クムとキンノ

 今夜は静かだ。先頃の騒々しさが嘘のようだ。

 クムはそう思いながら、生い茂る木々の隙間から空を見上げました。濃いだいだい色の満月が浮かんでいます。満月から投げ落とされた光を受け、クムの黒い肌にはまるで金属のそれのようなくっきりした光沢が生まれていました。

 ――今夜に間違いないだろう。

 クムは一人合点して、狩人から奪った剣鉈けんなたを腰帯に差しました。剣鉈だけではなく、腰帯も服も狩人を殺して奪ったものでした。

 身支度を整えていると、黒い影がもう一体、クムに素早く走り寄りました。

「……兄さん」

「キンノか。どうだった?」

「やっぱり今夜だよ」

ひつぎは?」

「出てた」

 よし、と小さく呟くと、クムはキンノと呼んだ男にも支度を命じました。

 二人はそれぞれ、頭のついたままの猪の毛皮を纏い、頭の部分を頭巾のようにすっぽりと被りました。そして辰砂しんしゃ藍銅鉱らんどうこうでできた毒々しい赤と青の塗料を顔に塗りつけました。

 二人は森から出ないように、木々の陰に身を隠しながら村外れに向かいました。村外れには注連縄しめなわが張り回された巨大な杉が二本立っており、その杉の間をまっすぐに森の方へ進むと、茅葺き屋根の古びた堂が建っているのです。村人から鬼哭ノ堂きこくのどうと呼ばれ、おそれられている堂でした。

 いつからか、その堂の奥の森には鬼が棲み棲みつくようになった、と村では噂されていました。低く太い、人間のものとは思えない声と、聞いたことのない怪しい言葉を交わす、背の高い二体の黒鬼。農夫の一人は暗闇でその姿を見て、あまりの形相の恐ろしさに腰を抜かし、四つん這いになって家に駆けこんだあと二日二晩寝込んでしまった、と。

 ただでさえ地方豪族の圧政に苦しみ、暮らしもままならない辛い日々を過ごす農民は、どうかせめて働き手をあやめるのだけは勘弁してほしい、という切ない願いを込め、鬼哭ノ堂に貢ぎ物を捧げていました。

 堂の裏手の森に身を隠し、目だけをぎょろつかせて、クムは外の様子を伺いました。かがり火が一つ焚かれています。侘しい太鼓の音と、男達の祈りのような声が聞こえました。なんと陰鬱な声だ、とクムは思いました。

「……兄さん」

 キンノの声に振り返り、クムは唇に人差し指を当て静かにするよう伝えました。拍子も合わない粗末な太鼓の音と、抑揚に欠ける祈りが止むと、ぼろぼろの服を着た農民の男達は全員で深々と頭を下げ、逃げるようにその場を去りました。

 すぐさま森を出ようとするキンノを、クムが制します。

「……まだだ」

「もういいだろ? 村人は行っちまったよ」

「まだ遠くからこっちを見ることができる。見ろ、あのかがり火はもう間もなく消える。真っ暗になってから出るんだ」

「腹が減ってんだよなぁ」

「私だって減ってるさ。キンノ、少し落ち着くんだ」

 やがてゆるゆると火は小さくなり、ついに消えました。途端に満月が強く辺りを照らし始めました。

「兄さん、かがり火が消えた」

「村の方はどうだ」

「……誰もいないように見える。皆家に引っ込んだんだろ」

「よし。行こう」

 二人は用心しながら森から出ると、堂の正面に回りました。そこには大きな桶が一つ置いてあり、その前にはむしろが広げられて、様々な食物が綺麗に並べられていました。二人はむしろの前にひざまずき、食べ物をあらためました。

「どうだ? キンノ」

「今日はいいぞ。麦と粟だ。おっ、すげえ! 山鳥の肉と、干した鮎もある」

「こっちは山芋と慈姑くわいわらびだな。少しだが、塩もある。かなり無理をさせたみたいだな」

「かまうもんか。こっちだって生きてくためだよ」

 キンノは、はや鮎にかぶりついていました。そんなキンノを見てため息を一つつき、クムはさて、と言って立ち上がると、桶の蓋に手をかけました。

 その時。後ろから声がかけられたのです。

「待て」



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