別離

 イーヴァからは山鳥の美味さを学び、山民からは新鮮な猪や鹿の美味さを学んだ。

 シュタインは肉を商っていた経験から、干し肉や腸詰といった保存を利かせるやり方や、古くなりかけている肉をうまく料理するやり方などには特に精通していた。が、山野に多く獣がいるこの国においては、こと山民のような生き方をしてゆく上では保存を利かせる技術は重宝されるものの、それほどまで意味を成してはいなかった。

 獲物がある程度一定してあるということと、山民の狩りの腕前が良いということで、ここでは狩りによる食肉の供給が安定している。新鮮な肉であれば、簡単な香辛料を使って簡単に調理するのが一番美味いのは道理である。雄の猪や狸などは、獲れる時期によって肉の硬さや脂のきつさ、匂いにかなり差は出るが、かもしかや鹿、兎などは常に獲りたての新鮮なものがいつでも最高に美味だった。特に若い雌鹿の肉はあっさりしていて癖がまったくなく、どこか香草を思わせる上品な香りすらあって絶品だ、とシュタインは思っていた。塩を少し振って炭火で焼くだけで良い味になる。

 そんな美味い獣の肉を、さらに引き立てることのできる香草や香辛料となる野草はあるはずと思い、シュタインは手の空いた時にはよく森を歩いていた。時機良くゆきも手が空いていれば、道案内がてら同行してもらった。

 近頃では、ゆきと一緒に歩いているだけでシュタインの胸は高鳴っていた。ゆきは話せないのでめったに声を出さないが、だからこそ驚いた時にふと出る「うっ」や「はっ」という短い声がシュタインはたまらなく好きだった。少し栗色がかった、きっちりと肩で長さをそろえた髪が風で踊っている時などは見ているだけで胸が苦しくなった。どうしても目でゆきを追ってしまい、ふと目が合うとゆきは少し恥ずかしそうに、はにかんだような笑顔を見せた。その笑顔にシュタインの心はとても満たされ、また同時に不安な気持にもさせられた。

『この辺りに 以前は確かたくさん生えていました』

 ゆきが少し不満そうな顔で手話を繰った。シュタインも手話で返す。

『今はもう生えていない?』

『毎年生えているからあるはずです。もう少し探してみましょう』

 緑豊かな森を、さらに奥へ奥へと進んだ。と、先を歩いていたゆきが急に駆けだす。

『あれです。あの葉っぱ』ゆきは藪の中を指さし、振り向いて笑った。大きな目が弓なりに細くなった。ゆきの顔だけをずっと見ていたかったが、そういうわけにもいかない。シュタインはゆきが指さす方を見た。

 光沢のある葉の隙間から細いつるが伸び、その蔓には丸い小さな緑の粒が、ぶどうのようにいくつも縦に連なっていた。シュタインは小さな粒を一つもいで、指先で潰してみる。かなり弱いが、特徴のある香りは確かにする。

『これだ。間違いないよ ゆき。これは胡椒の仲間だ』

『昔は採っていたと聞きましたが 最近は山民でもその実は使っていません』

『どうして使わないのだろう?』

『確か 美味しく使えないからだとか』

 シュタインはもう一度、実の匂いをじっくり嗅いでみた。特徴的な香りの奥に、微かに腐敗臭のような香りがある。

『これはたぶん 白胡椒の近似種だ。恐らくはそのまま乾燥させて使おうとしていたんだろう。流水に数日間さらしながら 外の皮を腐敗させて流してしまえば この臭みは取れるんだ。国で そう聞いたことがある』

『そうなのですか。それはたぶん 里の皆も知らないと思います』

『そうして採った香辛料を 振って食べる肉はすごく美味いんだ。ものすごく』

 ゆきは目を丸くした。『そんなにですか。一体どれくらい美味しいのですか』

『どれくらい? どれくらい。どれくらいって』

 シュタインは困った。胡椒を振った肉の味を表現する手話など誰にも教わっていない。腕を組んで唸り、天を仰ぎ、悩んだ末にシュタインは手話を繰った。

『ゆきに 腹いっぱい いっぱい食べてもらいたいんだ。絶対に。つまり それくらい美味しい』

 それを見てゆきは吹き出した。シュタインはおずおずと手話を繰った。

『そんなにおかしかったかな?』

『ええ。とっても』



 シュタインとゆきは木陰に並んで腰かけ、簡単な食事を摂っていた。

 天気は良く、木陰からは山民の隠れ里が見えた。

『この丘からだと丸見えなんだな』

『はい。だからこの辺りのことはわたし達しか知りません。ここらの森には 隠れ里のある方向からしか入ることができないのです。左右には急な斜面と谷がありますから。だから ここらの森で採れる食べ物はわたし達しか知りません』

『なるほど。この丘の下に隠れ里があるのも ここから隠れ里が一望できるのも 山民の知恵の一つということか』

『でも 山民だって知らないことはたくさんあると思います。現に 胡椒のことはシュタインに教わるまで知りませんでした。こうして 外から来た人や 外と接することで里は変わるんだと思います』

 シュタインはイーヴァの言っていたことを思い出した。

『その変化は 良いことなんだろうか』

 シュタインの問いにゆきは少し考え、また手話を繰っては考えた。

『良い面と悪い面があるのではないでしょうか。変化は状態の現れを指すことだし そこに良いも悪いもないのだと思います。 でも 山民は変わってゆくことを嫌っているようです。少なくともわたしにはそう見えます』

『君は? 変わってゆくことについてどう考えているの?』

 またゆきは少し間を取って考え、手話を繰った。

『やはり変わることをおそれていると思います。先のことはわからないけれど 今は十分に幸せですから。このままでも十分に。耳が聞こえなくて 親もとっくに亡くしている半端者のわたしのことを 皆いたわってくれますから。仕事もくれますし』

 シュタインはゆきの方へ体を向いた。

『ゆきは半端者なんかじゃない。手話を教えるのがとてもうまい。これは頭の良い証拠だ。森のことや 食べられる野草についても詳しい。料理だって上手だ。初めてここへきた時 に 出された料理がゆきの作ったものだと あとで聞いて驚いた。あれは本当に美味かったんだ。ゆきはたくさんのことができる。絶対に半端者なんかじゃない』

 シュタインは必死で手話を繰り続けた。ゆきはさみしげに微笑んだ。

『優しいんですね』

『私じゃない。君が優しいんだ。君が優しいから 私は優しくなれる』

 ゆきはシュタインから目を逸らし、ゆっくりと立ち上がった。

『そろそろ行きましょうか。長居し過ぎました』

 確かにそうだった。合同作業に遅れるとゆきに迷惑がかかる。シュタインも立ち上がった。

 二人で森を歩いていると、ゆきが唐突に手話を繰った。

『シュタイン。おさはあなたのことをとても気に入っています』

 以前もイーヴァに同じようなことを言われていたが、ゆきから伝えられるとより気分が良かった。

『それはとても嬉しい』

『あなたはよく働いてくれるし 心がとても素直で純粋なんだと思います。そして だからこそ気がかりなこともあります』

『何が気がかりなんだい?』

 ややあって、ゆきは少しためらいながら手話を繰った。『イーヴァのことです』

『イーヴァ? 彼がどうしたというんだ?』

『仲の良いあなたにイーヴァが なんと言っているかはわかりませんが 別に山民はみかどを憎んでいるわけではありません。わたし達は個を尊重してほしいとは思っています。太古から自分達の神を信仰し この暮らしを守ってきただけなのだから。でもそのことについて 帝から何かを言われたり 何かをされたりしたわけではありません。帝のやり方に異を唱えているのはイーヴァ。そして イーヴァと考えをともにする 数人の仲間。彼らだけが帝を好ましく思っていないのです』

『そこは 時間をかけてイーヴァが 顔役達と話している最中なのだと』

『それが問題なのです。イーヴァは野心家なの。彼は山民を 農民にしてしまおうと考えているんです。そのことで 長や翁衆おきなしゅうだけではなく 若衆からもあまりよく思われていません。というよりも イーヴァ達は不穏分子の烙印すら押されています。彼が一度 里を出たのも それが原因』

『そうだったのか。知らなかった』それはイーヴァから聞いていた旅の目的の話とはずいぶん印象が異なっている。『でも イーヴァだって良かれと思ってやっている。彼は山民の人達のことがとても好きだから。山民の文化や仕事を残しながらも 農民になっていければいい と思っているんじゃないかな』

 ゆきは悲しげに首を振った。『そんなことは不可能です。不可能だから 山民は今のような暮らしを何百年も続けているんです。山民の生き方を受け入れる器は この国にはありません。この国がこれからどんなふうに変わっても そこだけは絶対に変わらないでしょう。そんなことを言えば長や翁衆に睨まれるのは当然です。そこをイーヴァはわかっていない。やはり 彼は異人なのです』

 異人、という言葉がシュタインの胸にちくりと刺さった。

『イーヴァもまた極端なのです。気持ちが大きくとても良い人なのだけれど 思い込みが強すぎる。そして影響力も強いのです。だからわたしは あなたが気がかりなの』

 確かに、イーヴァの話は力強く、人を動かすような魅力を持っている。少なくともシュタインはそう感じていた。

『この話をずっとしなければと思っていました。でも機会を逃していました。遅くなってごめんなさい』

 ゆきはシュタインの方を向き、ぺこりと頭を下げた。辛そうな顔をしていた。

『いや それはゆきが悪いんじゃないよ』

 手話で話しているうちに里の裏門まで来ていた。と、唐突に男の大声が聞こえた。

『どうかしましたか』

『わからない。怒鳴り声のような声が聞こえた』

 二人が急ぎ足で里の中央にある広場に出ると、そこにはもう人の輪ができていた。

 殺せ、と誰かが叫んでいる。シュタインにはいまいちうまく聞き取れないが、飛び交っているのは明らかに罵声だった。

 輪の中央に、見覚えのない男がひざまずいている。

 全身に殴打で受けたらしき傷があった。後ろ手に縛られている。縄の先を持っているのは、屈強な若衆だった。

 シュタインは、そばで息を呑んでいるゆきに尋ねた。

『あれは?』

『間者だと思います』

『間者だって?』

『ええ。ごくたまにどこかの豪族や侍などが ここに間者を送ってきます。間者であることを悟られて 若衆に捕えられたのでしょう』

『一体何のために送られてくるんだ?』

『それは 誰がその豪族などに指示を出しているかによります。まずここの場所を知っている人間なんてほとんどいませんから。ただ単に この里を自分のものにしようとしているだけかもしれない。それとも 勅命(ちょくめい)かもしれません』

『着ているものからすると 他の里の者に見えるけど』

 ゆきは物憂げに首を振る。『偽ってそう見せているだけです。体つきや顔つきからして 明らかに村人ではありません。あんな程度の変装で 山民の男衆を騙せるはずがないのに。だから あれは勅命の間者ではないのかもしれません。何か他の目的があって ここへ』

 びゅっ、と空気を裂く音に次いで、ごつりと何かがぶつかる音が聞こえた。間者の男が両膝を着いた辺りのすぐそばに、握りこぶしより一回り小さい石が転がっていた。群衆の誰かが投げつけたのだ。間者の左目の上の額から血が噴き出した。

 シュタインはどきりとした。かつて自分が追われている時、農民に投げつけられた石が当たった場所と、それはまったく同じだった。

 自分の左目の上に触れてみる。痛みこそはもうないものの、そこにはしっかりと瘤ができてしまっていた。腫れが硬化し、定着してしまったのだ。ぞっとするような、不気味な軟らかさと生温かさを持った瘤だった。

(これではまるでつのだ)

「××? ×××××、×××××××××!」

 間者は悲痛な表情で何かを叫んでいた。しかしシュタインには聞き取れなかった。

『何と叫んでいるんだろう?』

『命乞いです。ですが 無駄でしょう』

『誰に命じられてここへ来て 何を調べようとしていたのか聞こうとしないのかい?』

『しません。間者からどんな答えが返ってこようとも 間者が何を調べようとしていても 山民が間者に与える罰は変わらないから』

『彼はどうなるんだ』

 ゆきは間者をぐっと睨みつけたまま、口を閉じてへの字に曲げていた。また誰かがどこかで「はやく殺せ」と叫んだ。その一言に呼応するように、あちこちから「殺せ」という叫びが起こった。シュタインは振り返る。

 周りには、自分達がここへ来た時の倍ほどの人数が集まっていた。

 やがて「殺せ」は伝播し、大合唱となった。

「殺せっ。殺せっ」

「殺せっ。殺せっ」

 皆憑かれたような表情だった。女も、小さな子供も「殺せ」の唱和に参加している。ぎらぎらと輝く太陽は山民達に強い光を投げかけ、その熱を孕んだ怒りの陰影をくっきりと浮き彫りにした。ゆきと一緒に山から里を見下ろしていた時と、天気の良さはまるで変わっていなかった。だからこそ、シュタインの目にはより異様な光景に映った。

 群衆の熱が、唱える声が最も高く昇りつめた時。

 縄を持っていた屈強な若衆の山刀が、勢いよく横薙ぎに振られた。

 おおーっ、と皆が歓声を上げ、拍手をする。指笛を吹いている者もいた。

 切り落とされた首は、さほど派手には転がらなかった。横向けに二回ほど回転した後、持ち主の膝の近くで綺麗に直立した。



 さらに何日かが過ぎた。

 里には細かい雨が降っていた。雨の日にだけ行う狩りもあるのだが、それには少し特殊な知識と技術が必要ということで、未熟なシュタインはまだ連れて行ってもらえなかった。仕方がないので、初めてここへ来た時からずっとあてがわれている部屋で小刀を研いでいた。

 自分が使う刃物はきちんと自分で手入れできなくては一人前とは言えない。山民は男も女も、子供でさえも皆一様に刃物を研ぐのが上手だった。男であろうが女であろうが、山民にとって仕事を覚えるということはまず刃物を自分の手指と同じくらい自由に使えるようになる、ということなのだ。そして自由自在に刃物と取り扱えるということは、剃刀のような切れ味になるまで自分で研ぎあげることができる、ということに等しい。

 そういった理屈は度外視して、シュタインは刃物を研ぐのが好きだった。職業柄、祖国にいる時から肉切り包丁はよく研いでいた。しかし祖国の肉切り包丁はいくら時間をかけて研いでも、この国の刃物が見せる凄絶な切れ味にまでは至らなかった。

 以前シュタインは、仕上げ砥石を使っている時に誤って指を少し切ってしまったことがあった。あっ、と思ってすぐに綺麗な布で傷を拭い、親指でその傷を上からぎゅっと押さえた。その時も雨が降っていた。雨どいから滴る水を、一滴、二滴と数え、そっと親指を放してみた。すると切ったはずの傷は塞がっており、血も止まっていた。わずかに線のような跡が残るのみだった。その時も、この国の刃物の精妙さにシュタインは唸った。

 そして何より、特に雨が降っている日の研ぎ作業は、気持ちが落ち着いて好きだった。しとしと、ぱらぱらという雨の断続的な音、しゅっしゅっという刃と砥石が擦れる音。その二つを聞いていると、無念夢想の状態に陥ってゆく。

 がたり、と戸が鳴った。

 振り向くと、そこにはイーヴァが立っていた。全身ずぶ濡れだった。

 イーヴァは、今しがたまでシュタインが研いでいた小刀のように鋭い目でシュタインを射抜いた。

「……一体何て目をしてるんだい」

 イーヴァはシュタインの声を無視し、囲炉裏を挟んで向かいにどかりと座った。

「シュタイン。俺は里を出ようと思う」

 シュタインは作業の手を止め、改めてイーヴァの目を正面から見た。「どういう意味だい」

「言葉通りの意味だ。俺は近々、この里を出てゆく」

「どうしてだ」

 イーヴァは口ごもった。「一口には言えんが……やはりこことは相いれないってことだ。いろんな人間と話したが一向に埒が明かない。話が先に進まない。もう諦めようと思ってる」

「山民を変えようという話が?」

「山民が持っている技を活かす手段は、何も狩りだけじゃないという話だ。都が生まれて、今は色々な仕事がある。理解してくれる偉い侍が都にいることだって、俺は知っている。山民は外へ向かって門戸を開かなきゃならないんだ。山民が滅んだとしても、山民の人々を滅ぼすわけにはいかない。そこが皆には分かってもらえないんだよ」

 シュタインの胸には、少し前にゆきから聞かされていたイーヴァについての話がずっとつかえていた。

「一人で出てゆくのか」

「話のわかってくれる人間と一緒に出てゆく。俺を含めて七人だ」

「ここを出てどうするんだ」

「今はまだ決まっていない。けど、里をもっと国に近い場所へと持ってゆきたいとは思っているんだ。……いや。そんなことよりも、やっぱり俺はここにいるのが嫌になっちまったんだと思う。他人事のような言い方になってしまうけれどな」

 ゆきの言った不穏分子、という言葉がシュタインの頭をよぎった。「私やあんたのような異人が、この里以外に安らげる場所なんてないと思うんだ」

「俺はむしろ、そんな場所を創りたいと考えているんだよ。……シュタイン。俺達のような、この国に来てしまったから仕方なく生きている異人は他にも必ずいるはずだ。俺はそういう奴らを探したい。そういう奴らが、この国で堂々と生きてゆける場所を創りたいんだ」

「……そんなことができるのか?」

「やる価値はあると思っている。……シュタイン、おまえも俺と一緒に来ないか?」

 イーヴァの髪からぽたり、ぽたりと断続的に水滴が落ちた。その水滴は部屋の乾いた板敷に吸い込まれ、瞬く間に乾いていった。

 イーヴァは答えを待った。シュタインはイーヴァの口元を見る。イーヴァの唇は血の気を失って紫色になっており、骨のない水棲生物のように滑りながら光っていた。シュタインは思わず目を逸らした。そして、大切な人の顔を思い浮かべた。

「……すまない。今は一緒には行けないんだ」

 イーヴァは表情を変えなかった。「ゆきのことか」

「それだけじゃないよ」

「しょせんここは俺達の国じゃない。ましてや、俺達はこの里の生まれでもない。あの子と一緒になんてなれないんだぞ」

「だから、それだけじゃないんだよ」

 今度はイーヴァの目を正面から捉えて言った。先に目を逸らしたのはイーヴァだった。

「――そうか。わかった」

「力になれなくてすまない」

 いいんだ、と言ってイーヴァは力なく笑った。雨に打たれて冷えたせいか、イーヴァの肌はいつもよりも青白く見えた。イーヴァは立ち上がり、シュタインのそばへ来た。シュタインもつられて立ち上がる。

「……それで、いつ発つんだ?」

「どうだろうな。山民の掟上、あたたかく見送ってはもらえないからな」

「そうなのか」

「ああ。だから七人でこっそり出てゆく。見つかったら、今度は殺されるかもしれない。良くて座敷牢だ。一生な」

 シュタインはごくり、とつばを呑んだ。

「だからシュタイン、今日俺と話したことは内緒にしておけ。おまえのためだ。おまえは、俺が里を出て行ったことについて何も知らない。いいか、俺からは何も聞いていないんだ」

「わかったよ。……じゃあイーヴァ。あんたとは……」

「ああ。これっきりだ」

 二人は固く握手した。

「イーヴァ。あんたにはどんなに礼を言っても足りない。命の恩人だ」

「何を言う。おまえと一緒にいて本当に楽しかったよ。……おまえと出会えたから、俺はまた次の一歩を踏み出そうと思えたんだ」

 体の奥からせりあがってくる熱いものを、シュタインは歯を食いしばってぐっと飲み込んだ。どちらからともなく、二人は手を放した。

「じゃあな」

「ああ」

 出てゆこうとして、イーヴァはふと立ち止まった。「……これっきりと言ったのは間違いだ。シュタイン、祖国へ帰れる手筈が整ったら必ず迎えに来るからな」

「ああ。必ずだぞ」

 にこり、と笑ってイーヴァは部屋を出て行った。

 イーヴァが雨の中を駆け去る音が聞こえた。それが次第に遠ざかると、また細かい雨の降る音が部屋の空気をやわらかく覆っていった。



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