ネオンに濡れて

島原大知

本編

第1章


新宿の夜が更けていく。ネオンが街を覆い尽くし、人々の心の闇を照らし出す。歌舞伎町の喧噪の中、たくさんの男女が身体を擦り合わせ、刹那の快楽に溺れていた。

私はそんな歌舞伎町のどん詰まりにある、小さな風俗店で働いている。店の名は『ハニートラップ』。

甘い蜜に誘われた獲物を捕らえるように、男たちを惹きつける。けれど、蜜の味は所詮偽物だ。

本当はこんな仕事、大嫌いだ。でも、借金を返すためにここで働くしかない。

夢なんて、とっくに捨てた。この街では、夢見る少女でいる資格なんてない。


「いらっしゃいませ。お兄さん、みづきと遊ぼうよ」


みづき。それが店での私の名前だ。

本名の美月を呼ばれることはない。

みづきはお客さんの欲望を叶える都合のいい人形。

けれど美月は、本当の自分。この仮面の奥に、まだ息づいている。


今日の客は、いつもの常連だった。

ぽっちゃりとした体型に禿げ上がった頭。

優しそうな顔をしているけれど、その目は私の体を舐め回すように動く。

私は内心顔をしかめながらも、笑顔で客を迎え入れる。


「お兄さん、みづきに会いたかった? 今日はどんな風にみづきを可愛がってくれるの?」


客の手が私の肩に回される。

体をすり寄せ、甘える仕草を見せる。

それがみづきという人形の役目だから。

心を殺し、身体だけが動く。まるで操り人形のように。

偽物の快楽に溺れる男たち。

本当の愛を知らない、哀れな人形たち。

そう思うと、吐き気がこみ上げてくる。

私だって同じなのに。


「みづき、今日もすごく可愛いよ」


男の唇が、私の頬に触れた。

顔をそむけたい衝動をぐっとこらえる。

『お客様は神様』なんて言葉、大嫌いだ。

こんな男に身体を好き勝手されるくらいなら…。

でも、逃げ出せない。

借金というしがらみに、私は縛り付けられている。


「お兄さんのおかげだよ。こんなに可愛くしてもらって、みづきとっても嬉しい」


にっこりと笑顔を見せる。

けれど、その目には微塵も笑意がない。

胸の奥でつのる嫌悪感。

早くこの時間が終わればいい。

そう願いながら、私は客の要望に一つ一つ応えていく。


やがて時間となり、客は帰っていった。

部屋に一人残された私は、ホッと息をつく。

けれど、ほっとしたのもつかの間。

この先もずっと、こんな日々が続くのだろうか。

心が、擦り切れていく気がする。


終電が過ぎ、街はネオンに染まり始める。

少し肌寒くなってきた風が、通り過ぎる人々のコートをはためかせる。

私は、仕事帰りの人混みに紛れて歩く。

誰もが、どこか疲れた顔をしている。

夢か現実か。欲望か本心か。

そんな間で揺れ動きながら、それでもみんな必死に生きているのだ。

歌舞伎町という街は、そんな人間たちの欲望渦巻く坩堝なのかもしれない。


今日ももうすぐ夜が明ける。

夜が明ければ、また1日が始まる。

けれど、私にとってはその1日は、昨日と何も変わらないのだろう。


新宿の空が、少しずつ白んでいく。

見上げた先に、まだ朝焼けの名残が残っている。

幾千の夢が散りばめられたような、儚くも美しい色。

いつかあの空の下で、私は本当の自分で生きることができるだろうか。

そんな想いを胸に、私は歩みを速めた。


第2章


夜の帳が下りる頃、歌舞伎町の別の一角では、ネオンに照らされた『クラブ ルージュ』の看板が輝いていた。

そこは、鳴海麗奈がホステスとして働く店だ。


「いらっしゃいませ。今夜もお越しいただきありがとうございます」


上品な立ち振る舞いで、麗奈は客を迎え入れる。

きらびやかなドレスに身を包み、完璧な笑顔を絶やさない。

けれどその笑顔の裏には、深い憂いが隠されていた。


店内に響くジャズの調べ。

シャンデリアの光が、艶やかに揺れる。

大理石のカウンター、本革のソファ。

高級感漂うこの空間で、麗奈は男たちを魅了する。

優雅に微笑み、機知に富んだ会話で場を盛り上げる。

まるで本物のレディのように。


「麗奈ちゃん、今日も素敵だね。君といると本当に特別な気分になるよ」


麗奈に見とれるように語りかける、大手企業の社長。

いつもの常連客だ。

麗奈は内心うんざりしながらも、愛想笑いを浮かべる。


「社長さんこそ、私を特別な気持ちにしてくれるんです。こうしてお話しできるのが、何より幸せなの」


上目遣いで相手を見つめ、甘い言葉を紡ぐ。

それが、ホステスという仮面の下での麗奈の役目。

けれど、心の奥底では虚しさがつのる。

本当の自分を見せられない寂しさ。

この仕事を続けていて、いったい何になるのだろう。


女優を目指して上京してきた麗奈。

夢を追いかけて必死に生きてきたはずだった。

オーディションに落ち続け、挫折を味わい、

気づけばこんな水商売の世界に足を踏み入れていた。

いつの間にか、夢は遠のいてしまった。


「麗奈ちゃんはホステスなんかやめちゃえばいいのに。俺が養ってあげるよ」


ふとした拍子に、社長がそんな言葉をもらす。

一瞬、麗奈の表情が曇る。

でも、すぐにはにかむように笑みを取り繕った。


「ありがとう。でも、まだ私にはやりたいことがあるの。この仕事を続けながら、夢を追いかけたいんです」


夢。

口にするたびに、その言葉が空虚に響く。

もうとっくに、夢なんて持つ資格はないのに。

借金を背負い、売れない女優のくせに。

そう自分を嘲笑う気持ちを、麗奈は必死で押し殺した。


やがて時間となり、客は去っていく。

取り繕った笑顔が崩れ、麗奈は一人、疲れた溜息をもらした。

シャンデリアの光が、悲しげに揺れている。

ため息まじりに空を仰ぐと、暗闇の向こうに月が浮かんでいた。


出口のない、この状況。

いつになったら抜け出せるのだろう。

借金という名の枷に、自由を奪われている。

夢を持つことすら、許されない。

そんな現実が、麗奈の心を蝕んでいく。


鏡に映る自分の姿。

派手なドレスに身を包んだ、見慣れた笑顔。

けれどその瞳は、どこか冷たく澱んでいる。

本当の自分はどこにいるの。

仮面の奥に、まだ息づいているの。

そんな問いかけが、虚しく響く。


店を出て、冷たい夜風に当たる。

高いヒールの足音が、歌舞伎町の路地に木霊する。

仄暗い路地裏。夢も希望も、光の届かない場所。

そんな場所で麗奈は、いつしか涙を流していた。

誰にも見せられない、本当の自分の姿を。


第3章


キャバクラ『エメラルド』の店内。きらびやかなシャンデリアの光が、テーブルに並ぶシャンパンのグラスを煌めかせている。

そんな店で、結城沙織は今夜もお客さんを接待していた。


「沙織ちゃん、今夜も最高に可愛いよ! 君といると俺、生きる力湧いてくるよ」


隣に座る男性客が、甘ったるい声で沙織に話しかける。

いかにも商売男といった風貌だ。

沙織は内心うんざりしながらも、愛想笑いを浮かべる。


「ありがとうございます。でも、私はお客さんとこうしてお話しできるだけで、幸せなんです」


柔らかな物腰で、笑顔を絶やさない。

それが、キャバ嬢という仕事の基本だ。

けれど、心の中では虚無感がつのっていく。

こんなやりとりの繰り返しに、いったいどれほどの意味があるのだろう。


ホストクラブ通いが高じて、借金を抱えてしまった沙織。

借金返済のため、こうしてキャバクラで働いている。

けれど、ホストへの未練は断ち切れない。

今夜も仕事が終われば、ホストクラブに直行するつもりだ。


「ねえ、沙織ちゃん。俺のこと、本気で好きになってくれないかな? 俺は、君のために何だってできるよ」


客の言葉に、沙織の心がざわつく。

本気で、自分を愛してくれる人。

そんな相手が欲しいと、心の奥で強く願っていた。

けれど、それは叶わない夢なのかもしれない。


「ごめんなさい。私にはまだ、夢があるんです。だから、お客さんとは…」


はにかむように笑って、沙織は言葉を濁す。

夢。

自分でも、それが何なのかよくわかっていない。

ただ漠然と、今の生活から抜け出したいという思いが募るばかりだ。


やがて時間となり、客たちが店を後にしていく。

華やかな喧騒が過ぎ去り、店内が静けさに包まれる。

ほっと息をつきながら、沙織はカウンターに肘をついた。

グラスに残ったシャンパンを、一気に飲み干す。

喉を焼くような刺激に、心がわずかに紛れる。


ふと、店の入口に視線を向ける。

外は、もう真っ暗だ。

ネオンだけが、路地を妖しく照らし出している。

その光に誘われるように、沙織の足は自然とホストクラブへ向かっていた。


「いらっしゃいませ。お嬢様、今夜はどのホストのご指名でしょうか?」


ホストクラブの煌びやかな店内。

笑顔を浮かべる黒服に迎えられ、沙織はいつもの席へと案内された。

ソファに身を沈めると、甘い香りのシャンパンが注がれる。


「沙織ちゃん、今日も来てくれたんだね。君に会えるのを楽しみにしてたよ」


現れたのは、沙織の担当ホスト・陸斗だった。

甘いマスクで微笑む彼に、沙織の心は踊る。

本当は、彼のことが好きなのかもしれない。

けれど、ホストに本気になってはいけない。

そう自分に言い聞かせる。


「ねえ、陸斗君。私、いつまでこんな生活を続けていいのかな。夢なんて、私には似合わないのかもしれない」


ほろ酔いに任せて、沙織は本音を漏らす。

いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

それを見た陸斗は、やさしく微笑んだ。


「沙織ちゃんは、誰よりも夢を追いかける資格があるよ。今は苦しいかもしれないけど、きっと夢は叶う。俺が、全力で応援してる」


沙織の涙を、陸斗は拭ってくれる。

甘い言葉に、心が溶けそうになる。

夢を信じる勇気。

自分を信じる勇気。

そんなものを、沙織は彼に教わったのかもしれない。


今夜も、ため息まじりに空を仰ぐ。

満天の星が、都会の夜空に輝いている。

いつか、私も星のように輝ける日が来るのだろうか。

そんな儚い願いを胸に、沙織はホストクラブを後にした。

高いヒールの音を響かせながら、歌舞伎町の夜道を歩く。

まだ見ぬ明日へ、夢へと続く道を。


第4章


深夜の歌舞伎町。

ネオンの光が、雑多なビルの壁に反射している。

路上では、酔客たちが騒々しい笑い声を上げて通り過ぎていく。

誰もが、現実から逃れるように、刹那の快楽を求めているようだ。


風俗嬢の美月、ホステスの麗奈、キャバ嬢の沙織。

彼女たちもまた、夜の街に身を投じる一人だった。

けれど今夜は、いつもとは違う予感に襲われていた。


「美月ちゃん、今夜は指名してもらえてうれしいよ」


美月の目の前で、良夫が穏やかに微笑む。

見慣れたホテルの一室。

薄暗い照明に浮かぶ、良夫の優しい表情。

けれど美月の心は、どこか落ち着かない。


「私も、良夫さんに会えてうれしい。でも、これ以上は…」


言葉を濁す美月に、良夫は真剣な眼差しを向けた。


「美月ちゃんのこと、本気で好きになってしまったんだ。もう、君なしでは生きていけない」


まるで映画のワンシーンのようなセリフ。

美月の鼓動が、早鐘を打つ。

本当は、良夫のことが好きなのかもしれない。

けれど、そんな恋愛をする資格が、自分にはないのだ。


「私は、良夫さんのことが…でも、夢があるの。だから、身体の関係はこれっきりにしましょう」


夢。

風俗を抜け出し、普通の女の子に戻ること。

美月は、そう言い聞かせるように目を閉じた。

良夫の温もりから、するりと身を離す。

残されたのは、冷たいシーツと虚ろな静けさだけだった。


一方、麗奈の元に差し出された一通の封筒。

ホストクラブの店長からの、借金返済の取引だという。

震える指先で封を切ると、中から大金が現れた。


「これで、借金は全部チャラにしてやる。その代わり、俺の言うことを聞け」


店長の、欲望に歪んだ笑みが胸に突き刺さる。

麗奈は息を呑んだ。

自由を手に入れるため、身体を差し出すことになるのか。

代償として、尊厳を売り渡すことになるのか。


「私…私には、まだ夢があります。女優になること、それが私の夢なんです」


震える声で、麗奈は拒絶の言葉を紡ぐ。

夢を、自分を売り渡してまで生きていくことはできない。

たとえ、借金地獄に苦しみ続けることになっても。

麗奈は、涙を浮かべて店長に背を向けた。

ガラスのドアを叩きつけるように、店を後にする。

暗闇の中、高いヒールの音だけが虚しく響き渡った。


「沙織、俺はお前が本当に好きなんだ。キャバ嬢なんて辞めて、俺と一緒になってくれ」


ホストクラブの個室で、酔った隆史が沙織に絡んでくる。

しつこい言葉に、沙織は顔をしかめた。

確かに、彼のことは好きだ。

けれど、それはお客さんとしての好意。

本気の恋愛感情ではない。


「ごめんなさい。私にはまだ、叶えたい夢があるの。今はその夢を追いかけたいの」


優しく言葉を重ねる沙織に、隆史の表情が曇る。

その瞳には、侮蔑の色が浮かんでいた。


「夢だって? お前みたいなやつに、夢なんて似合わないよ。現実を見ろよ」


冷たく突き放す隆史の言葉。

沙織の胸に、痛みが走る。

夢を馬鹿にされるのは、自分自身を否定されているようで堪らなかった。

けれど、負けるわけにはいかない。


「私には、夢がある。それだけは、誰にも譲れない。たとえ、あなたが相手でも」


毅然とした態度で、沙織は隆史を見据える。

たとえ愛する人から見放されても、夢だけは手放すまい。

そう心に誓った。


歌舞伎町の片隅で、美月と麗奈、沙織の姿が重なる。

仄暗い路地裏、夢も希望も届かない場所。

けれど彼女たちの瞳は、どこか強い輝きを放っていた。

夢を、自分を信じる強さ。

たとえ、今は絶望の淵に立たされていても。

いつか、本当の自分の人生を生きる。

そんな思いを胸に、彼女たちは再び夜の街に繰り出す。


第5章


夜が明けていく。

歌舞伎町の街も、少しずつ静けさを取り戻していた。

けれど、夜の喧騒に身を投じる者たちにとって、朝は結末ではない。

新たな一日の始まりでしかないのだ。


風俗店を辞めた美月。

ホステスを辞めた麗奈。

キャバクラを辞めた沙織。

三人はそれぞれ、新しい人生を歩み始めていた。


「美月ちゃん、俺と一緒に新しい人生を始めよう。君を、幸せにするから」


良夫が、優しく微笑む。

晴れやかな表情で、美月の手を取る。

その温もりに、美月の心が震えた。

これが、本当の愛なのかもしれない。

けれど同時に、深い戸惑いも感じずにはいられなかった。


「良夫さん、私はあなたが好きです。でも、まだ自分の夢を追いかけたいの。だから…」


美月は、良夫の手を離す。

せっかく芽生えた恋を、自ら断ち切るように。

夢を諦めて、良夫との幸せを選ぶ勇気はまだない。

美月は、決意を胸に新たな一歩を踏み出した。


「麗奈さん、オーディション合格おめでとうございます! 君なら、必ずやっていける」


事務所のマネージャーが、麗奈に声をかける。

ようやく掴んだ、女優への切符。

麗奈の顔に、笑みが広がる。

借金に苦しみ、夢を諦めかけた日々。

全てを乗り越えて、ここまで来られた。


「ありがとうございます。私、絶対に夢を叶えてみせます。女優として、輝いてみせます!」


希望に胸を膨らませる麗奈。

窓の外には、輝くような青空が広がっていた。

まるで、麗奈の未来を祝福するかのように。

麗奈は、希望を抱いて新たな世界へ飛び立つ。


「沙織ちゃん、君の小説、すごく面白かったよ。才能があるね」


文芸サークルの先輩が、沙織を褒める。

密かに書いていた小説を、初めて人に見せた沙織。

それが、予想外の評価を得たのだ。

「本当ですか? 私、小説家になりたいと思っているんです。だから、その、頑張ります!」


夢に向かって、一歩を踏み出す沙織。

まだ先は長い。

けれど、諦めずに進んでいけば、きっと夢は叶うはず。

沙織は、ペンを握る指に力を込めた。


三人が出会ったのは、新宿のとあるカフェだった。

店内に漂うコーヒーの香り。

窓から差し込む、柔らかな日差し。

まるで、三人の新しい人生を祝福しているかのようだ。


「私、風俗を辞めて、ネイリストの専門学校に通い始めたの。夢に向かって、頑張ろうと思って」

「私は、女優の道を歩み始めました。オーディションに合格したんです」

「私、小説家を目指すことにしたんです。初めて書いた小説が、褒められて…」


三人は、笑顔で近況を語り合う。

辛く苦しかった過去。

けれど、それがあったからこそ、今がある。

夢を信じて歩んでいく勇気を、過去が教えてくれたのだ。


「私たちって、よく頑張ったよね。夢を信じて、最後まで諦めなかった」

「うん、みんなそれぞれの道を見つけられて、本当によかった」

「また夢を追いかけて、前に進もう。いつか、必ず夢を叶えようね!」


新宿の街を、三人は歩く。

それぞれの夢を胸に、新しい人生を歩み始める。

まだ、先は長い。

けれど、夢を諦めない限り、道は続いているはず。

三人の背中に、希望の風が吹いていた。


輝くような青空。

せわしなく行き交う人々。

この街で、新しい人生が始まる。

美月、麗奈、沙織。

彼女たちはきっと、夢を叶えられる。

そう信じて、また一歩を踏み出す。

新宿の、新しい朝へ。

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ネオンに濡れて 島原大知 @SHIMAHARA_DAICHI

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