第1章 大氾濫 19

 ふらつく足でよろよろとネージュのところに辿り着く。


 意識はまだ無いが顔色は良くなっている。

 やはり遮断魔法によって体に負荷がかかっていたのか。

 だとしたらきっと以前から辛かったに違いない。

 何故それを話してくれなかったのか。


 聞かなかったのは俺だ。

 彼女との会話を面倒くさいと切り捨てたのは俺自身だった。


 過去の自分をぶん殴ってやりたい。


 だが後悔しているような時間はない。


 魔力が戻ってきつつある。

 回復魔法も使えるだろう。


 だが自分に使うようなことはしなかった。

 痛みは自分への罰だ。

 それに痛みがあるうちは意識を保っていられるだろう。


 すでに月は中天を越えている。

 いつもならどんなに頑張っても寝ている時間だ。


 ネージュの体の魔力を探る。

 だがネージュは魔法を使っているようには見えない。


 そもそも魔法とは意識せずに使えるようなものではない。

 起こしたい事象を心象として明確にイメージすることが必要だ。


 魔法の源泉は心の中にある。


 俺はネージュの手を取った。


 やったことがない。

 だができると分かる。


 俺は俺を通した魔力をネージュの体に流し込んでいく。

 俺自身の心をネージュに注ぎ込んでいく。


 繋げる。

 繋がる。

 ネージュの心と俺の心が溶け合っていく。


 意識が引っ張られていく。

 俺はそれに抗うこと無く、ネージュの心の中に入り込んだ。




 暗闇があった。


 ネージュの意識は無いのだ。

 当然のことだ。


 それにしても体が思うように動かない。

 他人の心の中だから当然のことなのか。


 そう考えて俺ははっと気がついた。


 暗闇だと思っていたが、自分の姿が見える。

 その手がアンリのものではない。

 アンリの腹はこんなに出ていない。

 そもそも服装が違う。

 伸び切ったジャージは俺が前世で愛用していたものだ。


 なんてことだ。

 精神世界だからなのか、俺の姿は35歳の前世のものだった。


 しかし改めて見ると不健康そうな体だ。

 贅肉のたっぷり詰まった腹が垂れ下がり、体は思うように動かない。

 顔に手をやると無精髭というにはあまりにも伸び過ぎた髭に触れた。

 頬がたぷたぷだ。


 鏡が無くて良かった。

 前世の自分の姿なんて見たくない。


「――おまえが殺した!」


 不意に声が響いた。

 どこかで聞き覚えのある声だった。


「――おまえが殺したんだ!」


 ああ、馬鹿なことを考えなければ良かった。

 精神世界は心に直結している。

 考えたことが事象として現れるのは当然のことだ。


 俺の目の前に鏡があった。


 だがそこに映っていたのは35歳の俺ではなかった。

 20年ほど若返った俺。

 高校生だった頃の俺の姿だった。

 あの頃の俺だった。


 まだ腹は出ておらず、無精髭も生えていない。

 高校の制服に身を包み、脱色して茶色になった髪に、耳にはピアスも付けている。

 そんな俺が激しい怒りの表情で鏡越しに俺を糾弾する。


「――おまえさえ馬鹿なことをしなけりゃ父さんも母さんも死ななかった!」


 俺の言う通りだった。

 中学から反抗期を迎えた俺は特に理由も無く荒れた。

 学校はサボるようになり、夜も遅くまで家に帰らなかった。

 他の不良仲間たちとつるみ、繁華街を遊び歩いた。

 母さんを怒鳴りつけて金を要求し、父さんとはなるべく顔を合わせないようにした。


 もちろん勉強なんてまったくしていなかったから、高校は底辺校にしかいけなかった。

 不良のほうが多いような学校で、学校に行くのはたまり場に行くような感覚だった。

 なにかの間違いでこんな底辺校に来た真面目なタイプの生徒をいじった。

 それが楽しいとさえ思っていた。


 殴り合いの喧嘩をした。

 時には鈍器まで使った。


 なにも怖くないと思っていた。

 度胸があったのではない。

 単に頭が足りていなかっただけだ。

 そしてやりすぎた。


 俺は相手を病院送りにし、警察に補導された。

 当然ながら両親に連絡が行き、母さんが父さんを車で迎えに行って、その足で警察に向かう途中、赤信号で止まっていた母さんの車の後ろから、脇見運転のトラックが突っ込んだ。


 2人とも即死だった。


「――殺したのはおまえだ!」


 見る間に俺の体は小さくなっていった。


 ああ、まったくもってその通りだ。

 俺さえ居なければ父さんも母さんも死ななかった。

 俺なんかが生まれたから、父さんも母さんも死んだのだ。


 しかも本当なら俺は生まれなかったはずなのだ。

 あの天使の手違いさえ無ければ、俺は初めからこの世界に生まれ、父さんと母さんの元には別の魂がやってきていたはずだった。


 それは神を恨むに十分な理由だった。

 それは天使を憎むのに十分な理由だった。


 なぜ俺は忘れていたのか。

 なぜ俺は天使の話を軽々しく聞いていたのか。

 なぜ安易にその言葉を受け入れたのか。


 すべては時間が悪い。

 薄れた記憶が悪い。

 悲しみを忘れてしまった自分が憎い。


 小さくなった俺の体に黒いものが巻き付いていく。


 父さんと母さんを喪った俺はひとりになった。

 祖父母はすでに他界していて、親戚もいなかった。

 両親は高額の生命保険に入っていたし、賠償金も入ってきたので金だけはたくさんあった。

 だが弁護士が後見人になっていて自由に使えるわけでもなかった。

 きっとそれで良かったんだろう。

 父さんと母さんを殺して得た金が自分の財産になっていることに耐えられなかった。

 自分で使えたならあっという間に使い切ってしまっていただろうから。


 高校にはもう行かなかった。

 もちろん卒業などできるわけもなく、何年かは留年という形で籍こそ残っていたものの、やがて退学となった。

 こうなった俺を訪ねてくる友人はいなかった。

 仲間だと思っていた不良たちは俺に連絡もしてこなかった。


 やがて成人する頃には悲しみも薄れ、すっかり自堕落な今の自分が出来上がっていた。

 成人したことで後見も外れ、親の遺産は自由に使えるようになったので、なおさら働く気も起きなかった。

 すべてが鈍くなっていった。

 なにもかもがどうでも良かった。


 いずれ親の遺産が尽きれば生活保護を受ければいいと思っていた。

 生活保護を受けられなければ野垂れ死ねばいいと思っていた。

 自分になんの価値も感じていなかった。


 黒が俺を塗り潰していく。

 俺という存在を失わせていく。


 ああ、なんでこんな自分が人生のやり直しなんかをしているのか。

 あの時そのまま消滅するのが誰にとっても良かったに違いない。

 こんな自分にはなんの価値も無いんだから――。


 だから――。


「そんなことない!」


 強い光が俺を照らした。

 光はどこかからか飛んできて、小さくなった俺の体を抱きしめた。


「アンリがいたから私は救われた!」


 ネージュの光に抱きしめられて俺という存在が形を取り戻していく。

 35歳の醜い自分が光に照らされて、俺はどうしようもなく恥ずかしくなった。

 こんな姿はネージュに見られたくなかった。

 知られたくなかった。

 俺は光から逃げ出そうとした。


「大丈夫。どんな姿でもアンリはアンリ」


 けれどネージュは俺を逃してはくれなかった。

 もはや体の大きさは逆転して、俺の脂肪の詰まった腹にネージュが抱きついているような形だ。


「過去になにがあっても、アンリが私を助けてくれたことに変わりはないよ」


 俺に巻き付いていた黒いなにかが解けて消えていく。


「誰も許してくれなくても、私がアンリを許してあげる」


 世界が光に包まれていく。


「あなたがいてくれて私は嬉しい。私にとってアンリは特別なの。だから自分のために生きられないなら、私のために生きて」


 でも俺はまた大事な人を、君を傷つけるかも知れない。

 次があればきっと俺は耐えられない。


「守れるよ。アンリなら大切な人をみんな守れる。だってアンリは強いもの」


 はは――、どうして俺は助けに来た女の子に慰められているんだろう。


 俺の体が光に包まれて、アンリの姿に変わっていく。

 手には杖、体には力が漲っている。


 世界が光に包まれていくに従って、闇がその姿を現した。


 ネージュの心に巣食った闇。

 それは見たこともないような異形だった。

 俺の見てきたすべての魔物が混ざり合ってくっついて塊になったような異形。


 今ならあんなもの消し飛ばせる!


 しかし俺は魔力を練り上げることをしなかった。

 代わりに無防備に闇に近づいていく。


 だってこれはネージュの心だ。

 ネージュの心の一部分だ。


 異形から蛇が伸びて俺の体に噛み付いた。

 体を半分くらい持っていかれる。


「怯えなくても大丈夫だよ」


 俺は異形に触れる。

 牙の生えた顎が腕ごと俺の手を食らう。


「俺は君を受け入れるよ。ネージュ」


 異形を残された腕で抱きしめる。


「君の心にどんな闇が巣食っていても、君が俺にとって大事な人に変わりない」


 闇が、解ける。

 その中から真っ黒い光を纏った宝石のような物が現れる。


 はっきりと感じる。

 これはここにあってはいけないものだ。

 これがすべての元凶だ。


 俺はそれに手を伸ばし、収納魔法に収めた。


「目が覚めたらいっぱい話をしよう。約束、したからね」


 世界は光に包まれた。




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本日はGW最終日ということで第1章を最後まで(残り1話)投稿いたします。

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