慈悲の刃

 金太達四人は馬に跨り、どこまでも続く荒地を渡ってた。

 遥か遠くに山々の連なりが見える。地面は乾き、ひび割れてた。灰色の雲が厚く垂れこめ、風はびょうびょうと鳴りながら金太の耳元をものすごい迅さで後ろへと飛び過ぎていった。時折巻き上げられる砂粒は、四人の顔を容赦なく打つ。その度に四人は目を閉じて、風と砂が行きすぎるのを待った。

 最後尾を行く金太は落ち着き払ってた。二番手を進む綱が振り返って金太を見、向き直って先頭にいる貞光に話しかけた。

「一体あいつに何を仕込んだんだ?」

 貞光は、それが義務であることを深く悟ってるんで正面から目を動かさない。前を見据えたままで綱に応えた。「は。何、と申されますと」

「たったの五日で様子がすっかり変わってしまっている」

「何ほどのことも。ただ少しはらを座らせただけのこと」

「肚を座らせた?」

「左様で。綱殿もご指摘されたように、あれの膂力りょりょくはもはや大人の男となんら変わりませぬ。むしろ手練れの侍にも見劣りせぬほど。荒削りではあるものの、体術のような動きすら身についております。だからこそ必要なのは心の鍛錬」

「生きるか死ぬかの追い込み、とおぬしはあの時申したな」

「覚悟と申した方がよいかもしれません。金太に未だ足りていないのはそこかと」

 綱は再度振り返り、金太を見た。綱と目が合った金太は、小さく頷きながら目を伏せた。

 これは早々に大きく化けるかもしれんな、と綱は思った。



 辺りがすっかり暗くなった頃、砂地へ出た。さらに進むと、ごくわずかな水量の川があったので、四人はそこで野営することにした。

 先頃、金太が貞光に鍛えられてた横で駕籠女はたくさんの岩魚を釣ってた。食べきれなかったそれらで作ってた干物を使って、四人は簡単な夕餉ゆうげを取った。干物を炙るための焚火を駕籠女がおこして、干物が頃合いにあったまるまでの間、金太は貞光に散々絞られた。

 何度組みにいっても、わけがわからないうちに金太は貞光にさばかれ、転がされ、気づくと地面に接吻してる。貞光は、金太にまったく掴ませなかった。着物の襟を掴む、までもいかないんだ。掴みにいった手を弾かれ、体当ての勢いを殺される。その鮮やかさは、駕籠女の遥か高みにあった。まったく何という練度だ、と改めて金太は感心した。

「体当ての数を競っているのではない。もっと集中しろ」

「は。……集中、ですか」

「堂の暗闇を思い出せ。あの時おまえは、どんな心持ちだった。わしが斬りこんだ時、何故おまえは身をかわせた?」

 金太は思い出した。そういえばあの時は、暗闇だったゆえに瞳に映るものをどうこうしよう、という考えはなかった。もっと体全体で見ようとしたというか……空気を感じようとした。そして、避けようなんて気持ち自体が少し希薄だった。

 金太はその時の雰囲気をなるべく意識に呼び覚まそうと、まずは体の力を抜いた。途端に貞光の岩みたいな拳骨が飛んできて頬骨にぶち当たり、金太は真後ろに転がっていった。

「まだだ。成っておらず」

 貞光は拳を握ったり開いたりしながら言った。金太の目の裏には星がいくつも散っている。

「貞光。金太。もういいだろう、焼けたぞ」

 いいところで綱から声が掛かる。貞光と金太は稽古に見切りをつけて、焚火にあたりに行った。金太は頬をさすりながらため息をつき、駕籠女に手渡された岩魚の串に噛みついた。

 空の高いところではまだ強く風が吹き、猛烈な勢いで雲が飛び退っていった。雲が動くたびに、月で出たり入ったりしてた。山々まではまだ少し距離がある。辺りは相変わらずの荒地で、砂と土と石と枯れかけた草以外、目に入るものは何もない。

「明日の昼までには山に入るだろう。奴らが棲む山だ」そう言って、綱は金太の方を向いた。「心しろ。金太、おまえはまだ人と戦った覚えがないだろう」

「……ありません。命のやり取りって意味では」

「無論その意味だ。我ら三人はもちろん、頼光様もおまえには期待している。が、何度もおまえを試すほど悠長に構えてもおらん。この戦いで良い結果を出せなければ、金太、おまえはお役御免だ。家に帰ってもらう」

 金太はごくり、とつばを呑んだ。

「おまえはかりそめの侍であるということを忘れず、存分に働けよ。わかったか」

「は。……あの、綱殿。一つ伺いたいことが」

「言ってみろ」

「奴らは何故土蜘蛛と呼ばれているのですか?」

石窟いわむろを住処としているからだ。常は外にいるのだが攻めようとするとその穴に引っ込む。そこが、あの虫の土蜘蛛に瓜二つなのよ」

 綱の話に頷き、駕籠女が口を挟む。「他にも、彼奴らは自分が掘った穴の中に何日も籠って獲物を待ち伏せたりするらしい。その様もまるきり土蜘蛛だ。まさに異形のなせる技だ」

「そうなのですか。……何日も」

 金太も狩りをしてたからよくわかるんだ。気配を消し、森とひとつになって獲物を待つことのむつかしさがね。獣は気配に敏感だ。だから、その気配とか匂いなんかを隠すために土の中に何日も籠る、っていう土蜘蛛の執念には金太も恐れ入った。底知れない、決して踏み込めない力の在りように戦慄したんだ。

 黙り込んだ金太を勇気づけるように綱が言った。

「まあそうは言っても大したことはない。所詮、森で獣を相手に鍛えた強さだ。我らの敵じゃない。……だが無論、それは侍ゆえの話。民からすればおそれの対象だ。金太。我々は頼光様の刃である以前に、民の牙でなくてはならんのだ」

「は。……民の牙ですか」

「そうだ。以前、おまえは戦い続ける運命とともに在る、と駕籠女に怒鳴られたろう。覚えているか?」

 金太は頷いた。忘れるわけがない。駕籠女に打たれたみぞおちを、金太はまたさすった。

「金太、おまえは力も普通じゃないんだ。そんな人間が侍になるということはもうそれだけで、牙を持たない民のために戦わなければならぬ、ということだ」

「……は。綱殿」

 返事をした金太を、綱はじっと見つめた。でも結局何も言わず、自分の持ってる岩魚の串に向き直った。そして噛みつこうとし、味が薄いことに気づいて、少し味噌を擦り付けた。

 民の牙。頼光様の刃。

 その二つの言葉は、いつまでも金太の胸に居座り続けた。岩魚を二串食って良い具合に腹が満ちても、まだ胸には何かがつかえたままだった。



 その日、山は静寂に包まれてた。

 いや、ついさっきまではざわざわしていたのさ。だが、殺気立った男達が現れたことで急に静かになったんだ。

 貞光が聞き耳を立てる。他の三人が固唾を呑んで見守った。しばらく半眼で空を睨んでた貞光は、ややあって綱に頷いた。

「――どっちだ」

「尾根伝いに、東へ回って逃れたかと」

「よし、追い詰められるな。俺と金太は回るぞ。貞光と駕籠女は山道をこのまま登れ。道を突き当たったら馬を捨てて足で追い詰めろ」

 貞光と駕籠女は頷いて、すぐに馬で山道へ駆けた。綱と金太も馬を走らせ、山道の反対側へぐるりと回った。

「これ以上は馬では無理だ。金太、走るぞ」

「は。綱殿」

 二人は下馬して、獣道に近い荒れた藪の中を尾根へ向かった。全力で駆け続けてると、やがて金太の迅さがどんどん上がっていった。金太はその時、すでに胴と籠手と手甲、そしてすねあてだけは与えられてて、さらに俎を手に持ってたけれど、そんな重さなんて金太はまったく意に介してなかった。かえしで足首に結わえつけたわらじ履きの足で、かつて狩りをしてた時みたいに大樹の幹を蹴り、枝を掴んで跳んだ。森にある全部を使って駆けた。

「金太、俺にかまわず先に行け!」

 綱が後方から叫ぶ。金太は少しだけ振り向いて頷くと、さらに迅く森の奥へ進んでいった。

「あの図体でなんという迅さだ。……まるで志能備しのびよ」

 綱が呆れはてたように呟く。そしてついて駆けることはとても無理だと悟って、諦めて歩き始めた。

 金太は前しか見てなかった。でも森を駆けてる時の金太は研ぎ澄まされ、周りのことが手に取るようにわかった。ゆく先を雀が二羽、山鳥が一羽飛んでる。右手、かなり先に牡鹿が一頭、草をんでる。

 そして左手。いま俺と同じ迅さで駆けてる奴がいる。

 俺と同じくらいの背丈、同じくらいの足の長さ。狩人じゃない。まして農民であるはずがない。この迅さで駆けられる人間の方がまれだ。

 つまり、土蜘蛛だ。

 ざざっ、ざざっと断続的な音を立て、土蜘蛛はもう金太のすぐ横を駆けてる。息が切れてることもわかる。金太がちらりと横を見た。影が見える。

 ふと、土蜘蛛と金太を隔てる木々の連なりが切れた。金太は一つ大きく息を吸い、跳ねると右前にある大樹の幹を蹴ってそのまま左へ跳び、駆けてる土蜘蛛の横っ腹めがけて痛烈な足刀蹴りを見舞った。

 一声呻き、もんどり打って倒れた土蜘蛛は、暗闇みたいな真っ黒な肌をしてた。

 都合よく、その場所は平たく開けてた。金太は荒い息をつきながら、しりもちをついたままの土蜘蛛から決して目を離さずに、大声で綱を呼んだ。離れすぎたのか、綱からの返事はない。

 ……しかし。金太は唸った。

 他人のことをとやかく言うなりではないが……何という異様さだ。

 まず、こんな色の肌がこの世に在るものなのか。日に焼けてこの色になっているわけじゃないことは明らかだ。髪もだ。こんなに縮れた髪は見たことがない。鼻は扁平に潰れているが、この国の人間のそれとはまったく異なっている。目はぎょろりと大きく飛び出していて、唇は分厚い。……これはまさに。

「……異形……か」

 土蜘蛛は肩で息をしながらじわじわと立ち上がり、ゆっくりと腰に差した山刀を抜いた。金太も、まないたを利き腕に持ち替える。

 しばし二人は睨み合った。やがて先に焦れた土蜘蛛が一気に間を詰め、山刀を上段から振り下ろした。金太は一歩引いてそれをやり過ごしたがわずかに遅く、肩口と腿を浅く斬られ、血が吹き出た。息つく暇なく、腰だめに構えた山刀を素早く金太へ向け突いてきた。その切っ先は迷いなく胸の真ん中を狙ってる。際どくも金太は身をかわしながら、突いてきた土蜘蛛の手の甲に掌打を放ち、受け流した。土蜘蛛は勢い余って、数歩先でたたらを踏む。

 金太は冷汗をかいた。今の突きはかなり危なかった。迅かったし、狙った場所も正しかった。胴をしてるとはいえ、あの迅さと角度だったらその切っ先は胴を貫いてたかもしれない。

(――つええ)

 これは明らかに時をかけて練られたものだ。甘く見ては絶対に駄目だ。

 金太は息を吐ききって、腰を低く落とし意識を沈めた。目と肩の力を抜き、腹の真ん中と手首から先にだけ力を込めた。相手を見るんじゃなく、森全体を見ようとした。

 もう一度、土蜘蛛は山刀の鋭い切っ先で突いてきた。今度は心臓じゃなく、まともに金太の目を狙ってきた。この軌道は明らかに読めた。ぎりぎりのところで躱す。躱しつつ、俎を横薙ぎに一閃させた。相手も身を躱す。俎の切っ先は、わずかに及ばない。土蜘蛛は下がった時の勢いを利用して足に力を溜めて踏ん張り、一気に金太の懐へ踏み込んだ。この動きも金太には読めてた。上半身を逸らしつつひねって相手の突きを捌き、そのまま流れるような動きでつま先の蹴りを叩きこむ。蹴りはみぞおちに刺さった。深くはなかったけれど、急所を責められて土蜘蛛の顔は苦悶にゆがんだ。

 と、金太はそのまま空いてる方の手を土蜘蛛の顔に掛け、強く押すと同時に素早く両足を払う。土蜘蛛の体は刹那宙を舞い、背中から地面へと叩きつけられた。が、土蜘蛛は即座に身をひねって、離れたところまで転がってゆき、その場で立ち上がる。

(くそ、効いてねえか!)

 金太の強い目を、土蜘蛛は真正面から受け止めた。



 その頃、貞光と駕籠女はいっさんに山道を走ってた。貞光も駕籠女も息を切らせてる。

 ついに二人は足を止めた。

「おらぬ……もう合流するはずだが」

「金太は……森を駆けるのに慣れています。……我々が思うより、ずっと奥まで進んだのでは?」駕籠女が肩で息をしながら貞光に問うた。

「かもしれん。綱殿を置いて一人で、とすれば金太が危ない。……くそ、急ぐぞっ!」

 二人は再び猛然と駆け始めた。駕籠女は、ごく小さな声で、祈るように呟いた。

「金太。無事でいろよ」



 土蜘蛛は、瞬きもせず金太を睨み続ける。金太も目を逸らさない。

(こいつは思ったよりもずっと強え。他のみんなはまだ来ねえ。……となりゃあ)

 金太は大きく息を吸い、次に息を吐ききって肺の中を空っぽにした。すると、心臓の動きが落ち着いた。

(俺一人でやるしかねえ)

 らん、と金太の目が光った。

 そして金太はやや目を細め、滝行のことを思い出した。と、一度は鋭くなった肌の感覚が次第に鈍くなっていく。

 水の流れる音が聞こえる。辺りは真っ暗、どうどうと流れる音だけがその世界の全部だ。

「――いやあごうっ‼」

 掛け声とともに土蜘蛛が金太に斬りこむ。金太は紙一重でそれを躱す。そのまま金太は躊躇なく土蜘蛛の首を狙い、俎を横薙ぎに振るった。鋭い一閃だったが土蜘蛛も紙一重でこれを躱した。

(俎が軽い……⁉ まるで体の一部だ)

 岩壁を何度も登ったことで、指先だけに力を込める勘を掴んでたんだ。そのせいで腕や肩に力を入れずとも、手だけで俎を操れてることに金太は驚いた。集中し、かつ意識を広く持つまでの気持ちの切り替えも、前よりずっと滑らかに迅く行えるようになってた。

(ちっくしょう。感謝しますよ貞光殿!)

 金太は俎を振る。土蜘蛛、辛くも受ける。土蜘蛛の一閃。金太は際どいところで見切り、避ける。金太と土蜘蛛、ぎりぎりの攻防が続いた。常人では到底目で追えないような迅さの攻防だ。激しくかち合った刃は火花を散らし、互いの刃が掠めるたびに互いの肌は切れ、血の玉が飛び散った。

 金太の頭は真っ白になっていった。もう土蜘蛛しか目に入らない。息をしてることすら忘れた。ただ胸にあるのは、どう斬るか。どうかいくぐるか。どう踏み込むか。どう跳ぶか。どうしゃがむか。どうかわすか。どうえぐるか。どうたおすか。もっと強く。もっと硬く。もっとやわらかく。もっと高く。もっと低く。もっと迅く。もっと迅く。

 と、やや下がった土蜘蛛の足が、拳ほどの大きさ石に取られた。ぐらり、と土蜘蛛の体が揺らぐ。

(――今だ!)

 とっさに金太は俎を地に捨てた。そして体を屈め土蜘蛛の懐に潜り込み、その両腕を取ると、そのまま一気に背負い投げた。土蜘蛛は頭と首すじ、背中を地面にしたたか打ち付けた。

「……ぐふっ……!」

 今度は落ち方が悪かったのか、土蜘蛛は息ができなくなって、目を白黒させながら咳き込んだ。土蜘蛛の動きが止まった。

(もらった)

 金太は素早く俎を拾い、土蜘蛛の眉間に叩きこもうと大きく振りかぶる。

 金太の動きが止まった。

 見てしまったんだ。

 その血を。血の色を。

 土蜘蛛を地面に倒そうと、その顔に手を掛けた時だろう。鼻の上を強く押したせいで、鼻血が出てた。その色は、熟した桑の実みたいな鮮やかな赤だった。

(……俺は……)

 ――とどめを刺そうとしてたのか? この鋼鉄の塊を、この男の顔に叩きこもうとしてたのか? この、俺と同じ赤い血が流れる、この男の顔に?

 ……男? おとこだと? 異形じゃなかったのか?

「……にんげん……」

 何を驚いている? 知っていたはずだ。彼らも俺と同じ人間だと。人間を殺すことが仕事なのだと。

 黒い肌の彼らがもし異形だったとしたなら、この俺は。白ちゃけた髪の、この俺は一体何者なんだ? 一体何様なんだ? 俺は一体どこから来て、一体、何を……。

「……金太ぁっ‼」

 突然、駕籠女の甲高い声が脳になだれ込んできた。はっとし、声の方を仰ぎ見る。

 奇妙な光景が目に入った。

 黒い土蜘蛛が、山刀を振りかざして自分に向かって飛びかかろうとしてたんだ。自分の足元で、今の今まで鼻血を出して倒れてた者とまったく同じ、黒い土蜘蛛が。

 刹那、足元を見る。やはり、そこにいる。鼻血を出しながら、苦しそうに喘いでる。喘ぎながら、そいつが言った。

「……兄さん……」

 飛びかかってきてる土蜘蛛を、金太がもう一度仰ぎ見た時。彼の右足首はすでに矢で貫かれてた。彼はもの凄まじい悲鳴を上げ、地面に転がる。その向こうで、駕籠女が口と右手を使って第二矢をつがえてた。食いしばった歯の隙間から、駕籠女が声を絞り出す。

「――二人いたんだ。そっくりな黒い土蜘蛛が、二人」

 ひょうっ、と風を切り裂く音がした。駕籠女が放った二本目の矢は、地面に転がってるもう一人の土蜘蛛の左足首を貫いた。ぎゃあっと一声吠え、さらに彼は七転八倒する。

「……兄さんだって?」

 そう呟いた刹那、金太は左わき腹に熱を感じた。見ると、下にいる土蜘蛛の山刀の先が自分の胴の隙間に吸い込まれてた。

「金太っ! ……莫迦ばかっ」駕籠女が悲痛な叫び声を上げた。

 深く刺さってたはずなのに、金太は不思議なくらい痛みを感じなかった。そのまま金太は後ろへ下がった。下がると同時に、山刀が腹から抜けた。金太はよろけ、大木に背中を預けた。

 傷に触れてみる。血まみれだ。その色は、桑の実に似た赤だった。

 突然、金太に倒されてた方の土蜘蛛が跳ねるみたいにして立ち上がった。腰だめに山刀を構え、金太に突進しようとした。金太がそれに気づくよりわずかに迅く、後ろの藪から躍り出てきた綱がすくい上げるような居合を土蜘蛛に放った。

 斬られたことにも気づかない、風より迅い綱の居合だ。わずかに踏み込みが浅く、一刀両断まではいかないものの、土蜘蛛は腹から胸、肩にかけてざっくりと断ち斬られた。鮮血が飛び散る。

「……キンノぉぉっ‼」

 両足首を矢で貫かれてる土蜘蛛が絶叫し、両手の拳で地面を何度も殴った。斬られた方ははや、びくり、びくりと痙攣してた。刀傷は深く肺に達してるようで、咳き込むごとに血を吐いた。

「キンノ、キンノ! 死ぬなっ」

「兄さん。……駄目だ、深すぎるよ。た、助からない」

「私をこんな国に一人置いていく気か⁉」

「もう楽にしてくれ。やっと、逝ける。……兄さん、母さん……×××××。……×××」

「ああ、キンノ。……××××××××××。×××××」

 もう何と言っているかわからなかった。綱をはじめ、それは誰も聞いたことのない言葉だったんだ。

 瞠目したまま、土蜘蛛はこと切れた。

 綱は亡骸に近寄り、そばにひざまずくと、手のひらを使ってそっとまぶたを閉じさせた。そして太刀を逆手に持ち替え、片手でしばし拝んだ。

「やめろ侍ども‼ キンノを弄ぶな!」土蜘蛛が綱を睨みつけ、怒鳴った。

「……それがこの者の名か」綱は立ち上がり、太刀を鋭く一振りして血糊を払った。「拙は摂津源氏・源頼光が臣下、渡辺綱と申す者。――うぬの名を聞こう」

「侍などに名乗る気はない。帝の犬め」

「そうか。名乗らぬなら土蜘蛛と呼ばせてもらおう。……吐け、土蜘蛛よ。何故貴様らは帝のお命を狙うのだ? 一体帝が貴様らに何をした?」

「帝を狙うのはシュタインだ。彼しか真意はわからん。彼に訊くんだな」

「それが首魁の名か。……わかった、その者に訊くとしよう」

「シュタインと斬り合う気か。やめておいた方がいいぞ犬ども。私などとは格が違う」

「犬であろうが猫であろうが、帝より貴様らを討つよう命じられた我らだ。覚悟せよ」

「……私らが一体何をしたというんだ? ただこの国に流されてきた、それだけなんだ」

 いつの間にか貞光も追いついてた。棍棒を構え、退路を塞ぎながら口を開く。

「笑止。旅人を殺したであろう」

「……莫迦な。でたらめだ‼ 私達が殺したのは侍だけだ!」

「飢えたる村人より麦や粟を巻き上げたと聞いておる」

「生きるために仕方がなかったのだ。だが侍以外は殺してない。本当だ!」

「口では何とでも言える。存在そのものが民草にとっては脅威なのだ。異形め」

 綱が鋭い目を金太に向けた。「傷はどうだ」

 塞がってはいないけれど、強く抑えてたおかげで血はもうあまり出ていなかった。

「……何とか」

「そうか。ではおまえの仕事だ。――彼奴を殺せ」

 金太は目をしばたたかせた。「は。私が……ですか?」

「当然だ。……おい駕籠女」

 綱は駕籠女に合図した。駕籠女は頷き、自分の小太刀を抜くと、金太に手渡した。手渡すとき、駕籠女は金太の手をぎゅっと握った。

「……金太。わかるな? 慈悲をかけるのならば一突きで殺せ」

 駕籠女は金太の手を握ったまま引き寄せ、小太刀の切っ先を自分の胸の真ん中にぴたりと当てた。「ここだ。ここを一息に突くんだ」

 そう言って駕籠女は頷くと、金太から離れた。駕籠女の目は哀しげだった。

 金太は土蜘蛛の前に立ち、俎を鞘に戻すと、小太刀を構えて土蜘蛛を見下ろした。自ずと息が荒くなった。土蜘蛛も両足が痛むらしく、ぜえぜえと苦しそうに喘ぐ。「――私を殺すのか」

「……ああ。そうだ」

「なぜだ」

「侍だからだ」

「おまえにできるのか」

「ああ。できるさ」

「そうか。だったら殺すがいい。未練はない。どうせもう祖国へだって帰れやしないんだ。シュタインは帰ると言っていたが、そんなこと無理に決まってる。……もうたくさんだ。弟も死んでしまったしな」

 ――おとうと。

 心臓がどきりと音を立てた。

 その胸に、観童丸の屈託のない笑顔が浮かんだ。

 次いで、金太は自分が悪童に囲まれて虐められてた時のことを思い出した。

 悪童の数も四人だった。悪童達は、抵抗できない金太を四人で囲んだんだ。

(あにい、駄目だ。……俺はどうやら侍には向いていないみたいだよ)

「……もう喋るな! やれ、金太‼」檄を飛ばしたのは駕籠女だった。金太は振り向いた。強く金太を見据えた駕籠女の両目には、うっすらと涙がたまってた。

「金太。……これは神命しんめいなんだ」

「……神命?」金太はゆるり、と駕籠女の方へ体を向けた。

「そうだ。帝とは神に同じ。これは神のめいなのだ」

「こんなことが神の願いだと言うんですか。駕籠女殿、あんたは今なんで泣いてるんだ」

「――泣いてるだと?」

 駕籠女は怪訝な顔をした。まばたきをして、頬に大粒の涙が零れ落ちたのを感じ、駕籠女は自分が泣いてることと、金太の姿を自分自身に重ねて見てることに初めて気づいた。

「駕籠女殿。今さら神の名を出したのは、心にためらいがあるからだ。あんたも迷ってるんだ、この任に」

「……なんだと……?」

 ぽろぽろと涙を零しながらも、駕籠女の顔はみるみる朱に染まっていった。

 つかつかと金太のそばに歩み寄ると、平手でその顔を思い切り打った。打たれた金太の口の中はざっくり切れ、唇の端から細く血が流れた。

「もういっぺん言ってみろ」

「なんべんだって言ってやるさ。あんたは迷ってる。俺と同じようにな」

 再び金太の頬が鳴った。金太は血の混じったつばを地面に吐き、駕籠女をぐっと睨みつけた。

「どうした、ちっとも効かねえぞ? あの時腹にもらった一発の方がよっぽど痛かったぜ」

 駕籠女はまた手を振り上げた。

「やめろ駕籠女。……おまえ達、何を昂ってる」綱がゆったりとした調子で二人を遮った。その目はどしりと落ち着いてた。「金太。主の命は絶対だ。言ったろう。主の刃になる。民の牙になる。それが我らだ」

 綱は金太に歩み寄ると太刀を向け、刃を金太ののどにゆっくり押し当てた。鋭い切っ先がほんのわずか金太の肌に刺さり、一筋の血が流れる。駕籠女が息を呑んだ。

「我らが守るべきは帝。正義ではない。――やれ、金太。やらぬなら俺がおまえを殺すぞ」

「……綱殿。だからこそ。だからこそ、この者は討てないのです」

「ほう。どういうことだ」

「この者が、牙を持たぬ民だからです」

 綱は眉をひそめた。「牙を持たぬ民だと?」

「綱殿もお判りのはずでしょう? この者達は人間だ。民だ。それがこの国へ流れ来たことで、牙を持たねば生きてゆけなかった、それだけだ。いかな主の命とは言え、牙を持たぬ民を殺すべきなのでしょうか、綱殿」

莫迦奴ばかめ。それはあまねく山賊も同じことだ。様々な事情から、武器を持って徒党を組まざるを得なくなった者達を山賊と呼ぶのだ。その山賊を狩ることが主から賜った命ぞ」

 金太は綱の前にひざまずき、目を伏せた。「綱殿。綱殿は仰いました。我々は主の刃である以前に、民の牙でなくてはならん、と。ならば、せめて放逐を。この両足ではもはや帝の命を狙うどころか、山賊働きすらできないはず。牙をもがれたこの者が、今や民の一人となったのならば――じゃあこの私と、一体何が違うというのでしょうか? 牙を持たぬ民のため戦う私が、この者に施せる唯一の慈悲とは、命を奪うことだけなのですか……?」

「金太、長話は聞き飽きた。――綱殿。若造に止めを刺させるは尚早しょうそう、ということでしょう」貞光が棍棒を上段に構え、土蜘蛛の前に立ちはだかった。「いざ。神妙に」

「ふっ。……それは違うよ、でかいお侍さん。あんたは間に合ってる」土蜘蛛は足をがくがく震わせながら、口元に凄みのあるわらいを浮かべて立ち上がった。「この役は、やっぱり彼にやってもらわなきゃな」

 土蜘蛛は金太に近寄り、その胴に手を掛けると、上に引っ張って立ち上がらせた。土蜘蛛の目は昏く重く底光りしてた。

「お侍さん。あんた……名前は?」

「……坂田金太郎だ」

「そうか。……ふふ、偶然だな。弟の名と似ている。私の名はクムという。弟はキンノだ。忘れるな。……いや、きっと一生忘れられない名になるだろう。忘れたくてもな」

 クムはそう言うと、体の向きを変えた。その先には、駕籠女の姿があった。

「――――!」駕籠女はとっさに弓を捨て、腰に手をやった。でも、そこにあるはずの小太刀は金太の手に握られてる。「――しまっ……」

 クムは山刀を振りかぶり、最期の力を振り絞って駕籠女に斬り掛かった。

 駕籠女は思わず右腕で頭を覆い、片目を瞑った。

 やや霞んだ駕籠女の視界を遮ったのは、金太の広い背中だった。

 クムが振り下ろした山刀は、駕籠女の盾となり立ちはだかった金太の肩に浅くめり込んでる。

 金太は固く歯を食いしばった。が、苦しげに呻いたのはクムの方だった。

「……う……う……ああっ……ああ」

 金太の手に握られた小太刀は、クムの胸の真ん中に深く突き刺さってた。

 血が噴き出た。驚くほど熱いその血は、金太の顔といわず胴といわず真っ赤に染め上げていった。その赤は、やっぱり似てた。金太は環雷を思い出した。環雷は熟した桑の実が大好きだったんだ。

 ぐぶ、とくぐもった音を立ててクムが口から血を吹き零した。クムが金太の、小太刀を握ってる手を掴む。その指に力が入り、クムの獣じみた爪が金太の手に深く食い込んだ。そこからも血があふれ、降りかかったクムの血と混ざりあって互いの体を伝い落ち、地面を赤く染め上げた。地面に落ちた血の染みは、もう金太とクムどっちのものなのかわからなかった。

 金太の体はわなないた。

「もっとだ‼ もっと深く刺せえっ‼」綱が怒鳴った。

「……おお……おおおおお! おおおおおおおおっ‼」

 唸り声とともに、金太は小太刀をさらに押し込んだ。体ごとクムにぶつかり、腰を入れてクムの体を貫いた。小太刀の切っ先がクムの背中から飛び出した。そのまま金太は力任せに柄を持ち上げて斬り進み、ついにクムの心臓を断ち割った。

 クムが体をのけぞらせた。二度大きく痙攣して、そのまま動かなくなった。体からは力が抜け、ぐったりとその身を金太に任せた。

 貞光が小さく鼻を鳴らして踵を返した。綱が見事、と呟いた。

 駕籠女は頬に涙の跡を残したまま、呆然と金太の背中を見てた。

 金太は、まだあたたかいクムの体を強く抱きしめた。そして顔を背けると、足元に反吐へどをぶちまけた。



 依然、森の中は静まり返ってた。

「――駕籠女。わしらは先に山を降りる」

「……は。貞光殿」

 綱が一つ咳払いをした。「あとは任せたぞ、駕籠女。金太そいつを連れて降りてこい」

「わかりました。綱殿」

 綱と貞光はちらりと金太を一瞥し、さっさとその場を離れてった。

 駕籠女は着物の裾で顔を拭い、涙の跡を消した。そして金太を見た。

 金太はまだ呆けた様子で、クムの亡骸を見降ろしてた。口の周りは反吐まみれ、全身血まみれ、傷だらけで嫌な臭いを放ってた。

 駕籠女は金太に近寄り、懐から布を出して金太の顔をそっと拭った。

「血ぐらい自分で拭け。……ひどい顔だぞ」

「……駕籠女殿」

「ありがとう。……命を救われた」

「…………」

「わたしの小太刀を、返してくれるか」

「……小太刀? ……ああ、これ……」

 金太は呆然としたままで、小太刀を握った右手を駕籠女に差し出した。が、右手は強く握られたままで開かない。

「……あ、あれ? 変だな、手が――」

 手放そうとしても、金太の手は強張って言うことを聞かなかった。放そうと力を入れれば入れるほど、さかしまに小太刀を強く握りしめてしまう。金太は焦った。

「く、くそっ。こいつ……なんで離れねえんだ⁉ くそっ!」

 やがて小太刀からばきり、って鈍い音が聞こえた。とうとう金太は小太刀の柄を握り潰してしまったんだ。

「…………」

 駕籠女は黙ったまま、まだ小太刀を強く握ったままの金太の指を、右手一本で何とか解きほぐそうとした。でも、小太刀は一向に金太の手から離れない。やがて金太の手は小刻みに震えだした。

「……申し訳ありません、駕籠女ど――」

 金太が詫びようとした刹那。駕籠女は金太の頭を掴み、自分の胸にぎゅっと押し付けた。駕籠女はそのまま金太の頭を強く抱きしめた。

「……駕籠女殿……?」

「……だいじょうぶだ、金太」

「…………」

 駕籠女の体から放たれる甘やかな薫りが金太の鼻をふわり、とくすぐった。

 と、金太の手からゆっくりと力が抜け、小太刀は土の上に落ちた。強く握り続けてた金太の掌には、小太刀の柄に使われてた木の欠片が棘となっていくつも突き刺さってた。

「……もうやめるか……?」

 駕籠女は蚊の鳴くような声で、金太の耳元で囁いた。金太は思わずぎゅっと目を閉じた。

「いまやめても、誰もおまえを責めないよ」

「…………」

 なお頭を抱きしめようとする駕籠女の手をそっと掴み、金太はゆっくり解きほどいた。

 駕籠女はばきばきばりばりばり、という奇妙な音を聞いた。ややあって、それは金太が歯を強く食いしばる音だってことに気づいた。

「……駕籠女殿。残っています」

「え?」

「まだ。……私には、やることが」

 金太は壊れた小太刀を拾い上げ、やや躊躇ためらったあと、おずおずと駕籠女に手渡した。そして俎を抜いた。そのままのろのろとした動きでクムの死体のそばに行くと、その右手首の関節の真上に俎の刃を乗せ、体の重みを掛けて手首を切り落とした。金太は駕籠女が見守る中、キンノにも同じことをした。

しるしを。……持ち帰る必要があります」

「……金太……」

「駕籠女殿がいつかおっしゃった通りだ。……どうやらこれは本当に、私の道を切り拓くために在ったようですね」

 金太は俎をしばし感慨深げに眺め、ややあって鞘にしまった。そしてまっすぐ駕籠女を見つめた。その目は疲れに落ちくぼんでたけど、瞳は澄みきってた。駕籠女も、正面から金太の目に応えた。

「……いいんだな?」

「無論です。……私は侍になるんだ。そのためにここまで来た」



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