第18話 アイスブレイクの第一歩

 き、気まずい……


 この展開は一体どうなっているんだ……


 王子のやつ、ミリーちゃんを呼んで俺を一人にしてどこに行くつもりなんだ。


 この不気味な雰囲気の中でただ座っているだけで爆発してしまいたくなる。


 だがここから逃げ出したい気持ちが湧いてくるけど、足が動かない。


 自分の行動を言い訳してここを去ることを正当化しようとする偽りの口実を言ったら、ますます空気が尋常じゃなくなるからだ。


 思い浮かべるだけで、床で転げ回りたくなるような気持ちになる。


 もしミリーちゃんが先に去ってくれたら、俺にとってはそれほどきまつくじゃなかったかも。だがもう10分が経っても、まったく去ろうとする気配がない。


 いつまでこの状況が続くのかよ……?


 しかも王子が去った後、ミリーちゃんはわざと距離を置かず、ずっと俺の隣に座っている。微かに、お互いの腕が触れ合っているような感覚がする。


 これ以上はいられない。何か話題を見つけてミリーちゃんと話しかけるしないと。でも一体何を話せばいいのかまったくわからない……それに、俺のクソ下手な話術が状況を悪化させるだけだろう。


 加えて彼女に話しかけるときに「レイナちゃん」か、それとも「俺」という口調を使うべきかも決めていないから、少し躊躇してしまう。バカみたいな悩みけど大事なことだ。


 何ならこの二つの話し方を統合してみるのはどうだろう。


 ……いや、これって、シェラさんと話すときの話し方じゃないか?


 俺のバカ! なんでもっと早く気づかなかったんだ!


 こんなことで時間とエネルギーを台無しして悩んでいたなんて、全て無駄になっちゃったじゃないか!


 はぁ……まったく。これでこのつまらない問題も一気に解決だよね、一石二鳥だ。


 って、結局何を話すべきかまだわからない!


 いっそう考えるのを諦めて本に集中しようか……。本の世界に入って現実逃避したいなぁ……


 でもどうしても集中できず、頭の中はミリーちゃんのことがばっかり。数分が経ってもこのページに残ってる。


 あああ! どうしよう!!


「そ、そう言えば、レイナ様は本当にすごいですよね。こんな難しい本も理解できるなんて」


 な、なんと! ミリーちゃんから話しかけられた!?


「え、あ、いや、そんなに難しくないよ、あはは……」


 よかった……沈黙を破ってくれたのはミリーちゃんてよかった。もうすぐ限界だった。


 でもこの状況を予想していなかったので、言葉が乏しくなってしまった。


 今俺が読んでいる本はオマ王国の政治と文化の相互関係についてのもの、俺にとっては難しくなくて面白いんだ。


 え、これって、ミリーちゃんは俺をしっかり観察しているってことか?!


 やばい、ちょっと嬉しい……


「いいなぁ。私ね、バカだから、こんな難しい本を読んでいると頭がグルグルしちゃうんだ」

「そ、そんなことないよ! ミリーさんはバカじゃないよ!」


 俺がそう言っている間に、ミリーちゃんを見つめた。


 ち、近い! あまりにも近い! 呼吸も感じるほど近い!!


 さっきは目の前の本に集中していたから、ミリーちゃんが実際にこんなに近くにいるなんて気づかなかった。


「その、レイナ様が慰めてくれるのは嬉しいけど、自分の状況はわかっていますよ」


 そして、ミリーちゃんは机の上の教科書に視線を向ける。


 そういえば、彼女のノートや教科書がこのまま放置されたままで、俺と同じように長い時間が経っても同じページに残っている。


 もしかして、ミリーちゃんは勉強についていけていないのか?


「実はね……これらのこと、全然わかりません。この授業の範囲、難しすぎると思います……」


 俺はこっそりとミリーちゃんのノートを見て、数学や魔法学に関する内容が書かれていることに気付いた。


 そうだよね。この学園は王立学園という名門だから、授業の内容も普段平民が聞きするようなものとかけ離れた高度なものなんだ。


 ミリーちゃんはもう子爵令嬢になったけど、以前はずっと平民として暮らしてた。珍しい光属性を持っていることから、スロータック子爵に引き取られて王立学園に入学することができたんだ。


 彼女自身の知識も学園の授業に追いつけていないから、こんなことが難しいと感じるのは仕方がないんだ。かわいそうに。


 このままじゃミリーちゃんが留年してしまうかもしれない。そうなったら学年が違うことで接点が今以上に減るだろうし、それ以上に留年が決まったらミリーちゃんは退学処分で、もう二度と会えなくなっちゃうかも。


 そんな悲しいことは絶対に起こしちゃいけない。


 だから、これから俺にできることは一つしかない。


「大丈夫よ。私はここにいるから」

「……えっ?」

「つまり、私が、ミリーさんに勉強を教えてあげるってことよ」

「ええ!?」


 公爵令嬢が子爵令嬢に勉強を教えるなんて、普通の公爵令嬢ならそんな身分の差からすれば絶対にありえない屈辱を受け入れられないが、俺は別にそんなことを構わない。


 ミリーちゃんは驚きと迷いの入り混じった表情を浮かべた。身分の差からくる違和感で、俺に頼むことに戸惑っているようだ。ここはもう少し積極的にしよう。


「ね、私にノートを見せてもらってもいいかな?」

「それは、その……」

「駄目、なのか?」


 俺は真剣な目でミリーちゃんを見つめた。彼女の澄んだ緑瞳に俺の姿が映っている。ミリーちゃんはまだちょっと迷っているようだが、俺の誠意に打たれたようだ。


「……ちょ、ちょっと恥ずかしいけど、よろしく、お願いしますっ」

「うん! 任せて」


 俺はこの学園の生徒より実際年齢が上で、義務教育も終えているので、数学などの知識はもちろん身についている。


 ただ一つ、異世界の魔法学などのファンタジー要素の知識だ。だってここは異世界なんだから。でもこの分野の知識も俺はしっかりと把握していた。レイナちゃんの家庭教師としての学習のおかげで、この世界の知識や常識にもすぐに馴染むことができたのだ。


 そして俺達は勉強会を始めた。


「えーと、まずは、こっちはここをこうして……」

「ふむふむ……」

「そしてここにはこの公式を代入して、答えが出だよ」

「なるほど……! じゃあ、ここはこうですか?」

「正解よ」

「やった!」


 正しい解答をしたのミリーちゃんの喜びの表情がとても可愛らしかった。そして、ミリーちゃんとの距離がすごく近いから、緊張してドキドキしている心臓が聞こえないことを願う。


「で、魔法を構築する必要なものは魔力で——」

「ふむふむ……」


ミリーちゃんと二人だけの勉強会、こんな至福の時間は実に素晴らしい。



 そして、気づかないうちに約2時間が経過し、周囲の環境が暗くなり始め、夕日が図書館に美しい影を落としていた。


「ふぅぁ〜! 目が疲れたなぁ」

「お疲れ様」


 実はミリーちゃんは努力しないわけじゃなく、ただ方向性が間違っていた。知識の概念を誤解してしまい、魔法学における様々な概念が似ているから、混乱してしまったのだ。


「ありがとうございます! レイナ様! 先生の話よりも分かりやすいですね!」

「そ、そうかな」

「そうよ! さっきまで頭がグルグルしていたのに、今はとても明確になったの! 今日一日でかなり理解できました! 本当に助かります! えヘヘ!」

「良かったね」


 ミリーちゃんが真摯に感謝を示す笑顔を向けてくれたことで、今までの努力が報われたと感じた。


 心の重い感情が一掃され、さらに感動すら覚えた。


「あっ、そうだ。呼び方について、私にレイナって大丈夫よ」

「えっ?! そ、それはっ! 今日はもうわがままお願いしてしまったし、私自身の立場を越えることはいけません!」


 ミリーちゃんは本当に身分の差にこだわっているようだ。なんなら、それを利用してみよう。


「じゃあ、二人きりの時に限ってそう呼ぶことにしよう。これは命令だ。公爵令嬢からの、命令よ。ふふっ、それなら大丈夫でしょう?」

「あうぅ……」


 これでミリーちゃんも反論できなくなった。


「そ、それなら、レイナも、私のことをミリーって呼んでください」


 ……っ!?


 完全に予想してなかった。ミリーちゃん自身からのお願いだった。


「レイナ、これからも、私に勉強を教えてもらえませんか?」


 そしてミリーちゃんはそう俺に問いかけた。


 まずい。今、俺は喜びのあまり、座席から飛び上がってしまいそうだ。


「うん! もちろんよ! これからもよろしくね!」


 これで、ミリーちゃんとのアイスブレイクの第一歩、と言えるかな。それを思うと、心からの喜びに満ちた笑顔を浮かべてしまう。

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