弐/聖女蛮行 2

 聖都の夜空。皆が寝静まりつつある狭い空に、二つの影が飛んでいる。人の域を超えた跳躍と速度で、聖都の建物の屋根から屋根へ獣のように、追いかけ合う。


 聖都の象徴、セントエレノアのファサードを有する二つの尖塔。槍の穂先のようにとがった尖塔の先端みふたつの影が立つ。春先の強い風が不安定な足場に立つ、ふたりに吹き付けた。


 シェーニッツは、顔の横の髪を片手で押さえ、片方の手でスカートを押さえる。たなびく風でちらりと、隠れていた目が垣間見える。黄金色の目に、猫のように閉じた楕円に細長い瞳孔。フリルのついたスカートから、ゆらゆらと左右に揺れる長い尾が覗く。獣人の尾がゆらゆらと揺れる時、それは狩りをするときか、いらだちを感じているときだ。そしていま、そのどちらでもある。


「あなたは一体何者ですか」


「言っておるであろう。俺は蛮族の王フリッツである」


「聞いたことはありませんね。悪魔か、もしくは操作系か精神系の辞術か……」


「聞いたことがないと? 貴様、知らぬのか。北方部族リタのフリッツ。勇名とどろく北方最強の戦士の名を」


「存じ上げません。わたしは奴隷上がりなので歴史学は学んでおりませんので」


 と、シェーニッツは、不安定な足場で前傾姿勢を取りながら、ゆっくりと両手をつま先あたりに伸ばす。膝をややまげる。獣じみた体幹制御とバランス感覚で、いまにも飛び出しそうな姿勢を作った。


「ほう奴隷か……随分と苦労したであろう」


 リリベルの言葉にぎらっと眼光が瞬く。


「苦労など……いまわたしは一生を自らの意思でリリベル様を捧げています。それはわたしの誇りであり、幸福。ゆえにっ!」


 再び、シェーニッツの姿が消える。獣人の高い身体能力を生かした高い機動力。だがそれだけでは説明できないほど彼女の動きは、速い。


 頭上。リリベルの上を取ったシェーニッツはあくまで、その意識を刈り取ることに集中する。


 だが同じことが起こる。あらゆる動体を完全に捕捉する視力を、リリベルは再び超越する。


 シェーニッツの構えを取った両手。その手首が掴まれている。


 背後からリリベルが囁く。


「よい動きだ。余程修練を重ねたと見える。俺のものにならんか」


「なにをっ!」


 組み合った状態での自由落下。シェーニッツは足を振り、体をひねり手首を振りほどこうとする。だが、少女とは思えない握力で握られた両手首は、まるで鉄の枷のように外れない。


「カカッ! 一度分からせねばならぬか?」


 リリベルはシェーニッツの背中に足の裏を当て、掴んだ手首を強引に引く。そのまま背筋力に任せてのけ反りながら、バネのように反動で蹴り飛ばす。


 シェーニッツは向いにあった塔の壁に到達する前に再び空中で身をひねり、受け身を取った。着地した衝撃で塔の壁に放射状に亀裂が入り、パラパラとかけらが落ちた。


 シェーニッツはリリベルを視界に収めようと視線を移す。眼前にリリベルの小さな拳が迫っている。


 大きな衝撃音。リリベルの拳が壁に突き刺さり、大きな穴を開けていた。シェーニッツはシェーニッツで、体を反ってその一撃を躱している。だが拳のかすった肩の衣服が擦過によって敗れ、露出した肌に勢いよく地面でこすったような傷が入る。


 思わず下へ、シェーニッツは回避行動をとり、リリベルはそれを追う。屋根に移り、二人は至近距離での格闘戦となった。


 至近距離で、壁を穿つほどのリリベルの拳がシェーニッツの体をかすめる。時にシェーニッツはそれを肘や前腕でいなし、躱す。そのたびに巨大な槌で打たれるような鈍い痛みが骨まで届く。だが、シェーニッツも応戦するように、しなやかさな蹴りを返す。柔らかな股関節を開きながら、予備動作なしで飛んでくる上段蹴り。返しで踵が落ちてくる。


 リリベルはそれを体軸をずらすようにして躱す。そして伸びた足首を掴むと、力任せに投げ飛ばす。


「やはり投げては同じことか」


 身体を捻って壁を蹴り、屋根に着地したシェーニッツを見て、リリベルは顎に手をあてて言った。


「とんでもない力ですね。辞術による精神操作でこれほどの身体強化が起こるなんてありえません。一体どういう……」


「言っておろう。俺は蛮族の王フリッツだ」


 リリベルの雰囲気が変わる。右手を脇に引き、力を込めた。凝縮した力が周囲の空間ごと捻じ曲げているように、シェーニッツには見えた。


「……いまの限界を知るにはいい。死んでくれるなよ」


「……!」


 歪んだ空間。リリベルの背後になにかぼんやりとした大男のシルエットが浮かび上がっているように見えた。


「……滅拳……」


 瞬間、リリベルが足場を蹴る。その力に耐えられなかった屋根材が舞う。


 猛烈なスピードで距離を詰めたリリベルが渾身の突きを繰り出した。


北方大星ノルス・グランステラ


 リリベルの拳が駆けた軌跡は青白く、そのあとに淡い光の粒子が追いかけていく。


 閃光と無音、しばらくして轟音。そして衝撃。


 シェーニッツの背後にあった塔の壁が穿たれ、パラパラと瓦礫が崩れている。


 驚きに満ちた表情のシェーニッツを尻目に、リリベルはわざと外した右拳を引く。


 自身の力を確かめるように、聖堂の壁は空いた穴を見て、


「二割……といったところか。これ以上は娘の体がもたんな」


「……あなたは一体……」


「説明してやろう。そのうえでお前には協力してもらう」


 リリベルはその少女の小さな手を、圧倒的な力をその身に宿してしまったその手を開いては閉じ、不敵な笑みを見せている。


「一体何を……」


「転生だ」


 リリベルはゆっくりと、自身の身に起こっていることを話し始めた。


 千年前、北方の部族を総べ、その頭領となったこと。王国伝説の英雄ミハイに討ち取られたこと。そしてそのあと転生をすることなったこと。


 シェーニッツはそれを静かに聞いていた。


「信じぬか?」


 シェーニッツは首を横に振り、


「信じぬも何も、お力は見せていただきました。記述ごと。その身に宿す特性ごと他人に移るなど奇蹟でも起こらない限りは起きえない。あなたのお力ひとつ、どれをとっても常人のものとは逸脱している。とすれば、今の話を信じる他ないでしょう。北方部族の伝承は聞き及んではおりませんが、英雄ミハイ様は左腕を戦によって失ったとあります。後世それは怪物のような強さを持つ戦士との戦いによるものだ、と。」


「フン! 俺との戦傷を恥じたかミハイめ。まぁいい、いずれ世に俺の名を知らしめてやる」


 それを聞いてシェーニッツは怪訝な表情を浮かべた。


「仮にあなたが北方部族の王であるとして、これからどうされるおつもりで」


 リリベルは狭い空の隙間にまたたぬ星を指差して言う。


「無論、この国で最も強い者を打ち倒し、北方部族の名誉を取り戻す。俺の復活を知らしめるとともにな。そうすれば星となった我が同胞への弔いも成せよう」


 シェーニッツは首を傾げた。まるでリリベルが見当違いのことを言っていると思っているかのように。


「……さすがに誰も信じないのでは?」


「何を言う聖女の従者よ。力を見せることが何よりも俺の存在を知らしめるに早いことはわかりきっているであろうが。現に貴様は信じておろう」


「信じる他ないというだけです。もともとのリリベル様のお人柄を知っているからこそ、あなたの異質さに疑問を抱いたのであって、あなたが力を使えば使うほど、リリベル様のお力が目覚めたとしか、世の人々は思いませぬ」


「そうなのか?」


「ええ。聖女様の奇蹟であるとしか。まあ、異質ではありますが、この国では聖女様の奇蹟は普遍のことですので。それに……」


 シェーニッツは少し照れくさそうにして、


「わたくしはこう見えて、この国の拳闘祭で連覇しておりますし。故にこうしてあなたの、いやリリベル様の身の回りの世話役、獣人の身でありながら、警護役を仰せつかったのですよ」


「ではなにか? お前以上に強いものはいないと」


「少なくとも単純な個の力では……」


 リリベルは少し考えてから、


「確かに俺の力を単なる武を競う場で知らしめる程度では足りんかもな。では、戦はどうだ? 戦働きであれば勇名も馳せることができよう」


「この国で戦などかれこれ千年起きておりませんが……」


 シェーニッツのことばにリリベルは目を丸くして、


「なんと! 千年も? あり得ぬ。人の本質は闘争だ。戦が起こらないなど天地がひっくり返ってもないはずだ」


「世界に覇を唱えたのは無論当時のエリニア王国の武力があってとは思いますが、エリニア正教が世界の真実を説くものとして認識され、それがこの国の豊かさに繋がっている以上、誰もこの国に歯向かう理由がございません」


(ほうなるほど。ミハイが言っていたのはこのことか)


『神の力でこの世界をひとつにまとめる』


 ミハイの考えた理想郷の根拠となる言葉の意味を、リリベルは理解した。


 世界が争う理由は資源の有限性にある。実際北方蛮族が略奪を行っていたのも、農耕ができないほどの貧しい土地であったからだ。


 十分な物資があれば、争い奪う必要もない。絶えず街を照らす街頭の火を見る。文明の光だ。無尽蔵に光を与え続ける光。まさに世界の豊かさの象徴だ。


 では利権はどうか。


 これも否だとリリベルは思う。


 狭い土地ですら、辞術の力で豊かさを生むことができる。


 思想はどうか。


 これも否だ。


 信仰はとどのつまり、根拠がないものを信じるということである。


 だが、文明を支えるものが、エリニアの神が生み出したのであれば、誰もがこの世界の最も深い真理を見出していることに他ならない。


 それはすでに信仰ではなく、事実であり、根拠のある正当性である。


 思想の差など曖昧なものに揺らぎ、互いの主義主張が平行線になることもない。


「ミハイめ」


 リリベルがひとりごちて、悔しさを顕にする。


 同時に少し穏やかな気持ちにもなっている。それがなぜだか、リリベルはわからなかった。


「だが……」


 ここでふと、ひとつの疑問が起こる。


「あの下手人は一体なんだったのだ?」


 それは昼間みずからを襲ってきたフードの男たち。戦の起こらぬ確固たる権威と権力によって完璧に統治された国を、なぜ襲うようなことがあるだろうか。


「一体何のことです」


「何のこと? 俺は酒場に行く前に襲撃を受けた。返り討ちにしてやったが、それは騒ぎになっていないのか」


「いえ、そんなことは。そんな事件があれば聖都中大騒ぎになっているはずですよ。何百年もそんな事件は起こっていないのですから」


「どういうことだ?」


 リリベルは知らない。この国の、千年もの間平穏を保つことができた本当の理由を。

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