第19話 夏の音

 日本には、夏特有の音があるなぁと思います。風鈴とか、蝉時雨とか、夕立の音とか。

 私が育ったところは、山を削って作った新興住宅地で、まだ緑が多く残る土地でした。私たち家族が住んでいた公団アパートも、木に囲まれており、そのほとんどが桜の木でした。なので、春になると、どこにも出かけなくともお花見ができました。しかしこれがね、夏になると煩いくらい蝉が鳴くのです。


 子供の頃から暑さと湿気が苦手だった私は、真夏によく夏風をひいたのですが、熱っぽい頭を冷たい氷枕にのせ、うとうとしていると、開け放された網戸越しの蝉のまあ煩かったこと。雨だったら土砂降りの蝉時雨です。

 ただ私は慣れていたせいか、それほど煩いとも思わず、蝉が大騒ぎをする中で、案外ぐうぐう寝ていたと思います。


 その蝉時雨も、夕方になると、一斉にヒグラシに変わります。ヒグラシに変わった途端、辺りの空気が一変するのを感じました。相も変わらず、四畳半の子供部屋に寝ている私ですが、優しく響くヒグラシの声に包まれると、何だか雄大な自然に包まれているような、すがすがしい気持ちになったものです。


 明日にはきっと元気になって、またみんなと遊べるようになる。目を閉じて、耳をすませながら、そんなことを思ったものです。

 紫色に染まる夕暮れの美しさと、そこに響くヒグラシの声は、大好きな夏の風景です。


 これはごくごく幼い頃の朧気な記憶なのですが、確か我が家では、毎年夏になると、どこかから鈴虫を手に入れて、夏の間だけ飼っていました。

 丸い金魚鉢の底に土を引き、餌として、小ぶりに切ったキュウリやスイカに楊枝をさして土に刺し、霧吹きで土を湿らせる。そこに鈴虫を入れて、蓋代わりにサランラップを輪ゴムで止めて、ぷつぷつと空気穴を開ける。


 鈴虫の世話をするのはもっぱら父で、私はいつも父のそばで、飽きることなく一連の作業を眺めていました。世話をし終えた鈴虫を、父がどこにおいていたのか、さっぱり記憶にないのですが、夏休み中など、夜中にふと目が覚めると、どこかから鈴虫がりーんりーんと鳴くのが聞こえてきて、それを聞くと、私はなぜが安心して、再び眠りにつくことができました。


 さて、私の好きな小説に、朝井まかてさんの『先生のお庭番』という小説があるのですが、これは、まだ鎖国時代の日本に、オランダ商館医として長崎の出島にやってきた医師で博物学博士でもあったシーボルノのお話です。


 日本で医師として働き始めたシーボルトは、自分の家の庭で薬草を育て、新しい医術を日本に伝えようとするのですが、小説では、その薬草の庭の下働きとして雇われた、植木商の奉公人の少年からみたシーボルト像になっています。少年の目を通して語られるシーボルトさんは、気さくで、偏見がなく、素敵な人で、知らなかったなぁと、歴史に暗い私は、改めて感心しました。


 真面目な少年が、自分の専門知識を駆使して、デリケートな薬草たちを守るのですが、そのひたむきで誠実な仕事を、シーボルトは、植木屋の丁稚としてではなく、植物の専門知識を持った仕事人として尊重していましたし、日本人の妻を始め、使用人にも公平で丁寧な人という印象でした。


 草花を愛し、優しく穏やかなシーボルトさん。なのに、虫の声を愛でる、と言う心がゼロなのです。秋になり、彼の書斎の窓の外で鳴く秋の虫の声に、煩くて仕事にならないと珍しく苛々して、盛大に殺虫剤をまくエピソードには驚きました。日本人には、ちょっと理解出来ない感性かもしれません。いや、彼からしたら、日本人の感性こそ、理解出来ないのかもしれないけど。

 

 全世界を調べた訳ではないけれど、風鈴の音や虫の音を楽しめる日本人に、ちょっぴり優越感を感じた私なのでした。

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