現パロ(産廃)集積所

アラビアータ

秘密の血判状 現パロ

1

 桜が舞う、桜が舞う。柔らかい春風に撫でられて、爛漫と咲き誇る八重桜は、季節を彩る花を散らす。無数の蝶が、虚空で乱舞するかのような桜吹雪は、くるくるとピンクの竜巻を描いてる。新年度に相応しく、今朝の空は、雲一つ無く澄み渡っていた。

 空は何も悩みが無さそうだが、その下に広がる街中では、期待、希望、不安、懊悩、苦悶、様々な感情で満たされている。厄介なことに、それを一人が抱えることもある。曇りなら曇り、雨なら雨という空模様とは違うのだ。

 人間は、空ほど単純では無いらしい。


 ハンスは、自宅のベランダの欄干に顎を乗せ、瞳を据えて、空を見上げていた。今朝早くに起きてから、終始、溜息をついたり意味も無く空を見上げたりして止まない。

 先週から温みだしてきた風は、彼の緑髪を撫でた後、部屋に向かって吹き込んだ。眼下の町並みには、赤、茶、青など、色とりどりの屋根が見え、遠くには日光を反射して錦繍のようになった河川が見えていた。

 ハンスは無心でそれらを見つめていた。すると、後ろから聞き慣れた声で、


「いつまでそこにいるの。早く着替えないと、初日から遅刻するよ」

「うん。解ってるよ」


 ハンスが振り返ると、そこには母親のヒルデが立っていた。これから仕事に行く彼女は、もう身支度を済ませている。三十八という歳にしては、やや若く見える彼女だが、夫を早くに亡くし、女手一つで家庭を切り盛りする人である。

 暫くの間、この春入社した連中の研修があるということで、その準備で忙しい。今日もまた、常より一時間早く出勤する。

 ヒルデは、俯き加減な息子を見て、目線を合わせて眉を下げ、


「ごめんね。お母さんも頑張って休みを取ろうと思ったんだけど。折角の入学式なのに」

「良いよ。姉さんがいるんだから。母さんこそ、早く行かないと」

「本当にごめんね。今度埋め合わせするから。じゃあ、お姉ちゃんのこと宜しくね」


 そう言って、働き手である母親は、ハンスを軽く励まして、吹き込む風に背中を押されたように、慌ただしく出て行った。彼女の心配ごとは、少し息子の憂いからズレていた。

 幼い頃から、殆どの行事に、親が来たことは無かったので、母が今日の式典に来ないことは、ハンスにとって些細なことだ。問題なのは、全く新しい環境に、馴染む自信が絶無なことである。木に竹を接ぐ結果になるような気がするのだ。

 ヒルデは、教育が大切だという主義なので、母子家庭にも関わらず、私立の学園に二人の子供を通わせることにした。しかしハンスは、知り合いも友人も全くいないので、敵地に独りで放り込まれる気分だった。


「はぁ……」


 と、懶げに溜息を一つして、彼は洋服棚を開けて、真新しい制服を取り出した。皺一つない純白のドレスシャツを着て、裾上げをした佩き物を穿ち、ベルト、襟締を巻いた後、藍色の上着に腕を通した。

 ハンスは、部屋から出て隣の部屋の戸を三回叩き、


「おはよう姉さん、姉さん。朝だよ」

「……」

「姉さん!」


 ハンスは語気を強め、戸を開けて部屋に跳び込んだ。すると、寝台の上で、蓑虫のようになっている姉が見えた。雑誌は読み散らかされたまま、菓子の袋は開けられたままという有様に、彼は眉を顰めた。

 すかさず姉の横に行き、彼女を揺さぶりながら、


「姉さん、姉さんってば! 何だよ、この前、休みの日に掃除したばかりじゃないか」

「……ん~。またやっといて」

「それに、もう起きないと、初日から遅刻するよ」

「うーん。カ様……」

「何寝惚けてるんだよ……ってうわ!」


 眠れる怠け者は、訳のわからないことを口走り、小猫のように寝返りを打ち、ドンとそこから落下した。寝台から床に落ち込んで、眠り姫は漸く起床した。

 銀鼠の短髪を戴いて、みどり色の瞳を持つ、明眸皓歯の少女。眠たげに眼をしばたく彼女こそ、ハンスの姉のカーラである。

 今年で十五になる彼女は、弟と同じ学園に通っているが、毎年、遅刻の常連に名前を刻んでいる有名人。朝は遅くに出て、授業が終わった後は、アルバイトだの夜遊びだのをして帰って来る。

 

 大欠伸を一つ為し、彼女は、陽光差し込む窓を見て、ぱっと福寿草のように顔を明るくし、良い朝、と呟いた。

 ふと、下の方から声がする。


「良い朝じゃないよっ。どいてよっ」

「ああ、ごめんごめん。あはは」


 と、カーラは下敷きになった弟を見、にんまりと気味の悪い笑みを見せ、


「何よ怒っちゃって。お姉ちゃんに朝の挨拶は?」

「もうとっくにしたよ。全く、また下着だけで寝たの?」

「良いじゃない。それに、こんな美人が下着姿だから嬉しいでしょ」

「身内なんだから嬉しくないに決まってるだろ!」


 ハンスは姉を押し退けて、唇を尖らせたまま出ていった。朝から弟を揶揄って、満足した様子のお姉様は、いそいそと準備し始めた。

 碌に整理していないので、雑誌類、ポスター、缶やボトルが散乱し、ごみ溜めのようになった部屋の一角に、服が堆く積まれている。カーラはその中から、ドレスシャツと藍色のジャンパードレスを取り出した――というよりは、掘り出した。

 それを纏って、髪を梳かした後、欠伸をしながらリボンを締め、彼女は部屋から出た。何物も萌え立たせずにはおかない春の太陽は、彼女にとって、眠りへと誘うものである。


 対照的な弟は、姉の分の朝食まで準備していた。感心々々、と小首を動かしながら、カーラはそれを食べ始めた。全くこの女学生、食うことだけは、一人前。

 片手にパン、片手に珈琲碗を持ちながら、足でテレビのリモコンを操作するという器用さに、ハンス、思わず呆れてる。

 カーラが何気なく点けたテレビには、下らない朝のエンタメが映っていた。ハンスは、それに眼もくれず、


「姉さん、今日なんだけど……姉さん?」

「……」


 普段なら聞き流すのに、今朝のカーラは、食い入るように放送番組を観て止まない。それどころか、碗を落としてしまった。食卓に珈琲が広がっていき、それを拭こうとして、弾かれるように立ち上がった時に、ハンスは初めて、姉の視線を引きつけるものを見た。

 番組の内容は、今週公開の映画の広報で、甲高い声の女子アナが、姦しく粗筋を紹介し、主役の男は、それに合わせて頷いていた。彼の容貌は、黒絹のような濡鳥色の総髪を戴いて、色の白さは玲瓏と言いたいくらい。切れの長い眼に細い顎。眉から鼻筋に掛けては、凜々しいという言葉がよく似合う美男である。


 別に何の事はない普通の内容だが、カーラのお目当ては映画よりも、主役の男にあるらしい。

 

「る、ルカ様! ルカ様だぁ!」

「え? この人が?」

「そう! はぁ、朝から生放送でルカ様を観られるなんて幸せ……」


 ハンスは、以前から姉が、この若手俳優を贔屓にしていることを思い出した。彼女の自室は、ルカの写真やら、彼が出演したテレビドラマや映画を収録したディスクだらけである。

 所謂「推し」の俳優が、初めて主役を張るのだから、カーラの熱狂振りは一入では無いだろう。熱は無いのに、顔に紅花のような赤みが差している。

 そこからは彼女の独壇場、ハンスが聞いているか否かに関係無く、いつにも増して多弁となり、のべつ幕なく、喋々とルカの魅力について流暢に語り出した。


「――でね、その時ね、犯人に向かってルカ様がね、『天は私に味方したようです』って言ったんだ。もうそれが格好良くて」

「へーそうなんだぁ」

「あ、後ね……って、もうこんな時間! あたし準備があるから行かなきゃ! 片付けよろしく!」


 そう叫ぶや否、カーラは鞄を引っ掴み、疾風の如く駆け出した。挨拶の声も置き去りに、扉を開けたまま出て行く背中を見送って、ハンスは溜息を付くしか無い様子。

 洗い物を済ませて、火元を確認した後で、彼も出発しようとした。


「あ、姉さん。弁当忘れてる。仕方無いな」


 ハンスは自分の分と、姉の分の弁当を鞄にしまい、自分も部屋から出た。

 姉の問わず語りに付き合って、自分も遅くなったので、ハンスは一路、急ぎ足に学園へ向かっていた。

 (歩かなくて良い人達は羨ましいや)そう思うハンスの脇を、煙を吐き出す鉄の塊が通って行く。彼が左右を確認し、車道を横切ろうとすると、不意に脇から轟然と、耳を劈くような音が響いてきた。


「危ない! 何をしているんですかっ」

 

 見れば、運転手付きの豪奢な車から、金髪で蒲柳の少年が顔を出していた。如何にも世間知らずの御曹司みたいな金髪は、心の底から人を嘲るような表情で、


「そこの人、道をお開けください。法がなければ、貴方のような貧乏人の身柄なんて路傍の石ころのようなものですが、それがあるからこうして頼んでいます。ははは、それとも当たり屋ですか」

「は?」

「まあ何でも良いです。ほら、これを差し上げますので、消えて下さい」


 そう言って、小皇帝は銀貨を数枚、ハンスに投げつけて去って行った。明らかに車が悪いのだが、この国でも指折りの財閥、フリード家の家紋を見て、誰も何も言わなかった。

 

 ――訳のわからない御託を聞かされて、車に殺され掛けた哀れな少年は、漸く学園の近くまで来た。遠目にそれを見た彼は、よし、と一声気勢を込めて、小走りに駆け出した。

 少し走ったところで、出会い頭、通りに面した曲がり角から、ぬっと馬が顔を出してきた。「馬⁉」と、ハンスはまたしても仰天し、ぱっと後ろに宙返りした。


「大変失礼致しました。姉を追い掛けておりましたので、申し訳ありません。お怪我はありませんでしたか?」


 金鈴を鳴らすような声に、彼が顔を上げると、亜麻色の短髪を持つ、端正で秀麗なジパング人が馬上にいた。

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