明日へと続く道

 その日は細かい雨が降ってたけれど、これくらいの雨の日ならむしろ外にいた方がむし暑くなくていいんだ。

 わたしは岩屋の外で腰かけ、どんぐりの皮を小刀で剝いてた。ふと気配を感じて顔を上げると、侍が二人、こっちにやってくるのが見えた。

 一人は背の高い男。もう一人は、男装してたけど明らかに女だったよ。綺麗な若い女だ。左腕が無いようだった。

 二人はわたしの前まで来ると、音もなく一礼した。

せつは摂津源氏・源頼光みなもとのよりみつが臣下、渡辺綱わたなべのつなと申す者。……これなるは駕籠女かごめ諱名いみなを、卜部季武うらべのすえたけと申しまする」

 綱に紹介された女がもう一度、無言で頭を下げた。立ち上がり、わたしも一礼する。

「これは遠い所を。――お侍様がわざわざこんな所に、何用で」

「……失礼ですが、坂田さかた氏のご息女とお見受け致す」

 そう呼ばれたのは一体いつぶりだろう。十七年ぶりか。そう、観童丸が生まれる前のことだったかね。別段嬉しくも悲しくもなかった。ただ、しみじみとした気持ちになっただけだ。

「遠い昔、そのように呼ばれていたこともあったかと存じています。しかしもったいない。息女などと」

 綱は、つと目を伏せた。「いいえ。御高名、仄聞そくぶんしております。……このような暮らしをされることになったいわれも」

「一族の心やましい話です。不甲斐なき限りです。遠い昔の話、どうかもうお語り下さるな」

「言われるまでもなく」また綱は一礼した。「此度こたびはご子息のことで話があり参りました」



 わたしが岩屋の中で綱と話してる間、駕籠女と呼ばれた女は綱に命ぜられて岩屋の外で番をしてた。わたしと綱が話し始めてすぐ、狩りに行ってた観童丸と金太は山から帰ってきたみたいだった。

 岩屋の前の広場に出る前から、観童丸も金太も来訪者に気づいてたようだったね。二人は黙ったままで、岩屋の入り口から少し離れた所に立つ駕籠女に近づいた。

「――そなた達だな。観童丸と、金太郎」

「……へえ。お侍様」

 観童丸は腰帯に兎を二羽くくりつけたままでおじぎをした。つられて、金太も頭を下げる。

「わたしは駕籠女だ。我が主である源頼光様より頂戴した諱名は卜部季武と申す。都より、頼光様のめいによりここへ参った」

 頼光の名前を聞いて観童丸はうろたえた。都で有名な人間のことはわたしがある程度教えてたからね。特に観童丸には。

 満中の長子で清和源氏の三代目。そんな大物の使いが、こんな人里離れた山奥の岩屋に棲む山姥とその息子を訪ねてくるなんて思っても見なかったろう。

 動揺してる観童丸を尻目に、金太は暗い目をしてた。暗がりから眩しい場所を見るように、駕籠女のことを見た。

「……お侍、さま」

「……おいっ、金太。目を伏せるんだ。無礼だろ」

 観童丸が平伏しようとするのを駕籠女が手で止めた。

「よい。――金太と呼ばせてもらうぞ。そなた、侍になりたいらしいな」

「……はい」

「冴えん返答だな。侍になるのはもう諦めたのか? 目の光は多少戻っているようだが」

「……目の光?」

「そうだ、一年前だ。抜けてしまって、もはや使い物にならぬかと思ったがな」

「一年前だと?」

「そなたの可愛い人喰いを、その手でほふった時のことよ」

 金太の心がざわっ、と波打った。「……何が言いてえんだ? てめえ」

「どうした? わたしがその話を知っていたとしても不思議ではないだろう。何しろあの人喰いの毛皮は天朝様に献上されたのだからな。人間を何人も喰い殺し、天下に仇なした化け物のなれの果てとしてな」

 ――化け物め。

 そう言った佐吉の目を、金太はまざまざと思い出した。金太の胸はきりきりと痛んだ。思わず駕籠女から目を逸らした金太を見て、駕籠女は鼻で笑った。

「まだ胸の傷は癒えておらぬようだな。難儀な話だ。一年も前のことであるのに」

「――やめろ」金太が声を絞り出した。拳をぎゅっと握りしめてる。駕籠女は口の端を吊り上げてほくそ笑んだ。

「怒らんのか。怒らんのだろうな。そうしてこの先、そなたは木を切り倒したり、兎を追ったりして生きてゆくのだろう。この山の中で、一生。誰にも何にも怒りを向けずにな。……侍になりたいだ? 笑わせるな」

「お侍様、後生です。どうか、もうそれ以上は」

 間に入ろうとした観童丸を手で制し、なおも駕籠女は喋り続けた。

「わたしはこの者のためを思って言っている。そなた、その生まれ持った髪や肌の色のせいで、近隣の者どもから心無い仕打ちを受けてきたのだろう。そしてやっとできた理解者も、そなたが可愛がっていた人喰い熊のせいで失ったのだろう。憤懣ふんまんやるかたないはずだ。考えることを放棄するな。怒りを諦めるな。そなたは何も悪くないのだ。悪いのは、怒りに蓋をして、納得したふりをして生きている、いまこの刹那のおまえの心持ちだ!」

 いつの間にか駕籠女は笑うのをやめてた。強い目で、真正面から金太を見据えてた。金太もまた、駕籠女の目を受け返した。

「……こうまで言われてまだ微動だにせぬか。まるで女子おなごよ」

「……女子だと?」金太の頭に血が昇った。「あんただって女だろうが。男の着物を着ちゃあいるが。侍の真似をしてるが、あんたは非力な女だ」

「ああそうとも、れっきとした女だよ。女は、男の真似事をしなければ侍として生きてゆけぬのだ。さぶらうに男も女もあるものかとわたしは思っているがな。世間はそう見てくれぬのよ。……だいたいおまえ、そんな非力な女であるわたしに勝てるのか?」

「な……なんだと」

「わたしに勝てるのか、と言ったのだ。哀れな熊一匹の亡霊にいつまでも囚われている、女々しき自分を慰めてほしいと願うおまえごときが、この卜部季武に。わたしはな、おまえが思っているよりずっと強いぞ」

 金太の顔からさっと血の気が引いた。ふらり、と駕籠女の前に一歩踏み出す。

「金太、やめろ!」

 観童丸の制止も聞かず、金太は駕籠女に躍りかかった。駕籠女も身構えた。

「ははは、そうだ! 本気を出してみろ!」

 金太が体中のばねを使って鋭く突き出した拳を、駕籠女もまた金太へと踏み込みながら右手でさばいた。そのまま手首を握り、背中へ捻じり上げながら金太の両足を前からすねで払う。あっという間に金太は宙を舞い、地面にうつぶせに組み敷かれた。駕籠女はなおも背中へ捻じった金太の手首を放さず、金太の背中の上に馬乗りになる。

 金太は愕然とした。

 跳ね返せない。こんなに細っこい、どう見ても軽そうな女に乗られてるだけなのに。動きの枕を抑えられてるんだ。

「わかったようだな。これは力で押さえているんじゃない。じゅつで押さえているんだ」

「――術、だと?」

 四肢に渾身の力を込め、全身に汗をかきながらなおも立ち上がろうと金太はもがく。しかし力を浪費するだけだった。

「そう、体術だ。おまえも野の獣らと組み合ううちに、少しは力の流し方や込め方を覚えていったようだがな。時をかけて練り上げられた侍の術にはなすすべもないだろう」

 ほんの少しだけ、金太の手首を押さえてる駕籠女の締めが弱まった。好機逃すまじ、と金太は腕に力を一気に込めた。技は解かれ、双方は互い違いの方向に転がった。金太が素早く起き上がり体勢を整えるも、目の前の駕籠女はとっくに構えてる。再び金太から仕掛けた。大きな軌道で殴りかかるふりをして、駕籠女の奥襟を取った。もう一方の手で駕籠女の左の袖を取ろうとし、初めて駕籠女の左腕が失われてることに気づいた。戦いに余裕を見せて、ずっと懐に隠してると金太は思ってたんだ。

「あんた。……腕が」

「ああ。だが利き腕は残っているぞ。どうする、わたしを投げるつもりなんだろ?」

 刹那、躊躇したがそのまま金太は駕籠女の体を揺さぶって重心を崩しながら、体を反転させて一気に背負い投げにかかった。

 体の軽い駕籠女が宙を舞う。と、駕籠女も体を捻じり、まるで猫みたいに音もなく両足で地に降り立った。

「投げるのがうまいじゃないか」駕籠女はにっこり笑って言った。そして瞬時に身を低くして金太の懐に潜ると、くの字に曲げた細い右肘を金太のみぞおちに叩き込んだ。

「ぐっ!」

 あまりの痛みに金太はひざまずく。うめきながら、地についた膝の前に胃の中の物を一気に戻した。腹が引きつれて息が思うようにいかず、胸を爪で掻き毟る。

「手加減できなかった。すまぬが、介抱してやってくれぬか」駕籠女は観童丸を見た。観童丸が慌てて金太に駆け寄る。観童丸は金太の背中をさすった。大きく息を吸い、吐いても息は落ち着かなかった。金太は目に力を込めて駕籠女を睨みつけた。

「良い目だ。ちゃんと怒れるんじゃないか」

「……ふざけんな‼」

「ふざけてなどいない。本気だ。金太、おまえはわたし達の仲間になれ」

 駕籠女は金太の前にしゃがみこんだ。そして腰にぶら下げていた水筒を金太に渡す。金太は水筒をひったくると、駕籠女を睨んだままで中の水を一口あおった。

「金太、おまえは土蜘蛛を知っているか」

「……土蜘蛛?」

「こんな処にいては知らずとも無理はないな。……民にそう呼ばれ畏れられている、凶悪無比の異形の野盗だ。たやすく人の命を奪い、女を攫っては子を産ませるそうだ。神出鬼没のの行動はどうにも防ぎ得ぬらしい。そして何故か、彼奴らは我が主である帝を目の敵にしているのだ。……手強い敵であり、朝廷に弓引く卑しき者どもだ。彼奴らの討伐を、源頼光様以下、わたし達は朝廷より命じられている。これは勅命ちょくめいなのだ」

 金太も駕籠女も、見つめあったまま身じろぎもしなかった。森の鳥も虫も鳴くことを止めている。そんななか、金太はただ荒く息をついてた。

「卜部様。では……金太に、貴方達とともに侍働きをしろ、とおっしゃるので」

 観童丸の問いに、駕籠女は小さく頷いた。「頼光様はその右腕となり得る強い味方を探しておられる。わたしや、そなたらの母君と今話している者も、頼光様に見出して頂いた仲間だ。……金太、おまえもその一人となれ」

 やがて金太の息は落ち着いた。息を吸って吐き、強い味方、と呟いた。

「そうだ。ものを喋る、意志を持った刃なのだ。わたし達は」

(……やいば……)

 金太はふと腰に手をやった。帯に差したまないたが指に触れる。

 硬く冷たく重く、今ここに存在する確かさが俎にはあった。

 それは、環雷ののどを突き破った刃だ。他の誰でもなく、金太が鍛え、造り上げた刃だ。そしてその刃を振るって、金太は環雷を殺したんだ。

 金太はぎゅっと目を閉じた。

「なんで俺を? ……俺は強くなんてねえのに」

 絞り出すように言った。それを受け、駕籠女が深く頷く。

「わかっている。おまえが強いなどとは言っていない。強い仲間の一人となれ、と言ったのだ。今のおまえは弱い。それがわかったのならば、強くならなくてはいけないんだ」

「なんでだ⁉ なんで俺は強くならなきゃいけねえんだっ」

「戦う運命を背負って生まれてきているからだ。見ろ、おまえの兄の顔を。見ろ、肌を。髪を。体の大きさを。おまえと比べてどうだ? おまえは何もかもがまともじゃないんだ。おまえは戦わずして真っ当には生きてゆけない。そんな成りでこの世に生まれ落ちて、おまえはこの先ずっと拳を固めずに生きてゆくつもりなのか? 生きてゆけると思うのか⁉」

 観童丸ははっとした。

 駕籠女の話を聞いて思い出したんだ。金太が森で猪を追う時の、あの獣じみた動きと目の輝きを。血に濡れた肌の美しさを。

 金太はというと、自分が環雷と戦った時の、あの不思議な気持ちの昂ぶりに思いを巡らせてた。あの時。金太は、戦いがもたらす悦びに打ち震わされていたんだ。金太は激しくかぶりを振った。

莫迦奴ばかめ。求めるか求めぬかではない。選ぶか、選ばぬかだ。選ばぬならそれも良し。言った通りだ、山で兎でも追っているが良い。……勘違いするなよわっぱ。わたしはおまえに頭を下げているわけではない。ひとつの道を示してやろうと言っているだけだ。おまえが、未だ知らぬ道をな」

「未だ知らぬ道だと?」

「ああそうだ!」駕籠女は勢いよく立ち上がり、金太を見下ろした。「求めようが求めまいが、おまえは戦い続ける運命とともに在る。しかもおまえが未だ知らぬの道は、おまえ自身がその手で切り拓いてゆかねばならぬのだ。人は誰しも苦悩して、いつかは己が進む道を定め、その道を己で切り拓かねばならぬ。おまえのその馬鹿でかい鋼の塊は、おまえが進むべき道を切り拓くために鍛えたのではなかったのか⁉」

 駕籠女は金太の腰にある俎を力強く指さす。いつしか肩で大きく息をしてた。

 少し前から、駕籠女の大声は岩屋の中まで聞こえてた。そこで、大事なことを話し終えたわたしと綱は連れだって岩屋の外へ出た。

「駕籠女」

 声に振り向いた。綱の姿を視止め、すぐに駕籠女は目を伏せた。

「綱殿。出過ぎた真似をしました。罰を受けます」

 綱はにやりと笑い、つかつかと三人のもとに歩み寄ると、金太に肩を貸して立たせた。

「なあ金太殿。こいつ、おっかないだろぉ?」

 駕籠女の顔にぶわ、と血が昇った。「……な……綱殿?」

「な、怖いよな? すげえ剣幕だよな? 俺だってたまーに今くらいの剣幕で叱られんだぜ。こいつ俺より十五歳も年下なのにさ。ほんとたまに泣きそうになったりするよ」

「つ、綱殿ぉっ⁉」

 駕籠女は顔を真っ赤させて怒鳴った。金太はどこを見ていいかわからず、視線をうろつかせてたよ。

「……いや……怖くなんて。この人の言うことは真っ当だ」

 綱はふっと笑い、金太の肩に手を置いた。「そうかもしれんな。痛いとこ突いてくるから、こっちの身が縮こまっちまうのかもな。……さて、母上とは話がついた。金太殿。つまりは駕籠女が言ったようなことだ。あとはおぬし次第よ」

 行くぞ駕籠女、と言って綱はわたしに一礼し、踵を返した。

「金太」駕籠女は荷を背負い、また金太を厳しい目で射た。「山道を下った所に堂があるのを知っているな? わたし達はそこにいる。明朝早くに発つ。それまでに心を決めるんだ」

 それだけ言うと、駕籠女は慌ててわたしにぺこりと一礼して、先を歩く綱の後を追った。

 坂を下ってく二人の背中は、あっという間に見えなくなった。



 あのあと、わたしと観童丸が何を話しかけても金太は一言も返事をしなかった。

 素直な一方でもともと気難しいところもあったけど、その夜はことにむっつりと黙り込み、駕籠女に肘で打たれたみぞおちを何度も撫でさすりながら早々に床についたんだ。そしてすぐに寝息を立て始めた。

 夜半も過ぎた頃だったろう。わたしは何度も浅い眠りをつなぎあわせ、目を閉じては開け、を繰り返してた。目が覚めるたび、自分が金太に母親らしいことを何一つしてやれてなかったことについて考え、一人で呆れてた。呆れては、自分の情けなさにほとほと愛想が尽き、ため息をついた。気づくと、乾いた頬を涙が幾すじも伝ってた。

 金太は難しい子だよ。けど、難しくない子育てなんてない。

 金太は見た目こそ普通じゃないけど、中身は至って普通の子だ。父親に似て人一倍心が優しく、好奇心が強く、口数が少ないぶん色々なことを一人で考えてて、一度こうと決めたら迷わず突き進めるが、あちこち甘えたところもある、どこの里にだっているような童だ。だからこそ、あの子が胸に抱えてる傷の深さは並大抵じゃないんだろう。

 わたしはあの子にいろいろ教えたよ。わたしが知ってることで、あの子が興味を持ちそうなことは何でも教えた。もちろん、いつでも人里に出て暮らしていけるよう村人の習いについても教えてた。でもほんとのところ、わたしはあの子に何を教えてやれたんだ?

 教えられるわけがない。

 いつだっていっとう大事なことは、自分で気づくしかないんだ。

「……金太」

 少し離れた場所で眠る観童丸の、囁くような声が聞こえた。「眠れないんだろ、金太」

 観童丸をなおも、隣で横になって目を閉じてる金太に話しかけた。わたしは二人に聞こえるように軽くいびきをかいた。金太の寝息は聞こえなかった。息を殺しているんだ。

「あにい」

「なんだ」

「ずっと胸が痛かったんだ。環雷を――殺した時から」

「……ああ。知ってるよ」

「でも、もう胸は痛くなくなった」

「胸は? 他にどこか痛いのか」

「ああ。……腹が痛い。あの人に打たれたところが」

 金太はそう言って、駕籠女の細い肘が食い込んだ辺りを愛おしげにさすった。

「金太。俺にはわかってたよ」

「……何がだよ」

「おまえが獣みたいに森を駆け、猪を追ってるのを見てた時から。おまえはそのとんでもないはやさで、いつか必ずどこかへ行っちまうんだろうってことをさ。俺はとうとうおまえに追い付けなかったもんな」

 金太は黙ってる。小さく浅く、ゆっくり息をしてた。灯りを消した岩屋の中は真の闇だった。目に入る物は何もなかった。

「なあ、あにい」

 観童丸が寝返りを打って姿勢を変えるのが気配で分かった。きっと金太の方を向いたんだろう。

「あの人は強かったよ」

「そうだったな」

「あんな技、見たこともなかった」

「ああ」

「悔しいなあ。悔しいよ。……でもわかったんだ。俺さ、命を懸けて戦ってる時が好きみたいだ。猪を追ってる時もそうだ。環雷と戦ってる時もそうだった。だんだん頭が真っ白になっていって。頭ぁ冷えてんのに、体はかっと熱くなって。そうなってる時が、俺は好きみたいなんだ。そうなるともう何も考えられねえ。自分の息遣いだって聞こえなくなる」

 金太の声が、上ずるように跳ねあがっていった。

「金太、おまえだって随分強くなったんだぜ。おまえは囲んで殴ろうなんて命知らずは、この辺りにもう一人だっていやしないんだ」

「そりゃ昔と比べたら腕は太くなったさ。体も大きくなったさ。でも、そんなんじゃまだだめだ。それじゃ変わらないんだ、きっと。俺の、運命ってのは」

「そうか。……じゃあ、あの駕籠女とかいうお侍様が言ったことも、あながち間違っちゃいないのかもな」

「ああ」

「行くんだな」

「ああ。俺は侍になる。そしてあにいが言ったように、偉い侍に俺を認めさせてみせる」

「金太。おまえが自分の手で環雷を殺すっていう辛い仕事をしていなかったら、あのお侍達はここへ来ていなかった。道を切り拓いたのはおまえ自身なんだぞ。忘れるなよ」

 また観童丸が姿勢を変えたみたいだ。そして深いため息をついた。「もう寝ろよ。明日、早いんだろ」

「……ああ」

「あ、それからな。おかあのことは気にするな。俺はずっとここにいるからな」

「ありがとう、あにい」

「勘違いするな。俺は山の仕事が好きなんだ」

「わかってるよ」

「じゃあな。俺は見送らないぞ。もう餓鬼じゃないんだからな」

 それきり観童丸は黙った。すぐに大いびきをかきだした。

 金太の寝息は、とうとう聞こえないままだった。朝まで、一度も。



 朝陽が昇る前に、金太は起き出した。

 荷物なんて言えるほどの物を、わたし達はそもそも持っちゃいない。小刀と火打ち石。水筒。干し肉。丸薬を少し。手拭い。それらを、金太は自分でなめした革でこしらえた袋に入れ、口紐を絞めた。そしていつもの服を着て、まさかりを担いだ。

 金太は振り返ってわたしを見た。わたしは微笑んで、小さく頷いた。金太も頷き返す。

「偉い侍なんてみんなぶん投げておいで。たかがおまえのことなんて、世の中誰も知りやしないんだ」

「ああ、ちょっと行ってくらあ。……帰って来る時にゃ、俺は侍だ」

 そう言って金太はにやりと笑った。

「その時まで帰って来るんじゃないよ」わたしも同じように笑いながら答えた。「――ただね、金太。おまえには家がある。家って言ってもま、こんな汚い岩屋だけどさ。……だからね、おまえは根無し草じゃないんだ」

「……ああ」

「務めを終えて、もし、帰って来たいと思ったら……いつでも帰っておいで」

「……わかったよ。ありがとう、おかあ」

 金太は肩に担いだ俎を旗印みたいに振って見せた。

 そのまま振り返らず、岩屋を出て行った。

 歩き出した金太を出迎えるみたいに、真正面から金色の朝陽が昇った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る