いつの日か、その名を

 女は干し肉に使う漬け汁を作っていた。

 濃いめのひしおに少しだけ味噌を足し、さらに葉山葵はわさびの千切ったものと山椒を加えると味が締まって良い、とシュタインより教えられていた。ごく少量を木さじに取って手の甲に乗せ、女は舐めてみた。そして首を傾げ、もう一度匙ですくったものを持って小走りで洞窟を出た。

「シュタイン。味を見て下さいますか」

 洞窟の外で鉈を振るって薪を割っていたシュタインは、女を見てぎょっとした。

「まだ走らない方がいいんじゃないか? 産まれて何か月も経っていないんだ」

 女は微笑みながら自分の腹を撫でた。

「いえ。十月とつきぶりに体がとても軽くなったので。駆けたくなるのです」女は持って来た匙をシュタインに手渡す。「味を見て下さい」

 シュタインは匙を口に入れ、ややあって小刻みに頷いた。

「ま、こんな感じだ。肉の準備はできたか?」

「できています」

「そうか。じゃあ作り方を教えよう」

 二人は洞穴に戻った。そして大きめの木椀に汁を移し、切った猪の肉を入れて揉みこむ。

「たったこれだけだ。あとは吊るして干すだけだ。そうだな、この洞穴なら吊るして干すにはおあつらえ向きだ」

「腐らないのですか」

「ああ。干す前に、余分な水気を飛ばすことを忘れないように。そうすれば、塩気の濃い漬け汁のせいで乾きやすく、虫も来ないし腐りもしない」

「そうなのですか。不思議ですね、腐らないとは」

「特に狸や、この時期の雄の猪は独特の臭いがある。だからそのまま焼いて食べるより、こうした方が食べやすい。作り方も至って簡単だ」

 女は何度も頷き、感心した。「シュタインもイーヴァも本当に何でもご存じですね」

「イーヴァと一緒にしばらく住んでいた村の人が教えてくれたんだ」

「ああ。あの――」山民の話ですか、と続けそうになって、女は口をつぐんだ。以前もシュタインに山民の話をしつこく聞いて、ひどく不機嫌な顔をされたことがあった。それ以来、この話はご法度になっていたのだ。女は話を変えた。

「……他にももっと色々なことを教えて下さい」

「もうすでに色々教えてるじゃないか。食べられる茸や山菜の見分け方、罠仕掛けの作り方、水場の探し方、方向の見定め方、食糧の蓄え方、薬の作り方……」シュタインは指を折って数えた。そして、はっとしたように女を睨んだ。

「……馴れ馴れしいまねはよしてくれ。私らと君はただの共生関係だ。私らはじきに、帝を殺すためにここを出てゆくんだ。勘違いするな」

「……申し訳ございません。でも、どうしても、この先必要になる知恵ですから……」

 女はそう言ってこうべを垂れた。それは明確な意思表示の言葉だった。シュタインは黙って女を見た。

 シュタイン、と声を掛けられ振り返った。入り口にイーヴァが立っている。

「帰ったか、イーヴァ。獲物はなしか?」

 イーヴァはそのまま洞穴には入らず、顔だけを中に入れて顎をしゃくった。

「……ちょっといいか?」



 洞穴からいくらも行かない場所に、その亡骸は無造作に転がされていた。

 服装からして旅人だった。二人いる。大きい男は両手足が無かった。切り落とされ、あちこち出鱈目でたらめな所に放り投げられていた。他に傷らしい傷はない。血を流し過ぎて死んだのだろう。

 小さい男は、あごのすぐ下からへその上辺りまでが刃物で切り開かれていた。それ以外の傷はない。両目が、飛び出さんばかりに見開かれていた。断末魔の表情だ。恐らく生きたまま、じわじわと切られていったのだ。

むごいことを」シュタインが顔を背けた。

 イーヴァは辺りを歩き回り、観察した。「明け方までしつこく降っていた雨のせいで、近いのに悲鳴は聞こえなかった」

「切り口が鮮やかだ。明らかに刀傷だな」

「ああ。山賊のたぐいだろう」

「葬ってやろう。このまま獣に喰われるのでは、あまりに哀れだ」

「そうするか。だがシュタイン、手早くやろう。誰か来るとやっかいだ」

 二人は枯れ木で穴を掘るための簡単な道具を作り、それを使って哀れな旅人の墓穴を掘った。墓標は、すぐ近くに古びて割れた地蔵の名残があったので、それを一つずつ使ってこしらえた。

 一仕事終えると、二人は墓標に向かってしばし黙とうした。少しして、イーヴァがおもむろに口を開いた。「……近頃、この辺りでまた山賊が増えてきた」

「そうだな」

「しかも、こんなふうにあえて残酷に殺す奴らだ。荷を奪うだけじゃなく、面白半分に殺す輩が増えているせいで、俺達にまで迷惑がかかってるんだ」

「イーヴァ。私達だってさほど変わらんよ」

 イーヴァはシュタインを見た。「それは違うぞ、シュタイン。俺達は殺してない」

「あんたはかつてやっていたじゃないか。私と再会する前、山民の里を一緒に出て行った仲間と。山賊として奪っていたし、殺してもいたんだろう」

 イーヴァは口を噤んだ。「……信じていた侍に裏切られたんだ。山民での暮らししか知らない者達が、生きていくために仕方なかった。だが弁解するつもりはない。おまえに責められるのも当然だ」

「責めちゃいないよ。私が言っているのは見られ方だ。制する側からすれば皆同じだ」

 ――シュタイン、そういうおまえは変わったぞ。良いか悪いかという話ではないが、前はそんなことを言う奴ではなかった。

 イーヴァはそう言いたかったが、あえて口にする必要もなかったので黙っていた。

「イーヴァ。クムとキンノは、しばらく帰らないんだったよな?」

「……ああ、刺子ノ峰さしこのみねの辺りまで獣を追っていくと言ってたからな。まあ、五日は帰らないだろうな」

「そうか。このことを伝えておきたいんだが」

「クムは賢い。目立つようなことはしないだろう。今までだってそうだったじゃないか」

「だといいが――」

 シュタインは空を見上げた。さっきまで晴れていたが、また重い灰色の雲が上空に広がっていた。吹き抜けてゆく風にも、仄かに雨の匂いが混ざっている。



 雨はそのまま降り続け、夜半には強く降り出した。

 シュタインは洞穴の中で焚火にあたりながら、藁靴わらぐつの破れ目を新しい藁で補強し、綺麗に作り直していた。女はその横で、シュタインのために長さと太さが均一な藁を選んでいた。イーヴァは、シュタインが作った桑の実のワインに酔い、洞穴の奥でいびきをかいている。赤ん坊はその横ですやすやと寝ていた。

 シュタインは、クムとキンノが心配だった。加えて、今日埋めた旅人の亡骸も気がかりだった。大きな穴を掘ってしっかり埋めたはずだ。……この雨で流されていないといいが。

「……シュタイン。話しかけてもよいですか」

「……何だ」

「難しい顔をしてらっしゃいますね。何を考えてらっしゃるのですか?」

 手を動かしながら、女はシュタインに訊ねた。

「……ああ。仲間のことを。この雨をどうやってしのいでいるのかな、と」

「そうですか。……今日、名も知らぬ旅人の塚を作ろう、とイーヴァに言われたらしいですね。イーヴァから聞きました」

「この辺りには獣が多いからな」

「シュタインはいつもお優しいですね」

「……優しいだって?」

 意外だった。

 今シュタインの心はささくれ立っており、それが顔や言葉に出ているだろうことも自覚していた。特に仲間以外には思いやりを持って接する気もなかったのだ。もちろんこの女に対しても同様だった。

「ええ。日頃とても怖い顔をされています。初めはそれを恐れていたのですが……でも、違いました。瞳はとても悲しく、また優しいのです。近頃はそう感じていました」

 ――声は聞こえないけれど あなたの心は感じていました。

 シュタインは緩く目をつむった。女はちらりとシュタインを見て、また手元の藁に視線を落とした。

 久しぶりに、ほんの少しだけ胸が熱くなった。女がいるからだろう。どうしても面影が心をよぎってしまう。

 シュタインはため息をついた。そんなことでは駄目だ。私は必ず帰るんだ、祖国に。……いや。その前に、どうあってもみかどをこの手で殺してやるんだ。

「……申し訳ありません。出過ぎたことを」

 女が手を止め、シュタインに頭を下げた。

「いや。……祖国のことを思い出していた」

「シュタインの祖国――」

「美しいところだよ。この国とは何もかもが違う。この国も山や森は綺麗だが……私の国は街が綺麗なんだ。石造りで、すごく整ってる。建物も、路も、橋なんかも」

 女は目を丸くして話に聞き入った。「それがすべて石でできているのですか?」

「ああ。寺院だってそうだ。この国では木で造られているが」

「そんなことができるものなのですね。橋を石で造るだなんて……何だか信じられないようなお話です」

「木でできた建物だろうが石でできた建物だろうが、どちらも良い点と悪い点がある。文化が違うだけなんだよ」

「まことに。……山や川はあるのでしょうか?」

「もちろん。国土が広いからね。……でも、この国の山の多さにも驚いたけど……。料理も美味いんだ。私は祖国では肉屋をやっていてね。――そうだ。今度は腸詰の作り方を教えよう。さすがにこれはまだ教えていなかったな」

「ちょうづめ?」

「猪の腸を綺麗に洗って、そこに叩いた肉とか、香辛料を混ぜ入れて……あとは蒸したり焼いたり、煮たりして食べる。作り方も簡単なのに美味いんだ。良い店のやつはもう、本当に美味くてね……」

 シュタインが中空を見上げ、陶然とした表情になった。気づくと、女は微笑みながらもさみしげな目で、シュタインをじっと見つめていた。

「本当に、お帰りになりたいのですね。祖国に」

 その瞳は潤み、焚火の炎が返って煌めいていた。見覚えのある表情だった。懐かしさとせつなさで胸が痛くなる。締めつけられる。

 シュタインは、とても目を逸らさずにはいられなかった。

「……ああ。すごく帰りたい。……でも……」

「あなたは、帰る場所があるのに帰る手段がない。わたしは、いつでも戻れるところにいるのに帰れる場所なんてない。とても皮肉ですね、わたし達は」

 シュタインは頷き、女の目を見た。「……すまない。聞かれるままに私の話ばかりをしていた。君だって、もう……その、帰れないのに」

「やはりとても優しいです、あなたは」

 女はシュタインに寄り添った。ふわり、と女の匂いが漂い、シュタインの鼻をくすぐる。

 シュタインはそっと女の肩に手を置き、そのまま抱き寄せた。



 その朝、森の様子が少しおかしいことに気づいたのはイーヴァだった。

「やはり、シュタインもそう思うか」

「ああ。鳥が鳴いていなさすぎるからな」

「人か」

「かもしれん」シュタインが渋い顔をした。「狩人ならまだいいがな……」

 イーヴァは頷いた。その先は聞かずともわかっている。「離れ過ぎないようにしよう」

 二人は、大声で呼び合えばいつでも駆けつけられる程度の距離を守り、それぞれ獣道の上下かみしもに罠を仕掛けた。兎用の小さな罠だ。道はかなり小さく、まだできてさほど時が立っていないようだった。獣道の状態を見ると、主に兎や狸などの小さな獣が上から下への移動のため、頻繁にこの道を使っているらしい。それを想定して、上手かみてにいるイーヴァは獣を誘い込むための罠を、下手しもてにいるシュタインは捕えるための罠を用意した。

 シュタインは考えていた。

 山民を出たイーヴァが、何故山賊めいた行為をするほどに落ちぶれてしまったのか。それによって片腕まで失うはめになったのだ。

 イーヴァは、旅人を殺したのは事実だが自分は直接手を下してはいない、と言っていた。結果として襲われた者が死んでいることは事実なので、山民を出た七人のうちの誰が殺したかということはもはやどうでもよかった。だがイーヴァはそれにこだわっていた。シュタインの信用を得るためだ。無理もない。

 しかしプライドの高いイーヴァは、何という名の侍に、どのようにして自分が謀られたかは決して話そうとしなかった。シュタインにとっては、それすらどうでもいい話だった。どうあっても、もう後には引けないのだ。

 帝のしたことは許せなかった。帝は山民を滅ぼし、ゆきを殺した。直接誰が手を下したかは問題ではない。その采配を振ったのが帝というだけでシュタインには十分だった。――だが、一体どうすればいい? 帝を殺すはおろか、近づくすべさえ今のシュタインにはないのだ。

 イーヴァはきっと焦ってしまったのだろう。信用していた侍に裏切られ、それでも何とか七人食ってゆかなくてはと焦り、山賊に身をやつしてしまったのだ。でなければ、あの頭の良いイーヴァがそんな愚かな判断をするわけがない。山民は、山から離れさえしなければささやかに生きてゆけるはずなのだ。自分達がいま住んでいるあの洞穴だって、その特殊な位置や形から考えて、里や都の人間にまず見つかることはないだろうから……。

 はっとした。

(時間が掛かりすぎている)

 上の仕掛けの方が時を食う。だから上の準備が終わったら、すでに仕掛け終えて待っている下の者に声を掛ける、というのがこれまでの流れだった。仰ぎ見ても、イーヴァの姿は目に入らない。シュタインは歯ぎしりした。急いで斜面を駆け上がりかけ、慌てて足音を消す山民特有の歩き方に切り替えた。

 木の陰に身を隠し、気配を森に隠しながらそっと近寄る。

 イーヴァが三人の侍に囲まれていた。三人とも兜を被っている。鎧や太刀の拵えから、侍としての位は低そうだった。しかし山賊の類でないことはその身なりから明らかだった。

(……帝の刺客か? この場所が見つかった?)

 一人は槍を持っていた。二人は抜刀している。イーヴァは右手にまだ罠仕掛けを持っていた。槍の穂先は、侍が一歩踏み込めば容易にイーヴァの心臓を貫ける位置にあった。

 三人は名乗りもせず、一言も発さず、イーヴァを凝視している。イーヴァも三人をかわるがわる睨みつけている。膠着こうちゃくしていて、これでは物音一つ立てられない。

(とにかく槍持ちを何とかしなければ……)

 見通しの悪い場所ではないから、隠れて一人ずつ片付けるのは無理だ。急襲して虚をつくしかない。槍持ちさえ抑えれば、イーヴァが山刀を抜く隙はある。そうすれば何とかなるだろう。それしかない。

 シュタインはいきなり槍持ちの前に飛び出した。イーヴァは驚かない。シュタインならそう判断し、行動するとわかっていたからだ。しかし三人の侍は仰天した。シュタインはイーヴァに向けて突き出されている長い槍の穂先のすぐ下を両手で掴み、膝蹴りを叩きこんだ。木製の槍はへし折れ、シュタインは折れた槍の穂先を柄からもぎ取る。これでもう槍は用を成さなくなった。

 シュタインが槍に飛びついた辺りで、イーヴァはすでに罠を捨てて山刀を抜いている。そのままイーヴァは手前の侍に駆け寄り、無防備な太腿に強烈な蹴りを食らわせた。侍はぎゃっと悲鳴を上げ、その場に尻もちをついた。次いでもう一人の侍に山刀を振るう。さすがにこの一刀は、相手の太刀によって遮られた。イーヴァと侍はつば迫り合いの格好となった。

 槍持ちが、すでに使えなくなった槍を捨てて抜刀した。シュタインも山刀を抜き、片手で持った。侍が奇声を発し、二度、三度と切り込んできた。思いのほか鋭い打ち込みだった。シュタインは刀身を傾け、侍の斬撃を受けながらも、その威力を受け流して半減させた。

 相手は確かな技で際どい位置へ打ちこんでくる。それをシュタインは何度も受け流す。相手が焦りだした。打ち込みが甘くなってきている。磨かれた剣技ではあったが、今のシュタインの敵ではなかった。

(問題ない。殺さずに倒せる)

 そう思った瞬間だった。

 今度はイーヴァの呻き声が聞こえた。シュタインが目をやった。イーヴァの右すねから血が流れている。イーヴァに太腿を蹴られて座り込んでいた侍が加勢したのだ。座ったままの姿勢で太刀を振い、つば迫り合いをしているイーヴァを斬りつけたのだろう。迫り合いから離れて後ろへ数歩下がったイーヴァに向きあい、相手は太刀を素早く大上段に構え直した。

「……イーヴァ‼」

 考えている余裕などなかった。

 シュタインは駆け寄ると、今まさにイーヴァに向け大上段から振り下ろそうとする侍のわき腹に、腰だめに構えた山刀を深く突き刺した。

 侍の体は硬直した。シュタインはそのまま力任せに山刀を押し込む。わき腹から刺し込まれたその切っ先は内臓を突き破り、反対側の肋骨の隙間から飛び出した。

 後ろでくぐもった悲鳴が上がる。

 侍を突き刺した姿勢のままシュタインが振り向くと、先に相手をしていた侍が、後ろからシュタインに斬りかかろうとしていた。その侍の胸に、イーヴァの山刀が突き刺さっている。侍はそのままくずおれた。

 シュタインは、自分が突き刺している侍のわき腹から山刀を抜いた。がくがくと震えながら、侍はぺたりとその場に座り込んだ。山刀は粘り気を帯びた血にまみれている。

「……シュタイン。おまえ――」

「……殺すつもりなんて、なかったんだ……」

 シュタインが絞り出すように言った。

 急に風が強く吹き始めた。苦しそうに喘ぎながら、侍が何事か呟いた。しかし風が木々を揺らすざっ、ざっ、という音のせいでシュタインにはうまく聞き取れなかった。

「……何だ。いま何と言った」

 シュタインは侍のもとへ一歩踏み出した。

「近づくなっ!」

 侍は怒鳴った。その剣幕に、シュタインの足は止まる。侍は手負いの獣のような目でシュタインを睨みつけた。

「化け物め」



 イーヴァは侍の膝を折るつもりで蹴りを見舞っていた。

 しかし狙いが逸れ、厚い筋肉で覆われた太腿を打ったのだ。それがためにそこまでの深手を負わせることはできず、シュタインとイーヴァが気づいた頃にはもうその場から逃れていた。

 追おうとするイーヴァをシュタインが止め、追ってどうするんだと言った。侍が戻っても戻らなくても、どうせ追手は掛かる。自分達はもう帝に命を狙われているのだ。

 シュタインとイーヴァは洞穴に帰った。そして手早く荷物をまとめた。

 何かあったのですか、と女が怪訝な顔で問いかけた。

「侍に襲われた」イーヴァが、すねの傷を水で洗いながら言った。

「侍に?」

「君には言ってなかったが、最近ここからあまり遠くない場所でも、ちらほら山賊が出るようになっていた。しかも、旅人を不必要に惨たらしく殺すような奴らだ。それを掃討するための侍だったのか、それとも……俺達を追ってきたのか」

「後者だろう」ぴしゃりとシュタインは言った。「気を付けていたつもりだった。でも連中はかなり深いところまで森に入ってきていたんだ」

「イーヴァ、傷は深いのですか」

「派手に血は出たが、そうでもない。布で、毒消しの薬草を巻いておけば大事ないだろう」

 女はほっとした。そして荷物をまとめ終わり、じっとしているシュタインの目を見た。

「――ここを出て行かれるのですね」

 シュタインは女の目を見つめ返した。「……ああ。追手が掛かるのも時間の問題だろう。私達はもう追われる身だ。ならばこっちからも追ってやる」

「クムとキンノはどうされるのですか」

「二人のいるおおよその場所はわかっている。足跡を追える。途中で合流するつもりだ」

「そうですか」女はため息をついた。「……討ち取られたのですね」

 シュタインは頷いた。

「仕方がなかったのですか」

「あの場で……侍を殺さずイーヴァを助ける方法を、思いつかなかった」

「俺も、シュタインを斬ろうとした侍の胸をとっさに山刀で刺した。どうしようもなかったんだよ」

「どっちだっていいさ。所詮こうなる運命だ」

 何か言いかけて女は言葉を切り、黙り込んだ。イーヴァが女をいたわるように話しかける。

「……ここにいれば安全だ。山賊狩りの侍などにここは見つけられないはずだ。十年以上も山民と暮らしていた俺が言うんだから間違いない。クムとキンノも、ここを住処にしていたから見つからなかったんだ」

 女は黙ったまま、小さく頷いた。

 シュタインは女に、言えない一ことがあった。

 言えるはずがない。どうしようもなく危険な道行きになることは火を見るより明らかだ。ここから先シュタインとイーヴァを待ち受けるのは、まず間違いなく地獄のような血みどろの戦いの日々なのだ。シュタインは唇を噛んだ。

 女はシュタインの顔を見て一つ頷き、その場に三つ指をついた。

「シュタイン。イーヴァ。……短い間ではありましたが、本当にお世話になりました。あなた方のご厚意、一生忘れません。赤子とともに、あなた方に救われた命、これからも大事にいたして参ります。クムとキンノにも、どうぞよろしくお伝え下さいませ。どうかいつまでもお元気で、と」

 イーヴァが女の前にひざまずき、その手を取って女を起こした。

「俺やシュタインが教えたことは、山で生きてゆくために不可欠なものばかりだ。その知識を活かしてたくましく生きてくれ。そして……もしできるなら、里に下りて、民とともに生きてくれ」どうか頼む、といってイーヴァは女の手を放した。女は頷く。

 次に、女はシュタインの顔を見て微笑んだ。

「祖国へ帰ることができるよう祈っています」

「私の神は、まだ私を見捨てちゃいないのかな」

「信じてさえおれば」

「……そうだな。信じてさえいれば」

「生きぬいて下さい」

「なに、大丈夫だよ。たかが私のことなんて、世の中誰も知りやしないんだ」シュタインは微笑み、頷いた。「いつかまた逢おう。その時まで君の名を憶えておくよ。……最後に教えてくれないか。君の名を」

 女は再び頭を深々と下げ、凛とした声で答えた。

坂田八重桐さかたのやえぎりと申します」




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