三日月と二人の男
「上弦の月とは、ようゆうたものですね。あのような美しい弓があるならば是非手に入れたいものだ」
美酒に陶然と酔いながら、
「手が届かぬからこその美しさよ、保昌殿」保昌の軽口を
「さもありなん。さすがは頼光殿」
「少し待たれよ。もう終わる」
「この美味い酒が無くなってしまいますぞ?」
「かまわん。いくらでも用意させる」
頼光は筆を置き、ため息を一つつきました。そして大きく伸びをし、立ち上がると蝋燭の火を吹き消し、寝殿を出ると、縁側で胡坐をかいている保昌の隣に行って座り込みました。
「お勤めは終わりましたな」
保昌は酒椀を頼光に渡すと、徳利に入った酒をなみなみと注ぎました。頼光は首を左右に捻ってごきり、ごきりと音を鳴らすと、酒椀を一気に空けました。
「お見事。――お疲れの御様子ですな、頼光殿」
「このところ献上書ばかり作っている。疲れもするわ」
「官職の辛きところですか。しかし頼光殿に太刀を振わさぬとは、上様もお人が悪い。武人の使い方を見誤っておられる」
頼光がふふっ、と笑いました。「侍仕事など、無ければ無いに越したことはない。……しかしこれからもっと太刀を振るう機会は増すだろう。否応なしにな」
保昌は微笑を浮かべながら、頼光の空いた酒椀にまた酒を注ぎました。頼光も自分の徳利を持ち、保昌に酒を注ぎ返しました。保昌は注がれた酒椀に両手を添えて掲げ、一気に空けると、体を頼光に向けて
「頼光殿。先の山賊退治、お骨折り頂きまことにありがとうございました。鮮やかなお手並み、お見事と申すよりほかありませぬ」
「私ではない。あれは、家臣達が良い働きをしてくれたのだ。それに私と家臣が力を添えずとも、七人程度の逆賊ならば坂民にも狩ることはできた」
「ご謙遜を。使い方を誤れば刃は切れ味を発揮しませぬ。……しかし、確かに良き噂を耳にしまする。
「そなたこそ。辛い働き、まことにご苦労であったな。いかな
「……すべては帝のためです」
「それにしても――」頼光は手酌で飲もうとし、徳利に酒がもう入っていないことに気づいて家人に声を掛けました。「――それにしてもだ。綱が左腕を斬り落とした、あの異人の山賊。あの異人が坂民から出奔する手引きも、彼奴を食い詰めさせ、追い詰めた果てに山賊に身を落とさせる手筈もそなたによるものであろう」
「茨、という名です」
「いばら?」
「異人の発する音はよくわかりませぬ。かつて名を問うた折、彼奴は確かそう答えました」
家人が酒の代わりを持ってきたので、頼光は一旦話を切りました。徳利を膳に置き、一礼した家人が廊下を行き過ぎて姿が見えなくなってから、保昌はゆっくりと口を開きました。
「……茨は
「確かに、そうすることで坂民を一掃するための大義名分を創り上げることが出来る。民草も納得せざるを得ぬ、反感を抱かせぬ大義名分をな。自分達のねぐらから凶悪な山賊が生まれたとあってはな……」
しかし、と頼光は呟きました。顔を少し上げた保昌の目に月光がまともに当たり、異様な輝きを放ちました。
「卑劣……と、申されますか?」
頼光は手を振りました。「そうは言っておらぬ。感心しておるのだ。保昌殿、帝のためにそこまで
頼光は静かに徳利を勧めました。保昌は無言で頷き、酒椀を受けます。
酒でほんの少しだけ唇を濡らすと、保昌は深く息を洩らしました。そして握った拳で、己が膝を軽く打ちました。
「うむ……私自身にもわからぬ時はあります。何故ここまでやらねばならぬのか……。しかし頼光殿。帝は苦しんでおられます。私達が思っているよりも遥かに。私は帝の苦しみを取り除くことのできる刃となりたいのです」
「それは侍ならば誰もが思うこと。そなた一人が抱えるものでもあるまいに」
「……坂民だけではありませぬ。この国は古代より、異なる習いを持つ夷賊がいくつも混在しております。帝は、帝としてこの国に在る以上、これらを制せざるを得ないのです。坂民の掃討など不本意であったに違いありません。――帝は私に、どんな民族であろうとこの国の礎の一つであるとおっしゃいました。望まずとも、彼奴らがこの国に根を下ろさざるを得ないわけがそれぞれにあることを、帝は誰よりもご存じなのです。……そんな帝が、御身をやつされながら民を一つにまとめようと懸命になっておられる。刃の一つに過ぎぬこの私などが忠義を尽くすことに、一体何の迷いがありましょうや」
頼光は手のひらを向け、保昌を制しました。「保昌殿、落ち着かれよ。私はそなたのことも帝のことも非難しているわけではない。私だって侍の一人だ。故にそなたの
保昌は頼光の言葉を受け、頭を垂れました。「……左様でした。言葉が過ぎました。どうかご容赦下さい」
「いや。これは酒が悪い。口当たりが良いせいで、少し飲み過ぎたかもしれん」
「いえ。……これは実にうまい酒です」
頼光はふっと笑いました。保昌も俯いたままで微笑みました。
「まったくお恥ずかしい。月の美しさを愛でるなど、私には十年早いようです。……確かに酔うているやもしれぬ」
ややあって、頼光が一つ咳払いをしました。「……坂民より生まれし
「左様で。生き残ったのが茨一人であれば、もはや脅威でもありませぬ。まして、彼奴は隻腕。何ほどのこともできぬでしょう」
「古巣である坂民も滅んでいることであるし、か」
「幾人かは強襲の際、散り散りに逃げた模様です。しかし首魁らしき者の首は、私がこの手で
「そやつらがまた寄り集まって徒党を組むことはあると思われるか?」
「いえ、そもそも坂民に
「ではもう
保昌は頷きました。「茨がまた、側近となりうる輩でも見つけぬ限りは。……すべては帝のため。いや、この国のこれからのためです」
「民草を思えばこその謀事であっても、民草には正しく理解されぬものだな」
「民とはそういったもの。帝にひれ伏し、その法にまつろえば命は守られる、といった程しか理解しておらぬでしょう」
「それが幸せなのかもしれん。さすれば、我らもそうそう手を汚すことはない」
「頼光殿。手を汚しているのは帝です。――この両手と太刀が、帝の物である限り」
そうであったな、と言って頼光は微笑みました。
それっきり二人は黙り、互いに酒椀を掲げて一気に飲み干すと、そろって月を見上げました。月の位置は、保昌がここへ座った時からもう随分変わってました。
頼光はふと思いました。
あの上弦の月は今、茨の生まれた遠い国で見たとしても上弦の形をしているのだろうか。今この時、茨はどんな気持ちで月を見上げているのか。もしあの月を見て美しいという気持ちが沸き起こるのなら、どうして私達は互いに斬り合わねばならなかったのだろうか。
(心あるならば教えてくれ。どうか月よ。私達の夜は、一体どこにあるのだろう)
月は何も語りません。
空の彼方から、金色の光を頼光と保昌にただ投げかけるだけでした。
時を同じくして。
都には、また別の異なる者の噂が立っていました。
「山に棲まう二つの物の怪あり。名は、
総身が炭のごとく黒い。頭が小さく細く尖っている。暗闇で双眸が白く光る。
堅く縮れた短い毛を持ち、異様に足が迅く、風のごとく森を駆ける。
仔を産ませる為、
攫わせない為には、人身御供としてこちらからうら若き女を差し出す。
そうせねば、箆棒は山より来りて里を荒らす。闇雲に女を攫う。」
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