【短編集】がーるず・あっと・じ・えっじ【番外編】
犬怪寅日子
ミクちゃんの冒険【1】
もともとゲームが好きだった。
でもまぁ、あのころはよくある好きのうちの一個って感じで、それ以上でもそれ以下でもなかったと思う。
蟻の巣に草をいれて蟻を釣るのだって好きだったし、風邪を引いたふりして学校を休んで家の真ん中で見るアニメだって好きだったし、あとは普通に走るのも好きだった。
でもまぁ、やっぱりゲームは好きだったかな。
なかでも格闘ゲームが好きだったから、友達の家に集まってよくやっていた。忘れもしない。小学校四年の九月。まぼの家でよっちと太郎と私。女は私ひとりだけ。
そんなことはでも、あの当時はまったく意識したことがなかった。誰も私を女だとか、そんな意味をもって扱ったりしなかった。
ゲームをしてお菓子を食べて、くだらない話をして、そこに性別が入り込む余地なんてまったくなかった。でも今では、私だけが女だった、という感情なしでそのころのことを思い出せない。
思い出は汚れるものだ。それに、綺麗なものほど汚れやすい。
で、その日は学校が特別清掃かなにかで早くに終わったので、いつものようにまぼの家に行くつもりだった。いつもと変わらない、なんの意味も持っていない日。
そういう日が、私は割合に好きだったように思う。いいや、とても好きだった。
とはいえ、春に都会から転校してきたゆうこちゃんという名前の人間が、クラスに奇妙な風を吹かせているということを知らなかったわけではない。でもそれは私とは関係のない話だと思っていた。
スカートを履いて連れションが好きな人間たちが、その人間たちの間だけで通じる言語でひそひそと話をしている。ただそれだけのこと。
たとえばそれは、私たちが投げ判定について文句を言ったり、超必の演出に大声をあげて隣の人間の背中を叩いたりするのと同じことで、同属性のなかにある特殊なコミュニケーションだろうと考えていたのだ。実際、そうだった。
違う属性の人間の言語なんて、思考ごとその中に入らないと、肉感を持った意味なんてわからない。意味がわからないのだから、なんの感情も抱かない。
豚にブーブー言われて、その音に傷つく人間はいないだろう。
ただ、うるさいとは思う。
うるさいとは思っていた。
「ゲームが好きなの?」
その日、トイレで手を洗っているとゆうこちゃんという人間が話しかけてきた。
「え、いや、別に」
とっさにそう答えたのは、突然、親しくもない人間に親しげに話しかけられた動揺と不信感からだった。
「でもいつも一緒にゲームしてるんでしょ?」
でしょぉ、と聞こえたその声と、やたらに距離が近いのが気にかかって、少しだけ身を後ろに引くと、ゆうこちゃんという名前の人間はもっと近づいてきた。
「私もゲーム好きなんだ。一緒に行ってもいい?」
その時に、すでにもう私の行く末は決まっていたに違いない。
どんな選択肢を取ったとしても、最終的な結果は変わらない。そういうことは、人生をやっているとよくある。人生の分岐は自力で選べないものにあふれている。
「私じゃなくてまぼに聞いて」
まぼは鷹揚で優しくてゆうこちゃんという名前の人間の頼みを断らないことは明らかだった。
その日のことは、正直いまでも思い出すと吐き気がする。ゆうこちゃんは全然ゲームをわかっていなかったし、ほんの少しの敬意もなかった。
なんでこの人たちは戦ってるのとか、これをしたら何が得られるのとか、変な髪型だとか、この男みたいな筋肉の人も女なのかとか、そんなようなことばかりを言って、ゲームではなくクラスの人の噂話をしたがった。
私はつまらないので途中で帰ったけれど、残った三人は最後までゆうこちゃんという名前の人間に付き合ったらしい。
で、その次の集まりにも、ゆうこちゃんという名前の人間はまぼの家に行きたいと言ってきた。まぼは嫌なことを断れないだろうから、私が断った。言葉にしてはいないけど、それは四人の総意だった。
現に、私たちはゆうこちゃんという名前の人間のことを、そのあと一度も話さなかった。
その意図がなかったとしても、好きなものをあんな風にバカにされるのは耐えられない。別属性の人間であることは罪ではないけれど、そのテリトリーに入ってきて、別の言語と思想でもってその属性を貶めるのは罪だ。
「ゲーム好きじゃないなら来ないで」
だからそういった。
そう言ったあと、なんでゆうこちゃんという名前の人間が泣いたのか私にはよくわからなかった。別に人格を否定したわけではない。そうではないのなら来るべきではないと注意しただけだ。当たり前のことだ。
だから泣いているのはそのまま放ってまぼの家に遊びに行った。
私たちはまたいつも通り、あの時間を過ごした。とても気楽で、面倒ごとのない、本当の自分でいられる瞬間。でも少し、もうそれまでとは違ったかも。
その次の日、登校した瞬間から周りの空気が冷えていた。朝、授業が始まるまで適当な話をしているあっこちゃんとエリコが、話しかけてこなかった。
ゆうこちゃんという名前の人間の取り巻きが、ひそひそとまた何かを話していて、その中央にいるゆうこちゃんという名前の人間は、机の上につっぷしていた。
「あんな性格悪いやつのこと気にすることないって」
「ゆうこが可愛いから、やきもち焼いてるんだよ」
「男取られると思ってさ」
「自分だけがちやほやされたいんだよ」
すると、突っ伏していたゆうこちゃんという名の人間は、湿った声でつぶやいた。
「意味わかんない。男に好かれるのがそんなに大事?」
その声が耳に入ってきて、私は酷くショックを受けた。
手が震えた。それは悲しいとか苦しいとか悔しいとか、そういう色のついた感情ではなく、もっと身体的な、それ以前と以後で体が作り変わってしまう類のものだった。もちろん、その言葉に傷ついたのではない。
豚の声が聞き取れるようになってしまったのが嫌だったのだ。
今までただの豚の鳴き声だったものに、否定する心を持ってしまった。誰に無視されようが、悪口を言われようが、そんなことはどうでもいいのだ。その声を理解できてしまったことが嫌だった。
私は変わってしまった。
そしてもう、変わる前には戻れない。
小学校はそれからずるずる休んで卒業式には出なかった。中学校はほとんど保健室で過ごした。親に泣いて頼まれたので進学した高校は三ヶ月で辞めた。
晴れて引きこもりになった私は、起きている間はずっとオンラインRPGの世界の中にいた。ゲームはいい。とてもいい。決まり事で作られた世界で、果ての果てまで世界は決まったルールで動いている。
人間との関わりも外の世界よりシンプルで本質的だ。
実績を積めば頼られるし、男にも女にもなれる。不思議とその中で関わる人間には、外の人間たちほどには嫌悪感を抱かなかった。
どうせ自分と同じような社会不適合者ばかりなのだろうと勝手に脳内で補完していたからかもしれない。私は日に日にその世界にのめり込み、その世界を信じるようになった。
現代に生まれてきてよかったと心から思った。すべてが部屋のなかで完結するから。
「お金は?」
ふと隣にいるリンカが口を挟んだ。
「んー」
「ゲームやってるだけでお金って稼げるの?」
「むりだね」
実際にはその方法があったのかもしれないが、当時の私にはそんな頭はなかった。このままではいけないと一念発起した両親はアパートを借りてそこで私に一人暮らしをさせることにした。環境が変われば人も変わると考えていたのだろう。
「へー。おもしろいね」
リンカは本当に興味深そうに、新しいなんとかいうクッキー生地にゼリーが巻き付いた謎の不味そうなお菓子を口にいれながらつぶやいた。
リンカは自宅でほぼ軟禁状態ですごしていたらしいので、私とは真逆の環境だ。だから本当に面白いのだろう。そうでなくとも、リンカは基本的に自分と違うものすべてに興味を持っている。肯定的に。
遠くでぎゃあ、とナナさんの声がした。またなにか問題を起こしているらしい。
今日は送迎の人数がやたらに多くて、真さんは引率が大変そうだ。
店のプリンターがまた壊れたので、ティッシュ配りに使うチラシを印刷したりでまだまだ時間はかかりそうだった。
ので、この前私がリンカに聞いた変わりに、今日は私の風俗嬢デビュー談義をすることになったのだった。
考えたら最初の豚の話はしなくてよかったような気もする。でもどうしても、私がここにいる理由、ということを考えるとあの出来事は外せない。それに、リンカならまぁ話しても大丈夫だろう。
「え、で、お金に困って直でここ?」
「まー直っていうか、ネトゲで知り合った人と会おうって話になって」
仲良くなった人たちでオフで会おうという話が前々からあって、一度くらいはいいだろうと行ってみたら思いの外、居心地がよかった。それでその仲間内でしょちゅう会うようになった。
男二人と女二人、私を入れて合計五人。年齢も性別も全然違うのに会話をするのに困らないし、無言でも気にならない、みんな社会人で私より年上で、すごく甘やかしてくれたし、いろんなことを教えてくれた。
「いろんなこと」
「そ。どうせ働く時間が嫌なら、短い時間でぱっと稼げるほうがいいでしょって、紹介してくれた。この仕事」
環境が変われば人も変わるというのは、ある意味では真理なのだろう。ただ、それは本質が変わるわけではない。本質を変えないために、その他のものが変わるのだ。
私はもう二度と信用ならない人間と関わりを持ちたくなかった。
バイトにしろなんにしろ、働くというのは、幾多数多の、無数の、無象の、信用ならない人間たちと時間を過ごすことを意味する。
そんな時間は、なるべく短い方がいいに決まっている。
「なるほどなるほど」
ぽりぽりとクッキーグミを頬張りながら、リンカが言う。
「非処女だったん?」
「いや処女処女」
「どうしたの?」
「そのよくオフで会ってた五人の中にカップルのお兄さんとお姉さんがいてさ、仕事紹介してくれたのはお姉さんなんだけど、処女のまま行きたくないっていったら彼氏貸してくれた」
「貸してくれた? 無料で?」
「無料で。お姉さんもついててくれて、いろいろ教えてくれた」
「いろいろすぎる」
あはは、とリンカは笑った。
私はその笑いに安心する。
侮蔑がまったく含まれていない、ただの笑いは嬉しい。私の人生を侮蔑の意味でなく笑ってくれる存在がいるのは、救われる。私だって、自分の人生はおかしいと思うから。
「でも貫通式ってめっちゃ痛いじゃん」
「めっちゃ痛い」
「お姉さん横で応援してくれてたもん。がんばれーって」
「まじで? 最高じゃん。私もそれがよかった」
いいなあ、とリンカが本当に羨ましそうにいうので、気分がよくなる。
その二人の家にしばらく入り浸って、本当にいろんなことを教えてもらった。大人になれば、自分で付き合う人間を選べるのだということを教えてくれた人たちだった。
「大好きだったなー」
「今は? 会ってないの?」
「あー。なんか仲間内で色恋沙汰で揉めごとがあったみたいで、解散になった。音信不通」
だから私は色恋のすべてを憎んでいる。なんだってそんな意味のわからないことで、くだらないことで、人と人が離れたり反目したりしなきゃいけないのだろう。
「色恋絶滅しないかな」
するとリンカは、あー、とあまり感情のこもっていない声を出した。
「まぁ、無理だろうね。人類の宿痾なんで」
「治療法はないんすか、先生」
先生じゃないけど、とリンカは笑った。
「やっぱり愛じゃない?」
「愛!?」
何を言い出すんだとその顔を見ると、リンカはいたずら小僧のようにこちらを見て言った。
「毒をもって毒を制すんじゃん?」
「げー」
じゃあ私は一生その宿痾に侵され続けて死ぬのだろう。
この仕事をしはじめて、改めて確定した。私は誰も好きにはならない。特定の人間を性的対象として見ること、見られること自体に嫌悪感がある。
単純な性欲ならまだ我慢できるけど、その向こうに愛情めいた、信頼めいたものが見えると、途端に離れたくなる。それに答え続けないといけないと思うとぞっとする。
なぜ特別な一人を決めなくてはいけないのだろう。
「でもそっかー。ミクって格闘ゲームするんだ」
なるほどなるほど、と何に何を思っているのか、リンカが頷くので、いやと手を振った。
「格ゲーはもう一切やってない。嫌なこと思い出したくないし」
「え、嫌なことってその豚?」
自分が言ったことだが、リンカのようなお嬢さまが豚なんていう汚い言葉を使っているのを見ると、なんとなくちょっと嬉しくなる。
「そーそー。なんか豚と格ゲーが頭の中でくっついちゃってるんだよね。まぁ本当はやりたんだけど。やっぱり今でも一番好きというか、向いてるなとは思うし。小さかったからかもだけど、特別なものではあるから」
だからこそ、これ以上汚されたくない。
まだ私はあの瞬間の純粋な喜びだけはかろうじて覚えている。コマンド入力を体に染み込ませて、シナプスが出来上がっていく瞬間。対策に対策を重ねられて、次の段階へ。変化に対する変化。永遠の成長。
格ゲーをまたやりはじめたら、あの感覚のなかで、ふと豚の言葉を思い出しそうで嫌なのだ。それが繰り返せば、純粋な喜びさえ、思い出せなくなりそうで嫌だ。
するとリンカは横で、あー、と色味のついていない声を吐いた。
「たしかに。いやだよね、そういうの」
「うん。いや。めちゃんこ」
「めちゃんこね」
でも今は、こういうことを話せる人間がいる。
リンカは特にだけど、ここにいる人間は、一時の関係だとわかっているからか、気軽になんでも話せるし、どこか根底で共有している感覚があるような気がしている。
だから今の生活はかなり気に入っている。やっぱりお姉さんは私の人生の恩人だ。自発ではここまでたどり着けなかった。
だからこそ気に入ってるとか、嬉しいとか、ありがとうとか、そういうことは口にしたくなかった。そういうことを言わないで、あー、とか、うん、とかで繋がっているのがいい。だって私は、言葉にすると取り返せなくなるものがあるということをもう知っているから。
綺麗にならなくてもいいから、汚されたくない。
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