月をいいわけに。

芥子菜ジパ子

月をいいわけに。


 夜道を歩いていた。隣では男が、へらりへらりと、脱力した笑みを浮かべている。高校生の時とちっとも変わらないその横顔は、酒のせいか、ほんのりと赤らんでいた。だから、ああそうか、その分だけ、あの時から変わってはいるのだ。そしてそれは恐らく、私も。その変化を、いわゆる「大人になった」というのかは、分からないけれど。

 十数年ぶりの同窓会の帰り道、私たちはただ、歩いていた。てくてくと、取るに足らない話をぽつぽつとしながら、歩いていた。

 何度こうして、ふたりで夜道を歩いたか。そもそも初めては、いつだったか。そんなものは、もうとうに忘れてしまった。当時の私には、どうでもいいことだったのだ。

 つまり私の脳内に今も綺麗に収まっているこの記憶は、私にとって「どうでもよくないこと」ということになる。あまり、認めたくは無いが。


 高校の卒業式の日だった。式後の打ち上げで馬鹿騒ぎをした帰り道、ひとりひとりと離脱するクラスメイトたちに手を振り続けていたら、いつの間にか、歩いているのは私たち二人だけになっていた。だからと言って、今更変にドギマギすることもない。なので、私たちはいつものようにへらりへらりと笑い合い、思い出話を続けながら歩いていた。

 席替えで好きな女の子の隣になるため、クジに完璧な仕掛けを施したクラス委員の山野井の話、体育祭の部活対抗リレーでバク転しながらトラックを回り、顧問にしこたま叱られた、お調子者の柳井の話。原稿用紙4枚の超大作ラブレターを教室に忘れた挙句、担任に書きかけの恋愛小説と勘違いされて皆の前で褒められてしまった、文芸部の相原さんの話。

 へらりへらりと笑う彼につられて、私もへらりへらりと笑い返す。私たちの関係はそれ以上でもそれ以下でもなかった。そう、きっとずっとへらりへらりの、つかず離れずのぬるい関係――言うなれば、一番平和で、「楽」な関係。

 それなのに次の瞬間。彼はあろうことか、急に笑顔を引っ込めて、「なんだか、さみしいな」と一言だけぼやいたのだ。薄暗い田舎道を電灯がわりに照らす月の、その真下で。スポットライトの中心に立つ役者のような、一丁前な、物愁ものうげな表情で。

 

 そうして彼はつまらない町のつまらない光景を、一瞬にしてドラマのワンシーンに仕立てあげ、見事に私の足元をすくってのけたのだった。


 彼はすぐに「なんてね」と言いながらその愁いを引っ込めると、再びへらりと頬を緩めた。しかしもう、同じようにへらりへらりと返すことは、私にはできなかった。


「さみしいね」


 そう返すので精一杯。私と彼の「さみしい」はきっとまったく違うもので、つんのめった弾みで非日常に飛び込んでしまっただけの私には、その事実に涙を堪えることしかできなかったのだ。

 たった一瞬。たった一瞬だけ口を開けた落とし穴だった。しかしそれは地球の裏側まで続いていて、私は未だ、そこから這い上がれていない。


 大人になった同級生の話を続ける彼の声を聞きながら、月を見上げる。綺麗だ。綺麗で綺麗で、その美しさに目頭が熱く膨張してゆく。

 田舎の一本道を月が照らしているだけの、この目の前の光景を、なんてつまらない光景だろうと、ずっと思っていた。それなのに、あの日あの瞬間から、月はずっと、私にとって特別に美しいものになってしまったのだ。

 月が綺麗だ。いい加減嫌になるほどに、綺麗だ。一体どうしたら、この月の美しさの呪縛から逃れられるのだろう。


「なあ」


 月を睨みつけていたら、声をかけられた。かち合った視線が、きいんと鋭い音を立て、波紋となって私と彼を中心に広がってゆく。まるで音叉のごとく。きいん。きいん。きいん。


「なんだか、さみしいな」


 根拠の無い予感に震えながら、「なんてね」を待ってみる。が、彼はいつまでもその顔にへらりへらりとした笑みを戻すことはなかった。きいん。かち合ったままの視線がもう一度音を立てる。きいん。


「な、にが」

「お前と、また離れ離れになるのが」


きいん。


 耳の内で反響し続ける音に耐えきれず、私は視線を月に戻した。月の輪郭は、歪んで、揺らいでいた。音の波はわたしたちを飲み込んで、海にでも沈めてしまったのだろうか。嗚呼それでも、月は綺麗だ。


「……月が、綺麗だな」


横目でちらりと盗み見たその横顔は、やけにかしこまっていた。なんて、なんてへたくそな男だろう。そしてどうして、それでも月は綺麗なのだろう。


「なあ」


 無言に耐えられなくなったのか、再びかち合った視線にさきほどの強さはなく、その表情は叱られた子犬のようだった。

 きゅっと唇を引き結んでみたものの、口角が勝手に引き上げられてゆく。まばたきをした弾みで、瞳の端からぽろりと、音の波の名残が零れ落ちた。

 彼の顔に、ゆっくりと笑みが戻ってゆく。じんわりと、滲むように。


「見栄くらい、張らせてよ」


 なんて可愛げのない物言いだろう。自分で自分が嫌になる。けれど、今はこれでいい。だって私はあの日、地球の裏側まで落ちてしまったのだから。見栄でも張らないと、月が綺麗過ぎて、もうそれはただにひたすらに、恥ずかしくてしかたないのだ。だから今だけは、月に免じて許してもらおう。

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月をいいわけに。 芥子菜ジパ子 @karashina285

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