私だけの景色 私達だけの世界
神宮 雅
第1話
私は人と違う景色が見える。
私は人と違い人が見えない。
それが、私にとっての普通だった。
違う景色が見えるといっても、それは鏡の中の世界だけ。
人が見えないといっても、それは鏡の中の世界だけ。
普通に見る分には、景色も人も他の人と大差無い物が見えていた。
ただ、鏡に映る世界だけが、皆と違ったのだ。
最初に気付いたのは、小さな頃に鏡を向けられた時だ。
可愛らしく着飾られた私の姿を、母が鏡を向けながら笑い掛ける。だが、鏡に映るのは裸の私。可愛らしい洋服は跡形も無く、何を見せているのかと首を傾げたのが最初だった。
母が言うには、鏡には目に見えた物が左右反転して見えるらしい。だが、私の視界には全く違う物が映っていた。
左右反転なのは同じ。だが、映り込む私の姿はいつも裸。そして、背後の背景は全てが廃れ、植物に侵食されていた。
建物であれば、汚れて崩れた壁は枝蔦を筋肉の様に詰め込み。車や鉄塔であれば、錆びて折れて欠けた部位を操り人形の様に蔦で支えられ。私以外の人や動物は、そもそも鏡にすら映らなかった。それが、私に見えている鏡の中の世界だった。
母は父に相談し、父は医者に相談した。眼科が駄目なら脳外科。脳外科が駄目なら精神科。それでも駄目だと言われた父と母は、私のこの目を個性と捉えた。
医者は、幼少期特有の妄想だろうと笑っていたらしい。父も母も思い当たる節があったらしく、それを信じて深くは考えなかったのだろう。
ただ、その時の私はまだ幼かった。自分の見えている物が当たり前で、皆もそう見えていると考えていた。鏡の中を指差しては、実際には居ない動物に一喜一憂していた。それが駄目だった。
周囲からは嘘吐きだ、変な子だと馬鹿にされ、それに対して怒る私から皆離れていった。今思えば仕方の無い事だ。そこに幽霊が居ると言われ、居ないと答えたら怒りを露わにする人が居たら、私も彼らと同じ対応を取る。だが、幼い私にはそれが途轍も無くショックだった。
母に泣きついた事を今でも覚えている。母は、人が見てる物なんてみんな違うのだから。と、励ましてくれた。後に父も同じ様な事を言って励ましてくれた覚えがある。それで納得できる程、当時の私は賢く無かった。
以降、小学校を卒業するまで、周囲の子達に距離を置かれていた。嘘吐きで凶暴なヤバい奴という認識が、学校全体に広がっていたからだ。要は、ぼっちだった。その頃には既に慣れており、寧ろ私の世界に映らない彼ら彼女らには存在価値が無いとすら思っていた。
中学に上がってからもぼっちは健在だった。そして、いつの間にか鏡を片手に持つ事が当たり前になっていた。
頻繁に鏡を見ては、笑ったり驚いたり微笑んだりする子。私に対する周囲の認識は大体そんな感じだった。中には、私から鏡を取り上げて喜ぶ男子も居たが、窓硝子に反射する世界を眺めている間に、いつの間にか手元に帰ってきていた。
何故か、私に執拗に話し掛けてくる女子もいた。彼女はクラス委員で先生からの評判も良かったので、先生から私と話すように頼まれていたのかもしれない。だが残念ながら、そういう生徒に限って、他の生徒から嫌われていたりする物だ。私も、しつこい彼女の事を嫌いとまではいかないが、苦手に感じていた。
だからだろう。旅に出たい。そう思ったのは。
人に話し掛けられず、現実と鏡の景色の両方を堪能しながら、自分の時間を過ごせる場所に。そう考える様になってから、中学校で過ごす時間が嫌に長く感じ始めた。
その反動で、高校に上がってからは羽目を外した。
入学初日からバイトをした事で呼び出され、1人で頻繁に旅行している事で呼び出され、常に鏡を持ち歩いている事でも呼び出された。どれもこれも、何故呼び出されたのか理解出来なかった。呼び出した先生も、真面に呼び出した理由を説明しなかった。
馬鹿らしい。そう思い、好き勝手やっていたら、案の定成績が落ちた。仕方無く、バイトと旅行の時間を減らし、授業中に寝ずに勉学に励んだのは、今では良い思い出だ。案外、教室の窓に映る世界も良い物だとその時改めて思ったりもした。
それからは、改めて周囲の景色に目をやる様になった。携帯で写真を撮る様になったのもその頃からだ。自分が居た場所。自分が見た景色。そして、鏡の中の世界を思い出す為に。
写真に写る鏡は相変わらず、左右が反転しただけの気色悪い世界を映しているが、見慣れれば面白い物に感じる事も出来た。
旅行とバイトを減らして勉強に専念したお陰で、今は立派な大学生活を送っている。家を出てアパートで一人暮らし。ベッドと机と座椅子しか無い、壁の一面全体にミラーシールが貼り付けられた質素な部屋だが、前の部屋より落ち着いていて好きだ。
身嗜みを整えると、携帯の内カメラを閉じて家を出る。深く息を吸うと、朝露の匂いが肺を満たした。もし、鏡の世界の空気を吸えたなら、どれだけ美味しいのだろう。そう、旅行に行った先の山の匂いを思い出す。
表通りから離れた裏の道。植物といえば、近隣住民が趣味で植えている低木や季節の花。その匂いと空気は、より一層鏡の世界を豊かにする。遠くから聞こえる鳥の囀りや、近くで飼っている犬の鳴き声に耳を傾ける。喧騒とエンジン音がノイズとなって邪魔をするが、草木の擦れる音だと思えば心地の良い物だった。
通う大学は隣駅。歩くには少し遠いが、満員電車に乗るストレスを考えれば丁度良い、健康的な距離だ。
表通りはいつも通り賑やかで、人が多い。だから、この場所を歩く時は必ずイヤホンをしている。好きな音楽を聴き、鏡の中の世界を見ながら、1人の世界を歩くのだ。ただ、手のひらサイズの小さい窓では、人混みから消えるのは難しい。
大通りを態々歩く理由はそこにあった。手のひらの窓では小さ過ぎる。なら、もっと大きな窓がある場所を歩けば良い。裏通りにあれば言う事無しなのだが、生憎その裏は人の棲家。下手したら覗きでお縄だ。
その点、表通りに並ぶ窓は裏を覗かせる為の窓。窓を眺めて鏡の世界を見ていても、何も思われず、誰にも迷惑が掛からない。
崩れた廃墟に絡まる蔦植物。時折見る動物達は、いつもコチラを不思議そうに見つめてくる。手を振っても反応するのは裏の人。振り返っても目が合うのは訝しむ人。私にとって人が邪魔な事は、この歳になっても変わらなかった。それでも、他人の生み出した物が好きなのだから、どうしようも無い。
手を振った先の店に入る。そこは、行きつけのパン屋だ。大きな窓があり、且つ眺めても懐疑的な目を向けられない店は、このパン屋とコンビニ位。引越し当初から好み先輩窓を眺めて定期的に手を振っていたら、相手から話し掛けられ、常連となった。
今日もパンに挨拶かい?店主が聞いた。
パンじゃ無くて動物に。と、私は答える。
この店には、動物を象ったパンも置かれている。店主は私の返事に大きく笑うと、焼き立てだからとクマのパンを手渡した。
常連へのサービスらしい。私は昼食分の亀のパンを買うと、礼を言って店を出た。内から見た鏡の世界には、空を飛ぶ亀が漂っていた。
大学に着くと、鏡の世界とは少しお別れだ。高校の頃の様に、動物達に気を取られて黒板を見ずに笑っていられる程、私は賢く無いのだ。
講義中は世界が色褪せ、雑音がいつもより鼓膜を擦る。講師の声が時折解け、意味の無い不協和音を奏でているが、意識を戻せば人語として結ばれた。
文系の授業は楽だというが、人それぞれだと私は思う。現に私は、外国語の授業が苦手だ。単位を落としてしまうのでは無いかと心配になるくらいには。それ以外の科目は、確かに楽だとは思う。真面目に講義を受けていればの話だが。
講義が終わり、午後からは大学を出てバイトに勤しむ。バイト先は数駅離れた商業ビルの洒落た服屋。そこで、アパレル店員としてアルバイトをしている。
店に向かうと店長が決めた今日のコーデで着飾り、それに似合った化粧を施し、店の中を歩き回る。時間帯的にそこまで忙しく無いので、マネキンの着せ替えや軽い掃除を行うくらい。それ以外の時間は、音楽を聴きながら硝子や鏡を眺めていられる。時折来る客に対しては手を振り、コチラを意識した相手に話し掛ければ良いだけ。手を振ってた時に反応が悪ければ、1人で服を選びたい人だから放っておいても問題無いし、寧ろ放っておいた方が売上に繋がる。
それに、普段から手を振っておけば、無意識に鏡の世界に向かって手を振った時の免罪符にもなる。外に手を振れば客引きにもなるので良い事づくしだ。
店長や店員、周囲の店の人からは、一周回って不思議ちゃんと呼ばれている。小学生以来の呼び名だが、今は昔と違ってその呼び名が馴染む。
鏡の中の世界のビル内は明かりは一切なく、何処からか漏れる日差しだけが、室内を僅かに照らしていた。
暗がりは、動物達の寝床の事が多い。このビルも案の定、動物が暮らす塒と化していた。
言うなれば、人工的な洞窟だ。そこに植物が手を加え、動物達が暮らしやすい様に工夫をしている。爪先程度の青い実が、身を寄せ合って談笑している。
耳が足になった蝙蝠に、芋虫の様に腹を伸縮させる蛇。顔が体になった鼠に、手足だけの名も知らない動物。洞窟には、外では普段見かけない動物がいる。そして、虫の大群も多い。だが、虫に関してはそこまで見た目に変化は無い。別種と別種を掛け合わせた見た目の物も居るが、興味の無い私にとって虫は虫でしかなかった。
私のバイト先である服屋は、大きな動物の塒だ。体毛がビッシリと生えた大きな蜥蜴。最初の頃は私を見て餌だと考えてか、何度も喰らおうと口を開いては襲ってきたが、喰えない事を悟った今は同居人として認められている。時折、自分の喰らった獲物の残骸を寄越してくるが、バイトが終わり店を去る頃には、残骸は綺麗さっぱり消えていた。
帰りは電車を使う。窓硝子に映るホームは跡形も無く、見えるのは何も無い土台と背後の倒壊した建物だけ。鏡で見た線路は背丈の低い草が生えた地面に変わり、電車は穴の空いた鉄箱だ。
中に乗り込めば、窓硝子に裸の私だけが映り込む。周囲は大勢の人に囲まれ、それでも鏡の中の世界は裸の私1人。普通の人には、電車内が左右反転で見えているのだから、不思議な物だ。携帯を出し、窓硝子を写真に撮りたい欲求を抑えながら、背後を横切る動植物を見て瞳を閉じる。
家に帰れば、ようやっと落ち着く事が出来た。鏡と現実。2つの広い世界を見ながら暮らす私には、外の世界はあまりにも広過ぎる。なら、鏡を見るのを止めろと言われるだろうが、それなら死んだ方がマシだ。鏡の中の世界を見ている私からすると、現実の世界は余りにも汚過ぎる。息が詰まるを越えて息を拒む程に。
相変わらず出迎えの無い質素な部屋。だが、鏡を見れば部屋は広がり彩が豊かになる。そして、猫か兎か分からない耳と尻尾と胴が細長い、前歯と爪が伸びた動物が出迎えてくれる。
崩れた部屋の隅には、虫や小動物の死骸が置かれている。食べ残しか、将又保存食か。もしかしたら、私の為に取ってきた獲物かも知れない。触れはしないがそれに近付くと、猫兎は足元にすり寄ってくる。
頭を撫でる仕草をしてその場から動くと、暫くして死骸は数を減らした。
翌日、目を覚まして上体を起こす。膝の上にいた猫兎が、私の動作に反応して蔓草の塊の上に降りると、毛繕いを始める。
今日は休日。私は早速お出掛けの準備を始めるが、今日は遠出をする訳ではない。人の賑わう隣町の店並みを、ただ見て回るだけ。意外と、大学付近の場所はまだ見て回っていないのだ。
鏡を持ち、携帯を持ち、財布を持つ。足元に鏡を翳すと、どうやら今日は、猫兎も着いてくる様だ。だが、穴の空いた鉄箱に乗る勇気は無いらしく、尻尾を下げるとトボトボと何処かへ歩いて行ってしまった。
鉄箱の中には生き物は乗っていない。私が見ていない時に、この鉄箱が鏡の中の世界でどう動いているのかは知らないが、何かが乗り込んでいる所を見た事がない。時折羽虫が飛んでくる事はあっても、その程度だ。
それを言い出したら、車道に出てくる動物や虫も居ないのだが。やはり高速で動く無機物は、皆恐ろしいのだろう。
電車の外の空には、首だけのキリンが漂っている。奴らは首を伸ばすだけに飽き足らず、とうとう地上を捨てたらしい。鉄箱が蠢き犇く洞窟街。息苦しい地上より、空の方が気楽そうだ。
大勢の人と同時に電車を降りて駅を出る。現実の空も良い天気だが、生憎、空を飛んでいるのは鉄の塊と雲だけだ。
逆に、地上には溢れかえる程の人が居る。店や会社が多く、近くに集客施設やホテルもある場所なのだ。その分、車が通れる場所も限られている様で、鏡の中の世界も活気付いていた。
意外にも、こういった場所は鏡や硝子が少ない。あるにはあるが、反射する物が少ないと言った方が良いだろう。大きな窓で世界を見るのは少し難しいかも知れない。
鏡を手の中で回し、携帯を翳す。やはり、此処は動物が多い。犬猫に近い姿の者が多いが、有蹄類の姿も他の場所より多く見られる。少し離れた場所では、風船の様に膨らんだ牛が風に流されて飛んでいた。その足には何故か、蛇の様な生き物が齧り付いていたが、いつから齧り付いているのだろう。
普段あまり見ない光景に、自然と頬が緩み声が漏れる。写真には、そんな私に懐疑的な視線を送る者達の、間抜け面の見上げ顔が映り込んでいた。
近場にこんな場所があるなんて。何故、私は早くこの場所に来なかったのだろう。
全てが見慣れた景色でも。全てが煩わしい存在でも。この世界だけは、私を幸せにしてくれる。本当に、世界は広い。
私は自然と駆け出していた。鏡を片手に、周囲の人など気にせず。飛び交う驚声や怒声を背中に置き去りにし、ただ鏡だけを見ながら走り続ける。気になった物があれば止まり、その場で回りながら大きく回る。撮れた写真にはどれも、満面の笑みの私と歪に顔を歪める人々が写り込んでいる。それがとても滑稽で、更に目尻の皺が濃くなった。
体から一本の長いキノコを生やした山羊。体よりも尾が太く長い栗鼠。蝶の羽が生えた蜜蜂。蜻蛉の羽を羽ばたかせるミミズ。普段見ない生き物が沢山いる事にも胸を躍らせた。車が居ない都会の広い道には、こんなに様々な生き物が居るのかと。
興奮に疲労を忘れて走り続けると、そこには大きく長い窓があった。そこには、世界が広がっていた。
手のひらサイズの窓では見られない。味わえない。感じられない物。様々な動物が共存し、共に暮らす桃源郷。草を喰み、花を吸い、虫を齧り、水を飲む。現実では絶対に見る事の出来ない楽園が、世界が、そこには広がっていた。
そこに、唯一私だけが裸で佇んでいる。薄橙に艶黒という自然界に似つかわしく無い色を差しながら、興奮と疲労に頬を赤らめて佇んでいる。
思わず、自分の姿に見惚れてしまった。ずっとずっと、永遠に見ていたいと思える程に。きっと、ナルキッソスも同じ気持ちだったのだろう。だが、私はこの水面に浸る事は出来ない。私には、この水面を見る事しか出来ない。ただ、私がこの場で死に、鏡の世界の中で花になれるなら、それは本望だ。
目の前の大きな窓硝子に携帯を向け、写真を撮る。画面には、左右反転されただけの薄汚い世界と、価値の無い有象無象。そして、バイト先の店長から勧められたお洒落な服を身に纏った私が写し出されていた。僅かに透けて見えた賑わう店内は、また別の世界に見えた。
携帯を下ろし、再び鏡の中の世界に目をやる。ずらりと並ぶ窓硝子は、本当に広い世界を見せてくれる。夜に見たら、恐らく違う景色を見せてくれるだろう。いや、見せてくれるに違いない。
そう、再び胸に熱を帯びさせる。が、それを簡単に冷まさせる程白い色が世界に差した。
白い色は、世界の端からコチラに向かって歩いてくる。それは、何処からどう見ても人間の骨だった。人の骨が、長い長い世界の端から、コチラに向かって歩いてくるのだ。しかも、周囲の動物達はそれを一切見ていない。というより、見えていない。
私しか居ない世界に、見えない世界に、人の骨が入り込んでいる。その事に、私の思考は停止した。
人の骨はそれでも歩く。私が見えていないのか、私を無視しているのか、人の骨は歩き続け──
1人の男が前を横切った。
いつの間にか消えていた雑音が、一斉に耳に届く。いつの間にか止まっていた息が、埃臭い空気を肺に詰め込む。それでも、人の骨は歩き続けて私から少しずつ離れていた。
周囲の視線が刺さり、鏡の世界の人の骨が動きを止めて振り返る。いつの間にか、私は大声で誰かを呼び止めていたのだ。
いつの間にか鏡を持った手で指を差し、いつの間にか掲げた携帯で写真を撮る。画面には、驚きながらもその場を後にする有象無象と、窓硝子に指を差す私。そして、指を差されて固まる、先程前を横切った男性が写し出されていた。
携帯を下ろし、再び鏡の中の世界に目をやる。ずらりと並ぶ窓硝子は、本当に広い世界を写しているが、その1枚だけに私と彼は収まっていた。
横を見る。すると、鏡も中の人の骨も横を向いた。
私達は互いに見つめあっていた。裸でも、骨でもなく。現実で、生身で。互いの瞳を直に見て。見つめあった。その瞳に映る私は、いつの間にか照れる様に胸と秘部を隠している。私の目に映る彼は、一体どの様に映っているのだろう。
近付く距離。何方から。なんていうのは野暮だ。私達は近付き、声を揃えた。
お茶でもしませんか?
その時、私は初めて人に興味を抱いた。
入った店は、先程指を差した窓硝子の店。ファミレスと称された大衆向け食堂は、昼を過ぎているというのに賑わっていた。
店内には野菜スープと肉の匂い。それと、トマトと揚げ物の良い匂いが漂っている。食欲を唆る匂いに鳴いた腹の虫が、私に初めて恥を掻かせた。腹の虫を恨むと同時に、その音に、お腹空いたね。と笑い掛ける男性の顔を見せてくれた事に称賛した。
案内された席に着き、私はドリアとドリンクバーを、彼はステーキと食後のコーヒーを頼んだ。見た目的に歳が近い彼の大人な注文に、自分の子供らしい注文を恥じる。まさか、同じ日に連続で恥を覚える日が来るとは、考えもしなかった。
人に興味を抱くという事は、恥を覚えるという事なのだと知った。ストローから注がれるメロンソーダは舌を痺れさせ、味が濃い筈のドリアは口の中に風味だけを残した。
初めての感情。初めての味覚。初めての想い。これはきっと、初恋だ。私は初めて、人に恋したのだ。
鏡の中の世界の話は互いに出さなかった。出せなかった。鏡の世界の私は常に裸。話題を出せば、裸の私を映す事になる。それがとても恥ずかしかった。いつの間にか、手に持っていた鏡はバッグに仕舞い、窓硝子に映る事を避けていた。視界の端に映る世界では、猿の手足を持ったヒトデ型の生き物が、中央に付いた口に何かを運んでいた。
外に出ると、嫌でも全身が鏡に映る。恥ずかしさのあまり、あまり見ないでと思わず声を漏らす。彼は最初から窓硝子を見ていなかった。その瞳は、何処か遠くの空を見つめている。
空にはアドバルーンの様な牛も、龍の様なキリンも、ただの鳥すら飛んでいない。雲だけが漂う空。現実の空は、青く綺麗だった。
鼓膜を揺らす心臓の音。息が詰まりそうな程膨れ上がる胸。熱を帯びた指先はいつもより赤く、耳たぶはきっとそれより赤いのだろう。鏡を見れば変わる事だが、今は鏡を見る気になれなかった。現実も悪くない物だ。生まれて初めて、心の底からそう思えた。
彼は、どう思っているのだろう。横を見ると彼はコチラを見て微笑んだ。その頬の赤さは元からなのか私には分からない。だけど、今だけだったらどれだけ嬉しい事か。聞く勇気は無かった。それでも、そうであって欲しいと私は笑った。
何処に向かっているのか。多分、私達は何処にも向かっていない。皆が見ている現実の世界を、ただ歩いているだけ。その幸せを、ただ感じているだけだった。そこに言葉は無い。緊張しているのもある。だが、言葉を交わすよりも先に、この世界を味わいたかった。鏡の世界を覗かなくても、周囲の有象無象が視界に入る事はない。2人だけの、私達だけの現実を、堪能したかった。
ふと、彼が立ち止まる。横には、モダンでインディな店に続く地下階段がある。その隣には、廃墟と蔦木を映し出す大きな鏡があった。
骨の隙間から覗く私の裸体。触れると、そこには確かに布の肌触りと肉の感触がある。何故、彼は骨になったのだろう。
何が見える?彼は私にそう聞いた。
何故か、答えてはいけない気がした。知りたい筈なのに、話したい筈なのに、何も答えるなと鏡の中の私が言った。そんな事、今まで一度も無かったのに。
鏡に映る自分の真剣な顔。背中を見せる彼の顔には表情を作る肉も皮も無い。どうして、そうなってしまったのだろう。聞きたかった。言いたかった。強く思う度に、鏡の中の私は強く私を睨む。彼には、私の顔がどう見えているのだろう。
歩こうか。答えない私に、彼はそう言った。私はただ、黙って頷く事しか出来なかった。
きっと、気付いているのだ。手足が6本ある犬も、腹ではなく頭から足が生えた蜘蛛も、極彩の羽根を持つ鳥も、彼が見えていない事を。きっと、私は気付いているのだ。そして、彼もきっと気付いている。私と見えている世界が違う事を。
私は昔からの習慣で、窓硝子や光沢のある物があると、つい目で追ってしまう。鏡の中の世界を見る為に。その世界に近付く為に。
だが、彼は違った。窓硝子や光沢のある物を見ない様に、常に空を見上げていた。鏡の中の世界を見ない様に。その世界から遠ざかる為に。だから、遠くを見ていたのだ。
初恋だった。私の初恋。初めて興味を抱いた人。それは初恋では無いと言う人も居るだろうが、それでも私の初恋だった。
いつの間にか、手には鏡が握られている。彼の視線には、先程の様な熱を感じない。きっと、見ているものが違うのだ。違うなら、他の有象無象と同じ。
心は冷めていった。それに比例して瞳が熱を持ち、頬を温かい塩水で濡らしてゆく。
きっと、彼も同じ気持ちなのだろう。それでも、彼は泣かずに肩を抱いてくれた。冷めた筈なのに、興味を失った筈なのに、それでも私を暖かく慰めてくれた。私の涙も、私の瞳も、鏡の中の世界なんて見たく無いだろうに。それでも彼は、私が泣き止むまで肩を抱いてくれた。
夕暮れ時の都会の庭園。いつの間にか、私はそこのベンチに座っていた。ハンカチで顔を拭き、携帯で顔を見ると酷く化粧が崩れている。白いハンカチには薄橙と黒が塗られ、夕焼けに反射して煌びやかに輝いていた。
隣に立つ足音に顔を上げると、彼がペットボトルの水を差し出してきた。その水にすら、鏡の中の世界が広がっている。何処を見ても、その世界からは逃れられないのだ。何も無い空を見上げない限り。
ペットボトルを受け取ると、彼が隣に座る。人1人分開いた距離が、ファミレスで対面に座った時より遠く感じる。
あの噴水は、一体何を噴き出すのだろう。現実逃避の思考を振り払い、私は彼に話をした。
何が見える?その問いの答えを。
沈む視線の先にある、手のひらの中のペットボトル。歪んで真面には見えないが、鏡の中の世界の私はきっと、強く非難する表情を浮かべているに違いない。この話は、私の世界は、恐らくきっと、彼にとっては激毒で、彼の全てを否定するものなのだから。
崩壊した世界。草木や蔦に覆われて洞窟と化した人の棲家を、動物達が塒にする。地を歩き、壁を這い、空を飛ぶ。現実では考えられない動物達の姿を、その世界を、桃源郷を。私の鏡の中の世界を彼に話した。そして最後に、私の世界の彼の姿を。
彼は無言で空を見上げる。何を考えているのか分からない瞳は、遥か遠くを見つめていた。
目の前の噴水が水を噴き上げる。目を凝らせば、あの噴水にも鏡の世界が映し出されるが、私は彼の瞳から目を離せないでいた。
どれくらい経っただろう。日は完全に落ち、真隣にある街灯が私達に光を当てる。等間隔で並べられている街灯達も、舞台に立つ役者を待つ様にその場を明るく照らしていた。
その時、彼が漸く口を開いた。ゆっくりとした小さい声。草木の擦れる音に紛れそうなその声は、意外にもすんなり耳に入ってきた。
彼の見える世界。様々な暴力で穴を開けられ倒壊した建物。原型を留めていない赤い肉に、それに集る羽虫。空は常に灰色の雲に覆われて、時折姿を現す炎人が舞を踊る。地を這い、壁に叩き付けられ、空から落ちる。現実では考えられない人達の姿を、その世界を、その地獄を。彼の鏡の中の世界を私に話してくれた。最後に話した私の姿は、現実と変わらなかった。
私以外の人が鏡に映った事はないと言った。私も、彼以外が鏡に映った事はないと答える。
同じだね。食事中に見せた微笑みを見せられ、私は眉を下げてそうだねと答えた。
幼い頃、父と母に言われた言葉を思い出す。同じ世界を見る事が出来る人は、この世には居ないのだろう。それでも、違う景色でも、違った世界が見える人と出会えた。
旅行が趣味なんです。唐突な話題に彼は首を傾げた。そんな彼に、私は携帯の画面に表示される写真を見せた。全てに鏡が写り込んだ、一般人から見たら歪な写真。鏡に映る景色を見て、彼は綺麗な場所だねと笑った。
そう、きれいな場所なんです。私は彼に言った。
もう、初恋は終わっている。これは単なる恋だ。一生抱く事の無かった恋心だ。
好きです。そう、呟いた声は、彼の耳を赤く染めた。
私は、自分の鏡の中の世界では花になれない。それなら、彼の鏡の世界の中で水辺に咲く水仙になろう。それで、彼の地獄を少しでも和らげる事が出来るなら、それは本望だ。
貴方の側で、貴方だけの花になりたい。いつの間にか、2人の間にあった空白は消えていた。
鏡合わせに向かい合うと、落ちた鏡が音を立てて割れた。
彼の目に映る私。もう、鏡なんて必要無い。色褪せたこの景色こそが、私達の生きる世界なのだから。
私だけの景色 私達だけの世界 神宮 雅 @miyabi-jingu
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