ACT 3

 テーブルライトの仄かな光が、ほんのわずかセイを浮き上がらせ、ガラス窓には足を組み、椅子に沈み込むように座った彼が映っていた。


 ガラス窓の中で、コーヒーカップをくるくると回して時間を浪費している自分を見ながら、セイは流れてくる音に耳を傾けていた。


 風に乗って届く音は海鳴りだった。


 セイの周りには常に海鳴りが響いている。


 13年前から、セイはこの音が聞こえる範囲でしか生活しなくなった。


 近くに集落はない。


 当然だ。陸棲人がこのんで海の近くに住むものか。


 できれば遠く離れたいに決まっている。


 近くにいて、いいことなんか一つもない。


 台風が来れば海水が風で吹き上がり、頭上に降ってくることだってある。


 高潮の時には、容赦なく海水が押し寄せてくる。


 それに触れたら一瞬でお陀仏だぶつだ。


 そんな危険なところに、喜んで住む陸棲人なんかいるはずない。


(そうさ。俺が望んだわけじゃないのに、ここに釘づけにされたんだ)


 セイは、消すことができない海鳴りの中で呟いた。


(俺の中で海鳴りが住み着いたのは、もう13年も前だ。当時俺は、これでも科学者の端くれだった。


 何とか『人体自然発火現象』を起こす海水を無効化できないかと、海水を採取するため、毎日のように通っていたんだ。今でもはっきりを覚えてる)


 セイは、その時のことを思い出していた。


 波打ち際で泣いていた赤ん坊。


 半分海水に浸かっていた。


 セイはたまたま、長靴付きのリウロニュウムオーバーオールを着、リウロニウム手袋をしていて海水に触れられたから、慎重に赤子を拾い上げ、しかるべきところへと届けたのだった。


 リウロニウムとは、陸棲人が開発した、海水に触れられる唯一の素材だ。


 けれど、海水に濡れれば、陸棲人たちは使われたリウロニウムには触れられなかった。


 何とか真水があるところまで持っていき、洗浄しなければならい。


 だから、リウロニウムを硬質化することはできたが、それで海に乗り出すとか、潜るとか、そんな怖ろしいことは不可能だった。


 つまりリウロニウムは、無用の長物程度のものだった。


 セイは海水に濡れた状態の赤子を、慌ててリウロニウムエプロンと手袋をはめながらすっ飛んできた女に、渡してきたのだった。


 ところが数時間も経たないうちに、あの子を抱いた見知らぬ男が、セイが在籍しているラボトリーに現れた。


 セイは男について来るように言われ、この海辺にある対海水用防御システム付きカプセルハウスに移り住み、あの子を育てつつ監視している。


 ぱっと見ただけで、大富豪でなくちゃ所有できないような家だ。


 海水がしみ込まないように、庭を含み三階のプラネタリウムよりさらに高い上空50メートルまでを、リウロニウムを硬質化させカプセル状にし、庭と家をくるんでいる。


 敷地内の地下は2層あり、最下層はリサイクルシステム装置と洗浄用真水を生成する装置が設置されている、完全自立型リサイクルハウスだ。


 地下1階はシアタールームやスカッシュコートもある。


 娯楽がないとは言えないほどの設備が整っている。


 天気がいい日は天井部分を解放するが、夜には閉める。


 いつ何時なんどき海水が舞い上がってくるかわからないからだ。


 深夜2時になると、家と敷地をそっくり閉じ込めたリウロニウムカプセルは、真水で自動的に洗浄される。


 カプセルハウスもピンからキリまであるが、ここは豪邸と言ってもよい。


 そのくらい待遇がいいというわけだが、一介の科学者に対しては破格だ。


 それなりの理由があって用意された家だと、セイはわかっていた。


 セイが赤子を連れて行った「しかるべきところ」とは、陸棲人統合機構の「水棲人対策本部」に他ならない。


 だってこの赤子は「海水に浸かっていた」のだ。


 普通の陸棲人でないことくらい誰でもわかる。


 拾った責任というべきか? それとも知る人間は少ないほうがいいということか? 両方だろう。


 セイは国家から命じられて、赤子を育てる任務に就かされた。


 もう、研究の継続もしていない。


 それほど興味があったわけでもなかったし、稼ぐ必要も全くない。


 ここで赤子を育てる。それだけで何不自由なく生きていられるのだ。


 ここに訪ねてくるのは、食材や日用品など、セイが必要とするものを連絡すれば的確にそろえて持ってくる女が一人いるだけだ。


 リューの教育は、「スクール」と名乗っているが、国のどこかの機関が、陸棲人に都合がいいような情報を、オンライン授業で植え付けているのだろう。


(知ったことか!)


 これがいつまで続くのかは、セイには知らされていなかった。


 ただ無為に13年が過ぎただけだ。


 彼が願うことは、このまま何事もなく過ぎて、リューが成人することだった。


 だが、そうもいくまい。それがわかっているから、彼は平穏を願っていた。


 セイは椅子から立ち上がると、リューがいる2階の子供部屋に近づいた。


 ドアがほんの数センチ開いていて、部屋の明かりが暗い廊下に漏れていた。


 隙間からセイは部屋の中をのぞいた。


 リューは部屋の真ん中にぺたりと座り込んでいた。


 リューの近くから、「コチン。コチン」とかわいらしい音が聞こえていた。


 セイはリューが見つめている床を見た。


 電気の光に反射して、キラキラ輝く無数の小さなビー玉が、先ほどの音を出しながらぶつかっては転がり、転がってはぶつかり合っていた。


 セイは静かにその場を離れると、再び階下へ戻り、冷たくなったコーヒーをすすった。


 13年前、セイに赤子を渡しながら、男が発した言葉を思い出していた。


「惑星リウには、2種類の高知能生命体。つまり海中でしか生きられない水棲人と陸地でしか生きられない我々陸棲人がいる。


 けれどずいぶんと前から『第3の人類』の出現を予見する科学者たちが増えてきてる。


 どんなタイプの人間かはわからない。言えることは、確実に我々を超越したものだ。それが、この子かもしれない」


 男はセイの腕の中ですやすや眠っている、赤子のふっくらとした頬を「ちょんっ」と突きながら告げた。


 その時から、セイの任務はリューを育てつつ監視することになった。


 だから彼は、赤子に「リュー」という、惑星「リウ」と同じ発音の名前をつけた。


 惑星リウの、セイたち陸棲人の、未来を握っているかもしれない子だからだ。

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