その瞳に映るもの

 シュタインが山民の隠れ里を出てから丸一週間が経とうとしていた。

 一人っきりだった。大きな朽ち木の洞の前に座り込み、小さな焚火で干し肉を炙っていた。炙りながら、水筒に入っている水を一口飲んだ。そして少し口の中に残った水を、炙っている干し肉に吹きかけてその表面を湿らせた。こうするとやわらかく焼き上がる。

 水場はこの洞のすぐ近くにあることを知っていた。綺麗な湧水だ。だから、シュタインはもう一週間もこの場所から動いていないものの、水の心配はほとんどしていなかった。むしろ持たされた食糧の方が心細くなってきている。

 今のシュタインの能力なら一人で狩りをしても、食糧となる兎程度なら十分に捕まえられるはずだった。といって食べられるものがまったく無くなってしまわない限り、狩りなどとてもする気にはなれなかった。どうせ食欲もない。白奴火からあんな言葉を浴びせられては。

 この大きな洞のある木。ここからだと隠れ里がよく見える。ここも白奴火から教えてもらった、里の人間だけが知る秘密の場所だった。



 その日は朝から妙に里がざわついていた。

 あちこちからぼそぼそと小さく話す声が聞こえる。どれも小声で、かつ早口だったので、今では簡単な会話なら交わせるほど言葉も覚えていたシュタインも理解ができなかったのだ。ただ、その言葉の端々にはイーヴァの名が混じっていることはわかった。

 良い気分ではなかった。イーヴァが里を出て行ってずいぶん経つ。里を裏切るような形で、里の人から恨まれながら出て行ったイーヴァだったが、いまだ里の人の話にはこの名が出るのだろうか。それとも、イーヴァに関する何か新しい話題でも出ているのだろうか。

「シュタイン」

 呼び止められて振り返ると、白奴火がいた。いつも険しい顔をしている白奴火だったが、その日は殊更、顔に緊張の色が浮いているように見えた。

「話がある。少しいいか」

 シュタインは曖昧に頷いた。そして無言のまま白奴火について歩き、白奴火の家に上がった。白奴火の家に入るのは初めてだった。

「ここなら邪魔も入らん。一人者だから何のもてなしもできないが」

 白奴火は板戸を閉めきり、囲炉裏の前に腰を下ろした。家内は薄暗い。

『これでいい。見えるか』白奴火が手話を繰った。見える、とシュタインは手話で応じる。

『ではこちらで話そう。聞き耳を立てられたくない話だ』

『何があったんだ。イーヴァのことか』

 白奴火は頷いた。『都に出している物見が今朝帰った。その者の話だ。今 ある山賊団が都を騒がせているらしい。その山賊の特徴なのだが どう考えてもそいつらは山民だ。恐らく首領はイーヴァ。そしてイーヴァとともに出て行った六人だ』

 シュタインは一瞬眩暈を覚えた。鼓動が速くなり、息が乱れた。混乱する頭で何とか考え、ようやく手話を繰った。

『確かなのか?』

『その特徴を鑑みると 可能性は高い。山賊団は七人いるらしい。数も合う』

『特徴って?』

 白奴火は顎に手をやって視線を泳がせ、少し考えてまた手話を繰った。

『森の中を獣のように駆けるのだ。神出鬼没で いつどこから現れるかわからない。土の中から急に現れたりもするそうだ』

『七人全員が?』

『そうだ。そして一刀のもと 旅人の命を奪う。すべてが急所を一突きだ。何人もやられている。もはや 山民の者と考える方が自然だろう』

 シュタインは頭に手をやった。その目で見るまでは信じられなかった。

 ――あの理想の高いイーヴァが? 帝のやり方に異を唱えながらも、この国のこと、この里のこと、そして虐げられた民のことを考えて出て行ったイーヴァが何故山賊なんかに。

 呆然としているシュタインを見て、白奴火は手話を繰った。

『あいつは帝のやり方が気にくわなった』

 シュタインはどきりとした。自分の考えが見透かされているように思えた。

『いくら理想が高かろうが 帝のやり方に異を唱えようが しょせん奴は異人だ。頭は良いが その異人が首領になったところで たった七人で一体何ほどのこともできるものか。愚かな男だ』

 異人。またこの言葉が出た。シュタインの胸中にはさざ波が立った。

『イーヴァは早々に 己の限界を知ったのだろう。普通の暮らしもできない。里にも戻れない。生きてゆくため 残された道は数少なかったのだ。おまえ シュタインから何か聞いていなかったか?』

『本当に知らないんだ。彼が出ていった後 ずいぶんあちこちから問い詰められたが』

 白奴火は黙ってシュタインの目を見た。ややあって、また手話を繰る。

『おまえが思っているほど 簡単な問題ではない。帝は怒っている。山賊退治を 山民の若衆に命じているんだ』

 ぎゅっと胃が絞られるようだった。気分が悪くなった。が、白奴火は手話を止めない。

『無理もない。おまえ達の一族から出た狼藉者ろうぜきものは おまえ達で処分せよということだ』

『責任を取れということか』

 白奴火は頷いた。そして、やや目の力を緩めた。『この話はまだ里の者には正しく伝わっていない。噂が立っているだけだ。だが この話がおおやけになれば 必ず里の者はおまえにも責任を求めるだろう。そうなったら とても俺には皆を止められない。止めること自体が筋ではない』

『わかった。もう言わなくてもいい』シュタインは白奴火から目を逸らし、力なく囲炉裏の中の灰を睨んだままで手話を繰った。『私はここを出て行くよ』

 白奴火は深く頷き、こうべを垂れる。『おまえならわかってくれると思っていた。すまない』

『白奴火が謝ることじゃない。立場上当然の判断だ』

 しばらく白奴火は黙っていた。ややあって音もなく立ち上がり、板戸の隙間から外の様子を伺った。

『物見よりの通達は 明日には公表される。そうなってからでは遅いかもしれん。シュタインには悪いが 今日の夜には発ってくれ』

『今日の夜だって?』シュタインは驚いたが、白奴火に冗談を言っている様子など微塵もない。『誰にも挨拶できないのか』

『当然だ。誰にも告げずに立ち去るのだ。イーヴァの噂を聞きつけて 皆からの私刑をおそれて夜逃げしたということにしよう。そうすればおまえに追手は掛からない』

 シュタインはため息をついた。

 確かにそれが丸く収める手なのかもしれない。白奴火が逃亡の手引きをしたことが皆に知れては、もう山民同士の信頼関係など崩壊してしまうだろう。外から来た者にこうして誰よりも早く内情を漏らしている時点で、白奴火もすでにかなり危険な橋を渡っているのだ。……だとしても。

『ゆきにだけ。お願いだ。ゆきにだけは最後の挨拶をさせてほしい』

 白奴火は首を振った。『駄目だ。たとえ誰であろうと 一人だって例外を出すわけにはいかない。自分の立場をよく考えるんだ。おまえはもはや 皆に不穏分子と呼ばれてもおかしくないんだぞ』



 不穏分子。白奴火はそう言った。

 ――だったらイーヴァと同じじゃないか。

 シュタインは自嘲気味に笑った。こんな結果になるなら、あの時イーヴァと一緒に里を出ていた方が良かったのではないだろうか。イーヴァは自分よりはるかに生活力がある。言葉も流暢だ。この国のことも良く知っている。そして、何より志をともにする仲間が六人もいる。イーヴァの理想論だって、自分は真っ向から理解できなかったわけではなかった。ずっと一緒にいれば、よもや……いや。いやいや。どんな理想も盗賊をする理由になどならないだろう。白奴火の話がもし本当なら、イーヴァは罪のない人をあやめているのだ。

(ゆき)

 顔を思い出さずとも、その名を思うだけでシュタインの胸は痛んだ。

 こんなことになるなら出会いたくなどなかった。だがもう遅い。こんなにもゆきに愛しさを感じてしまっている、今となっては。

 シュタインは爪を立てて頭を掻きむしった。わーっと大声で叫び出したい気分だった。

 来るべきではなかったのか、山民の隠れ里になど。だが、イーヴァを恨む気になど到底なれない。イーヴァは命の恩人だ。身についた技術のすべて、忘れられない思い出のすべてはイーヴァがあってこそだ。イーヴァの導きだ。自分は彼の後ろをついて行った、ただそれだけ。感謝こそすれ、一体どこに恨む理由などあろうか。

 不意に焦げ臭さが鼻を突いた。

 はっとして、シュタインは慌てて干し肉を火から離した。干し肉は食べ頃をとうに過ぎて、もはや半分がた黒く焦げてしまっている。シュタインはため息をつき、また自嘲気味に笑うと、焦げた干し肉に噛みついた。無理やり噛み砕き、咀嚼して水で流し込んだ。美味くも何ともなかった。

 食べ終えても、まだ微かに肉の焼ける匂いがする。

 山民の狩手衆とともに何度も山に出ていたシュタインの五感は、里へ来る前とは比較にならないほど鋭くなっていた。シュタインは立ち上がり、匂いを鼻で追った。

(どこからだ?)

 風に乗って匂いはやってきているようだった。もしかしたら追手が掛かったかと思ったが、そうはならないよう白奴火が取り計らってくれているはずだった。

 だとしたら、単に山民の狩手衆がこの近くまで来ているのか。シュタインは周りに気を配りながら、洞の端に足を掛けて伸びあがり、隠れ里の方向を見た。

 ……ああ。なんてことだ。

 ああ。ああ。なんてことだ‼ ああ神様。これは一体どういうことだ⁉

 隠れ里が巨大な煙に包まれている。里全体が濛々もうもうと黒煙を上げているのだ。離れた場所からでもはっきり見てとれた。肉の焼ける匂いは里から風に運ばれて来ていた。

「……どうして……なんで火がっ⁉」

 注意深い山民のこと、失火などではないだろう。では、誰かに火をかけられたということか。一体誰が。何故。

 考えている場合ではない。シュタインは自分の焚火を乱暴に踏み消すと、荷物を担いで山道を駆けだした。

 その迅さは、山民の隠れ里へ来る前とはまるで別種のものだった。山民の狩手衆に何とかついてゆこうと励んでいるうちに、シュタインの全身の筋肉は短期間で常軌を逸した鍛えられ方をしていた。この国の男とは異なり生まれつき体が大きく、筋量に恵まれた神聖ローマ帝国の人間だ。痛めつければ痛めつけるほど鋼のように剛くなっていった。今やシュタインは、山民の若衆と肩を並べて駆けられるほどになっていた。

(ゆき。里の皆)

 どうか無事でいてくれ。どうか。どうか。

 そう祈りながら駆け続けた。



 正面の山門は、まだ黒煙を上げていたものの、すでに見る影もなく焼け崩れていた。

 注意しいしい、シュタインは崩れた山門をくぐる。

(……何てこった……)

 開いた口が塞がらなかった。

 辺り一帯が煙で覆われている。まだあちこちで火は燃えていた。

 家があった場所には、邪悪な黒色に焦げた木が折り重なっていた。交差した梁と柱は炭化し、黒い十字架のようだった。そこら一帯に立つ暗黒の十字架が、少し前まで家が並んでいた名残をかろうじて示していた。そして十字架の下には、かつて人間だった物が黒い干物のようになっていくつも横たわっていた。焼け焦げた死体のとっている格好が、あごが外れてしまいそうなほど大きく開かれたその口の一つ一つがもれなく、彼ら彼女らの断末魔の苦しみと痛みを饒舌に語っていた。

 シュタインははっとした。

 焼け焦げていない男の首が目の前に転がっている。

 それは完全に千切れておらず、わずかな筋肉の束で胴体とつながっていた。血まみれの胴体には太い槍が三本突き刺さっている。それが誰の首なのかを理解した瞬間、シュタインののどは引きつり、呼吸がうまくできなくなった。

「……し……」

 白奴火の目はかっと見開かれており、そばにたつシュタインを恨めし気に見上げていた。シュタインはがっくりと膝を折り、白奴火の遺体の前にしゃがみ込んだ。

「あ……あ、あんたほどの……男がっ……! なぜ。どうしてっ⁉」

 白奴火は無言で、ことの凄惨さを声高に伝えた。シュタインは思わず目を逸らす。逸らしても、また違う位置にある焼死体が融け失われたその双眸で睨みつける。

 シュタインはようやく立ち上がり、ゆるゆると歩き始めた。

(……地獄の光景だ)

 伏せた目で地面を見ると、そこには無数の蹄の跡があった。

 やはり。攻め入られたのだ。シュタインは歯噛みした。

 さらに奥に進むと、焼けた家は減った。焼死体も減り、矢によって体を貫かれた死体が増えた。あるものは地面に、またある者は柱や壁に矢で縫い留められている。

 死んでいるのは男衆が多いように見えた。若い女衆の死体がほとんどない。生きているのか。生きていたとしても、どこへ連れていかれたのか。考えたくもなかった。

(……それにしても……これが)

 これが、あの勇壮な山民の若衆の姿なのか?

 鎧兜で身を覆い、刀と槍と弓矢で武装した騎兵が大挙して押し寄せると、さしもの山民の若衆もこれほどまであっさりとやられてしまうものか。組織された武力の前では山民など無力なのか。

 とぼとぼ歩くうち、シュタインは裏門まで来てしまっていた。

 その名を呼ぶのが怖かった。しかし、もう呼ばないわけにはいかない。

「……ゆき‼」

 シュタインは大声でその名を呼んだ。

 ゆきは耳が悪い。大声で呼んだとして聞こえるはずもなかった。だが他にどうすることもできない。

 裏門近くにあった、ゆきの一人暮らしの家のそばで、シュタインはさらに大声で叫んだ。

「ゆき! ゆき! どこだ。ゆき‼」

 叫びながらゆきの家に入った。家は無傷だった。果たして、そこにゆきの姿はなかった。

(連れ去られたのか)

 恐ろしい想像に、心臓が早鐘を打つ。シュタインは家を飛び出した。

「頼む、ゆき! 何か合図をしてくれ! ゆき‼」

 がたり、と後ろで音がした。シュタインは反射的に振り返る。

 隣の家だ。戸板が外れ、外向けに倒れたのだ。

 倒れた戸板の向こうで、女が仰向けの体勢になっている。女はシュタインを視止みとめ、うっすらと微笑みかけた。

「……ゆき」

 シュタインはゆきに駆け寄り、抱き起した。

『よかった。無事だったか。一体ここでなにが――』

 手話が止まる。

 ゆきの腰から下は、ずたずたに切り裂かれていた。

 右足はほとんど原型を留めていない。辺り一帯が血の海だった。

「……あ……あ……っ」

 ゆきが声を出そうとし、ごぼりと大量の血を吐いた。血は墨色の着物に吸い取られ、すぐに見えなくなった。

「しゃべるな‼ だいじょうぶ、たすける。ぜったいに」

 シュタインは知っている言葉を何とかつなぎ合わせた。涙があふれた。

 その目を見て、ゆきは悲しそうな顔で微笑む。細い指が、おずおずとシュタインの涙をぬぐった。

『急に すごい量の火がかけられて。あちこちから。四方から。大声で侍が 馬が。あっという間で 誰も 男衆も 白奴火も 誰も 何もできなくて』

『一体誰なんだ。誰が こんな真似を』

『おそらくはみかど。帝の よこした 侍達』急にゆきは顔をくしゃくしゃにして泣いた。『シュタイン。どうして出て行ったの? どうしてここにいてくれなかったの? わたしは わたしはあなたに――』

 手が震えて、シュタインはうまく手話が繰れなかった。ゆきがまた少し血を吐いた。シュタインはその血を手で拭い、ゆきの肩をぎゅっと抱いた。

「……ごめんなさい。でていきたくなかった。わたしだって」

 シュタインは口をゆきの額に直接つけて喋った。こうすると体を伝わって聞こえるのだ、ということをゆきから教えてもらっていた。ゆきの白い顔に、涙の雫がいくつも落ちた。

『泣かないで。優しいシュタイン』

 シュタインはそっとゆきから離れた。

 ゆきの息の音が変わっていた。ほとんど吸ったり吐いたりできていないようだった。肺もやられている。

 ゆきは口をまっすぐ引き結んでいた。いつもの癖だ。そしてその表情のまま、じっとシュタインの唇の動きを待っていた。

「ゆき。これだけはつたえたかった」

 ゆきはこっくりと頷いた。

「あなたをあいしてる」

 目が無くなるほどにっこり微笑み、ゆきは手話を繰った。

『そんなこと知っています』

 シュタインはぎゅっ、と目をつむった。また涙が何粒もゆきの顔に落ちた。

「くやしい。……もっとたくさん、ことばをおぼえていれば。こころ、つたえるためのことばを。もっとわたしが、しっていれば」

 ゆきは微笑みを絶やさず、ふるふると首を動かした。

『大丈夫』

「……どうして?」

『声は聞こえないけれど あなたの心は感じていました』

 不意にゆきの体から力が抜けた。

 肩を抱いている腕にずしりと重みがかかった。

「……ゆき?」

 シュタインに向けられているはずのその目は、もうシュタインを見てなどいなかった。

 透き通った水晶の瞳に映っていたのはただ一つ、遥か遠く、空の彼方にあると言われている理想の国だった。

 そこでは、誰も人を傷つけることはない。もちろんゆきのことも。

 シュタインはゆきの身体を抱きしめ、腹の奥底から絶叫した。

 里に轟いたその声は、まるきり獣の断末魔だった。



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