天狗

 その谷には天狗が棲む、なんて噂が立ったみたいだ。

 薄赤い肌と高い鼻、金色の髪を持つ異形が、谷間の岩と岩の間を素早く跳んで渡る姿を、近くに住む村人が何人も見かけてちょっとした騒ぎになった。

 そいつはぼろぼろの服を身に着けて、体中あちこちに傷があって、手にはどうしてか大きなまさかりを持ってたらしい。



 金太はまず、その図体に驚いた。

 自分より頭一つ以上も大きい男を、金太は今までに見たことがなかったんだ。でも身の丈だけじゃない。黒い僧衣みたいな服から突き出てる首も腕も足も、金太のそれとは比べるべくもないほど太い。胸回りも腰回りも大きく、分厚かった。顔含め、体全体が岩みたいにごつい。手や指、足の関節なども、まるで古木の瘤みたいだった。落ち着いた雰囲気ではあったものの、全身の筋に力がみなぎってる。その右手には鍛鉄の棍棒こんぼうが握られてた。それは手首ほどの太さがあり、男の身の丈ほどの長さがある。どれくらいの重さがあるか想像もできない。間違いなくまないたより重いだろう。男の得物えものと見て間違いがなかった。

 金太は直感でわかった。今の自分はこの男には絶対に勝てないんだな、ってね。

碓井貞光うすいさだみつと申す」

 その声も太く、低かった。

「……こら金太。おまえに戦い方を教えてくれる人だぞ。きちんと挨拶しないか」

 駕籠女が厳しい目を金太に向けた。その声に我に返った金太は、貞光の偉容をやっと受け入れ、目を伏せてこうべを垂れた。

「……坂田金太郎さかたのきんたろうと……申します」

「そうか。では金太。時を食うわけにはいかぬ。手早くやる。……駕籠女。勅命ちょくめいのことは話しているな?」

 駕籠女は頷いた。綱が口を挟む。「金太。俺達四人はこれから何日かかけて西へ西へと向かう。その先に、我が帝の怨敵がいるのだ」

「土蜘蛛ですか」

「そうだ。この戦いに頼光様は参られない。我ら四人だけで成し遂げる仕事だ。我ら四人が、頼光様にとって確かな切れ味を持った刃であるかどうかが試される戦いだ。……特に金太。おまえの力が試されるんだよ」

 金太は力のこもった目でじっと綱の顔を見ていた。綱は苦笑する。「……あのな金太」

「……は」

「わかったら返事をしろよ。さっきも駕籠女に言われたろ。是非を口にせず、黙りこむ癖はやめろ。もう家族と暮らしてるわけじゃないんだ。おまえは侍になるんだろ? そうであることをもっと自覚するんだ」

 金太は目を伏せて恐縮した。「……申し訳ありません」

「駕籠女、自覚するのはおまえもだ。俺にこんなことをいつまでも言わせてるんじゃあないぞ」

「は、綱殿。自覚が不足しておりました。以後、十分に気を付けて挑みます」

 頭をしっかりと下げる駕籠女を見て金太は戸惑った。金太は、綱と駕籠女の関係性はもっとやわらかいものだと勝手に思いこんでたんだ。

「――それはそれとして」貞光は金太の後ろを指差す。四人は谷間の河原にいた。四人の他は誰もいない。そこは大きな岩がごろごろしてて、その岩々の間を勢いよく川が流れてる。上流域なんだろう。

 貞光が指差した先には、大人の背丈八人分ほども高さがありそうな滝がどうどうと落ちてて、その両脇には同じ高さの、ほぼ垂直の崖があった。「さしあたり、あれだ」

「……あの、貞光殿」

「なんだ」

「あれ、と言うと」

「崖だ。登れるようになれ」

「……如何いかにしてですか?」

「手と足でだ。とかげのように這え。上まで登るのだ」

 金太は呆気にとられた。何故って、誰だってそんなことで強くなれるとは思わないだろう。金太はすぐに組み合いのような鍛錬をすると思ってたんだ。

「……貞光殿も、やはりそんな鍛錬をされたのですか」

「しておらん。わしは都で、師について学んだからな」

「では……」

「――もう家へ帰るか?」貞光が冷淡に言った。「もう一度言う。わしらは時を食っている場合ではない。一刻も早く山賊の根城に向かわねばならぬ。しかしおまえの心身が整っておらずということで、綱殿が頼光様に頭を下げられた。この河原で五日過ごしてよいよう取り計られたのだ。つまりこの五日で身に着けてもらう。わしが五十日かけて覚えたことを」

「……はい……」

「加えて。おまえは鍛錬と言ったが、これから始めるのはその類にあらず」

「鍛錬ではないのなら一体何なのですか?」

「生死をした追い込みなり」貞光はこともなげに死という言葉を使った。「お喋りは終いだ。登るか。登らぬか」

「……登ります」

 金太は覚悟を決め、ふんどし以外の着てるものを全部その場に脱ぎ捨てて崖に向かった。

「……ほう」綱がその広い背中を見て頷いた。「もうすっかり出来ておるじゃないか。とても十五の体とは思えん」

「綱殿。だからこそ鍛錬ではないのです」

 なるほどなあ、と綱が言って大きな岩の上で胡坐をかいた。「俺は見物するとしよう。駕籠女、酒の肴でも釣ってくれぬか」



 崖の半分も行かないうちから金太の指の皮は擦り剝け、血が流れて滴った。実際に登ってみると、岩は金太が思ってるよりずっと鋭く角が立っていたし、また思ってるよりずっと滑りやすくて登りにくかった。何度も右手を滑らせては左手だけで体の目方を支え、また左手を滑らせては右手だけで体を持ち上げた。辛うじて指を潜り込ませる隙間は見つかるものの、つま先を置く場所は一向に見つからなかった。

「……なんだぁこりゃ。下で見てたのと……全然違うじゃねえか」

 力だけは自信があった。相撲だって負けたことはない。しかしまさかりを振るって木を切り倒す時とは、握る力の使い方がまるで違った。指の先だけに持てる力のすべてを込めたことなどなかったんだ。

 やっと半分いくかいかないかの所で、はや限界が来た。指先の感覚はまったく無くなった。

 金太は必死で首だけ動かし、崖の下、滝つぼの近くで膝まで水に浸かってる貞光を、助けを求めるみたいに見下ろした。でも、貞光の目からはどんな気持ちも汲み取れなかった。

「一度落ちてみよ」貞光がぶっきらぼうに言った。

「……え?」

「下には、わずかだが水がある。怪我で済むかもしれん。だが打ち所によっては、その高さでも死ぬ。――落ちてみよ。はらが決まる」

 貞光が言い終える前に金太は指を滑らせ、真っ逆さまに落ちて地面に激突した。頭を打つことは免れたものの、背中と腰を岩でしたたか打った。あまりの衝撃に金太の肺は引きつり、息を吸えなくなった。吐くこともできない。声も出せない。

「……は……あ……あっ」

「肺だな」

 貞光は一言つぶやいて近づくと、金太の腕を持ってぐい、と乱暴に引き起こした。そしてその岩みたいな拳を力任せに、金太の腹にめり込ませた。

「ごぶ」

 妙な声とともに、金太がその場に反吐へどをぶちまけた。……あっ、こら。下流で釣りしてるのに! という綱の声が金太にはえらく遠くに聞こえた。涙がたっぷり出て、視界が霞んだ。

「……どうだ。息ができるだろう」

「…………」

 金太は貞光を睨みながら思った。俺が強くなったら真っ先にこいつを殺してやろうと。でもそれは随分先のことであろうし、今突っかかって行ってもどうせ自分が痛い思いをするだけだと思い、ぐっとこらえた。ただ荒く息をつくのが精一杯だった。

「……で……き……ます」

「もう一度だ。登れ」

「……登り……ます……」

 四度目に崖から落ちた時、金太は背中と一緒に頭を打って気を失った。



 目が覚めると、辺りは薄暗くなってた。

 金太は平たい岩の上に寝かされてた。起き上がろうとして、背中と腰の痛みに思わず絶叫しそうになった。こわごわ触れてみると、ぶよぶよと腫れてて熱を持ってる。

「やっと起きたか。さあ、飯を食え」

 声の主は綱だった。三人で焚火を囲んでる。竹の串に刺した岩魚が火に炙られてた。

「釣り名人駕籠女が釣った岩魚だ。ありがたく頂けよ」

 そう言って綱も岩魚にかぶりついた。駕籠女も貞光も、黙々と串を口に運んでる。脂の焼ける香ばしい煙が金太の所にも漂い、腹の虫が騒いだ。鉄みたいに重くなった体に鞭打って、金太は焚火のそばに近寄った。

「さあ遠慮するな、食え食え。といっても駕籠女が一人で釣った魚だがな」

 綱の声を合図に、駕籠女が特に大きな岩魚の刺さった串を選んで地面から抜き取ると、横に座った金太にぶっきらぼうに差し出した。金太はおずおずと手に取る。

「……ありがとう。……ございます」

「ん」

 駕籠女は頷くと、また自分の串に取り掛かった。

 金太も遠慮なく岩魚に噛みついた。噛んだ瞬間、熱い脂が口の中に流れてきた。微かに塩味がする。ごくわずかだけれど、貴重な塩が振られていたんだ。体が求めてる塩味と、はらわたのほのかな苦みが相まって、それは思わず唸ってしまうくらいの美味さだった。金太は無我夢中で魚を食べた。

「……金太」貞光が声を掛けた。

「……は。貞光殿」

 金太があわてて食べるのをやめ、貞光の方へ体を向けた。貞光は手振りで、食べながら聞いていいと合図する。「体の痛みはどうだ」

「は。……腫れてるようで。落ちた時に岩で打った背中がやたらと熱いです」

「そうか熱いか。都合良し。その串を食ったら始める。続きだ」

 そう言って貞光は立ち上がり、さっさと歩き出した。金太はうんざりしながらも急いで岩魚を腹に詰め込むと、貞光の後を追った。

「滝壺に入れ。滝に打たれよ」

 言われるまま、金太は滝壺に足を踏み入れる。一度焚火であぶられた身に、川の水は冷たかった。滝の真下辺りまで来ると、深さは金太の腰の少し上ほどまであった。

「背中を、落ちてくる水に当てよ。首を少し前に傾けて。手を前に組め。……そう、そんな具合だ」

 金太は言われた通りにした。

「目を閉じよ。得物はまさかりだったな。俎といったか。あれを砥石で砥ぐ様を想え」

「砥ぐ様を……?」

「そうだ。または、あのまさかりを縦横、斜めに振るっておる様を想え。敵を斬っておる様をな。それだけを考えよ」

 金太は目を閉じた。すると急に、耳と肌の感覚が鋭くなった。落ちてくる水は重く激しかったけれど、腫れた体から無駄な熱が奪われてくのが感ぜられた。

 体はだんだんと冷たくなり、痺れていく。すると一度は鋭くなった肌の感覚も次第に鈍くなっていった。

 水が流れる音しか聞こえない。辺りは真っ暗で、どうどうと流れる音だけがその世界の全部だった。

 そこで金太は俎を振る。暗闇の中で。環雷と戦った時みたいに。どう斬るか。どうかいくぐるか。どう踏み込むか。どう跳ぶか。どうしゃがむか。どうかわすか。どうえぐるか。どうたおすか。もっと強く。もっと硬く。もっとやわらかく。もっと高く。もっと低く。もっと迅く。もっと迅く。

 金太はゆっくりと無念無想の領域に落ちていった。



 次の日。

 また散々崖を登らされては落ちを繰り返した後、金太は俎を持つよう貞光に言われた。

「今度は滝の前に立て」

 金太は言われたようにした。

「もっと前だ。ぎりぎりの位置に立て」

 滝のすぐそばに立つと、飛沫で目が開けられなかった。

「目を閉じるな。飛沫を見ろ。見なければ意味がない」

「飛沫を……見る?」

「目に飛んでくる飛沫を畏れるな。滝に向かって俎を振るえ。昨日、暗闇の中で振るったように。上から下へ。下から上へ。左右へ。さあ振れ」

 金太は頷き、目を開けたままで俎を振った。さっそく貞光の檄が飛ぶ。

「遊んでいるのか⁉ 貴様あの熊と斬り合った時、そんな迅さでそいつを振ったのか⁉ 全力で振れ。一刀一刀、持てる力のすべてを注いで振れっ‼」

 金太は歯を食いしばった。おおおおっ、と唸ると力いっぱい上から下へ、下から上へと俎を振った。

「その意気だ。振り続けよ!」

 刹那、俎の上で弾けた水が勢いよく金太の顔にかかった。思わず顔をゆがめる。すぐさま貞光の怒鳴り声が飛んだ。

「目を閉じるなあっ‼」

(こっちだって閉じたくて閉じてんじゃねえよっ‼)

 金太は悔しかった。目蓋が心底邪魔に感じた。いっそ引きちぎってしまおうかと思った。完全に意地になって、無理やり目を開き続けた。そして爪を柄に食い込ませて強く握り、力いっぱい俎を振った。

「いいと言うまで休まずにやり続けよ」

 金太は頷いた。そのあと一心不乱に俎を振って振って振り続け、貞光にもうよしと言われたのは夕方だった。空には一番星が瞬いてる。合図とともに金太は仰向けにぶっ倒れ、その姿勢のままでしばらく動けなかった。

 貞光殿、そろそろ夕飯にしましょうという駕籠女の声が聞こえた。



 その日、金太は一度も落ちることなく崖をてっぺんまで登り切った。

「よし」

 とだけ言うと、貞光は上から降りてくるよう金太に命じた。そしてしばらく滝に打たせた後、また水に向かって目を閉じないよう俎を何度も何度も振るわせた。それは金太の腕がもうまったく上がらなくなってしまうまで続けられた。

 それが終わると、貞光は金太をもう少し下流へ連れて行った。

「見よ」

 貞光が指さした先を見ると、川が流れゆく先の岩々に、所々赤い印(しるし)みたいなものがついてる。印のついた岩はおおよそ等しい間隔で、ずっと遠く下流まで続いてた。目を凝らして見ると、その赤の印は足の裏の形を模してるようだった。

「より踏みにくい位置に赤の印がある。岩と岩の間を跳べ。下流まで行け。ただしあの印以外の所を踏んではならん」

「は。……もし、あの赤以外の所に足を着いたら……」

「足を踏み外す。岩の上に転がり落ちる。痛い思いをするだけだ」

 金太はごくりとつばを呑んだ。岩どれもざらざらしてて尖ってる。確かに、これには崖から落ちるのとはまた違った怖さがある。

「では始めよ。赤の印が無くなるところまで行け。そこまで行ったら戻って来い。足を踏み外さなくなるまで、赤の印だけ踏んで跳べるまで何度でもやれ。俎をもったままで跳ぶのだ」

 金太は不承不承頷いた。

 跳んでみると、岩と岩との間はかなりの幅があった。相当に勢いと迅さが乗ってないと届かない。途中で迷っても駄目だ。しかし一瞬の気の迷いから、距離が足りずに金太は岩と岩の間に転がり落ちた。落ちた先には、大小様々な尖った岩がごろごろしてた。

「……うっ……う……ううう……」

 あまりの痛さに、金太はうめくことしかできなかった。汗びっしょりになって手元にあった岩をがんがんと拳で殴り、全身を貫く痛さを紛らわせた。そして自分がとっている、仰向けにされた蛙のような姿勢の滑稽さに呆れ、情けなさに笑いがこみ上げた。

(……なんて莫迦ばかばかしいことしてんだ、俺は……)

 ――もうこのまま帰っちまおうか? おかあとあにいのいる家に。そんな考えが金太の頭をよぎった。

 虫みたいな恰好で崖を這って、落ちて痛い思いをして。阿呆みたいに岩をぴょんぴょん跳んで、落ちて痛い思いをして。それで、一体なんで侍になれる? いや――山育ちの自分が侍になるなんてこと自体、どだい無理があったんだ。いまやめても、誰も俺のことを責めないだろう。……そうだ、あの三人から離れている今なら。このままこっそり川を下って、それで――。

 ……それで? それでどうなる? 今やめて、一体どうなるってんだよ? 帰るだって? 一体どこへ帰るってんだよ?

 金太は貞光の冷ややかな顔を思い浮かべた。次に綱の顔を思い、わたしの顔と観童丸の顔を思い、最後に駕籠女の怒ったような、それでいて少し悲しそうな顔を思った。そしてため息をつき、俎を拾い上げ、ゆるゆると岩の上に登って深く息を吸った後、足元の岩を蹴って大きく跳んだ。

 その後も金太は何度も岩から落ち、そのたびに打ち身や擦り傷ができて血が流れた。岩に擦れて、服はすぐにぼろぼろになっていった。でも金太は諦めずに、傷だらけになりながら何度も岩の上を跳んだ。

「くそっ、くそっ‼ なんだってんだこんなもん、こんなもんっ‼ 俺は侍になるんだっ‼ 絶対なるんだっ‼ こんなもんっ‼ こんなもんっ‼ こんなもんっ‼‼」

 金太は歯を食いしばって跳んだ。二十七回目の往復でも、落ちずには帰れなかった。背中に次いで、今度は足首の関節と足の裏が熱を持って腫れあがった。貞光殿、そろそろ夕飯にしましょうという駕籠女の声が聞こえ、今夜はきのこ汁だぞ金太、と綱の声が続いた。



 次の日も同じ鍛錬だった。

 崖を何度も登っては降り、滝に向かって目を閉じずに俎を何度も振り、滝に打たれ、岩の間をひたすら跳び続けた。

 その頃には金太はもう、どこかが痛いとか苦しいというような気持ちは無視することにしてたんだ。痛かろうが苦しかろうが、それがこの鍛錬をやめる理由にならないとしたらそんな気持ちは邪魔なだけだ。だったら無視してしまえ。他の誰かのことみたく感じてしまえ。そう考えたんだ。それからは、跳び方にも迷いがなくなった。

 もう一つ、滝に打たれてると気持ちが落ち着き、色々なことがうまくいくようにも感じてた。だから金太は、崖登りがいまいちうまくいかない時は一度滝に打たれ、また岩跳びがうまくいかないと感じたらまた戻って滝に打たれた。すると崖も蜥蜴みたいに登ることができ、滝に向かって俎を振ってる時は、飛沫の一粒一粒の動きも目で追えるくらいになった。

 前から金太は集中しなけりゃならない時に、決まってどうどうと音を立てて流れる川を想像するようにしてた。頭の中に描いてる川の幅を、ゆっくりどんどん狭めてゆくんだ。そうすると集中力が高まることを知ってた。自分なりに編み出し、取り組んでた方法がさほど間違ってなかったと知って、金太は嬉しくなった。



 へとへとになって貞光の所へ戻ると、今度はそのままで森の中へ連れてゆかれた。とっくの昔に、もうどうにでもしてくれと金太は開き直ってたから、何も言わず黙ったまま貞光について歩いた。

「腹は減ってるか」

「減っています」

「そうか。都合良し」貞光は足を止める。そこには古びた堂があった。「先の時代にいくつも建てられ、朽ちた堂だ。……金太、今日から丸一日、ここに一人でいよ」

「……は。一人で、ですか」

「怖いか」

 森の中で何度も野宿してた金太だ、こんなもの怖いわけがないと思った。よく見ると、その堂はぼろいようで少し修繕された跡もある。

「ここはわしが少し手直しした。中へ入ってみよ」

 金太と貞光は堂へ足を踏み入れた。中には何もない。ただの板床の広間だった。

「……ただここにいるだけですか?」

「ただいるだけだ。しかし出入り口は格子戸ではなく、板戸だ。戸を閉めたら、少しも外の光が入らないように造ってある。真っ暗だ」

 もうとっくに夜になってたけれど、確かに外と比べると堂の中は格段に暗い。星の光も月の光もまったく感じない。

「では閉めるぞ。一度閉めたら、次にわしが開けるまでそのままだ」

「わかりました」

 そうして板戸は閉じられた。



 堂の中は、本当に真っ暗だった。

 闇より深い闇だ。自分がいま目を閉じてるのか、開けてるのかもわからない。それほどの暗さだった。貞光の言った通り、光はまったく感じられなかったんだ。

 といって、最初は金太にも余裕があった。何しろ疲れてるんだ。そして丸一日ってことは、明日も鍛錬はない。これは気が楽だ。それでいいのかとも思ったが、まあ貞光が言ったことだ、信じるしかあるまいと決め込んで金太は床にごろりと寝そべった。

 しばらく目を閉じて、ぶり返してきた体の痛みのことを考えた。そして鍛錬のことを考えた。

 こんな鍛錬が一体何になるのか、金太にはまったく想像もつかなかった。だが、誰かについて鍛えられるなんて経験がなかった自分に、これ以上考えるべきことなど一つもあるまい、しゃくに障るが貞光を信じるしかないのだとすぐに納得した。

 そして大欠伸をすると、ずぶずぶと眠りの淵に引きずりこまれていった。



 どれくらい眠ったのか、金太にはわかりようもなかった。

 何故なら時の経過を告げるものが、その堂には一切ないからね。光が全然入ってこない。どういう仕掛けか、外の音もほとんど聞こえない。まるで水の中みたいだった。

 まるで見えない。ほとんど聞こえない。周りには、闇という名の虚無だけがある。金太が思ってたより、これはずっと過酷だった。

(……ただ暗い、音がしねえってだけなのに……)

 なぜか恐ろしい。奇妙だった。息が苦しくなる。時折、大声で叫びたくなる。

 そしてまた気分が落ち着く。静けさに慣れる。少し眠る。

 唐突に、全身を貫くような恐怖を覚えて飛び起きた。

 何かが部屋の隅にいる。金太はゆっくりと立ち上がった。

「……そこにいんのは誰だ?」

 金太はぞっとした。真っ暗な堂の壁に跳ね返った声は、まるで他人のものだった。

 今喋ったのは本当に俺なのか? そして部屋の隅にいる何かは、一体何だ?

 強い殺気があった。獣みたいな気配だった。今にも襲い掛かってきそうだ。

 ……そうだ、この感覚。覚えがある。環雷だ。環雷と戦ってる時、ぶっつけられてた殺気だ。……じゃあ、じゃあ目の前の闇の中にいるのは。環雷なのか? まさか生きていた?

 牙で噛み殺されるかもしれない。爪で引き裂かれるかもしれない。だが板戸を開けるわけにはいかない。……この鋭い殺気。何ものかはわからないけれど、暗闇で戦ったら間違いなく自分は殺されてしまうだろう。

 蝋燭の火が消えるみたいに、急に殺気と気配が失せた。

(……気のせいだったのか?)

 自分の怯えが見せた幻だったか。金太は臆病な己に腹が立った。でも安心したことも事実だ。金太はため息をつき、また座り込んだ。全身にべっとりと汗をかいてた。



 ふと気づいた。

 どこからか、水が一滴、また一滴と落ちる音が聞こえる。そして、この静けさの理由がわかった。外は雨が降ってるんだ。これは雨漏りの音だ。そういえば堂に入る前も、空気に湿った匂いが含まれてた。

(……どこだ)

 雨漏りはどこだ。水はどこに落ちている。気になる。音はごくわずかだ。金太は胡坐をかき、耳に気を集めた。

 ぽたっ。ぽたっ。

(……どこだ……)

 ぽたっ。ぽたっ。

(どこだ)

 ぽたっ。金太は滴を掴んだ。

(……ふふっ。やったぞ。見つけてやった)

 金太は滴が落ちてた所に頭を持っていって仰向けに寝そべり、口を開けて滴を飲んだ。堂に入ってから水も飲んでなかったんだ。

 一定の間隔で落ちてくる水を口で受けながら、そのまま金太はまたうとうとと寝入った。



 これは本当に丸一日なのか?

 時の感覚はとうに失せてた。もう何日もずっとここにいるような気がしてた。……いや。ほんの少し前、ここに入ったような気さえする。どっちだったか? わからない。麻痺してた。腹は減ってない。のどがやたらと渇く。

 ただ、見ること以外の感覚は鋭く尖ってる。何となくではあったものの、真っ暗な中でも自分がいま堂の中央で胡坐をかいてることが金太にはわかった。正面の、戸口に向いて座ってる。それもよくわかる。

(俺はどうなっちまったんだ?)

 唐突に、また強烈な殺気を叩きつけられた。

 両手を勢いよく床について、手の力だけで座ったまま金太は後ろに跳んだ。たったいま自分が座ってた辺りから、何かを叩きつける大きな鈍い音がした。

「……誰だっ‼」

 返事がない。でも、やはりこの部屋にはずっと何かが潜んでたんだ。息を殺して。

 金太は立ち上がり、身構えた。右のこめかみ辺りに、嫌な気配を感じた。反射的にかがむ。頭のすぐ上から、重くて硬い何かが空を切る鋭い音が聞こえた。

 金太にはわかった。見えないけれど、相手がどこを攻めてこようとしてるかが。かなり際どくはあったけれど、暗闇で何度も振り下ろされる相手の攻めを躱し続けた。

 わずかな隙を金太は見逃さなかった。

 渾身の力を込めて前蹴りを放つ。当たった。が、まるで岩を蹴ったみたいな手応えだ。そいつはよろけてどどっ、とたたらを踏み、がたんという大きな音を立てて後ろの板戸にぶつかった。そのまま板戸は敷居から外れて、外側に向かって倒れた。

 堂の中に、一気に光が射しこむ。あまりの眩しさに金太は思わず目を閉じた。そして、薄く開けてみる。光の中には、果たして思った通りの者が立ってた。

「……一体いつ、堂の中に入ったんですか?」

「なに。戸を閉じてすぐ、おまえが大いびきをかいている隙にな」

 貞光は棍棒を肩に担ぎ、にやりと笑って言った。

 外は夕方だった。雨が降ってる。

「やはり、あれから一日しか経っていないのですか」

「おまえが堂に入って、ほぼ一日だ」

 金太は唸った。……あれが、たった一日の出来事だったのか。あの濃密な時が。ようやく金太の目は光に慣れた。顔を上げて貞光を見る。

「貞光殿。一撃目を私が躱さねばどうしていたのですか?」

「無論頭を瓜のように割っていた。おまえにぶつけたのは、そういったたぐいの殺気だったはずだ。だからこそおまえは躱すことができた」貞光はこともなげに言った。「あれを躱したのは良い勘だ。危うく仲間を殺してしまうところよ」

 かかかか、と笑いながら貞光は先に立って歩き始めた。そしてふと立ち止まって、そういやおまえ、この辺りの者に天狗と間違われているぞ、と言ってまた声を出して笑った。

 金太は、貞光の笑った顔を見るのはそれが初めてだった。


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