2.
鞍上にいた人は、流暢な帝国語で慇懃に謝罪して、眼を白黒させるハンスの前にひらりと下りた。改めてその容貌を見てみると、肉薄く、色白く、鼻筋の通った
面は美少年そのもので、胸も水平というか絶壁なので、一見すると男である。しかし、朝に見た姉の制服と同じ物を着ているので、ハンスは頭の整理が追い付かない。
その結果、まず発した言葉は、
「えっと……女装……ですよね?」
「は? 拙者は女ですよ。もしかして……頭でも打たれたのですか? 大変!」
と、勘違いした少女は、有無を言わさず、ハンスを愛馬に掻き乗せて、ハイッ、と勇ましい声を短く飛ばし、馬を襲歩で走らせた。
何か言う間も無く、馬に乗せられてしまったので、ハンスは止む無く少女にしがみ付いた。時折、馥郁たる亜麻色髪が鼻に触れ、何処か心地よさを感じていた。
しかし、馬の速さが軌道に乗ると、ハンスは上下に揺さぶられ、香りに陶酔している暇も無くなった。瞬く間に学園の正門をすり抜けて、廃れた繋ぎ場に着いた頃、彼はすっかり眼を廻し、酔いどれのようになっていた。
少女はハンスに肩を貸し、保健室に駆け足で行こうとした。肝心の彼は、千鳥脚に近いので、引き摺られているようなものだが。
そこへ、甲高い声が二人を止めた。彼らが、声のした方へ顔を向けると、純白の髪を背まで伸ばし、柳眉を嶮に逆立てる、嫋やかな百合のような人がいた。「生活委員会」と仰々しく大書された襷を掛けて、偉そうに腕を組んでいる。
後ろには、同じ襷を掛けた者が複数名、柴犬のような顔で立っていた。
「そこのお二方! 朝から連れ合って登校とは、何をなさっているのですかっ。まさか、同棲を」
「この方は拙者の馬に少し驚いてしまったようなのです。なので、今から保健室に」
「言い訳ご無用! 不純異性交遊はそういう所から始まるのです! 全く、穢らわしい」
と、妄想逞しい彼女は止まらない。嫋やかな令嬢の見た目とは裏腹に、内面はヒステリックそのものだ。
不純だ、いや違うの問答をする内に、ハンスは漸く息を吹き返し、
「僕は今日から此処に通うんですし、この人とは初めて会いますよ。嘘だと思うなら、姉のカーラに尋いて下さいよ」
「カーラさん……? ああ、あの遅刻の常習犯ですか。そう言えば、この間、弟がいると言っていました。……よろしい、今日の所は信用いたします。ですが、私、ミーナを始め、生活委員はいつでも見張っておりますので、お忘れなく」
と、眉を上げたまま、ミーナは恭しく礼をして、校門の方へ走っていった。
彼女の日課で、少しでも校則に触れた者がいれば、忽ち厳しく指摘する。教職員には好評なので、先輩方を差し置いて、生活委員長に抜擢されたのだ。
彼女の美貌と厳格さに惹かれ、手となり足となる物好きも少なくない。厳しく叱責され、罵倒されることを目的に、わざと校則を破る者もいるという。
ミーナ率いる忠犬共が去った後、ジパングの少女はハンスに向き直り、
「改めまして、申し訳ありませんでした。拙者は
「ど、どうもご丁寧に……。僕はハンスです。僕も今年入学するんです」
「そうなのですか。では、同じ組に入れると良いですね」
この学園は、やや特殊な仕組みを有しており、年齢に関わらず、同じ年に入学した者達、同じ学年に配属される。条件は、基礎教育を終えたことだけである。
なので、最高学年である三年に、年端もいかない子供がいることもあれば、一年に大人がいる場合もある。
そういうわけで、人身事故未遂の犯人と被害者は、同じ学年に入る運びになった。
茜は、思い出したように鞄を探り、竹の水筒を取り出した。ハンスが不思議な顔をしていると、彼女は、如何にも申し訳なさそうに眉を八にして、
「よろしければ、この目覚めの薬を飲んでください。せめてものお詫びです。予備ですから、口は付けておりません」
「あ、有難う」
そう言って、ハンスは、操り人形のように水筒を受け取った。異性から、そんなことをされた試しがなく、初心な彼には、気の利いた返しが解らない。
で、茜の飲料を、少し口に含んだ彼は、愕然として吐き出した。
「な、なんだ⁉ これっ」
「珈琲牛乳に蜂蜜と生クリームと砂糖を溶かしたものです。ハンス殿は、甘い物はお嫌いでしたか?」
「いくらなんでも甘過ぎ、これじゃゲロ甘だよ……」
ハンスが咳込んでいる脇で、茜は、自分用の水筒に口を付けていた。美味そうに顔を輝かせる彼女を見て、ハンスは内心、反応に困っていた。
そこへ、誰かが彼方から塀を走ってくる音がした。二人が、足音のした方へ眼をやると、呂色の長髪を一つに纏め、柳のような体躯を低くして、満面の笑みを浮かべた子犬のような女が一人、風を切るように駆けてくる。
女は、二人が気付いたのとほぼ同時に、ぱっと塀を蹴って跳び上がり、そのまま空中で身を捻り、ハンスの後ろに着地した。
「だ、だれ、うわ⁉」
「可愛い‼ 可愛い可愛い! ね、お名前なんて言うの? ね、ね?」
「く、苦しい……」
ハンスは、必死に藻掻いたつもりでいたが、信じられないほど力強い、女の腕と胸に圧迫され、今度こそ死にかけた。
茜は、ハンスを捕えた女に対し、諦観の表情を浮かべて曰く、
「姉上……荷物も持たずに飛び出していったかと思えば、何をなさっているのですか」
「あ、茜。
「まず、離して差し上げないと」
ハンスは、いきなりやって来た狂人の腕から解放され、顔を赤銅色にして咳込んだ。
皎歯を見せて、喜色満面な女は、馴れ馴れしく彼に近付いて、有無を言わさず手を繋ぎ、
「
「は、はぁ……宜しくお願いします」
「さぁ、ハンス君に茜っ。早く行かないと遅刻しちゃうぞ。お姉さんが送ったげる。行くよー」
そう言うや否、葵はハンスを引くように、公堂に向かって駆けだした。茜は、待って下さい、と遅れて走り出す。
不憫な少年は、立て続けに起こった災難に、早速頭を抱えていた。
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