ミクちゃんの冒険【2】

 その日、出勤した途端に、ニコさんが私の前にやってきて、大きな声でいった。

「えっと、なんだっけ!」

「はい?」

 裏口を開けたところだった。まるでそこで私を待っていたかのように、ニコさんはそこにいて、私の顔を見ると、音を立ててにこにこと笑って、なんだっけ、と言ったのだ。

「いや、なんですか?」

「ごめんね、ちょとと待ってね、思い出すからね」

「私に用事ですか?」

「うん! そう!」

 用事があって待っていたのに用事を忘れるなんてことがあるだろうか。まぁニコさんならそういうこともありそうだった。

 天然とか、不思議ちゃんとか、そういった呼称をする、される人間は好まないけれど、ニコさんはそういうのとはちょっと違う。いや、だいぶ違う。

 ニコさんは自分が天然であることに苦しんでいる。不思議であることに目を回している。生活にまったく技巧がなく、自らの立ち回りに対する客観性もない。

 なにもかもぶっ放し。その場限りの一発勝負で、すべてに負けても、立ち上がり続けている。

 ニコさんは、傷が癒えない間に新しい傷をつくることで、古い傷のことを忘れようとしているみたいだった。

「あっ! 思い出したよ。ミクちゃん! 問題です!」

「問題?」

「マナティのお腹の下をみてください!」

「はい?」

 マナティのお腹の下をみてください、としか聞こえなかったけれど、意味がわからなすぎるので違うだろう。

「もう一回いいですか?」

「うん! マナティのお腹の下をみてください!」

「言ってたわ。え、どういうことですか?」

「指令だよ! 今日はミクちゃんにいろんな指令があるからね!」

 ニコさん、ニコさん、スタンバイお願いします、とちょうど背後から放送がかかった。ニコさんはにこにこして、なぜか私の片手をとって勝手に握手をしてきた。

「よろしくどうぞ!」

 そう言って、ぱたぱたと準備をしにトイレに走っていった。なにがなんだかわからない。そもそもニコさんのことをわかった、と思うときはあまりないけれど。

 そんなことを思いながら待機室に入ると、異様な光景が広がっていた。

「なんすかこれ!」

「おっ、ミクおつおつー」

 待機室の壁一面に大小さまざまなぬいぐるみが並んでいる。象、キリン、たぬき、イルカ、カニ、ワニ、にわとり、あと、これはなんだ、花?

「うわ、こわ」

 持ち上げると花の上に顔が描いてある化け物だった。

「ちょ、ちょっと、だめじゃん! ずるじゃん!」

「あ、ナナさん、いたんすか」

「ずっといた! 挨拶した! 指名全然こねえ!」

 あはは! と笑ってナナさんは、どーん、と言ってぬいぐるみたちの横に飛び込んだ。ナナさんは明るいし元気だし可愛いので普通にやっていれば、もっと指名が入りそうなものだけど、気分のムラが激しすぎてそれが仕事に影響しているらしい。

「てかなんすかこれ」

「あれ? ニコさんに会わんかった?」

「会いましたけど」

「じゃあそれがこれ」

 それがこれ、と言われてもなにがなんだかわからない。

 どこからこんなにぬいぐるみが沸いて来たのだろう。マナティがなんとかと言っていたけれど。

 寝転がりながらナナさんは私の持っているものを指した。

「それはマナティじゃないから」

「見ればわかりますけど」

「持ち上げていいのは一回までだから! 本当なら脱落だから!」

 へへ、と笑ってナナさんは転がった拍子に出た腹を出したまま、なぜか万歳をした。

「でも私の妹分特典として、特別にもう一回どれかのお腹の下見てもいいよ! それはマナティじゃないから」

「だから、これがマナティじゃないことはわかりますって」

 というよりなんでもない。なんなんだこいつは。異様に腹の立つ顔をしている。

「ちょっとー。妹分特典についての喜びのコメントがない!」

 じたばたとナナさんが毛布の海でバタ足をするので、ホコリとタバコの灰が舞った。この部屋にはそこかしこにホコリと灰が落ちている。

 にぶい間接照明の光でときどきそれはキラキラ光って見えるので、ちょっとしたエフェクトみたいで面白い。

 それにしても、マナティの腹の下になにがあるというのだろう。なにかがあったとして、なぜ私がそれを探さなきゃいけないのだろう。

 とは思うけれど、クエストを与えられるとやっぱりちょっと楽しくなってきてしまう。ゲームの仲間内でトロコン嬢ちゃんと呼ばれていたのだ私は。

「ねえ! 妹分について! コメントが!」

「あー。はいはい。嬉しいです。光栄です。妹です」

「棒だ! あれ、アイス食べたくなってきたな」

 ひしめき合うぬいぐるみの中にそれらしいフォルムのものがあったのでのぞくと、二体同じものがあった。ぬるっとまん丸い形状で、目が点みたいで、オットセイとイルカを混ぜたようなやつ。

「え、これのうちのどっちかってことすか? 確率?」

 確率は確率で面白いけれど、なんだか雑だ。

 と思ったところで、暗幕の開く音がした。

「よくみて」

 ダウナーな声に振り返ると、一本ついてきたらしいアキさんが入ってきた。

「あ、おつかれさまです」

「おつかれ。さよなら」

「え、あがりっすか?」

「うん。あがり」

「えー、化粧してもらおうと思ったのに」

 アキさんは無類の化粧品マニアで新作を端から端まで買っていくのでいつも金欠で、しかも研究熱心だから、肌色の違う私の顔をいつも作ってくれる。ああでもない、こうでもない、と実地を重ねているけれど、正直暗いのでなにもかもたいして変わらない。

「化粧はする」

「やったー」

「てかよくみて」

 アキさんがそういう横で、ナナさんがびょんと立ち上がった。

「アイス! 食べたい」

 そういって、さっさと出ていってしまう。やはり気分にムラがありすぎる。で、よくみてと言われたので二体のマナティをよく見た。でも持ち上げるのは一回までと言われたので、一応ルールを守って上からのぞき込む。

 おしりのほうを見ると、なにか様子がおかしい。

「しっぽがちがう!」

 一体はしっぽが丸く、もう一体は二股にわかれていた。姿形が一緒なのになぜしっぽだけ、と思っていると、さっそく化粧道具を広げ始めたアキさんがいう。

「マナティとジュゴンは似てるから」

「ジュゴン!」

 マナティもジュゴンも聞いたことがあるし、聞けばうっすら姿かたちを想像するけれど、確かに同じような形状で想像している。というより、オットセイもアシカもトドもみんな同じで想像している。そして、そのときにしっぽのことなど想像していない。

 つまり、しっぽについての知識がまったくない。

「確率だ」

「意外とまじめに取り組んでるね」

「いやぁ、なんだかわかんないすけど、こういうゲーム性のあるものはまじめにやりたい性質で」

「そ。じゃあがんばって」

 てきぱきとアキさんがメイクをしてくれている間考えた。考えたけれど、もとからない知識はどこからどうやってもひねりようがない。

 しっぽの形状が違うということは、泳ぎ方が違うのかもしれない、でも、泳ぎ方の違いによってなにが生み出されるのかわからない。

 生息地? でも、そもそもマナティとジュゴンの生息地を知らないのだから、それが測定できたところで、やっぱり何にもならない。

 結局、アキさんに可愛くしてもらった顔で、どちらにしようかな、と運に頼って丸っこいしっぽの方を持ち上げた。人間、結局最後は確率に頼るしかないのだ。

 で、持ち上げた腹の下に小さな紙がついていた。

「おめでとう。じゃ、おつかれ」

「え、え、一緒に見てくれたりしないんですか?」

「眉サロンいかなきゃだから」

 そういって、さっさとアキさんは本当に帰っていった。ナナさんもフリーの客についているらしく、一人でメモを確認する。

 誰の字かと期待してみたけれど、丁寧にワードで印字されている。まぁ、こんな丁寧な仕事をする人間はひとりしかない。

「からあげの人のポケットの中を見ろ」

 雑だ。

 絶対にこのゲームの制作者はこの手のゲームをやったことがない。なんかもっと謎を解いたりさせるべきなのに。からあげの人なんか、この店に一人しかいないし。

 そう考えて、事務所に行くと、お目当ての綾乃さんは珍しくユリアさんと並んで座っていた。といってもかなり間が空いている。

 ので、その間に座ることにした。

「ミクちゃんおつかれー」

 どしたのー、とまずユリアさんが声をかけてくれる。相変わらずいい匂いがする。

 タバコを吸っているからタバコの嫌な匂いがしていてもいいはずなのに、というより、実際にはしているのだろうけれど、それを上回るいい匂いがユリアさんからは香っているのだ。

 食べたことのない甘いお菓子みたいな、つかまえようとすると逃げていくような匂い。

「ちょっとミク、今面談中」

 そういって反対側にいる綾乃さんは嫌そうに目を細めた。

「面談って、雑談じゃないっすか」

「たしかにー」

 あはは、とユリアさんが笑うと、綾乃さんは異様に上手に嫌な顔をした。

「あんたが関係のない話ばっかりするからでしょ」

「そうだっけー」

 はあ、と綾乃さんはおおげさにため息を吐いた。幼馴染というものがいたことがないのでわからないけれど、二人はいつもこんな感じだった。

 表ではあまりべたべたしないが、実は心の底ではつながっている、という雰囲気も決して見受けられず、ただただ、ずっと一緒にいてその関係に互いが倦んでいるように見える。

 実際はどうかしらないけど。

 でも綾乃さんもユリアさんも私たち年少組になんやかんやで甘く、そういうところはよく似ている。面倒見がいいというか、守ってくれているという感覚がする。

「でも、もうほとんど埋まったので」

 正面に座っている真さんが微笑みながらそう言った。

 面談というのは月一回仕事に対する姿勢や困っていることなどをボーイが聞いて、なにやら紙になにかを書き込む作業のことをいう。

 どうもかなり上の人たちからやることを強制されているイベントらしい。店長の岩滝や一応副店長の義春などは、たいして話を聞きもせず適当に書きつけて送っているようだが、真はいつもちゃんと話を聞いて、それを上層部に伝えているらしい。

「ミクさんはもう面談終わったよね。なにかあった?」

 筆記用具をしまいながら、真さんがいう。

「あ、いや、そうだ。からあげの人のポケットを」

 そういって、綾乃さんの制服のスカートに手を伸ばそうとすると、強く身を引かれた。

「は、なに」

「え、いや、だからからあげの人のポケットを」

「からあげ? なに」

「ちょ、聞いてないんすか? うそだぁ。からあげの人なんて綾乃さんしかいないじゃないっすか」

 ぐいぐいとポケットに手を入れようとしたけれど、不審な顔をで綾乃さんが避けるのでうまく手が入らない。その私の横で、ユリアさんがふふふ、と笑っている。それに気がついた綾乃さんが顔をしかめた。

「なに、あんたまた何かやったの」

「私じゃないよー」

「これですよこれ」

 私が指令書を見せてみると、なにこれ、と単純な声が返ってくる。

「いや、私にもわからんすけど。でもからあげの人のポケットの中にあるんで」

 すると、ああ、となにかを思い出したように真さんが言った。

「ニコさんがさっき復唱してたやつですね。マナティの」

 マナティ? と怪訝な顔をしながら、なおも綾乃さんは体をよじった。

「何言ってるのかわかんないけど、ポケットなんかなにも入ってない」と言って綾乃さんはポケットの中に手を突っ込んで、そして紙切れを一枚取り出した「なにこれ」

「あるじゃないすか!」

 あはは、とユリアさんが笑う。

「ほんと杏ちゃんって何にも気づかないよねぇ」

「うるさい」

「なんて書いてあります?」

「あ? からあげの人と指相撲で勝て。なにこれ」

「むりに決まってるじゃないですか、綾乃さん自分の腕の太さ確認したことあります?」

「私が言ってるわけじゃないから!」

「まあまあまあ」とにやにやしながらユリアさんが言った。「一応やってみなよー、ミクちゃん」

「えー」

「えー、はこっちの台詞なんだけど」

 どう考えてもゲームバランスがおかしい。綾乃さんはなんのためかは知らないが、日々筋トレに勤しみ、日々タンパク質を取っているので、それはもう素晴らしいきりっとした体をしている。

 私といえば、仕事で使う顎やら腕やらの筋肉と、ボタンを連打する以上の筋肉を使うことはほとんどないので、どんなものであれフィジカルで綾乃さんに勝てることはない。

 けれどまぁ、万が一ということがありうるだろうと、真さんを審判に迎え、とりあえず一戦交えることにした。

「え! よわ!」

 あははは! とユリアさんが大声で笑った。はじめてこんな風にバカ笑いをするところを見たかもしれない。握った手の凶悪さと裏腹に、綾乃さんは赤ちゃんみたいな指の動きをしていて、なにをどうやっても負けようがなかった。

「相変わらず弱いね―、杏ちゃん。人類で一番弱いんじゃない」

「うるさい」

「へ、なんで? なんでそんな屈強な体をしていて、そんなに指がふにゃふにゃなんですか?」

「すごい。興味深いですね」

 真さんがそうつぶやいて綾乃さんの指をのぞき込んだとき、お店のチャイムがなった。

「あ、」

 もし客がフリーなら次につくのは私だ。いつものかすかな憂鬱な気持ち。

 仕事の前では人間はいつもこんな気持ちになるのだろうか。それとも、これが特殊な仕事だからそう感じるのだろうか。

 私は、どんな仕事でも少なからず私たちと同じ気持ちになるのではないかと踏んでいる。男も女もクリーチャーも、突き詰めればみんな、春をひさいで生きているのだ。

 やっぱり客はフリーだった。

 準備をすませて事務所に帰ると、ユリアさんも綾乃さんももういなかった。懐かしいさみしい気持ちがする。外で遊んでいて、徐々にみんなが帰ってしまったあとみたい。

 うちは共働きで、兄弟とは年が離れているから、家に帰っても誰もいないから、最後まで家に帰らず外で遊んでいるのは私だけだった。オンラインゲームが好きなのはそういう経験のせいもあるのかもしれない。

 ゲームの中では、いつでも誰かが存在していた。誰かが出ても、別の誰かが現れる。

「じゃあ、ミクさん、これ」

 おしぼりのかごを渡すのかと思ったら、真さんが小さな紙を手にした。

「次の指令なんだけど」

「え、真さんも参加してたんですか?」

「うーん、参加って言っていうほど貢献できてるかわからないけど、途中でちょっとだけ仲間になる村人? 役だっていってた」

「あはは、ぴったり」

 真さんはいつでも優しくあたたかく私たちを助けてくれるけど、やっぱり別の世界の人という感じがする。

 ちょっとしたイベントをひとつくらいは一緒に冒険ができるけれど、結局そのあとには村に残ってしまうのだ。仲間になったら、きっと面白いと思いながら、仕方がないと私たちは前に進むしかない。

「勝てなかったら助けてあげてって言われたんだけど、余裕だったね

 興味深いなぁ、とまた綾乃さんの指相撲の弱さを思い出しながら真さんは言って、それから自分の持っている紙を見た。

「これ、やっぱり仕事終わってからにしようか?」

 たしかに、今それを見たら私の性格上、仕事をリアルタイムアタックしてしまう。それでなくても手抜きだなんだと私は仕事の評判が悪い。別によくもなりたくないけれど、真さんはそれだと困るのだろう。

 そういえば最近はみんな、真さんを困らせないようにちゃんと仕事をしているような気がする。

「終わってからでも問題のない指令なんすか?」

 そう聞くと、真さんはいつもより少しだけ明るくにっこり笑った。

「それはもう。なんの問題もないと思うよ。むしろ、そっちのほうが色々都合がいいかも」

「じゃあそうします!」

 この催しものが誰によって主導されているのかはだいたい分かるけど、その先のあるものはまだわからない。それを予想しながらだったら、いつもより多少は気分よく仕事ができるかもしれない。

「うん。じゃあ、いってらっしゃい」

 がんばってね、という優しい遠い村人の声を聞いて、私は暗い汚い寒い仕事に向かった。誰も自分ではやりたがらない仕事。

 冒険の実情なんてどれもきっとこんなもんだろう。

 勇者と私たちの違いは、大義名分があるかないか、ただそれだけ。でも外の世界ではそれが、それだけが大事なのだ。大義名分のない仕事は、するほうが悪いのだ。

 やらない人間はやらない。汚い仕事をするのは、お前たちが汚いから。

 そんな言葉でいつも私たちは倒される。となると、私たちは勇者ではなく、世界を滅ぼすモンスターなのかもしれない。そりゃいい。そっちのほうがいい。

 大義がなけりゃ生きていけない世界なんて、滅べばいいんだ。

「はじめまして、ミクです。よろしくお願いします」

 出現、殲滅。出現、殲滅。

 いつか勇者が全滅する夢を見て、私たちはモンスター同士でいまを楽しく生きていくしかない。

 いつだって殲滅されるばかりだけど。

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