第1章 大氾濫 16
俺は今、大氾濫の中心部の上空にいる。
かつては最強種の見本市と化していたこの場だが、今ではほとんど魔物の姿を見ない。
どういう理屈で魔物が発生していたのかまでは分からないが、事態は収束へ向けて動いていると考えていいだろう。
ピサンリの防衛ももう後は防壁と兵士らに任せておいても問題無さそうだ。
さて、そろそろかねてよりの懸念をひとつ解消するタイミングだな。
俺はこの場所から探知魔法を広げる。
ここからさらに西に数千の生命反応が固まっている。
魔物の集団だと思っていたが、ネージュの存在の有る無しに関わらず、この集団は動きを見せなかった。
大氾濫の初期よりずっと動いていないように思われる。
もちろんまったく動きがないわけではなく、ある一定の範囲内で細々とは動いている。
だがその一定の範囲内から出たり入ったりはしていないようだ。
そしてこれが重要なところなのだが、魔物たちはこの範囲を避けて移動していた。
大氾濫の中に生まれた空白地帯なのである。
一体なにがあるのか。それを確かめるために俺は飛んだ。
それは薄煙に包まれた集落だった。
数千という生命反応の規模から考えたら町と言った方がいいのかも知れないが、森林を大きく切り開くわけでもなく、森と建物が渾然一体としているその様は、やはり集落と呼びたくなるものだった。
念のために近寄ることはせず、離れた上空から望遠魔法で様子を見ているが、集落に住んでいるのはエルフたちだ。
こんな大森林の奥地に住んでいたのか。
ここから外に出ていかないのであれば人間と接触が無かったのも頷ける。
さてどうしたものか。
ネージュのことが無ければ放置でいい。
大氾濫をどうやって凌いだのかには興味があるが、絶対に知らなくてはならないことでもないだろう。
こんなところに隠れ住んでいるのだ。
そっとしておきたいという気持ちもある。
しかしネージュのことを考えるとやはり放置はしておけない。
人間の里にエルフがひとりで生活していくのはとても難しいだろう。
領主の庇護下に置かれているうちはいい。
だがそれはいつまで?
永遠に続くわけではない。
現状にしたって見方によっては領主の屋敷に囲われているようなものだ。
自由に外も出歩けない。
不自然だ。
やはりエルフはエルフと共に暮らしていくべきだろう。
ネージュの魔物を引き寄せるという性質も、大氾濫を凌ぎきった方法があるのであればなんとかなるかも知れない。
だがそうは言ってもいきなりネージュをここに連れてくるわけにもいかない。
ネージュは記憶喪失で右も左も分かっていないのだ。
いや、知識はちゃんとあるんですけどね。
魔物を寄せ付けなかったなにかについてもきちんと知っていなければ、遮断の魔法が切れたネージュが魔物を引き寄せ、エルフの集落を壊滅させる可能性だってある。
となると、接触するしかない。
俺は高度を落とすとエルフの集落に向けて降下していく。
んで、こうなるのね。
エルフの集落の外縁部で俺は10人ほどのエルフたちに武器を向けられていた。
武器とは言っても木の枝の先に尖らせた石をくくりつけた槍だとか、やはり同じような石斧だったり、弓矢もありますね。
とにかく人間の里に比べたらずいぶんとレベルが低い。
とは言っても脅威であることに変わりはない。
障壁無しに当たれば痛いし、死ぬ。
そういうものを向けられている。
「何者だ! 何処から来た!?」
幸い言語は分かる。
実際には発音の違いなどがあって方言のように聞こえているが、王国の言葉にかなり近い。
「ピサンリという人間の町から来ました。ちょっとお尋ねしたいことがあるんですが」
「黙れ! 聞いているのは我々だ! どうやって人間がここまで来た!? どこで此処のことを知ったのだ!?」
「せめてお互いに順番に質問していく形にしません?」
「質問に答えろ!」
領主はネージュを客人として迎えたというのに、エルフたちからはこの扱いである。
とは言え、エルフたちと敵対するのは俺の望むところではない。
いずれネージュを連れてこなくてはならないのだ。
「魔法の力です。このように空を飛んできました」
俺が飛翔魔法で1メートルほど浮かび上がると、エルフたちは驚愕を浮かべ、驚いたひとりのエルフが矢を番えていた手を離し、放たれた矢が魔法障壁に当たって跳ね返された。
「ば、化け物――」
「失礼な。今の攻撃は事故として不問にします。せめて話を聞いてもらえませんかね?」
「黙れ! 出て行け化け物め!」
むぅ、頑なだな。
しかし彼らの生活領域に踏み込んで、一方的に要求を突きつけようとしているのも事実。
なにか彼らに対する見返りとかがあったほうがいいのかも知れない。
そんなことを思っていると、武器を構えたエルフたちを割ってひとりの年老いたエルフが進み出てきて、頭を下げた。
「若い者が申し訳ない。お客人。私たちも話を聞かせてもらいたいのだが、まずは地上に降りてきてくださらんかね?」
「長老! なにを、こんな人間の子どもに頭を下げるなど!」
「黙りなさい。この子が人間のところに帰って、この里のことを広めたらどうなる? 我々はこの地を捨てなくてはいけなくなるのだ」
「ならばこの場で処分すれば!」
「黙れと言っておるじゃろう!」
長老と呼ばれたエルフの一喝に、武器を持ったエルフは押し黙った。
「お恥ずかしいところをお見せしました。エルフが皆このように野蛮だとは思わないでくだされ」
「いいえ、こちらこそ急にお邪魔して申し訳ありません」
「まったく、人間の子どものほうが礼儀をわきまえておるではないか」
ちょっと前まで敬語も使えませんでしたけどね。
なんにせよ領主の屋敷での勉強が役に立った瞬間である。
地上に降りた俺は長老に案内され、一件のお宅にお邪魔した。
お茶が用意され、木の椅子に座って話が始まる。
「それで私たちに聞きたいこととはなんでしょう?」
「ふたつあります。まずは大氾濫をどうやって凌いだのでしょうか? ここには防壁もありませんし、みなさんが持っている武器は貧弱なように感じます」
「それは魔物避けの香のお陰です。里の至る所でとある薬草を乾燥させた香を焚いておるのですよ。魔物たちはこの香の臭いを嫌うのです」
「なるほど」
確かに集落は薄煙に包まれているし、わずかに刺激臭が漂っている。
慣れればなんてことのないレベルだが、魔物にとっては耐え難い臭いということなのだろう。
これは是非とも人間にも広めたい知識だ。
大氾濫の被害が大幅に減るかも知れない。
「その薬草を教えてもらっても?」
「構いませんよ。大森林では珍しくもない薬草ですからな。あとで乾燥させる前のものを持ってこさせましょう」
「ありがとうございます。それからもうひとつ、ここで若い女性のエルフがひとり行方不明にはなっていませんか?」
長老の目がすっと細められた。
「……いいえ、そのような者はおりませんな。どうしてそのようなことを?」
「実は大森林でエルフの少女を保護しました。こちらの縁者ではないかと思ったのですが……」
「その少女に聞けばよろしいではありませんか」
「それが記憶を失っているようでして、自分の名前も思い出せない始末で」
「それは哀れなことです。しかし残念ながらこの里のエルフではないようですな」
「ではこの周辺に他にもエルフの里があるのでしょうか?」
長老は首を横に振る。
「少なくとも私たちと交流のあるような里はありませんな」
「そうですか。ではその少女をこちらの里で受け入れてくださるわけにはいかないでしょうか?」
「…………」
長老は目を伏せて少し考え込んだ。
「そのエルフの少女がひとり大森林に居たとして、その娘が里から放逐されたという可能性もありましょう。その娘にはなにか問題があるのでは?」
「そうですね。どうやら彼女は魔物を引き寄せる性質を持っているようです。しかし魔物避けの香があるのであれば、問題無いかも知れません。問題あるかも知れませんが……」
「なるほど。そちらもお困りの様子。ですがそのような厄介者をこちらの里で受け入れることはとてもできませんな。それではこちらも話を聞かせてもらってもよろしいですかな?」
「ええ、答えられることであれば」
長老からの質問は、どうやってこの場所を知ったのか、誰かにここのことを話したかというものだった。
今更魔法のことを隠しても仕方ないし、正直に話す。
そしてこの地のことを知ったのは今さっきのことで、誰にも話すつもりはないことも伝える。
「どうか今後ともこの里のことは内密にお願い致します」
「ええ、薬草のことも教えてもらいましたし、誰にも話しません」
それから乾燥前の薬草を頂いて、俺はエルフの集落を後にした。
にしても食えない爺さんだ。出されたお茶にはなんらかの毒物が入っていた。
おそらく命に関わるものではない。
話の流れから言っても自白剤とかそんな感じの物だろう。
違和感があったから回復魔法で治癒してなんてことはなかったけどね。
それから行方不明者がいないというのも嘘だろう。
いや、話からすると放逐したのか。
だから行方不明者がいないというのは嘘ではない。
行方は知っている。生死は不問だが。
ネージュをこの集落に帰すという考えはもう微塵も残っていなかった。
彼女を棄てた場所に戻したところで、また棄てられるだけの話だ。
おそらく魔物避けの香もネージュの持つ魔物を引き寄せる特性には無意味だったのだろう。
そう考えると一概にエルフたちが悪いというわけでもない。
彼らとて生きるために仕方のない判断をしたのかも知れないからだ。
そう考えるとネージュの記憶が失われているのは救いかも知れなかった。
彼女は自分が棄てられたことを覚えていない。
あるいは棄てられたショックで記憶を失ったのか。
どちらにしてもここはネージュにとって辛い記憶となる場所だ。
俺は彼女をこの地には近づけまいと誓うのだった。
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