ハンスが振り向いて見てみると、五、六人の取り巻きに囲まれて、傲然と歩いて来る男がいた。
「やあ庶民の皆。今日からどうぞ宜しく。お近づきの印です」
と、先頭にいる金髪の少年は、懐から金貨や銀貨を、節分の豆みたいに蒔いている。これなん、帝国屈指の財閥、フリード家の長男ヴェイスである。
ハンスは彼の顔を見て、
「あ、あの人、さっき車に乗ってた人じゃないかっ」
と、早速、朝の災難の一端との対面に、舌打ちなど漏らしていた。しかも、何の因果か、彼の右隣がまだ空いていた。
傲慢さが服を着て、往来を闊歩しているかと錯覚しそうな令息は、肩で風を切るような態度で、悠然とハンスの右隣に腰を据えた。足を組んで、身体を斜めにし、絶えず、腹立たしい笑みを浮かべている。
ふと、ヴェイスは横に視線を向けて、珍獣でも見たかのような表情で、
「オオ、これはこれは、今朝お会いした貧乏人くん。先程は失礼しました。怪我などしては、病院代も莫迦になりませんからね」
「何ですかその言い方、こっちは轢かれそうになったのに。そうだ、さっきのお金返しますよ」
「ああ、どうも……え? 返す?」
ヴェイスは素っ頓狂な声を上げ、信じられないといった風にハンスを見た。今まで彼が金を投げた者は、皆、干天の慈雨でも得たかのように、狂喜乱舞していたので、ハンスの言葉が珍しかった。
ハンスは、瞬きしたまま硬直したヴェイスを見て、彼もまた、小首を傾げて、相手の態度を不審に思い、
「どうしたんですか? 別に僕は怪我もしてませんし、知らない人からお金なんて要りませんよ」
「ほ……貧乏人くんにしては殊勝な心掛けですね。ま、そこまで言うなら受け取っておきましょう。君、名前は?」
「ハンスですけど……」
「貧乏人ハンス、略して貧ハンス。覚えておきます」
と、不愉快極まりない邂逅を終えた途端、入学式が始まった。
――頼りなげな学長の挨拶だの、政治家のお言葉だの、見知らぬ人々からの祝辞だの、聞くのも煩わしいお粗末な式典は、滞りなく進んでいった。
ヴェイスは、始まって十分ほどで、天井を仰いで居眠りし、ハンスも半ば微睡んでいた。武田茜はというと、横の碌でなし共には眼もくれず、生真面目に壇上を見上げていた。
小一時間ほど経った後、学長が一言、
「では、これより生徒会長からの挨拶となります」
「は~い!」
と、聞き慣れた元気な声が、茜とハンスの鼓膜を揺さぶった。金鈴を振り鳴らしたような声を耳にして、ヴェイスも大欠伸と共に覚醒した。
ハンスも茜も、愕然として眼を見開いた。視線の先、壇上には誰もいない。代わりに、先程見た武田葵が、天井の支柱に立っていた。横には何か銀色に光る球がある。
「やっほー! 新入生の皆、
と、彼女はぱっと支柱を蹴って、天井から垂れる綱に掴まって、学生達が座る上を飛び回り始めた。茜は魂が抜けたように硬直し、生き恥を晒されたように顔を紅潮させている。
一通り飛び廻った後、葵は壇上にふわりと着地した。そして、小動物を思わせる柔らかな笑みを浮かべ、
「こんにちは、皆さん! もうルールとかお祝いだとかは散々聞いたと思うので、
「はーいっ」
と、今度はハンスの姉が、舞台袖から、妙に煌びやかな大筒を押しながら歩いてきた。その後で六人が、それぞれ同じものと一緒に姿を現わした。
自主性を重んじる校風ゆえ、怪我人さえ出なければと、教師も黙認しているらしい。
そして、今度は彼女が、
「生徒会副会長のカーラですっ。あたしの弟も入学したので、仲良くしてあげてくださいね。そしてこれは、皆で作った祝砲!」
そう言うや否、カーラと一同は、一斉に導火線へ点火した。
轟然と硝薬が爆発する音がして、空砲と一緒に、金箔だの紙吹雪だのが、一斉に公堂中に舞い散った。新入生共は呆気に取られ、教師陣は、今年も大変な年になりそうだと、もうこの時から煩悶していた。
そして、ハンスと茜は、生徒会の二人組が、自分達の身内でないと言い訳すべく、一念に頭を廻らしていた。
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