隻腕の弓手

 駕籠女は山間の小さな集落に生まれました。

 集落の大人達は主に病死した牛馬の死骸を処理したり、皮を剥いだりといった生き物の死に携わる仕事に携わっており、侍はおろか農業に従事している他の村人からも〈けがれ〉などと呼ばれ差別されていました。

 そんな身分にあったので、集落の人間はいつも身の危険を身近に感じていました。道を行こうとしている侍の前にたまたま立っていたというだけで「道を塞いだ」と言われ、斬り捨てられることなど集落の人間にとってさほど珍しいことではありませんでした。

 仕事柄水を大量に使うという理由から、集落は河原の近くにありました。もちろん飲用や炊事用をはじめとした生活用水はすべてこの川から確保していました。

 実はこの川をもう少し遡った場所に、くだんの山民の隠れ里があったのです。前述したとおり山民もまた皮革の扱いを生業としており、その技術は駕籠女の集落の人間ではとても太刀打ちできないほどの水準でした。山民のなめす薄くしなやかで頑丈な革の製法には、一族が絶対に漏らさない秘密があったのです。

 駕籠女の集落では、それが緑色の柘榴ざくろ石の成分をどうにかして利用したものではないか、と噂されていました。そして鞣しに使ったその廃液を川に垂れ流しているので、下流域にいる自分達は汚染された川の水を飲む時は必ず一度沸かさなければいけない、とも言われていました。

 しかし駕籠女の母・かまどは忙しさを理由に川の水を一切沸かさず、いつも汲んできたまま飲んでいました。竈のお腹に駕籠女ができる少し前、亭主は侍に斬り殺されていたのです。竈は何とか自分が毎日食べてゆくことに必死で、水を沸かしてまた冷ましてから飲む、などといった一手間は後回しにしていたのでした。

 それがいんとなったかどうかを知るすべはありませんが、駕籠女は生まれつき体が不自由でした。左腕、肩から下が麻痺しており、ほとんど動かなかったのです。

「竈がさんかどもの汚した水を沸かさず飲んだからだ」

「やはりあの水は毒なんだ」

 集落の者は口々に囁きあいました。

 五歳になっても駕籠女の左腕は、だらりと垂れ下がったまま動きませんでした。普通の人間が両手ですることを、駕籠女はすべて右腕のみで行っていました。しかし物心つく前からずっとそんな具合だったので、左腕が邪魔だとは思うものの、不便と感じることはありませんでした。

 牛馬の死体処理以外の集落の収入源は狩りで、これは大人子供問わず体が動く人間ならすべて参加すべしというのが暗黙の了解だったのですが、竈は大変に不器用で獣を追ったり矢を放ったりはおろか、狩りに使う罠ひとつまともに作れませんでした。駕籠女を出産してからは体調も崩しがちで、河原のあしを刈って干し、そのくきを売ることが竈にできる精一杯でした。

 父親がいないこと、母親が不甲斐ないこと、そして左腕が動かないこと。その三つを理由に、同じ集落の人間からも駕籠女はいじめられていました。そして狩りに参加できないことで、獲物の肉もほとんど分けてもらえませんでした。母娘は集落の中でひどく浮いた存在だったのです。駕籠女は母親に似ず器用で利発だったので、狩りの要領などは集落の同年代の子供の誰よりも早く掴んでいました。しかし左腕のせいで、はなから役立たずの烙印を押されていたのです。

 仕方なしに、駕籠女は母について河原に行き、葦を運ぶ手伝いをしました。

 ある時駕籠女は葦を束ねていて、太い茎の尖った切り口で左腕の肘の下を大きく切ってしまいました。すぐに川の水で洗って血は止まったのですが、その日の夜に傷は化膿し、高熱が出て、駕籠女は床に伏しました。

 三日たっても熱は引きません。竈は檜扇ひおうぎの根茎から作った薬を駕籠女に飲ませました。しかしつきっきりで看病しているわけにもいかないので、朝から晩までは変わらず葦を採りに河原に出ていました。一人で働く母を助けたいとは思うものの、熱が下がらないのなら河原に行くわけにもいきません。駕籠女の胸中は悔しい思いでいっぱいでした。

 四日目にようやく熱が少し下がりました。左腕は痛んだり、痛みが治まったりを繰り返していました。



 ある夜。

 腕の痛みとのどの渇きで駕籠女が目を覚ますと、竈が枕元に立っています。

 おかあ、どうしたの。眠れないの? と言おうとして、駕籠女は息を呑みました。

 竈は薪割り用のなたを持って立っていたのです。

 駕籠女は母の目に強い殺意を感じました。その殺意は明らかに自分に向けられています。

 駕籠女はぞっとしました。どうして自分が母親に殺意を向けられているのか。混乱する頭でそれを考え、すぐに理解しました。

 竈の唇の動きを見たからです。声は聞こえませんでした。しかし、窓から差し込む月明かりが竈の顔に斜め上から光を当て、声にならない声を駕籠女に届けていました。

 ――オマエサエ生マレテイナカッタラ。

 竈はそう言っていました。

 一度はぞっとしたものの、すぐに駕籠女は怖くなくなりました。役に立たない自分など、口減らしとして殺されても仕方がない、と思ったのです。ただ、

(痛くなかったらいいな)

 という思いだけがありました。

 竈は鉈を強く握り直しました。駕籠女は目を固く閉じます。

 そのまま、ずいぶん経っても竈が動く気配はありませんでした。もう来るか、いま来るか、と思い駕籠女はなかなか目が開けられません。

 しばらくしてからそっと開くと、竈の姿はどこにもありませんでした。

 病み上がりのふらつく足で周辺を探しましたが、竈は見つかりません。集落の皆が起きるので、大声で母を呼ぶこともできませんでした。駕籠女は仕方なく、ひとり家に帰りました。

 翌朝、竈は自分がよく葦を刈っていた河原で冷たくなっているところを、集落の男に発見されました。

 首すじには、手にしていた鉈で切ったと思しき大きな傷がありました。傷口が水に浸っていたので、血は川に流れ出てもうほとんど体に残っていませんでした。

 体温と体液を失った竈の肌は真夏の雲のように白くなっていました。大きく見開かれたその目は、もう誰も、何も見てはいませんでした。



(いや――そもそも、はなからわたしのことなど見てはいなかったのではないか? わたしが生まれた時からずっと、わたしのことなど……)

 体を揺すられ、駕籠女は目を覚ましました。

「……起きたか。もう陽はのぼったぞ、駕籠女」

 声の主は、綱でした。山道を歩き続け、昨晩遅くに綱と二人でこの地へ着いて、大きな岩の上で一寝入りしたことを駕籠女は思い出しました。

「……おはようございます、綱殿」

「おはよう。ひどくうなされていたな」

 駕籠女の頬は涙で濡れていました。涙は顔をつけていた岩の表も濡らしています。

「悪い夢か」

「……いえ……何でもありません」

「言ってみろよ。悪い夢は誰かにすぐ話しちまうのが良いんだ」

 綱は微笑み、岩の上で胡坐をかいたままで、水筒を駕籠女に渡しました。駕籠女は手の甲で鼻と目を拭い、危うく嗚咽してしまいそうになったものの、気持ちをぐっと飲み込んでこらえました。

「……死んだ母の夢でした」

「ああ……あの母上殿か。それは辛い夢だったな」

「いえ、もう遠い過去のことですから。夢で見るまではすっかり忘れていました」

「そうか。これから向かう場所と務めが、おまえにそんな夢を見せたのかもな」

「そうかもしれません。……まったく、未熟な自分が嫌になります」

 水を二口飲み、駕籠女は礼を言って綱に水筒を返しました。

「少しは気分がほぐれたか」

「ええ。ご心配おかけしました」

「心配などしとらんよ。駕籠女は強いからな」

 駕籠女はふふっと笑った。「いえ、強くなど……。ただ、母が死んだ時は悲しみました。まだ幼かった故……そしてこんな悲惨な世にたった一人で生きろ、と無責任に放り出した母を呪いました。あらびととして生まれ、この世で、しかも女の身で生きてゆくことの残酷さは、すでに十分身に染みていましたので。……しかし、今はもう恨んでも呪ってもいません。わたしは今ここでこうして綱殿と話すことができているのですから」

「その通りだ。おまえも俺も貞光も、頼光様の大事な得物えものだ。ものを喋る、意志を持ったやいばだ。ゆめゆめ忘れるな」

「もちろんです、綱殿」

 森の静寂は唐突に破られました。鳥が一斉に飛び立ったのです。

「――聞こえたか」

「聞こえました。女の悲鳴です」

「尾根側だったな」

「参りましょう」



 二人が休んでいた大岩から半里と離れていない山道で、夫婦の旅人が五人連れの盗賊に襲われていました。

 女の服が破られ、今まさに男の胸に刀が突き立てられようとした刹那。

 風を切り裂く音とともに飛んだ矢は、刀を持った盗賊の胸をまっすぐに貫きました。

「あ」 

 一声鳴くと、盗賊は前にたおれました。びくびく、と痙攣したのち、盗賊の動きは止まりました。

 矢の飛んできた方向を、残り四人の盗賊が一斉に振り返ります。と、またも飛んできた一本の矢が、もう一人の盗賊の首を貫きました。

「……なんだあ? 侍か?」首魁らしき盗賊の男が、蓬髪ほうはつの隙間から目を剥きました。「侍の男と……もう一人は、女か?」

「ありがたい。これほどまでに近づかせてくれると、容易に首を狙うことができます」

「そうだな。駕籠女、盗賊と言えども人だ。苦しませぬようほふってやろう」

 そう言って綱は駆け出すと、盗賊達まで二段ほどの距離をつむじ風のような迅さで瞬く間に詰めました。盗賊達はすでに抜刀していたものの、それは刀を頭上に振りかぶる暇もないほどの圧倒的な迅さでした。綱の最も近くに立っていた盗賊が気づいた時には、綱の居合いは盗賊の首を無音で飛ばしていました。返す刀で、綱はその隣に立っていたもう一人の盗賊を大上段から袈裟懸けに一刀のもと斬り伏せます。斬られた男は、仰天の表情のまま声もなく絶命しました。

 最後の一人、首魁の男がようやく刀を上段から振り下ろしました。綱はその刀を受けるのではなく、横薙ぎに男を刀身ごと両断しました。首魁の男は、上半身と下半身と腕と刀がそれぞればらばらになり、肉塊と化してその場に積み上がりました。

「お見事です、綱殿」

 駕籠女はしゃがみこんでいた旅人の女を助け起こし、破れた着物の前を合わせてあげました。「怪我はありませんか。……まったく、今はどこの山へ行っても盗賊だらけだ」

 女は小刻みに震えていました。

「……ありがとうございました……。何とお礼を言ってよいか……」

「及びませんよ。盗賊を退治することもわたし達二人の務めです」

「その通りだ。だがもっと気を付けよ。盗賊は五人以上で党を組むことが多い。山越えをするなら、せめて一人ひとつ武器を持って、こちらも五人以上の男を伴って行うべきだ。若い女連れなど襲ってくれと言っているようなものよ」

 綱が旅人の男を助け起こしながら、厳しい口調で言いました。

「……お侍様! 後ろに!」女が唐突に金切り声を上げました。

 綱の後ろに、駕籠女によって一番手に胸を射抜かれた盗賊が、刀を大上段に構えて迫っていました。貫いた矢は、わずかに心臓を逸れていたのです。綱の刀はすでに鞘に納められており、その両手は旅人の男の体に回されていました。

「綱殿――御免つかまつります」

 一瞬迅く、駕籠女は口で背中の矢筒から矢を一本抜き取りました。そして同じく口で弦に矢をつがえると、矢と弦を噛んだ顎の力と右腕の力だけで弓を引き、矢を放ちました。それら一連の流れは電光石火の早業はやわざでした。

 果たして、矢は盗賊の首を貫きました。

 盗賊がくずおれると同時に、風が強く吹きました。風の塊は駕籠女に真正面からぶつかり、墨色の着物の袖を大きく後方へ揺らしました。

「実に見事だ、駕籠女。……助けられたな」

「差し出がましい真似をしました」

「いや。口を使っての抜矢がまた迅くなったな」

 旅人の女は、今自分の目で見たものが飲み込めず、茫然としていました。

「……お侍様。お侍様は、左腕が……」

「……ああ。無いのですよ」駕籠女は微笑みながら、弓を持ったままで右腕を曲げて力こぶを作って女に見せました。「でも、利き腕はまだ残っていますから」





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