ACT 4

おさ。知ってるか?」


「何をだ?」


「長」と呼ばれた老人は、のろのろと首を動かして、声をかけてきた若者を見た。


「長! とぼけないでくれよ! あんたが知らないわけない」


 白く細々と揺れながら、若者は再び老人の目を覗き込んだ。


「何のことだね?」


「陸棲人は、海を狙ってる? そうだろう?」


「ほう? そんなデマが、どこから生まれてきたのかね?」


 長は全く興味がない話題として受け流していた。


「デマ? あんたは本気でそう言い切るんか?」


 若者はきゃしゃな身体をさらに細くして、白く小刻みに震えた。


「ああ」


 長は若者の身体を通して見えている、海藻のゆっくりとした動きと、回遊してきた小魚の群れをぼんやりと見ながら、気のない返事をした。


「うそだ! こんなにはっきりと感じるのに。不安で胸が押しつぶされそうなのに!」


 若者は神経質そうに揺らめきながら叫んだ。


「気のせいだ。もう少し冷静になれ」


 長は見下したような目差しで、若者を見つめた。長の言葉に若者はかっとなり、海底の砂地を蹴ると海流に乗って消えた。


「長。なぜ、あんなことを?」


 従者が音もなく、岩陰から流れ出てきた。


「我々の真の問題は、もっと重大なんだよ。陸棲人のことなぞ、どうでもよいわ」


 長は冷たく従者に言い放った。


「確かにおっしゃる通りです。けれどあの若者のように、何かを敏感に感じ取ってるものが増えてます。彼等は、陸棲人が海に侵略してくる恐怖だと思い込んでます。しかし、事実は……」


「事実は違う。それは、ここにいる不安。ここにいる不満……」


 長は従者の言葉を先につけ加えた。


「そうです。そのボルテージは、日を追うごと高まってきてるんです」


 長は従者を胡散臭うさんくさそうに見て呟いた。


「ふん! おまえは『薬師くすし』だったな」


「はい。長」


「薬師は頭が良すぎて困る。おまえは知ってる。わしらの不安や不満が、なにに対してであるかを。あの若者は勘違いしとるようじゃがな。おまえは、わしらが本当にほっしているものがなんであるかを、的確に知っておる」


 深海にいる長は揺らめきながら、見えるはずもない海面を見るかのようにこうべを上げた。


「はい。長」


「そのために、わしらが必要としているものがなにかも」


 長は目を細めて、上を見つめたまま呟いた。


「はい。長」


 全く同じ言葉しか発しない従者に、長は大きなため息をついた。


「あの子は?」


 長は従者の目を真正面から睨んだ。


「変化はございません」


 従者は残念そうにうつむいた。


「急がなければならないのに……」


「はい。長」


 従者は、また同じ言葉を口にしただけだった。


「薬師とは本当に厄介なものだな。何もかも知り尽くしておる」


「長の次に……」


 従者はうやうやしく、再びお辞儀をした。


「ふん。知りすぎるのも煩わしいものだぞ」


「承知しております」


 従者は答えると、流れてきた海流に身をまかせ、あっという間に長の前から姿を消した。


「変化はいつ起きるんだろうか? 時期が合うといいが。いや、合わせるんだ」


 長は独り言を呟くと砂地を蹴って離れ、さらなる深海へと向かう海流に乗り、光も届かぬ深みに消えていった。

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