弍/聖女蛮行 3
貴族のもとで働くメイドは朝から忙しい。朝食の準備、洗濯、広大な屋敷の掃除……。
クインケット家という大貴族ともなれば、仕事量もその質も、求められるものは多くなる。
エリニアにおける国教、エリニア正教のトップ大教主。その政治的補佐として、国の運営との連携、橋渡し役としての重要なポジションであり、エリニア王国政界内でも、強力な発言権を持つ教主秘書官であるヴァント・クインケットの屋敷では正教のルールと貴族の様式が混在する複雑なもの。普通のメイドでは務まらない。
そういったわけで、シェーニッツはその日の業務では少しミスが目立っていた。年嵩のメイド長から、整美したシーツの皺を指摘され、付け合わせの葉物野菜が一枚少なかったことを指摘され、窓枠のほこりを指摘された。重箱の隅をつつくように。
だが、日頃つつがなく業務をこなす、シェーニッツにとって、そのミスのすべては昨晩の疲労のせいとも言えた。
ようやく一息をつけた昼頃、中庭の芝生で少しばかりの休息をとったシェーニッツは大きなため息をついた。
ぷにぷに……
「ひゃっ」
唐突に触られた獣の耳に驚いたシェーニッツはとっさに振り返った。
そこにいたのは、いまだネグリジェ姿のリリベルだった。頭はボサボサの状態で、なにやらにたにたと笑っている。
「何をしているんですか!」
「なにをとは、なんだ。俺のメイドの耳がしおれておったのでな、元気付けてやろうと揉んでやったに決まっておろうが」
シェーニッツはきっと鋭く睨みつけ、
「俺の……? いや、こんなことより! いつまで寝てるかと思えばもう昼過ぎですよ! 学校はどうされたのですか」
「学校? ああ、あの不愉快な空間のことか。あそこで俺が学ぶことはなにもなかろう。あー今日は退屈だ」
シェーニッツはため息をつく。
リリベルの身の回りの世話を行うシェーニッツにとって、リリベルの素行の責任はシェーニッツのものになる。
今朝方も一生懸命に起こしてはいたのだが、いびきをかいて起きなかったもので、今日は体調不良ということにしていた。
昨晩の件についても、言い訳を考えるのに精一杯だった。本当のことなど言えるはずもない。
そんな心労を知ってから知らずか、シェーニッツの隣にリリベルは胡座を描いて座り、大きな欠伸をした。
「ここは屋敷は広いくせに大層窮屈だな」
シェーニッツは驚いた表情でリリベルを見やる。
「なぜ、そう思われるので」
「鳥籠だ。だれがどこで何をしておるか。規範は守られておるか。まるでずっと誰かに見られておるようだ。胸くそが悪い。だからな、俺を見ていたメイドの背後を取り、ケツを叩いてやった……カカッ!」
「なっ! 何をしているんですか」
「あの目が気に食わんかったからの」
「……そんなことをすればより風当たりが強くなって余計に居心地が悪くなってしまいまいますよ。いまはあなたのいた千年前とは違うのです。気に食わないからと、やり返しては……」
それはあくまでも、リリベルに対する諫言のつもりだった。自分はいい。だが、リリベルが同じように見られるのは看過できない。たとえいま中身が蛮族の王であろうと、もしリリベルに身体が元に戻った時に、少しでも安らげる場所は確保しておかなければならない。
「何を言う。気に入らぬものはやっつけろ。お前は強いのだろう」
「そういうわけにはいかないでしょう。あなたの時代とは違うのですよ。太平の世ではなんでも暴力で解決することは蛮行と言い、憚られる行為です」
リリベルはカッと弾けるようなあの独特な笑いをし、
「それは負け犬の論理だ。はじめから戦うことをやめておるではないか。安寧のために自由を差し出した負け犬だ」
ゆらっとシェーニッツの尾が横に揺れた。
「な、負け犬などと! 今ある安心を求めて何がわるいのです!」
「それを負け犬というのだ。与えられたやすらぎなど、幻想に過ぎん。誰かが勝手にこれは幸せだろうと決めたことが、お前にとっての幸せなのか?」
「少なくとも奴隷の時分よりはマシです」
「そうか。この時代の人間が何を考えておるかはようくわかった。まあ、豊かさもまた生きることを楽にはする。だが、数日食わんでも死にはしないが、二、三日自分を見失えば、それだけで地獄ぞ。俺には無理だな」
と、リリベルは立ち上がる。大きく伸びをして、
「して、屋敷の主人。小娘の父親との話は通してあるのか」
「執事様を通じて席を設けていただくようにお願いはしております。ですが、ヴァント様はお忙しい身ゆえに、お時間が取れるかどうか」
「ふん。その時は戸を蹴破ってでも話をつけるまでだ。これは奴の国の一大事でもあるのだからな」
そう言い、リリベルは踵を返す。その後ろ姿に、シェーニッツは声をかけた。
「くれぐれも、素性は明かさぬよう」
「ああ。気をつけてみよう」
◆
夜半。すっかり日が落ち、リリベルにとっては少な過ぎる夕食ののち、執事の老人に導かれある部屋へとリリベルとシェーニッツは向かった。
無数にある扉を横目で見ながら、長い廊下を歩いて、ようやく辿り着いた扉。
「ヴァント様のお時間は限られておりますので、用件は手短にお願いいたします」
と、物腰は柔らかな物腰で言う。
(自分の娘との時間も満足に取らんのか。これも千年の変化なのか)
どこまでも自分の常識が通じない世界に、リリベルは多少の苛立ちを感じている。
かつての北方での生活。すくなくとも、同じ部族の結束は固かった。厳しい環境下での生活では、結束こそが生きるスキルだった。
執事が戸を三回ノックする。通せ、という一言だけが戸の向こうから返ってくる。
部屋に通される。
入ってすぐ向かい合う大きなソファを挟んで、何やら書類に目を通しながら、決裁の判を押すリリベルの父ヴァントの姿があった。
ヴァントは小難しい表情を浮かべつつ、入ってきたリリベルとシェーニッツを一瞥してから、
「何の用だ」
とだけ言った。
リリベルが生まれたと同時に、彼女の母であり先代聖女のアルエルが命を落とし、リリベルの家族といえば、父ヴァントだけだ。それでもリリベルが物心のついたときから、父との会話はほぼ皆無に近い。
リリベルの中、その魂として存在するフリッツは、彼女の本心を感じている。
恐怖と嫌悪だった。
リリベルは知っていたのだ。父ヴァントがリリベルに抱く感情を。
生まれて間もなく、リリベルは辞術が使えないことがわかっていた。教会の洗礼では、当人の持つ辞術適正が測られる。
初代聖女の王権の授与の伝説を、聖女最初の奇跡だとするなら、それは形を変えて代々特別な記述として受け継がれている。
リリベルはそれがなかった。
故にヴァントはリリベルの聖女としての地位と、それに付随する自身の地位を守るために、彼女の持つ運命を秘匿し続けている。
(この父親は、小娘を見てなどいない)
大きくなり過ぎた権力は、絆を無視する。それを蛮族の王は嫌悪している。
「昨日の夕刻。俺は襲われた」
その一言にヴァントは顔を上げた。リリベルはこの父に対して一切の信用を持っていない。
この時リリベルはある仮説を立てていたから。
「……どういう意味だ」
リリベルは目を細めて、不快感を表しながら、
「衛兵も一人死んでいる。なんならその襲撃者たちの死体も残っていたはずだ」
「……ずいぶんと不遜な物言いだな。いつからそんな言葉を覚えたのだ」
「話をすり替えるな。貴様はこの都市の政にも関わっているのであろう? 一体いままでどれだけの事実を隠している」
「……」
騒ぎにならない襲撃。過去千年もの間戦ひとつ起こらない不自然さ。
リリベルの、そのなかにいる蛮族は、人の本質を誰よりも知っている。
「隠匿したのだろう? 何度も。この地では何も起こっていない。起こらない。世界の真実を説く神の加護を受けた国では、人は悪事を働かないし、誰もが幸せでなければならない。だが……そんなことはあり得ない」
「知らんな。この国は、昨日も、今日もずっと平和だ」
「ならば、見せてやっても良いぞ。俺が襲撃を受けた時に受けた傷。その血がついた服を」
一体どれだけの悪がもみ消されてきたのだろう。
一体どれだけの真実が、平和という嘘を重ねるために偽装されてきたのだろう。
ヴァントはその虚構の平和の上に作られた地位に居座っている。
「ならば、それも消してしまおうではないか。お前に何があったかは知らん。まるで別人のようだ、利口な我が娘よ。お前もまたその嘘のおかげで聖女としてのもてはやされる。なにが不満だという」
ヴァントは決めたようだった。我が娘が握るこの国の神話が崩れるやもしれない事実をもみ消すことを。
「襲撃者は複数いた。組織的な動きも見せている。お前はこれが何を意味するかわかっておるはずだ。これはもはやこの都市だけの問題ではない。ましてや身内同士の秘密ごとで済む話でもあるまい」
「ならば、どうするというのだ。この国に対して何者かが侵略をかけるとでも王に掛け合うか? 誰が貴様の話など信じる? 仮にそうであっても、たかが少数部族の寄せ集め。その気になれば聖都の兵で対処可能である」
「ヴァント様……」
思わず声を上げてしまったのは、それまで二人のやりとりを静かに聞いていたシェーニッツだった。
ヴァントは思わず自分が口にしてしまったことを払うかのようにひとつ咳をして見せ、
「……どのみち、おまえたちにはできることはない。誰もお前の話など聞きはしない。お前の言う証拠などいくらでもあとから説明はできる。何より王も、いま平穏が崩れることなど望んではいまい」
リリベルはソファを蹴りあげた。三人がけの大きなソファが軽々と宙に舞い、豪華な調度品を破壊する。
「虫唾が走るな。小物め……話にならん。貴様は病巣だ」
と、リリベルは立ち上がり、目の前で起きたことを頭で処理しきれないまま呆然とするヴァントに背を向けた。
「俺は確かめねばならんようだ。この国の病がどれほど深刻なのか」
「まっ……待て! どこへ!」
我に返って引き留めようと声をかけたヴァントを、今度はリリベルが一瞥する。
「決まっておろう。 王都だ。俺の目的は一旦お預けだ。この国の政の中心がどうなっておるか……」
「そうはいかん。アーノルド!」
と、先ほど案内された執事が戸を開けて、退室しようとする二人の前に立ち塞がった。
「ふたりはどうやら疲れているようだ。部屋までお連れし、しっかりと休ませよ」
小さく頭を下げ、主人の指示に応えた執事は、ゆっくりとリリベルの手を取ろうとした。
「結構です……」
と、その手を遮ったのはシェーニッツ。
「私がお部屋にお連れします」
掴んだ手首をそのままに、リリベルを守るようにしてシェーニッツはリリベルと共に部屋を後にする。
リリベルは執事を睨みつけるようにしながら、不敵な笑みを浮かべ、
「よかったな」
とだけ、言った。
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