弍/聖女蛮行

 昔、北方には恐ろしい蛮族がいた。


 口いっぱいに隙間なく牙があって、毎日殺した海獣の血を酒のように飲んで酔っ払い、蹂躙した港町の女、子どもの肉を酒の肴にしてガハハと笑う。


 食い物と金がなくなれば、また大きな船に乗り込んで、荒波をやすやすと渡り、港町を襲っては、殺してまわって、奪ってまわる。


 そうしてまた自分たちの居城に戻る。


 その頭領は、もっと恐ろしくて、オーガの頭骨を兜にして、龍の爪と牙で作った首飾りをまとう。


 大人十人でようやく持てる巨大な斧を左手ひとつで軽々と振り回し、人なぎすれば五十人の兵隊の胴が二つに分かれる。その雄叫びで鼓膜は破れ、その眼光一つで周囲の人間は気絶する。


 それは彼が生まれながらにして神に等しいほどの特別な記述をもっているから。逸脱した膂力、逸脱した体の性能。天が与えた才。


 そんな神に愛された蛮族の王を、英雄ミハイは右腕を犠牲にして、同じく神の力で討伐した。神に愛されたものを倒すには、同じく神の力でしか倒せなかったのである。


 けれど、欲深き蛮族の王は懲りてない。魂だけの存在になって、その器を探してる。


 ……そして、千年の後の世で蛮族の王は器を与えられた。千年後のエリニア王国の聖女という地位と、転生前の神の記述を残したまま。




 空には星が瞬いているはずだった。


 神代の神々たちが刻んだ数々の奇蹟や伝承が、星々によって語られる……様々な星たちで空は彩られているはずだったが、この聖都には届くことはない。


 街灯。辞術によってその性質を改変され、消えることのなくなった火。そしてその明るさ。


 豊かな文明が、人口を増やし、いまだ拡大を続ける都市の建造物は今なお、空を切り取り続けている。


 もし空からこの都市を見下ろしたとして、それは格子状の配置で並ぶ人工的な星空になっている。


 辞術文明……


 それに支えられた王国は、文字通り栄華を極め、人々は豊かさを謳歌している。


 そして、この地に望まずして転生したフリッツ。いまはリリベルと呼ばれる聖女もまた、この地上で再び手に入れた自由を楽しんでいた。


「ぐっ、ぐっ、ごくっ!……っ、ぷはぁっ! くぁぁぁあ! 染み入るのぉ!」


 聖女リリベルは、ジョッキいっぱいのエールを飲み干すと、テーブルに叩きつけるように置き、歓喜の声を上げた。


「おおっすげぇっ!」


「聖女様がエールを、一息で飲み干しちまいやがった!」


「こりゃあすげぇものが見れるぞ! 聖女様が酒豪たぁ! 歴史に残る一大事だっ!」


 酒場は、人生初、いや史上初の聖女の一気飲みに盛大な盛り上がりを見せ、異様な熱気に包まれている。


 酔っ払いたちでできた人だかりの中心にいるのは、ぼろぼろになった学院の制服を脱ぎ捨てて、上半身を薄着一枚でテーブルの上に立っている聖女様だ。


「マスター! 今度は俺からだ! 一杯聖女様に!」


「俺もだ! 俺の分と一緒の持ってきてくれ!」


「がははは! 皆の者焦るでない! 出された酒は全部飲んでやるから安心せい。さぁ!皆の衆、今日は存分に俺と飲み明かそうではないか!」


 ジョッキを掲げて鬨を上げるかのように言ったリリベルに、酒場にいた全員が同じくジョッキを掲げて応とこたえている、


 かれこれ三時間。リリベルはもはや酒豪の聖女として狂信的な人気を集めてしまっている。


 すでにこの酒場で出る一日の酒が聖女リリベルに飲まれている。はじめ酒場の主も、いつこの少女が倒れるか戦々恐々としていたが、まるで水でも飲むかのようにするすると飲み干していく酒豪っぷりに感動し、いまでは次の日の営業のことなど考えずに酒を出している。


 本来であれば少女リリベルの体がこれだけの量のアルコールを受け付けるはずなどないのだが、いま彼女の体には大きな変化が起こっている。




 特記体。この世界で何千、何億という低確率でごくまれに生まれる、その身に、あらゆる異常な特性記述を持つ存在。


 リリベルのなかに眠っていた蛮族の王が目覚めたことで、リリベルにはいま多くの特性が目覚めている。


 そのなかのひとつ、耐毒。


 酒が体内で分解され、一部の毒性物質すら急速に分解しされて解毒する。


 かつてまだ名もなき蛮族のころ、北方に住む古の地竜の毒さえも彼には通用しなったのは、この強力な耐毒体質ゆえだった。



「それにしても、いいんですか? エリニア正教の教理では、多量の飲酒は禁忌とされているのでは?」


 ひとりの酔っ払いが訊いた。遅すぎるほどの質問ではあるが、この場にいたすべての者がその言葉に一瞬ハッとする。


 禁忌を犯せば、それなりの罰が下るのが常である。聖都に住む人間は信仰の強さの程度はあれど、すべからくエリニアの国教、エリニア正教の信徒である。その生活様式は清貧を旨としている。


 リリベルが発するなにか。心の中にある、強い衝動を駆り立てるなにかに、それすら人々は忘れてしまっていた。


 リリベルはしばし考える素振りを見せてから、


「なんだと? それは真か? ……ならば、この場にいるものが明日何があったか忘れるほど飲めばよいではないか! がはははは!」


 酒場は爆笑の渦に巻き込まれた。


 倫理や常識、社会通念。人々を縛るあらゆる概念は蛮族の王が持つ記述が蹂躙する。


 生まれながらの狂奔の才。厳しい北方の地より、周辺地域を恐怖に陥れるほどの凶行を、一介の地方部族がやってのけてきたのは、彼自身の欲望を駆り立てる力があってこそだった。


 酒場は異様な熱気に包まれている。この場に居る者全員が等しく狂っている。たった数時間の酒宴で、その場にいた敬虔であるはずの聖都の住人たちは等しく背信者となった。


 そのとき、


【其れはシフタの解呪のささやき】

【真理を捻じ曲げられた者】

【神の真言をもって覚醒される】

【ひと時の安息を得て】


【目覚めよ】


 酒場にぱっと光の粒が拡散し、ちらちらと粉雪のように舞い落ちる。


「なんだ、眠くなってきた……」


 それまで興奮状態だった酒場の者たちが次々と倒れ、いびきをかいて眠りに落ちた。ばたばたと酔っ払いたちが倒れる中、あたりに舞う光の粒をリリベルは見ながら、


「神の奇蹟か……忌々しい」


 酒場の人間たちがすべて、神の奇蹟によって眠りに落ちたころ、リリベルとは別にたったひとりだけがその場に立っている。


 それは黒い髪の獣人だった。前髪が目にかかるほど長く、メイドの恰好をしている若い女。


 手を腹の前で組み、行儀よく立っているその女はまっすぐテーブルの上に立つリリベルを見据えている。


「リリベル様。いつまでたっても帰ってこぬと思っていたら、これはどういうことです?」


 淡々と冷ややかな口調で、メイドは問う。


「なにを? わからぬか女。酒宴だ。蛮族の王、フリッツ様の覚醒を祝う宴ぞ。それに水を差しおって、まったく……」


 どかっとテーブルの上に胡坐をかいて、リリベルは残りの酒を飲み干しながらふてぶてしく答え。次の瞬間には、ぎらりと閃光の様な鋭い視線を送った。それはまるで、捕食者のような、威圧を含んだ眼光。


 メイドの目元がピクリとひきつった。


「あなた何者です? リリベル様ではありませんね。それに私は女と呼ばれるような者ではありません。国教主教秘書官を担うクインケット家のメイド。シェーニッツ。先代聖女アルエル様より、あなた……いやあなたが乗っ取る次代聖女リリベル様の身の回りの世話を仰せつかった者」


(ほう……俺の威を受けて尚、返すか)


 かっ! と小さくリリベルは一笑し、


「ではシェーニッツとやら、俺がこの小娘の体を乗っ取ったのだとしたら、どうするのだ」


「簡単なことです。あなたを気絶させて、教会でその呪いを解くまで」


「やってみせよ」


 ふっと、シェーニッツの姿が消えた。次の刹那、胡坐をかいて座るリリベルの背後に姿を現す。手刀の構えを取るシェーニッツは、リリベルの首すじ、頚椎に狙いを定めている。


 だが、瞬間リリベルが座っていた机が爆散するように粉々に砕けた。シェーニッツは一瞬たりとも目は話していなかった。ぼろぼろと落ちる木片の向こう側。酒場の扉に手を掛けるリリベルの姿があった。


「……!」


 リリベルは不敵な笑みを浮かべながら、扉を開いて外に出た。


 シェーニッツは小さく舌打ちをして、その姿を追った。

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