【父子#1】

「ねぇねぇ、パパ〜」

「パパじゃねーだろ」

「あ、そうだった! えと、親父!」

「はーい大正解! 吉乃は頭いいなぁ!」 

 まだ三十にも達していないであろう若い男が、夕日がその赤をどんどん濃厚にしていく中、息子と思われる男児と手を繋いで歩いていた。住宅地で、所々にスーパーや美容室、個人経営の魚屋や肉屋があり、私鉄の駅に向かうとそういった店舗は増えてゆく。

 吉乃と呼ばれた男児は、長身の若者、実子に自分のことを『親父』と呼ばせるという少々ユニークな子育てをしている彼は、すぐに手を放してあちらこちらへと飛んでゆく我が子に、確かな、確実な、嘘偽りのない愛情を抱きながらも、特にここ一ヶ月ほど、その胸中に名状しがたい、恐怖とも言える不快感、諦念、不安を抱いていた。

「パパ! 早く来て! 寒いよ! 親父!」

「悪いねぇ、年寄りで」

 吉乃の母親は、吉乃を産み落として数日後に亡くなった。だから吉乃は自分の母親の顔も知らないが、何故保育園に『ママ』ではなく『親父』が迎えに来るのか、それは子供なりに某かを察しているようで、当初恐れていた「なんで吉乃にはママがいないの?」と泣き出したり、ということはほぼ皆無だった。この件に関しては、吉乃の母親の両親、つまり吉乃の祖父母に感謝しなければならない。

——おまえも死ぬか? 二十七歳になったら。

 かまいたちのような、どこから現れたかも分からないあの声に、若い『親父』は虚を突かれて足を止めてしまった。

「どーした、親父」

「……何でもないよ、早く帰ってメシ喰おう、吉乃」

 吉乃は少し眉を上げて足を速めた。

 軽量鉄骨のアパートに帰宅して、あらかじめ調理しておいたオムライスを二人して平らげると、最近『ディベート』に没頭している吉乃から、様々な議題が提示される。先週など『ねぇ、親父、レゾンデートルってどうやって証明するの?』、というとても幼児が好んで話したくなるような話題からは遠い質問を投げてきたものだった。

「ねぇねぇ親父ぃ〜」

 狭い部屋に無理矢理置いたソファベッドに横になっていた『親父』に吉乃が準備万端と言わんばかりの熱量を込めた声音で問いかけてきたので、今日は何が飛び出すんだと戦々恐々としていると、

「あのさぁ、しんゆう、って、何? お友達と、どう違うの?」

 一瞬にして『親父』は、薄暗い過去に首を引っ掴まれ、中学一年生の貝原響児に戻っていた。

 あいつと連絡が取れなくなってから何年経つ? いや、違う! 俺から縁を切ったんだ。実家の親に聞いても連絡はないらしいから、生きているか死んでいるのか、或いはまだ病院にいるのかも分からない。あいつのことを、俺は切ったし、言い方を変えれば『捨てた』。あの時はそれが最善策だと思っていたし、自己防衛でもあった。生きていたらあいつは二十七歳以上だ。あいつはまだロックを聞いているんだろうか。俺がロックやパンクといった音楽にどっぷりハマってギターの専門学校に進学するほどに俺の人生を変えたあいつは——

「親父?」

 吉乃の声で弾かれたように響介が顔を上げると、響介はこう言った。

「親父には、いたんだね。でも今はいないんだね。凄いね、しんゆうって。思い出すだけで、親父泣いちゃうんだもん」

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