シュタインと山の民
シュタインはイーヴァとともに森を駆けていた。
雄の鹿を追っているのだ。シュタインの前にはイーヴァの背中があり、さらにその前には他の山民が三人いた。
いや、三人いたはずだった。しかしもう遥か先を駆けていて、その姿はほぼ見えなくなってしまっていた。少し前を駆けているイーヴァも、シュタインが不案内な森の中で
山民の狩手衆が本気で獣を追っている時の迅さや動きは、まさに獣のそれであった。山野を駆ける時は鹿のように素迅く、木々を縫って跳ぶ時は猿のように軽やかに、という言葉は伊達ではない。岩場も切り立った崖も密生した木々の間も、まるで平坦な地面のように駆けた。凹凸や地面の柔さ、固さなどないも同然だった。
(まるで水が流れてるみたいだ)
シュタインの目にはそんなふうに映った。イーヴァも本気を出せばかなり迅く駆けられるようだった。たとえ外から来た人間であっても、彼らと何年も行動をともにすれば彼らのように強く、逞しくなることをイーヴァは身をもって示していた。
「ごおおおお。ぐえっ。げっ」
「がらっ。げっごわっ」
「ほうっ。ほうっ」
狩手衆は時折、そんな奇声を発していた。山言葉だ。これにはもちろんきちんとした意味がある。狩りでよく取られる行動を記号化し、それらを手話と組み合わせることで、次にとるべき動きを狩手衆全員同時に目と耳で伝えあっているのだ。現に、発せられた山言葉をきっかけに狩手衆は一斉に散ったり二、三人に分かれたり、と組織的な動きを展開していた。
イーヴァの姿もついに見えなくなった。シュタインの息はもうとっくに上がっている。ついに足がもつれ、その場にばったりと倒れ伏した。腰から下全部ががくがくと震える。平地を全速力で駆けるのとは、筋肉の消耗の度合いがまったく違った。荒く息をついていると、遠くで猪の断末魔の叫びが聞こえた。
シュタインはよろよろと起き上がり、声が聞こえる方向へ向かった。とめどなく流れる汗を拭いながらしばらく歩くと、果たして狩手衆は猪を仕留めていた。止め矢は、見事に首の真後ろを射抜いている。
猪ははや、身の丈ほどの棒二本に前足と後ろ足をくくりつけられていた。隠れ里へ運ぶための準備だ。
「……血は抜かないのか」
猪の足を縛る手伝いをしていたイーヴァに、シュタインが訊ねた。
「ここでは抜かない。血も料理に使うんだ」
「私達の国の料理と似ているな」
見回すと、息を切らしている山民は一人もいなかった。シュタインの息はいまだ整っていない。
『おまえはもう少し体力をつけなければならない』
それに対し、シュタインも手話で応じる。
『まったくだ。ついて行けなくてすまない』
『いや。まだ仕方ないが これからは体力をつけ せめて皆の足にはついてきてほしい。狩りをするのは無理だとして。狩りは男の仕事だ』
『努力する。一日も早く ついていけるようにするよ』
『わかってくれたらいい。この短期間で 手話をかなり覚えただけで大したものだ』
白奴火はわずかに口の端をゆがめた。微笑んでいるらしい。シュタインはほっとした。
猪を運ぶ用意ができた。皆連れだって、隠れ里へ向かって歩き始めた。
「確かに、おまえは手話の上達が速いな。もう会話ができてしまっている」
イーヴァが、まるで自分のことのように嬉しそうに言った。
「勉強は嫌いじゃない。それに、手話は実に合理的にできているから覚えやすいんだ」
例えば『ありがとう』という感謝の気持ちを表す手話は片手で拝む動きだが、その拝む動きに目頭を押さえる動きをもう一方の手で加えると『すまない』という謝罪の気持ちに変わる。同じように頭を下げる動きでも、何かもう一つの動きを添えるだけで逆の意味に変わるのだ。そして目頭を押さえるという動きは言うまでもなく、涙をこらえている様子を表現している。
「そうだろ。山民の習慣や行動は、すべて合理的に説明がつくものばかりなんだ」
「ああ。ゆきも熱心に教えてくれるから、なお覚えやすいんだ。あの子はすごく頭がいい。教えるのが上手なんだよ」
「ほう」イーヴァの目がきら、と光った。「愛の力ってわけか」
シュタインはため息をついた。「茶化すなって」
「でも、あの子と一日も早く意思の疎通を図りたいから手話を必死で覚えたんだろ?」
「まあそれは……否定できないけどさ」
シュタインは隠れ里へ来た日、つまり初めてゆきと接した時。耳が不自由であることを知らずに片言のお礼を口にしてしまった。イーヴァに気にするなと言われたものの、どうにも気持ちがすっきりせず、翌朝ゆきが一人で住んでいる家に会いに行ったのだ。そして突然の訪問に驚いているゆきに向かって、イーヴァから即席で習ったお詫びの手話を繰った。
『昨日はごめんなさい。話しかけてしまった。耳のこと 知らなかったから』
これで伝わっているのか不安だった。とにかく、シュタインはぺこぺこと頭を下げて気持ちを伝えようとした。
ゆきはしばらく口を一文字に引き結んでシュタインを見ていたが、やがてにっこりと笑い、ゆっくりと手話を繰った。しかしシュタインにはその手話の意味がまったくわからなかったので、ゆきに頼んで三回ほど同じ動きをしてもらった。そしてその動きを模倣し、イーヴァにして見せた。
イーヴァは頷き、その意味をシュタインに教えた。
「――大丈夫です。声は聞こえないけれどあなたの心は感じていました、だよ」
それを聞いて、シュタインの手話の習得には
するとゆきは、シュタインの申し出に快く応じた。もともと、隠れ里に来たばかりのシュタインに男衆の狩りは務まるはずもない。頼みの綱のイーヴァも、夜はシュタインと一緒に食事しながら一日の出来事についてあれこれ話すものの、日中は狩りに出たり、里の色々な顔役らしき人物と会ったり、と何かと忙しそうにしていた。だから自然、女衆の雑多な仕事を手伝う成り行きとなり、いつの間にやらゆきはシュタインの教育係、といった位置に収まっていた。
女衆の仕事とは、例えば男衆が狩ってきた獣の皮を剥いで
しかし、こと精肉に関わる作業では、元々肉を商っていたシュタインにも一日の長があった。シュタインの母国と比べると、この国の肉を料理する歴史は浅い。
例えば、シュタインの大好物である
ゆきを始めとした里の女達もおっかなびっくり味見をし、体験したことのない美味に驚嘆した。シュタインにとってみれば涙が出るほど懐かしい味だった。夢にまで見た味だ。そして保存も利くということで、腸詰は里の人間にもたいへん重宝がられた。
そうして仕事をしてゆく中、シュタインは手話を身に着け、それをきっかけとして男衆とも積極的にコミュニケーションをとった。特に、狩手頭を務めることが多くあり、若衆でも常に頭目として扱われている白奴火からは組手での戦い方を習った。狩りに秀でているだけではなく、山民の男はあまねく
白奴火はシュタインより四つ年上だった。猛禽類のような精悍な顔立ちで、滅多に笑うということをしない。自分にも周囲にも常に厳しく、ことに合理的な考えや行動を好んだ。色は浅黒く、よく引き締まった体をしている。
シュタインよりも二回りほど小さいので、初めて土俵の上で白奴火と組み合った時、その重さに驚いた。腕や足の太さを見る限り、明らかに力は自分の方がありそうなのに、シュタインが押しても引いても白奴火はびくともしないのである。
これが森の木々の狭間を跳ぶように駆けていた体とは到底信じられなかった。投げ飛ばそうと力んだシュタインの方が、あっという間に地面に投げ伏せられていた。
したたかに打った腰を撫でさすりながら、シュタインは手話を繰った。
『わけがわからない』
白奴火がシュタインの手を取って助け起こした。そして手話で答える。
『イーヴァもそうだった。体の大きい者は すぐに力で 持ち上げようとする。それは違う。体術とは つまり人体の理を解することだ』
『人体の理?』
『相手の力を利用する 力の流れを読む 流れに沿って攻撃する ということだ。人体の関節の動きや その動きのためにどこの筋肉を おもに使うかを覚えるのだ。つまり』
白奴火の手話は速く、シュタインにはまだ理解が追い付かない。手話で伝えるのがまどろっこしくなったのか、白奴火はシュタインの手を取った。
手の甲が上を向いている時に手首を掴まれても暴れることはできるが、手の甲が横を向いている時、つまり親指が上を向いている状態で手首を掴まれ、ほんの少し捻られると電撃のような痛みが走った。あまりの痛さにそのまま立っていることができず、シュタインは簡単にひざまずいてしまった。
『こういうことだ。シュタインの力を利用しているだけだ。人体の理を解しているだけだ』
『これは魔法か?』
『魔法ではない。
『つまり 格闘技のことか』
神聖ローマ帝国にも格闘技はあった。だが白奴火は首を振った。
『少し違う。戦うためのものじゃない。身を守るための術だ』
その二つの明確な違いが、シュタインにはよく理解できない。
『それは結局 同じことなのではないか?』
『違う。古布志宇知には 自分から先に攻撃するための技が ほとんどない。攻撃を受け流す技や 攻撃から反撃に転じるための技が多い。攻撃をする必要がないからだ。山民の技は相手を傷つけるための技ではないのだ。 例えば』
また自分の手話が速くなってきたことにはっと気づき、白奴火はシュタインの手をぐい、と引っ張って技をかけた。
それからシュタインは都合八回ほど投げ飛ばされ、転がされ、土俵の上で砂まみれになった。白奴火が九回目に挑もうとした時、シュタインにはもう手話を繰る元気さえも残っていなかった。何とか手のひらを白奴火に見せて、もうかんべんしてくれという意志を示した。
白奴火はまだ教えたそうな素振りを見せていたが、首を傾げつつしぶしぶ、といった様子で頷き、砂まみれのシュタインを助け起こした。
何週間かが過ぎた。
その日の夕食も、シュタインはまるで水でも飲むかのように勢いよく流し込んだ。囲炉裏の火に照らされながら一心不乱に食べるシュタインを、イーヴァは自分の箸を止めて興味深そうに見ていた。
「ほんとによく食べるな、おまえ」
「毎日色々なことを覚えて、体と頭を一緒に使っている。すごく腹が減るんだ。そりゃあ、若衆ほど働いているわけじゃないがね」
「でもよくやっているみたいじゃないか。狩りにもなんとかついてこれるようになってきたし、体術も上達している。女衆の仕事もしっかり覚えていっているそうだな。男衆からも女衆からも評判がいい」
「それはすごく嬉しい話だな。里の皆がとても良くしてくれるからだ。ゆきや白奴火はもちろん、その他の人達も。若い人も年寄りも素晴らしい人達だよ」
イーヴァは満足そうに頷いた。「俺の言ったことがわかってきたな。この里の良いところを、肌で理解していっているようだ」
シュタインは食事に満足して箸を置いた。「この箸というやつにもやっと慣れてきた」
「そいつがうまく使えるってことは、この国では大事なことなんだぞ」
「そうみたいだな……だがイーヴァ」
「何だ?」
「……私は祖国へ帰る夢を忘れてはいない。ここの人達には本当に世話になっているが、いつかは出て行かなければならないと思っているんだよ」
「……ああ。そうだな」
イーヴァは膳に乗っていた徳利から直接、酒を一口、二口と飲んだ。
「その酒は美味いな。造り方を聞いて、国へ戻る時には持ち帰りたいくらいだよ」
「これも山民の一族が遥か昔から造り続けている米の酒だそうだ。製法も当時からほとんど変わっていないらしい」
「そうか。……イーヴァ、何かあったのかい?」
「どうして?」
「最近様子が変だ」
「おまえは人の心の動きに敏感だな」イーヴァは笑って、囲炉裏の炭で焼いていた魚の串に手を伸ばした。
「何度も色々な人と会って話しているようだな」
「そりゃ話すさ。俺はそのために外を見てきたようなもんだからな」
「……そうなのか?」
「うーん。……まあ、そういった役割もあったのかもしれないな。今思えば」
イーヴァは口ごもった。そして口の重さをはぐらかすように、串の焼き魚にかぶりついた。
「役割って……一体どういうことなんだい?」
シュタインの問いに、イーヴァは魚を咀嚼しながら言った。
「なあシュタイン。おまえがここに馴染んでいってくれるのは俺としても嬉しい。……だがな、矛盾するようだが、山民の考え方がすべてではないんだよ。俺はここの人達が大好きだが、やはりやり方としてはとても保守的ではある」
「そりゃ保守的って捉え方はできるだろうけど、それはこの国の人間が伝統を守り続けている、ということでもあるだろう」
「うん、まあ確かにそうだ。だがなシュタイン、その保守的な一面の極端さを、俺は外へ出てみてよくわかったんだよ。この里の人間は、
「わからないな。それが山民の力と言えるんじゃないのか」
「シュタイン。俺が外を旅してた期間は一年にも満たないんだ。そんな短い間でも、俺はこの国の色々な場所に足を運んだ。他の里にも、都にも。決して楽ではない旅だったよ。俺がそんな旅に出ようと決めた本当の理由は、この里の人間が変化から逃げていると感じたからだ」
「それが旅に出た理由なのかい」
「そうだ。どんなに素晴らしい技術を持っていたとしても、ここが原始的な暮らしをしていることには違いない。良くも悪くも国が変わろうとしているこの時に、伝統の保守を合言葉に門を閉じているのは間違いだと思うんだ。今この国を動かしているのは
イーヴァはそこまで一気にしゃべると、ため息を一つついてまた焼き魚を一口頬張った。炭の爆ぜる音が部屋に響いた。
「……今のような話を、ずっと里の顔役達としてたのかい?」
イーヴァは咀嚼しながら頷いた。
「その話を聞いて、顔役達は何と答えたんだ?」
今度はかぶりを振った。「中には話のわかる人間もいる。だが総じて、俺の話をきちんと理解してくれているとはとても思えなかったよ」
イーヴァの双眸には囲炉裏の火が反射し、昏い光が躍っていた。
それきり二人は沈黙した。室内には、イーヴァが魚を噛み砕く音と炭が爆ぜる音だけがしつこく響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます