真珠の光、真珠の夢

島原大知

本編

第1章


 東京の下町にひっそりと佇む団地。昼下がりの日差しが、無機質なコンクリートの壁に照りつけていた。ベランダには色褪せた洗濯物が風にはためき、まるで住人たちの喜怒哀楽を雄弁に物語っているかのようだ。

 ここに、紫野真珠はその母・久美子とたった二人で暮らしていた。部屋の中は薄暗く、わずかに差し込む光の筋が埃の粒子を照らし出している。ボロボロのカーテン、古びたテーブル、そして片隅に積み上げられた段ボール箱。わずかな荷物があるのみで、殺風景というほかない。

 「真珠、ごめんね。今日もこれしか作れなくて…」

 久美子が皿を置く音が、硬質な空気を震わせた。冷蔵庫には惣菜の詰め合わせが入っているだけ。手作りの味には程遠い、安っぽい香りが部屋いっぱいに広がっていた。

 「いいよ、母さん。いつもありがとう」

 真珠は小さく微笑むと、黙って箸を手に取った。どこか影のある瞳で、食事を口に運ぶ。一口ごとに、噛み応えのない食感が虚しく咽喉を通り過ぎていく。

 窓の外を見れば、同じような団地が目に入る。どこまでも続く画一的な建物。まるで迷路のように、抜け出せない空間が広がっているかのようだ。真珠はふと息を吐き、自らに問いかける。

 「私は、一生このままなの…?」

 かつてここには、真珠と久美子、そして真珠の父・和也の三人家族があった。

しかし、ある日を境に和也は姿を消し、母子家庭になってしまったのだ。

 それ以来、久美子は必死に働き、真珠を育ててきた。けれども貧困からは抜け出せず、日々を彩る楽しみも、将来への希望も持てずにいた。真珠もまた、そんな母の姿を見て育ち、自らの人生に漠然とした不安を抱えるようになっていた。

 「私には、夢も希望もないのかな…」

 小さくつぶやいた言葉は、むなしく部屋の中に吸い込まれていく。真珠は自らの孤独に、ふと目を閉じた。冷たい現実から、少しでも逃れられたらと思うのだけれど。

 やがて、団地を包み込むようにして夕暮れが訪れる。真珠と久美子の影は、部屋の中でひっそりと重なり合っていた。


 翌日。曇天の朝が、重苦しい空気をまとっていた。真珠はいつものように、学校へ向かう準備をしている。だが、その足取りはどこか遅々としている。

 学校では、真珠はいつもひとりぼっちだった。クラスメイトとの会話も弾まず、輪の中に入っていくことができない。休み時間になれば、教室の片隅で本を読んでいることがほとんどだ。

 「何であの子、いつも一人なんだろう」

 「話しかけづらいよね。なんか暗い感じがする」

 そんな囁き声が、真珠の耳に届くこともしばしばあった。けれど、真珠はそれに反応することなく、ただ黙々と本のページをめくり続ける。心の奥底では、寂しさがじわりと広がっているのだけれど。

 放課後。グラウンドを横切る風は、まだ冬の名残を留めていた。一人で学校を後にする真珠。川沿いの道をゆっくりと歩いていく。

 ざわめく人の声、車の音、日常の喧噪が遠ざかっていく。真珠はふと立ち止まり、川面を見つめた。ゆったりと流れる水の輝きに、自らの孤独が映し出されているようだ。

 ポツリと零れた涙が、大きな水面の波紋へと変わっていく。

 「私は、本当にこのままでいいの…?」

 風にのせた問いかけは、むなしく川面に吸い込まれてしまった。立ち尽くす真珠の佇まいは、どこかとても儚げで、はかなげで。

 そのとき、真珠の心に強い衝撃が走った。同級生が自殺したというのだ。真珠とは言葉を交わしたこともない、クラスでも目立たない存在の女の子。びっくりするやら、悲しいやら、複雑な思いが胸の内で渦巻いた。

 「どうしてなの…? 一体何があったっていうの…」

 風がさらに冷たさを増していく。他人事のようでありながら、どこか他人事には思えない。真珠は川面に映る自分の顔をまじまじと見つめた。 

 「私だって、明日生きているという保証はないんだ…」

 自らの儚さに、真珠は息を呑んだ。今、目の前の景色がひどくもろく感じられた。空も、川も、街並みも。そしてこの世界に生きる、自分自身も。

 「私は、一体何のために生きているの…?」

 風に吹かれながら、真珠はぽつりと呟いた。その問いは、自らに問うたというよりは、この世界そのものに投げかけたようにも思えた。どこまでも青く澄んだ空は、真珠の言葉に答えるように、ゆったりと流れていく。けれどもそこに答えは見出せなかった。

 川沿いの道をさらに歩いていく。やがて、小さな公園に辿りつく。今日は誰もいないようで、ブランコが風に揺れるだけだ。真珠はそのブランコに腰かけ、空を見上げた。

 ゆらゆらと揺れる視界。澄み渡るような青空が広がっている。けれど真珠の瞳に映るのは、どこまでも続く灰色の世界。きらめく希望の光を、どこにも見出すことができない。

 ふいに、ブランコの隣に人影が現れた。振り向くと、初老の男性が、こちらを見つめていた。

 「今日は、良い天気だね」

 唐突に話しかけられ、真珠は少しだけ身構える。けれど男性の表情は柔和で、どこか安心感を感じさせた。真珠は小さく頷いて、また空を見上げる。

 「若いのに、難しい顔をしているね」

 男性は真珠の横顔を覗き込むように言う。穏やかな口調。それでも真珠の心に、何かを突き動かすものがあった。

 「私は…本当にこの先どうすればいいのか、分からないんです」

 自分でも驚くほど、素直に言葉が溢れ出た。いつも心の奥にしまい込んでいた思いが、どうにも抑えきれない。

 「生きていく意味が、分からない…」

 ぽろりと、涙が頬を伝った。男性は真珠の言葉に、しばし沈黙する。やがて、空を見上げて語り始めた。

 「生きる意味、か。難しい問題だね」

 しわがれた声が、風に乗って響く。真珠は、その言葉を聞き逃すまいと耳を澄ました。

 「私から見れば、君はまだまだ若い。可能性に満ち溢れているよ。これから先、君の人生はどのような花を咲かせるのか。そう考えると、わくわくしないかい?」

 真珠は、はっとした。花を、咲かせる。そんな風に人生を表現されたことは、これまでになかった。

 「可能性…」

 ぽつりと呟いて、真珠は自らの手のひらを見つめた。小さな手。けれどそこには、無限の未来が詰まっているのかもしれない。

 「人生には、良いことも悪いこともある。だけど、そのどちらもが君を成長させてくれる。だから、決して恐れることはないんだ」

 男性の言葉は、真珠の心にすうっと染み渡っていく。温かくて、どこか力強い。真珠はその言葉に、勇気をもらったような気がした。

 「あの…」

 顔を上げると、男性はにっこりと微笑んでいた。

 「君の名前は?」

 「真珠です…紫野真珠です」

 「真珠か。良い名前だね。私は岩村健作。よろしくね」

 初対面とは思えないほど自然に、二人の会話は弾んでいく。歳の差があっても、心が通い合うような感覚。

 「じゃあ、真珠さん。私はそろそろ行くよ」

 名残惜しそうに、健作が立ち上がる。寂しさが込み上げてきたけれど、真珠はグッと堪える。

 「今日は、ありがとうございました」

 精一杯の笑顔で、真珠は頭を下げた。健作もまた、優しい笑顔を返してくれる。

 「君の笑顔、とても素敵だ。これからは、もっと笑っていてほしいな」

 そう言って、健作はゆっくりと公園を後にした。残された真珠は、しばらくぼんやりと佇んでいた。

 けれど、その表情はどこかいきいきとしている。さきほどまでの暗い影は、すっかり消えていた。

 空を見上げれば、夕焼けが広がり始めている。真珠はゆっくりと立ち上がり、家路についた。初老の男性との出会いが、真珠の心に小さな灯りを灯したようだった。

 生きることの意味。

 真珠にとって、それはまだ謎に包まれている。けれど、これから先の人生を歩んでいく中で、必ず見つけ出せるような気がしていた。

 川のせせらぎ、葉ずれの音、そよ風の心地よさ。当たり前の日常の中に、真珠は生きる希望を感じ始めていた。

 小さな一歩。けれどそれは、真珠の新しい人生の始まりだったのかもしれない。夕焼けに染まる街を、真珠はゆっくりと歩いていった。


第2章


 朝日が差し込む団地の一室。真珠はゆっくりと目を覚まし、体を起こした。昨日の公園での出来事が、まるで夢のようにも思える。けれど真珠の心には、まだ健作の言葉が鮮明に残っている。

 小さな可能性の種。

 それをしっかりと胸に抱いて、真珠は新しい一日をスタートさせるのだった。

 台所に立てば、そこには冷蔵庫の残り物だけが置かれている。真珠はパンを手に取り、バターを塗った。いつもの味気ない朝食。それでも今朝は、どこかわくわくするような胸の高鳴りがある。

 「おはよう、真珠」

 久美子が部屋から出てきて、そう声をかける。顔色は良くない。最近、体調を崩しがちだ。真珠は母の顔を見つめ、心配そうに尋ねる。

 「母さん、大丈夫? 今日は仕事、休んだ方がいいんじゃない?」

 「ううん、大丈夫よ。ちゃんと薬も飲んでる。心配かけてごめんね」

 久美子は笑顔を作るけれど、その目は血走っている。無理をしているのは明らかだ。真珠は胸が痛くなる。けれど、休むなと言っても聞いてくれないだろう。生活のためには、働き続けるしかないのだ。

 「そういえば、最近は学校どう? 楽しい?」

 久美子が真珠に問いかける。真珠は言葉を濁した。学校のことを考えると、どうしても気分が沈んでしまう。

 「うん、まあ」

 「友だちとも、仲良くやってる?」

 「……うん」

 真珠は小さく頷くだけだった。友だちなんて、いったいいつできるのだろう。真珠にはまるで想像もつかない。

 久美子は真珠の様子を見て、何かを言いたげだった。けれど、結局何も言わずにただ頷いた。言葉にできない溝を感じながら、母娘は黙々と朝食を済ませる。外は、どんよりとした曇り空だ。真珠の心模様のようだった。

 「じゃ、行ってくるね」

 「気をつけてね。行ってらっしゃい」

 そっけない言葉を交わし、真珠は家を後にした。いつもの通学路を歩きながら、ふと健作との会話を思い出す。

 「私にも、可能性があるのかな…」

 空を見上げて、真珠はつぶやいた。重厚な雲の合間から、かすかに青空が見える。それはまるで、真珠の心の内をそっと覗き込むようだ。

 鈍色の校舎が見えてきた。教室に入れば、クラスメイトの笑い声が耳に飛び込んでくる。会話の輪。けれどそこに、真珠の居場所はない。

 「おはよう」

 小さな声で挨拶をしても、誰も気づいてくれない。机に座り、真珠はただ一人、窓の外を眺める。グラウンドには緑が芽吹き始め、春の訪れを感じさせた。けれど真珠の心は、まだ冬のままだ。

 日が傾きかけた放課後。真珠はいつものように一人、校門をくぐる。今日も学校では、彼女の存在は空気のようだった。

 とぼとぼと歩いていると、向こうから1台の救急車が走ってくる。そのサイレンの音が、真珠の心を引っかき回した。嫌な予感がする。思わず足を速める。

 団地が見えてきた。そこには救急車が停まり、野次馬が群がっていた。そしてストレッチャーに運ばれていく、見覚えのある顔──。

 「母さん!」

 そう叫んで、真珠は駆け出していた。心臓が跳ね上がりそうなほど高鳴っている。ストレッチャーに並走しながら、必死に母の顔を覗き込む。

 「母さん、しっかりして! 母さん!」

 けれど久美子は、目を閉じたまま反応がない。青ざめた頬、痛々しいほど目を窪ませた顔。真珠の胸に、深い絶望が走った。

 救急車の扉が、無情にも閉まる。サイレンを鳴らして、救急車は病院へと走り去った。取り残された真珠は、ただぼんやりとその場に立ち尽くしていた。

 現実を受け止めきれない。それでも、真珠の脳裏にはある考えが浮かんでくる。払えない医療費。そしてその先に待つ、地獄のような日々。真珠の目に、光が消えた。

 トボトボと家路を辿る。鍵を開けて部屋に入れば、そこにあるのはいつもの殺風景な光景だけ。ボロボロのカーテン、古びたテーブル、段ボール箱。真珠は無言でベッドに倒れ込んだ。天井を見つめる瞳は、空虚そのものだ。

 「母さん…どうすればいいの…」

 ぽつりと呟いて、真珠は目を閉じた。今の現実から、ほんの少しでも逃れられたら。どこかに救いの手が差し伸べられたら。そんな淡い期待を抱きながら、真珠は夢の世界へと引き込まれていった。

 翌日。真珠は学校を休んで、病院へと向かった。ベッドに横たわる母の姿。点滴の管に繋がれ、今にも壊れてしまいそうだ。

 「真珠…ごめんね。こんなことになっちゃって」

 か細い声で、久美子が謝る。真珠は首を振った。

 「謝らないで。母さんは悪くないよ」

 涙を堪えるのがやっとだった。こんなときに泣いてちゃダメだ。真珠は必死に平静を装う。

 医者の説明を受ける。重度の肝硬変。早期の治療が必要だと告げられた。けれどその治療費は、あまりにも高額だ。

 「どうにかなりませんか…分割でも…」

 すがるような思いで真珠は尋ねる。けれど、返ってきた言葉はNoだった。

 「申し訳ありません。ですが、やはりご一括での支払いをお願いしたいのです」

 冷たい言葉が、真珠に突き刺さる。望みは断たれた。途方に暮れながら、病室を後にする。

 「どうすれば…どうすれば…」

 頭の中が真っ白になる。目の前が暗転しそうだ。よろけながら歩いていると、大きな体にぶつかってしまった。

 「おっと、大丈夫かい?」

 見上げると、そこには健作の顔があった。

 「岩村さん…」

 「君は確か、真珠さんだね。こんなところで会うなんて、偶然だな」

 優しい口調。けれどそれが、真珠の琴線に触れてしまう。こらえていた涙が、一気に溢れ出した。

 「もう、どうすればいいか…分からないんです…!」

 取り乱した様子で、真珠は事情を話した。母の病気のこと、払えない治療費のこと。健作は真剣に耳を傾けてくれる。やがて、ゆっくりと口を開いた。

 「大変な状況だね。けれど、きっと道は開けるはずだ。望みを捨てちゃいけない」

 「でも…」

 「君は一人じゃない。私がついてる。一緒に頑張ろう」

 そう言って、健作は真珠の肩に手を置いた。温かな感触。真珠は、どうにかこらえていた堰を切ったように泣いた。

 「ありがとうございます…!」

 「お礼なんていいんだよ。困ったときはお互い様だ」

 包み込むような、優しい眼差し。真珠はその言葉に、かすかな希望を見出した気がした。

 「さあ、今日はゆっくり休んだ方がいい。明日からまた、頑張ろう」

 背中を押されるようにして、真珠は家路についた。心の奥底で、健作への感謝の気持ちが溢れている。

 夕暮れ時の川沿いを歩く。昨日までとは違う景色に見える。希望の光を探すように、真珠はじっと空を見上げた。

 「母さん…私、負けないから」

 決意を胸に、真珠は歩みを進める。遠くに、希望の灯火が見えた気がした。まだ遠い。けれど、必ずたどりつける。そう信じて。


第3章


 真珠は健作の言葉に勇気づけられ、なんとか前を向こうと決意した。しかし現実は厳しく、すぐには道が開けそうになかった。

 医療費を稼ぐため、真珠はアルバイトを探し始める。けれど、中学生ではどこも雇ってくれない。年齢制限の壁は、あまりにも高く感じられた。

 「どうしよう…」

 川沿いのベンチに腰掛け、真珠はぼんやりと水面を見つめる。ゆらゆらと揺れる水面に、自分の姿が歪んで映っている。先の見えない不安が、真珠の心を蝕んでいく。

 「真珠さん、どうしたの?」

 背後から聞き覚えのある声がした。振り返れば、そこには健作が立っていた。いつもの優しい笑顔を浮かべて。

 「岩村さん…」

 「浮かない顔をしているね。何かあったのかい?」

 隣に腰掛けながら、健作が尋ねる。真珠は小さく頷いた。

 「アルバイトが見つからなくて…でも、お金を稼がないと…」

 「そうか。中学生だと、なかなか難しいだろうね」

 健作は難しい顔をしながら、しばし考え込む。やがて、ふと何かを思いついたように顔を上げた。

 「そうだ、真珠さん。君は絵が上手いんだろう?」

 「え…?」

 唐突な言葉に、真珠は目を丸くする。健作は微笑んだ。

 「この前、君が公園で絵を描いているのを見たんだ。とても上手だったよ」

 「あ、あれは…」

 「君の絵なら、きっと誰かに喜んでもらえるはずだ。絵を売ってみたらどうかな?」

 「絵を…売る…?」

 真珠は戸惑った。自分の趣味で描いた絵に、お金を払ってくれる人がいるだろうか。けれど健作は、真珠の目をまっすぐに見つめてこう言った。

 「君の才能を、信じるんだ。きっと道は開ける」

 その言葉に、真珠の胸に熱いものが込み上げてくる。健作を信じてみよう。そう決意した。

 「岩村さん、ありがとうございます。やってみます、絵を売ることに…挑戦します!」

 「うん、その意気だよ。応援してるからね」

 力強く握手を交わし、二人は笑顔を見せ合った。川面に反射する夕日が、オレンジ色に輝いている。まるで、真珠の新たな決意に祝福を送るかのように。

 その日から、真珠は街角に立って、自分の描いた絵を売り始めた。最初は全然売れず、落ち込むこともあった。けれど、健作は時折やってきては、真珠を励ましてくれる。

 「諦めちゃダメだよ。君ならできる。私はそう信じてる」

 そんな健作の言葉が、真珠の心を支えていた。少しずつ、絵が売れるようになっていく。

 「あら、なんて可愛い絵なの。娘に買ってあげたいわ」

 若いお母さんが、微笑みながら絵を手に取ってくれた。

 「こういう絵、最近めったに見ないわ。心が和むのよね」

 年配の女性が、昔を懐かしむように絵を見つめる。

 「僕、犬飼ってるんだ。君の絵、うちの犬にそっくりだね」

 サラリーマン風の男性が、嬉しそうに話しかけてくる。

 一枚、また一枚と絵が売れていく度に、真珠の表情は輝きを増していった。

 「ありがとうございます!」

 お客さんへの感謝の言葉とともに、真珠の笑顔も満開に花開く。空に、小さな希望の種が芽吹いていくような、そんな気持ちになるのだった。

 そんなある日、例の公園で一人たたずむ真珠のもとに、健作がやってきた。いつもの笑顔。けれどどこか、翳りを感じさせる。

 「真珠さん、頑張ってるみたいだね」

 「岩村さん…!はい、なんとか絵が売れるようになってきました」

 喜びを伝える真珠に、健作は優しく微笑む。だが、その笑顔はどこか寂しげだった。

 「岩村さん…?どうしたんですか?」

 不安を覚えて尋ねる真珠。健作は視線を外し、しばらく黙り込む。やがて、重い口を開いた。

 「実は…私、もうすぐこの街を離れることになってね」

 「え…?」

 予想外の言葉に、真珠は息を呑む。離れる、とはどういうことだろう。これからも、二人で頑張っていくのだと思っていたのに。

 「私も、いつまでもそばにいてあげたかった。けれど、身内の都合でね…越境しなくちゃならない」

 申し訳なさそうに、健作は頭を下げた。

 「そんな…急に…」

 動揺を隠せない真珠。これから一人で頑張っていかなければならない。その現実が、突然目の前に突きつけられた気がした。

 「君は、一人でも大丈夫だ。もう、立派に希望の芽を育てている」

 そう言って、健作は真珠の頭を優しく撫でた。まるで父親のような、温かな手のひら。真珠は、じわりと涙が込み上げてくるのを感じる。

 「いつか…またお会いできますか…?」

 すがるような思いで尋ねる真珠。健作は少し考えてから、にっこりと微笑んだ。

 「ああ、きっとまた会えるさ。私はずっと、君の味方でいるから」

 「岩村さん…!」

 真珠は健作に駆け寄り、思い切り抱きついた。健作も、優しく真珠を抱き締めてくれる。

 「頑張るんだよ、真珠さん。君の人生は、君が主人公なんだ」

 最後にそう言い残し、健作はゆっくりとその場を立ち去った。見送る真珠の目に、涙がきらめいている。

 「ありがとうございました…!絶対に…頑張ります…!」

 大粒の涙を流しながら、真珠は健作の背中に向かって叫んだ。その声は、張り裂けそうなほどの大きな決意に満ちていた。

 遠ざかっていく健作。夕暮れ時の公園に、オレンジ色の光が差し込んでいる。まるで、二人の絆を温かく照らすように。

 真珠は空を見上げ、拳を握り締めた。たった一人の味方を失ったけれど、それでも前を向いて生きていこう。健作との約束を胸に、真珠は新たな一歩を踏み出すのだった。


第4章


 健作との別れから数日が経った。真珠は今日も、いつもの場所に立って絵を売っている。しかし、どこか心ここにあらずといった様子だ。

 「健作さんは、今頃どこにいるんだろう…」

 ふと遠くを見やる真珠の瞳は、寂しげに輝いていた。時折、ふいに現れては優しい言葉をかけてくれた健作。その存在が、どれほど真珠の心の支えになっていたかを、改めて実感させられる。

 「でも、私…一人でも頑張らなくちゃ」

 力なく呟いて、真珠は再び絵に向き合う。けれど筆は進まない。描こうとしても、健作のことが脳裏をよぎってしまうのだ。

 ざわめきが、真珠の意識を現実に引き戻した。顔を上げれば、目の前に見知らぬ男が立っている。

 「この絵、おいくらですか?」

 男が、真珠の絵を指差して尋ねる。

 「あ、はい…一枚500円です…」

 「500円?安いな。じゃあ、3枚ください」

 そう言って、男は財布を取り出した。1500円を真珠に手渡す。

 「あ、ありがとうございます…!」

 「いえいえ。私も娘がいてね。娘も絵が好きなんだ。君の絵、娘に見せたら喜ぶと思う」

 にこやかに言って、男は絵を丁寧にバッグにしまった。手を振って、その場を立ち去っていく。

 見送る真珠の表情が、ほんの少しだけ明るくなる。誰かの役に立てる。誰かを喜ばせられる。その実感が、真珠に小さな充実感を与えてくれるのだった。

 「がんばろう…!」

 つぶやいて、真珠は再び絵筆を握り締めた。健作がくれた勇気を胸に、真珠は前を向いて歩き始める。一歩、また一歩と。

 次の日。真珠が絵を売っていると、一人の女性が近づいてきた。

 「あの、ちょっと話を聞いてもらえませんか?」

 「は、はい…なんでしょう…?」

 女性の口調は真剣そのもの。表情も硬い。真珠は緊張で声が震えた。

 「私、画廊を経営しているんです。あなたの絵を見て、すぐにここに来ました」

 「が、画廊…?」

 「ええ。あなたの絵、とても素晴らしい。みずみずしい感性と、確かな技術を感じます。うちの画廊で、個展を開いてみませんか?」

 「こ、個展…ですか…!?」

 あまりに突然の話に、真珠は目を丸くする。個展なんて、夢のまた夢の話だと思っていた。それが、今この瞬間に現実のものとなろうとしている。

 「はい。あなたの才能を、もっと多くの人に知ってもらいたい。私はそう思ったんです。もちろん、売上の一部はあなたに還元されます。どうですか?」

 「わ、私…」

 真珠の脳裏に、健作の顔がよぎる。きっとこういうときは、健作も喜んでくれるだろう。そう思った瞬間、真珠の胸に熱いものが込み上げてきた。

 「…やります!お願いします!」

 真珠は深々と頭を下げた。女性は満足そうに微笑む。

 「よろしい。それでは詳しい話は、また改めましょう。連絡先を教えてくれますか?」

 「はい…!」

 夢のような時間が流れる。名刺を交換し、今後の予定を話し合う。ついに、自分の夢に一歩近づける。真珠は興奮を隠しきれなかった。

 「ありがとうございました…!」

 握手を交わして、女性とお別れする。真珠は空を見上げ、大きく深呼吸をした。

 「健作さん…私、やります。絶対に…!」

 心の中で、健作に誓いを立てる。応援してくれていると信じて、真珠は前を向いて歩き出すのだった。

 それから数週間後。真珠の個展の日がやってきた。

 画廊の一室。真珠の絵が、所狭しと並べられている。色とりどりの絵の数々が、画廊を明るく彩っていた。

 「わあ…綺麗…!」

 「なんて素敵な絵なんでしょう」

 「感動します…」

 次々と訪れる来場者たち。彼らの感嘆の声が、画廊に心地よく響き渡る。

 「ありがとうございます…!本当に、ありがとうございます…!」

 来場者一人一人に頭を下げる真珠。その表情は、喜びに満ち溢れている。

 隅っこで、真珠は一人感極まっていた。こんな日が来るなんて。自分の絵が、こんなにも多くの人に評価されるなんて。そう思うと、涙が止まらなくなる。

 「お嬢さん、素晴らしい展覧会だね」

 目の前に、見覚えのあるコートを着た初老の男性が立っている。その笑顔に、真珠は我を忘れて叫んだ。

 「健作さん…!」

 「やあ、久しぶりだね。真珠さん」

 「ど、どうしてここに…?」

 「君の活躍を、ずっと気にかけていたんだよ。個展を開くと聞いて、駆けつけてきた」

 健作はそう言って、満面の笑みを浮かべる。感無量といった様子だ。

 「健作さん…本当に、ありがとうございます…!私、これも全部健作さんのおかげです…!」

 「いや、これはすべて君自身の力だよ。私は、君を信じていただけさ」

 「いいえ…私、一人じゃ絶対にここまで来れませんでした。健作さんに出会って、勇気をもらって…」

 言葉を詰まらせる真珠。健作は優しく微笑んだ。

 「大切なのは、君が自分を信じ続けたこと。そして前へ進み続けたこと。私はそれを、誇りに思うよ」

 「健作さん…!」

 もう言葉にならない。真珠は健作に駆け寄り、抱きついた。健作も、真珠をしっかりと抱き締める。

 「これからも、君は輝き続ける。私はそれを、ずっと応援しているからね」

 「…はい!」

 二人の感動の再会を、午後の優しい日差しが照らし出していた。ここから、真珠の新しい人生が始まる。希望に満ちた未来が、真珠を待っているのだ。

 画廊を飾る色とりどりの絵たち。その一枚一枚に、真珠の夢と希望が込められている。健作への感謝の気持ちが、色濃く反映されているのだった。

 二人で肩を寄せ合い、絵を見つめる。暖かな陽だまりの中で、新たな絆が深まっていく。これから先も二人は、心の支え合いながら、それぞれの道を歩んでいくのだろう。

 遠くに、希望の光が輝いている。真っすぐに、力強く。真珠の新しい人生が、その先に広がっているのだから。


第5章


 個展から数ヶ月が経ち、真珠の生活は大きく変わっていた。絵が評価されたことで、真珠は美術の学校に通えるようになったのだ。

 「行ってきます!」

 玄関で母に手を振り、真珠は家を出る。通学路を歩きながら、ふと空を見上げた。

 青空が、眩しいほど澄み渡っている。白い雲が、のんびりと流れていく。以前の真珠からは想像もできなかった光景だ。

 「私、今こうしていられるのは…」

 ぽつりと呟いて、真珠は足元を見つめた。健作との出会い、絵を通しての成長、母の回復。思い返せば、辛いこともたくさんあった。けれど今、その全てが真珠を強くしてくれている。

 美術学校に着くと、真珠は教室に向かう。キャンバスに向かい合い、静かに筆を走らせる。

 少しずつ、キャンバスに命が吹き込まれていく。色とりどりの絵の具が、真珠の感情を表現する。

 「紫野さん、とても良い表情ですね」

 先生が、真珠の絵を覗き込む。満足そうな笑みを浮かべている。

 「ありがとうございます。私、絵が好きで…」

 「それが伝わってきますよ。紫野さんの絵には、生命力があふれている。これからも、その感性を大切にしていってくださいね」

 「…はい!」

 真珠は力強く頷いた。自分の絵が、誰かの心を動かせる。そのことが、何よりも真珠を幸せにしてくれる。

 キャンバスと向き合う真珠の表情は、生き生きと輝いていた。暖かな日差しが、真珠を優しく包み込む。まるで、これからの人生を明るく照らしてくれているかのように。

 放課後。真珠は一人、公園を訪れていた。思い出の場所だ。

 ブランコに腰かけ、ゆっくりと揺れる。心地よい風が、頬を撫でていく。

 「健作さん、私…絵を描き続けます。誰かを励まし、誰かを勇気づけるような、そんな絵を…」

 空に向かって、真珠は誓いを立てる。健作への感謝を胸に、これからも前を向いて生きていこう。そう心に決めるのだった。

 「それにしても、健作さんは今頃どこで何をしているんだろう…」

 ふと脳裏をよぎる、健作の笑顔。いつか、また会える日が来ることを信じている。

 風がさわさわと木の葉を揺らす。まるで健作も、真珠の決意を後押ししてくれているかのようだ。

 ブランコから立ち上がり、真珠は空を見上げる。

 「私、負けないから。健作さん、見ていてください」

 呟いて、真珠は再び歩き始めた。力強い足取りで、未来に向かって。

 それから月日は流れ、真珠は立派な画家へと成長していった。

 個展を開くたびに、真珠の絵は多くの人々を魅了する。彼女の作品には、いつも希望と勇気が込められている。

 「紫野先生、今日も素晴らしい絵をありがとうございました」

 個展の会場で、ファンの一人が真珠に話しかける。目を輝かせ、真珠の手を握りしめている。

 「こちらこそ、ありがとうございます。私の絵を好きでいてくださって…」

 恐縮しながらも、真珠は心から感謝を伝える。自分の絵が、誰かの心に届いているのだと実感できる瞬間だ。

 「先生の絵には、いつも勇気をもらっています。これからも応援していますからね」

 「…はい、ありがとうございます!」

 ファンとの交流に、真珠の表情はいっそう輝きを増す。こうして誰かと心が通い合える喜びを、真珠はかみしめるのだった。

 会場の片隅で、ある初老の男性が真珠を見守っていた。

 「よく頑張ったね、真珠さん」

 その口元に、穏やかな微笑みが浮かぶ。真珠に気づかれないよう、そっと会場をあとにする。

 「また会おう。君のこれからを、ずっと見守っているよ」

 最後にそう呟いて、男性の姿は扉の向こうに消えた。初老の男性の笑顔は、真珠を励まし続ける健作のものによく似ていた。

 真珠の絵は、多くの人々に夢と希望を与え続ける。

 病床の人、悩みを抱えた人、志半ばで挫折しそうになっている人。真珠の絵は、そんな人々の心に寄り添っていく。

 「一緒に頑張ろう。あなたは一人じゃない」

 真珠の筆は、そう語りかけているかのようだ。一人でも多くの人に笑顔になってもらいたい。そんな思いを込めて、真珠は日々絵と向き合う。

 かつての心の傷は、今では真珠の糧となっている。辛い経験があったからこそ、人の痛みが分かる。心に寄り添うことができる。それが真珠の、画家としての原動力なのだ。

 公園のブランコで、真珠はぼんやりと空を眺めていた。

 「今の私があるのは、健作さんのおかげ…」

 ゆっくりとブランコを漕ぎながら、真珠は思う。あの日、健作と出会っていなかったら。彼に励まされていなかったら。今頃、自分はどうなっていただろう。

 「ありがとう、健作さん。私、これからも精一杯生きます」

 空に向かって、真珠は心の中で呟く。自分らしく、前を向いて。

 風がやさしく髪をなでる。空には、希望の光がきらめいている。

 立ち上がり、真珠は画材を手に取った。キャンバスに向かい合い、想いを込めて筆を走らせる。

 これからも、真珠の絵は多くの人々の心を癒し、勇気づけ続けるだろう。一人の画家として、人として。真珠はこれからも、誰かの心に寄り添い続けるのだ。

 生きる意味。

 真珠は、絵を通してそれを見つけたのかもしれない。一人でも多くの人を、笑顔にすること。

 キャンバスの中に、無限の可能性が広がっている。真珠の人生も、これから無限に広がっていく。

 生きることの尊さを、真珠は絵という形で伝えていく。一枚の絵から、新たな希望が生まれる。

 人生に悩み、挫折しそうになったとき、ふと真珠の絵を思い出してほしい。そこには、きっと大切な何かが隠されているから。

 夕焼けが、真珠のアトリエを赤く染めていく。

 また一日が終わる。けれど、真珠の人生はこれからも続いていく。

 「さて、明日も頑張ろう」

 ひとり微笑んで、真珠はキャンバスに筆を置いた。

 窓の外を、小鳥たちが飛び交う。空は、これからもずっと真珠を見守り続けてくれるだろう。

 人は一人では生きていけない。

 けれど、一人一人の心が繋がれば、世界はきっと変えられる。

 微笑みを浮かべる真珠。その笑顔の先には、きっと輝ける未来が待っているのだから。

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真珠の光、真珠の夢 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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