12.俺のだった
今年も漸く来たようだ。
皇室からの狩猟大会参加の招待状片手にエルメスは深呼吸する。
毎年秋の忙しい時期に開催される伝統行事だ。勿論、皇室主催なのでほぼ強制参加なのだが、今年の開催をエルメスは殊の外楽しみにしていた。
今回は皇太子殿下が婚約してから初めて開催される公式行事ということで特例で未だ未成年ではあるが皇太子殿下の婚約者及び小大公殿下の婚約者も参加することになったからだ。
「ルナアリアもめかし込んで来るんだろうなぁ……何を着ても似合うだろうが楽しみだ」
貴婦人の戦場でもある狩猟大会会場に、美しく着飾った姿で現れるだろう意中の人にエルメスは期待と喜びが隠せないでいる。
「少しでもルナアリアがクイーンになる足しになればそれだけで充分満足なんだが……」
ルナアリアをクイーンに押し上げるにはライバルが多すぎる。少なくともソルアレアと大公夫人。辺境伯夫人に宮中伯夫人はクイーン候補に上がるだろう。彼女らの
「たとえ届かなくとも彼女に獲物を捧げるだけで意味はあるよな」
参加者が獲った獲物を意中の人物に捧げるのは当然の習わしでそれをエルメスが行おうとも誰も文句は言うまい。エルメスの抱く想いを極自然に示すことが出来る。数少ないチャンスだ。
――――それに、もしかしたら貰えるかもしれない。
繊細に刺された刺繍が踊る美しいハンカチと手作りの柄守り。
前世では文字通り自ら踏み躙ってしまったけれど、今世では絶対そんなことはしない。
多くは望まないがせめてハンカチだけでも貰えたらどんなに嬉しいだろう。
今はもう朧気にしか残っていないあのハンカチの滑らかでしっとりとした肌に吸い付く手触りを思い出した。
会場について直ぐ、馬車から降りて辺りを一瞥する。
テントの前に人集りがある。が、そこにルナアリアがいるかまでは判別できない。未だ10歳の幼い少女は大人に集られてしまうとその身長の低さから隠れて見えなくなってしまう。
だが、見ているだけでは何も変わらない。取り敢えずテント前の人集りに合流しようと歩を進める。目的の場所まで後数歩というところで背後からドンッと腰に衝撃を感じた。
驚いて、振り向くとルナアリアがエルメスの腰にしがみついている。
「良かったです、おじさま。来てくださったんですね」
腰にしがみつきながら微笑うルナアリアのなんと愛しいことか。一体、何の奇跡だ。
「おじさまが参加なさるとは限らないのに気が急いてしまって思わず作ってしまったんです。私が織ったものなので肌触りは良くはないかもしれませんがよろしければ受け取ってください」
差し出されたのはシルクのハンカチ。繊細な刺繍で刺された侯爵家の紋章が見事な出来栄えだ。懐かしい。
でも、前世とは違って裾がレースで処理されていて更に洗練された出来になっていた。
刺繍が得意なのは知っていた。玄人跣な腕前で職人すら唸らせるのも解っている。でも織物までこんなに上手いなんて知らなかったし、レースが編めるのも知らなかった。ルナアリアはこんなに小さな頃から素晴らしい
「素晴らしいハンカチですね、大変だったでしょう?」
「纏めて織って裁断しただけなんで簡単ですよ。レースは裾処理としてあしらっただけですし。侯爵家の紋章は左右対称なんですね。入れやすくて良かったです」
「ありがとうございます。右手首に結んで頂いてもいいですか?」
「はい!」
そうして右手首に可憐な白い花が咲いた。あまりの愛しさに思わず口吻てしまいたい衝動に駆られたけれどなんとか我慢した。
「ルナ!メルクリウス小公爵!こちらにいらしたんですか」
少し離れたところからフムスが駆けてきた。その後ろには皇太子殿下とソルアレアもいる。
ルナアリアとの蜜月な時間が終わってしまうのが酷く名残惜しい。
「ルナ!急に姿が見えなくなるから心配したんだぞ」
「ごめんなさい、フムス。おじさまを見かけたから、つい」
「ハンカチ渡せたんだな」
「ええ」
ガバリとルナアリアに抱きついたフムスは彼女の顔を見下ろしながら説教し始めた。対してルナアリアはフムスの顔を見上げながら弁明している。いつの間にか互いの腰に手が回っており、これこそが蜜月だと言わんばかりだ。
「素晴らしい贈り物をどうもありがとうございます。今日の獲物は期待していてください。ゼフィロス嬢に全て捧げます」
「裁縫はルナの特技のひとつなんです。喜んで貰えて良かった。父や叔父たちも同じ反応してましたよ。すぐに母たちに怒られてましたけど」
見ればフムスの右手首にもハンカチが巻いてある。裾のレースを見るにエルメスに贈られたものより数段豪華だ。
「いいなぁ。リア、僕にも頂戴?」
「ゲールはレアから貰いなさい!レア、すっごく頑張ってたんだから!!」
「ハンカチ自体はリアに織って貰ったの。レースの編み方と付け方、刺繍もちゃんと教えてもらったから……勿論リアほど上手くはないけど貰ってくれるわよね?ゲール」
「やった!!ソラ、ありがとう!!僕、一生大切にするよ!!ソラも、ソラのハンカチも!!」
ゲールは愛しのソルアレアに手作りハンカチを左手首に巻いてもらい、無邪気に喜んでいる。先程見たフムスの右手首のハンカチが気になって視線で追うと、ハンカチ以上に気になるものが視界に入った。
「すみませんが、サルトゥス小大公。そちら見せて頂いても宜しいですか?」
「これですか?先程、ルナに貰ったものなんです」
フムスは愛剣を鞘ごと引き出し、その柄にぶら下がる『柄守り』を見せてくれた。黒糸と銀糸を交互に丁寧に編み込み、二対の紅玉と青玉を通し、中央に大振りな琥珀をあしらった美しいものだ。
「これを作っているルナの横で、ルナの色も編み込んで欲しいと我侭を言ったんです。ずっと傍にいて貰えている気がするからと」
ルナアリアからフムスへと贈られたそれがとても眩しくて目が痛い。それ以上に『柄守り』を愛おしそうに見つめるフムスの表情に胸が痛い。
思わず涙が零れそうになってエルメスは急いでハンカチを探してポケットを漁る。
――――カサリ。
ポケットの中でハンカチ以外のものが動いた気がして一緒に引き出す。
手の中を見ると紫紺の糸で繊細に編み上げられたそれにエルメスの眼と同じ黄金色の輝きを放つ大振りの琥珀があしらわれた『柄守り』がそこにはあった。
エルメスはそれには見覚えがある――――どころじゃない!
エルメスが踏み躙った所為でついた傷まで認められる。確かに
それでも、あるわけがない。あって良い筈がない。エルメスがこれを受け取ったのは前世、30歳過ぎ頃だったから時間的には今から多分5年強先の話になる。いや、抑々受け取ってすらいない。エルメスは間違ってしまったから。
「なぜ貴方がその石を持っているのですか?」
エルメスの手元を覗き込んだフムスが訝しげに問いかける。
「その石は私達の祖母の形見の一つなんです。といってもその石は女性にしか贈られないのですが」
「いいえ、フムス。ちょっとまって。違うかもしれないわ。だって、こんな
ルナアリアが言うに曰く、ルナアリアが『柄守り』に使った石は『森の琥珀』と呼ばれる『森の乙女』の一族に伝わる秘宝らしい。
『森の乙女』の一族というのは建国神話に語られる泉の女神の分身とされる女系一族で『女神の祝福』を強めるとされ、その能力は一族の血を引く女性のみに受け継がれる。
その『森の乙女』の一族の女性が握って産まれるのが『森の琥珀』だ。
『森の琥珀』は女神の力の結晶とされ、その為、決してクラックや異物が入ることがない。
『森の乙女』は『伴侶』となるものにこの『森の琥珀』を捧げるのが習わしである。
『森の琥珀』自体も強い力を持ち、持ち主の心からの願いを叶えるとされている。
「ですから、その石は似てはいるけど多分別物なんでしょう。それでも、
「――――はい、そうします。申し訳ありません、少し思い出したことがあって、一時、席を外させてください。開始時には戻りますから」
「はい、お気をつけて。メルクリウス小公爵」
ルナアリアたちに笑顔で見送られた後、エルメスは必死で走った。誰にも見られない、誰にも見つからない。そんな閑寂な場所を求めて只管走った。そうしてやっとのことで見つけたその場所で。
――――独り、大声で哭いた。
「相変わらずレアは不器用なのか」
先程、フムスがエルメス相手に自慢してみせた『柄守り』。
ゲールもそれとよく似たものをソルアレアから贈られている。違うのは編み込まれているのが銀糸ではなく金糸で、若干所々糸が縒れていることくらいか。
「それが可愛いんじゃん!!一点物って感じがするし!!」
「抑々一点物だろ。『森の琥珀』なんだから」
『森の琥珀』は一つとして同じものはないのだとフムスは祖母に聞かされている。『森の琥珀』は『森の乙女』につき、一つ。『森の乙女』の心そのものだ。
実際、フムスの石とゲールの石は全然違う。ぱっと味は両方とも熟した蜂蜜のような、最高級のコニャックのような濃い飴色でおなじように見えるが、ゲールのものはよく見ると不思議な程、強い赤みを帯びているし、逆にフムスのものは特定条件下で青く光るという不思議な性質がある。
ソルアレアの心はゲールのもの。ルナアリアの心はフムスのものと主張しているようで何だがむず痒い。けれどとても嬉しいし、幸せだと思う。
「で、大会どうする?本気でやるか?」
「本気でやったら拙いだろ、禿山どころの騒ぎじゃなくなる」
「じゃあ、いつもどおりってことだな」
「――――母上にクイーンを譲るのは正直、業腹だけどな」
「大公、手加減してくれないからなぁ」
そうして、今年のクイーンは下馬評通り、大公夫人だった。
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