イーヴァと山の民

 もう一歩も進めなかった。

 農民らしき一団から逃げている時に投げつけられた大人の握りこぶしほどの大きさの石は、男がちょうど振り向いた瞬間、左目の上の額に命中した。そこから血が流れ出た。

 しかし足を止めるわけにはいかなかった。走り続け、いつしか追手はいなくなった。捕まえるのが目的ではなく、この周辺から追い払いたかっただけなのだ。

 ずきずきと頭が痛む。血はまだ出ている。そして大きな瘤もできていた。

 男は腰に下げていた水筒から水を飲んだ。もう水も残り少ない。果実酒もとっくに飲み終えてしまっていた。

(川を探さないと……。水を補充しなければ。そして傷を洗って冷やしたい)

 しかし、川はもう随分見ていなかった。このままでは日干しになってしまう。

 陽が暮れかかっている。とにかく一旦休もう。そう決めて背負子を降ろし、男はため息をついた。大事な荷物が、ほとんど無くなってしまっている。

(……石を投げつけられた時か……)

 逃げている最中にたくさんの石を投げられた。そのうちの一つが背負子に当たり、結わえていた紐が解けてしまったのだろう。捕まるものかと必死で逃げていて、荷物が軽くなっていたのにも気づけなかった。命の綱の干し肉も無くなっている。

 男は背負子を枕に、そのままずるずると横になった。額の痛みはいよいよひどくなってきた。冷汗が止まらない。体は熱いはずなのに、身震いがした。ほとんど何も食べていないにも関わらず、胃の辺りがやたらとつっぱる。触ってみると固く膨らんでいた。

 突如恐慌をきたして身を起こすと、男は傍らに胃液を吐いた。すっぱい胃液の他は、何も出てこなかった。

(……もうだめかもしれないな)

 男は寝転がり、最後の水を飲むと、そっと目を閉じた。

 あっという間に眠りの淵に沈みこんでいった。



 夢か現かはわからなかった。

 男はふわふわと揺られていた。顔の下にあるのはやわらかく、いい香りのする布だった。

(……これは……シーツ?)

 であれば、ここは自分の家の寝台か? 今までの地獄はすべて夢だったのか?

 何とか確かめたい。身を起こしたい。しかし体はまったく言うことを聞かなかった。身を起こすどころか、衰弱しきっていて指先もろくに動かせない。かろうじて微かに動いたのは目蓋だけだった。

 たくさんのかがり火らしきものが見える。大勢が歩いているような音が聞こえた。

 結局、自分は捕まってしまったのか? いや捕まったにしては、顔の下にある布はやわらかく、香りは優しかった。

(……つまり、私今まさに、神に召されているということか)

 どうやら最期は苦しまずに済んだようだ。それだけでもありがたい。

 ほっとした途端、男の意識はまた途切れた。



 目が覚めると、男は広い板間にいた。

 どれだけの時間眠っていたのかわからない。寝ていた場所が硬い板の上だったせいか、体のあちこちが痛んだ。

 枕も木だ。短く切った丸太だった。額に受けた石の傷はまだ痛んだ。こわごわ触れてみると、手当のあとがある。

(……生き延びた……のか?)

 枕元には自分の水筒がある。持ってみると、重い。中が満たされている。男は大慌てで蓋を取ると、一気に中の水を飲み干した。冷たく、清潔な水だった。

 一息つき、男は改めて周囲を見回した。人間がゆったりと十人ほども横になれそうな広い板間だ。床は濃い茶色の板でできていた。簡素な造りだ。天井は高く、壁は二面あり、そのうち一面に板戸があった。残り二面からは広く外が見えた。明るい日差しと、重なり合う木々の緑が見える。森の中にある建物の中にいるようだった。自分と、水筒と丸太の枕以外何もない部屋だった。

 突然、木戸が開いた。男の体がびくりと跳ね上がった。

 頭を綺麗に剃りあげた青年が入ってきた。膳を手にしている。その服と成りを見て、男はぴんときた。

(ここは僧院だ!)

 渡海する前、唐の港でも僧を見た。何より、自分の乗っていた船にも僧が何人かいたのだ。その時に見た僧の着ていた服と、男の目の前にいる者の服装はよく似ていた。

 僧はにこりと微笑み、持っていた膳を男の前に音もなく置いた。そして身振りで、食べるように薦めた。大きな椀の中にはたっぷりのかゆが入っていた。

 男はさじを取り、粥をかきこんだ。熱さに舌を火傷したが、かまっていられなかった。粥は甘く、また少ししょっぱく、松のような深い香りがほのかについていてとても美味だった。体が栄養を欲していたことがよくわかる。きちんと調理されたものを食べたのは一体いつぶりだろうか。腹がじんと熱くなった。

 あまりに夢中で食べていたせいか、僧のあとにもう一人誰かが入ってきたことに男は気づかなかった。

「……言葉はわかるか?」

 突然、椀越しに声をかけられた。男が椀を降ろすと、僧と同じ服を着ているものの、明らかに様相の違う者が僧の横に座っている。

 男は危うく椀を落としそうになった。

 黒く縮れた髪。高い鼻。深い彫り。青い目。濃いひげ。なんと懐かしい姿か。

「あ……だめか? 英語の方がいいのか。えーと……」

「いや、わかる! わかるとも」男は息せき切って答えた。少しなまりは感じるが、間違いない。母国の言葉だった。男の視界ははや、ぼやけた。

「そうか、わかるか! 顔立ちからして神聖ローマ帝国の者かと思ってな。……いや、嬉しいな。こんな辺境の国で同郷の者と出会うとは。神の思し召しとはこのことだな」

 その者はにこりと笑った。

 もう二度と聞くことはないかもしれない、と諦めかけていた母国語だった。ただ聞いているだけで涙がとめどなくあふれた。男はしゃくりあげて泣いた。

「君は飲まず食わずで、まる二日間眠りっぱなしだったんだ。……いや、まずは自己紹介だな。俺はイーヴァだ。よろしくな」

 黒髪の者が右手を差し出した。男はその手を両手で握り、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった自分の頬に、まるで聖人を崇めるように当てた。

「……私はシュタインだ」



 二人は夜更けまで語り合った。

 語ることは山ほどあった。まずは互いのことだ。イーヴァはシュタインよりも七つ年上の二十八歳だった。シュタインと同じく神聖ローマ帝国の出身だ。

 シュタインもイーヴァもともに商用で唐に渡り、渡海していた。シュタイン同様、イーヴァの乗った船も十三年前に嵐によって難破し、この国に漂着したのだ。自分より十三年も先輩であるイーヴァの苦労話を聞いているだけで、またもシュタインは涙ぐみそうになった。イーヴァも同じようにこの国の人間に罵られ、畏れられ、石を投げて追われていた。それだけではない。竹槍や鍬で武装した農民達に狩り出されそうになったこともあるという。

「無知というのは恐ろしい。見た目が違うというだけで化け物扱いだ。唐の都は、さまざまな肌の色の人種であふれていたというのにな」

 イーヴァの話にシュタインは大きく頷く。「まったくだ。ここは辺境すぎる。私だって命の危険を感じたことは一度や二度じゃない」

「鬼と呼ばれたろう」

「……なんだって?」

「オニ、だ。農民にそう呼ばれたんじゃないのか」

 男は思い返してみた。あの、小屋にいた青年。白癩にかかって顔の崩れた女。そういえばいずれも、そんな言葉を発していたような気がする。

「オニって何だい」

「いわゆる怪物だ。いや、悪魔と言った方が正しいのかもしれない」

 悪魔。シュタインは自分が知っている悪魔の姿について考えを巡らせた。その上で、どう考えても自分が悪魔と呼ばれる理由がわからなかった。

「……しかしさすが神に仕える僧のいる寺院だ。慈悲の心は人種の壁も越えるのか」

「神じゃない、ホトケだ。仏に仕えているんだ。ここは悲喜院という。仏教の救済施設だ。シュタイン、おまえもこれまでに飢餓者を何人も見たんじゃないか?」

 悲喜院は仏教の慈悲の精神に基づいて生まれた施設で、飢えや貧しさでどうしようもなくなった者、寄る辺ない者をあまねく救済していた。イーヴァやシュタインといった異国人に対してもその門戸は開かれていた。

「もう動けるよな? ちょっと他の部屋も見に行ってみよう」

 イーヴァに誘われるままに、シュタインは立ち上がって部屋を出た。

 廊下に出ると、シュタインが寝ていた部屋と同じような造りの部屋がたくさん並んでいることがわかった。

「俺も最初はこういった個室に寝かされた。体調が整うと相部屋行きになるのさ」

 シュタインは思った。イーヴァは性格が明るい。それは商人という職業柄がそうさせているのかもしれないが、まず自分と比べても圧倒的にコミュニケーションを畏れていない気がする。だから、こういった救済施設という狭い世界の中ではあるものの、この国の人間とも積極的に話し、少しずつ言葉も覚えていったのだろう。事実、さっきの僧とも短い会話を交わしていた。恐らくは、またおまえと同じような人間が収容されてきたぞ。お前なら言葉がわかるだろう? 間に立って通訳をしてくれよ。といったような会話だったのだろう。

「ここから先が相部屋だ。奥から二番目の左側が、俺がいま住んでいる部屋だ。三人の同居人がいる。皆いい奴らさ。顔色は違うがね」

 イーヴァは皮肉っぽく笑った。シュタインもつられて笑う。

「突き当りの階段から二階へゆける。二階には上がらない方がいい。病人を収容しているんだ。中には重篤な患者もいる」

「イーヴァ、不思議でしょうがない。十三年もいれば、言葉が話せるようになるものなのかい? だってあんたも、この国へ来てずっと差別されてきたんだろう」

「ああ……それは、身振り手振りで何とかなってきたんだよ。ほら、さっきの坊主も、おまえに食べるように手振りをしたろう? ああいったふうの簡単な手振りから始めて、だんだん意思の疎通をはかっていったんだ」

「そうか……なるほど」頷いたものの釈然としない。しかしシュタインは黙っていた。

「まあ俺に任せておけシュタイン。これまで不安でたまらなかったろうが、俺はある程度この国の言葉も喋れるし、この国のことだっておまえよりずっと詳しい。何でも教えてやる。おまえもまずは、少しでもこの国の言葉を覚えるんだ。生活もできやしないからな」

「ああ。そうするよ」

「そしていつか必ず、一緒に国へ帰ろう。俺だってまだ諦めちゃいないんだ」

 イーヴァは微笑み、シュタインの肩に手を置いた。がっしりとした大きな手だった。その手には、大小無数の傷があった。



 貧しくもあたたかく栄養価の高い食事と、危険のない場所での休養によってシュタインはどんどん元気を取り戻していった。

 結局は栄養失調、それに加え緊張状態がずっと続いていたせいで心身ともに参ってしまっていたのだった。体力が限界に近づいていたせいで、石ころの一撃程度がきっかけであっという間に高い熱が出た。

 しかし熱はすっかり引いたものの、左目の上の瘤は治っていなかった。触れると、微かにまだ痛みがある。黴菌ばいきんが入って化膿してしまったんだろう、下手に触らない方がいいとイーヴァは言った。

 シュタインが元気を取り戻した理由は、イーヴァという人間がそばにいることに他ならない。イーヴァは素晴らしい男だった。快活で気さくで、悲喜院にいる僧や他の避難民とも対等に話していた。言葉はたどたどしくはあるのだろうが、それでも来歴の浅いシュタインには聞き分けなどつかない。少なくともシュタインには、普通に会話できているように聞こえた。それどころか軽い冗談なども交え、笑いを誘っている場面すらあった。

 そしてイーヴァ自身が言っていた通り、言葉に多少大袈裟な身振り手振りを交えて意思を伝えていた。イーヴァの大袈裟な動きに対して、この国の人間は感情の機微きびというものをあまり表に出さないようにしている、とシュタインは感じた。

 それ以外にも、イーヴァはとにかく色々なことができた。一度、シュタインの滋養のためにとイーヴァが森に入り、山鳥を獲ってきたことがあった。獲物を見ると、矢は一突きに心臓を貫いていた。他に傷は一か所もない。仕事で肉を取り扱っていたシュタインにはわかる。獲物に無駄な苦痛を与えない、見事な腕だった。

 知識の幅も広かった。この国が今どういう状況に置かれているか、政治が誰によってどんなふうに行われているか、もはや国教となりつつある仏教がどういった思想のもと成り立っているか、といったことにも詳しかった。話が面白く、無口なシュタインはイーヴァの話に夢中になっていた。

「イーヴァ、本当にあんたは不思議な人だ。あんたは自分のことを商人と言っていたけれど、私にはとてもそうは見えないよ。こうして話しているあんたは、まるで学者だ」

 二人は、悲喜院から少し離れた所で焚火をしていた。その日も、イーヴァが仕留めた獲物の山鳥を焼いて食べていた。

 イーヴァはシュタインの言葉に、口に含んでいた山鳥の肉を吹き出しそうになった。

「俺が学者だって? とんでもない。こんなのは全部、この国に来てから得た知識だ。暮らしてく上で、嫌でも身についた知識だよ」

「あんたほど長く住んでいると、そんなに詳しくなるものなのかい?」

「まあ、そういうことだな」

「私はそこまで詳しくなっていける自信はないな」

 シュタインは山鳥のもも肉にかぶりついた。貴重な塩をほんの少し降っているだけだが、肉自体の味が濃厚で、旨みが素晴らしかった。山鳥の肉がこんなに美味であることも、イーヴァに教えてもらったのだ。処理の仕方も素晴らしい。ここまで美味い肉は、母国でも食べたことがなかった。

「……イーヴァ、そういえば。焚火は、必ず悲喜院からかなり離れた所でやるんだな」

「ああ、それは」イーヴァも肉を頬張ったままで答えた。「院では避難民が火を使うことは禁じられているんだ。こんな山の中だからな、火事にでもなったらことだ。俺達は調理され、出された物だけを食べる。それで満足できなければ、こうして外で、離れた場所で焚火をしてそれぞれ勝手に食うんだよ」

「確かにそんな法でも作らなきゃ、勝手に部屋の中で避難民達が料理をしてしまうかもな」

「ああ。俺達だって避難民だから他人をとやかく言えた義理じゃないが、彼らはとにかく腹を空かせている。食べられるものだったら草の根だろうが木の皮だろうが煮て口に入れる」

 シュタインは、川の近くで見た干からびた死体のことを思った。

「シュタイン、避難民はどんどん増えているんだよ。あの院も、もう避難民の収容人数は限界を超えている。他にも悲喜院のような施設はあちこちにあるが、どこもいっぱいだ。これからもまだ院には、飢えた避難民が運ばれてくるだろう」

「何故この国はこんなにも貧しいんだい?」

「色々な事情が複雑に絡まりあっているんだ。ことの根っこを辿ると、国土の問題だ。この国は山ばかりだ。国土に対して平地が少ないというのは、ただそれだけで人間に生み出せるものが減るということだ。そしてどんな貧しい国であっても……いや貧しい国だからこそ、そこに人間がいる限り支配階級は生まれる。そうして富の分配は公平に為されなくなる。当然だ。そもそも豊かな国ではないのだから、持てる者は力を使って徹底的に奪ってゆく。これは国土の貧しい国だからこそ、そして無知だからこそ容易に起こり得ることなんだ。……と言っても、まず島国だから仕方がないんだがな」

「だから唐の進んだ技術や文化を学ぶために、この国は唐と船で交流していると聞いた」

「ふっ。交流か……そんなふうに思っているのはこの国のお偉い人だけなんだよ。唐からしてみればこんな島国なんて従属国でしかない。この国から出させているものと唐から出しているものの比率はまるで違う。唐は、いいことを教えてやる代わりに大きな見返りを義務としてこの国に要求している。仏教だってその一つさ。……この国の、この荒れた現状を見るがいいよ。この現状を利用して、支配しているようでもなく、民の心を一つにまとめてゆく。そのために国教ってのはうってつけなのさ。今、政治を学ぶとおまえは言ったが、政治のために使われてこそ宗教とは意味を成すんだよ。……ま、その仏教のおかげで俺達は今こうして飯が食えているんだけれどな。もちろんこの国にそう吹き込んだのは唐だ。……見ていろ、今後より一層この国は唐にとって都合のいい取引を求められていくぞ。少しずつ、ちょうど蜘蛛の糸に絡め取られるみたいにな。結局同じなんだよ、この国にある支配階級と。大なり小なりあれど、持たざる者は奪われてゆく」

 イーヴァは憑かれたように話し続けた。イーヴァもシュタインも、とっくに肉を食べるのをやめていた。

「……イーヴァ。あんたは本当に、どうしてそんなことを知っているんだ? あんたにそれを教えたのは一体誰なんだ?」

 イーヴァは気まずそうにシュタインから目を逸らした。「……山鳥は冷めると味が落ちるぞ。早く食えよ」



 何日が過ぎた。

 ある夜、シュタインはざわめきで目が覚めた。この国に流れ着いてからずっと、どこか緊張した状態で眠りについていた。あの小屋にいた時でさえ、心から安らいだことなど一度もなかった。ほんの少しの物音でも起きていた。

 それでも悲喜院に来てからは、一人ではないという安心感からかよく眠れるようにはなっていたが、その夜は様子が違った。異変に気づき、勝手に覚醒した。妙な臭いが部屋の中に充満しつつある。

「シュタイン!」突然木戸が開いて、イーヴァが顔を出した。

「起きてるか。火事だ! ここを出るぞ」

「火事⁉」シュタインは飛び起きた。「どうして火事が」

「考えるのはあとだ。とにかく荷物だけ持って出るんだ。急げ‼」

 荷物といっても、ここに来た時にはすでに水筒と小刀しか持っていなかった。枕元にあったそれらをあたふたと身に着けた。

 イーヴァの跡を追って廊下に出ると、はや煙と熱に包まれた。悲鳴と、何かを指示するような声が飛び交っている。

「シュタイン、こっちだ。正面はもう火に包まれている」

 イーヴァに誘導され、シュタインは西向きの窓へ向かった。他の避難民達もそちらへ流れている。窓から庭へ飛び降り、そこからさらに低い塀を越えて敷地の外へ出た。

 二人が振り返ると、本堂からはすでに火が大きく上がっていた。山門の周囲にはたくさんの避難民や僧がいる。そのほとんどは火の手からうまく逃げきれたようだった。僧達が手分けして、川から汲み置いている水で火を消そうとしていたが、それはシュタインの目にはまったくの徒労と映った。イーヴァは悔しそうに、燃え続ける寺院を見ていた。

「イーヴァ、どうして火が出たんだ」

「禁忌を犯したんだろう。避難民が院の近くで火を焚いたんだ。この国の建物は木造だからな。あっという間に燃え広がったんだろう。だから火は禁物だったんだ」

「そんな……」

 イーヴァはため息をついた。「これで俺達は宿無しだ」

「焼き出された者達はどうなるんだ」

 イーヴァはかぶりを振った。「さあてね。どこの院も人でいっぱいだろうから、俺達を受け入れられる余裕はないだろう。皆それぞれに生きていくしかない。這ってでもまた自分の貧しい村に戻るか。都に行って浮浪者にでもなるか。もしくは連れだって山賊にでもなるか……」

「ひどすぎる。そんな選択肢しか残されていないなんて……」

「これも現実だ」イーヴァが険しい目でシュタインを見た。そのままイーヴァは顎に手をやり、何事かを考えていた。「まあ待て。手がないわけじゃない」

「……何か考えがあるのか?」

「ある」イーヴァは大きく頷いた。「俺のいた村へ行こう」

「村?」

「ああ。俺が十五歳でこの国へ流れ着いて、そこから十年以上住んでいた村だ」

 シュタインは、火に炙られて赤く照り光るイーヴァの顔をぼんやりと眺めた。

「初耳だな」

 イーヴァは苦笑した。「出会ってそう日も経っていない。言っていないことだってあるよ」

 それは確かにそうかもしれない。しかし、それにしては……。

 シュタインの表情を見て、イーヴァは口を開いた。「言っていなかったのには、実は理由がある。まずは、おまえが信用できる人間かどうかを確かめる必要があったんだ。俺が育った村――いや、場所と言った方が正しいかもしれないな。……その場所のことを、おまえに教えていいかどうかを考えていた」

 シュタインはイーヴァが言っている意味をいまいち飲み込めなかった。シュタインの相槌を待たず、イーヴァは続けた。

「だが、おまえは信じるに値する人間のようだし、もう四の五の言っている状況でもなくなった。シュタイン。一緒に俺の育った場所へ行こう。ここからなら、そう遠くはない」

 何故イーヴァは、自分が育った村を場所と言い換えたのだろうか。

 そこが少し気にかかった。しかし他の避難民同様、自分に選択肢がないことはシュタイン自身が最も理解していた。



 イーヴァが育った場所。

 二人でそこへ向かう道行き、イーヴァはまだシュタインに話していなかったことを少しずつ語った。

 十五歳の頃。イーヴァは唐から渡った船に、商人であった父親とともに乗っていた。イーヴァはいずれ父の跡を継ぐつもりで、早くから商人としての勉強を始めていた。渡海も大いなる勉強のうちの一つだったのだ。

 そして件の嵐に遭い、父親とイーヴァ、そして父親の助手の男二人は小舟に乗って何とか海岸に漂着した。

 シュタインと違ったのは、経験豊かな商人であるイーヴァの父親は唐の言葉と、ほんの少しだけこの国の言葉が話せたということ。そして小舟には、少しだが水と食料が載せられていたことだった。しかし漂着した海岸は岩場で、近くに人家の一つもない。まずは人に会うこと。経路としては、やはり港を目指して海岸線を選んだ。

 越えねばならない山に踏み込んで、最初の夜のことだった。

 四人は峠近くに建っていた、朽ちかけた社をねぐらに決めた。そして夕食を終えた頃、にわかに戸口が蹴破られ、三人の盗賊が押し入ってきたという。こちらも大人の男が三人いたとはいえ、盗賊は刀で武装していた。組み合いにはなったものの、瞬く間に大人三人は斬り殺された。

 イーヴァは、大振りした盗賊の刀が抉った板敷の破れ目から縁の下へ潜り込み、そこで息を殺した。と、盗賊の一人が板敷を引っぺがして探し始める。こちらが四人だったことを知っていたのだ。そこでイーヴァは暗い縁の下を這って進み、一歩足を踏み外したら真っ逆さま、という崖下に身を潜めた。そして盗賊が捜索を諦めて去った後もそこを動かず、夜明けを待って社に戻った。

 もちろん、息のある者は一人もなかった。父親を含め、三人とも身ぐるみを剥がれていた。荷物もすべて奪われている。父親の目には涙が残っていた。

 父が最期に思ったのはなんだったのか。何が父の涙を誘ったのだろうか。あまりにも無念だ。父はこの国に希望を抱いて渡海してきたというのに。

 イーヴァは父親の遺体に取りすがり泣いた。泣き続けながら、苦労して三人の遺体を社の近くに埋葬した。さんざん泣いて泣き止んだのち、不条理な暴力を行使した盗賊に対する怒りと、あんな盗賊を生まざるを得なかったこの国に対する怒りがイーヴァの心に生まれた。

(あの盗賊ども。必ず見つけ出して殺してやる!)

 そんな誓いを立てるも、わずか十五歳の異国人の少年に何ができるわけもない。草の根を噛み、木の蔓から水分を貰い、イーヴァは何日も山をさすらった。そうしていると、またあの盗賊団が自分の前に現れるかもしれないと思ったのだ。

 イーヴァの上着のポケットには、狩人のものと思しき古い矢じりが入っていた。木に突き刺さって放置されていたものを見つけたのだ。盗賊を一人でも見つけたら、刺し違えてでもその矢じりを胸に突き立ててやるつもりだった。

 しかし、盗賊団とは一向に出会わなかった。そうこうしているうちにイーヴァは衰弱していった。やがて歩けなくなり、とうとう巨大な木の下に座り込んでしまった。体はからからに乾き、胃も腸も空っぽになっていた。

 イーヴァは死を予感して、目を閉じた。もう故郷のことすら考えられない。ただひたすらに悔しい、という思いだけがイーヴァの頭の片隅にあった。

 やがて、ふっと気を失いかけた。その時だった。



 話の途中でイーヴァは言葉を切った。

 歩みを止め、辺りに気を配りだした。もう太陽は山の端に姿を隠そうとしている。

「……どうしたんだ、イーヴァ。何か――」

 話しかけたシュタインを手で制した。イーヴァの顔が緊張している。「近づいて来ている」

「……何がだ。獣か」

「いや……人間だ」

 突如、金属がぶつかり合う音がやかましく聞こえた。

 あっという間にシュタインとイーヴァは、ぼろぼろの鎧と刀で武装した集団に囲まれた。

「……盗賊だっ!」シュタインは青くなった。「つけられてたのか?」

「いや違う。たまたま近くにいたんだろう。俺達が話しながら歩いてたから、聞きつけてこっそり忍び寄ったってとこか」

 シュタインにはイーヴァの落ち着きが謎だった。血錆びの浮いた刀をぎらつかせている盗賊は、全部で八人いた。めいめい手にした刀以上に、男達の目はどんよりした光で鈍く輝いている。シュタインとイーヴァは、身に着けた物以外は何も持っていない。しかし襲う気なのは間違いない。身ぐるみを剥ぎ、何の迷いもなく殺すのだろう。イーヴァの父親を殺したように。

 シュタインの足は震えた。この盗賊達の目には、きっと自分達の姿かたちの異様さなど映っていないのだろう。彼らが見ているのは、ただ獲物が持っている荷物。それのみだ。狩人が追いつめた猪の肉と皮を見ているように。そこには純粋な殺意だけがあった。混じりけのない殺意を向けられ、シュタインは怖気づいた。

「大丈夫だ。安心しろ、シュタイン」

 ――安心しろだって? 一体何が大丈夫なんだ? 自分が持っているのは小刀だけだ。こっちは二人っきり。まさかこいつらに勝てる気でいるのか?

「こいつらは本当に突然現れたから、俺も気づかなかったんだ。つけてきていたわけじゃなかったからな」

 ――イーヴァ、一体何を言っているんだ?

「俺が近づいて来ていると言ったのは、こいつら盗賊のことじゃない」

 頭上の木々が、かさりと音を立てたようだった。「もうそろそろ里の縄張りだからな。現れる頃だろうとは思っていた」

 また、頭上の木々がさわさわと音を立てる。何の音だろうとシュタインがそちらに視線をやった。何もいない。視線を下ろし、また盗賊達を見た。

 どきりとした。自分達を取り囲んでいる八人の盗賊のその真後ろに、ぴたりと影が寄り添っていた。

 影も八体。暗くなってはいたが見間違いではない。黒装束だった。頭巾まで真っ黒だ。まさに八人の影のようだった。

「……まったく、来るのが遅いぞ。危うく盗賊にやられるところだった」イーヴァが影に向かって言った。

 異変に気づいた盗賊の頭目らしき男が、振り向こうとする一瞬前。

 音もなく、影の手にした短刀が盗賊の首を真一文字に切り裂いていた。それとほぼ同時に、八人全員が真後ろの影に首を切り裂かれていた。無駄の一切ない見事な手際だった。盗賊達は一言も発することなく、どさどさ、と音立てて折り重なった。

 たおれた盗賊達の首に手を当て、全員が死んでいることを確かめると、黒装束達は素早い動きで一塊になり、頭目と思しき男の前でひざまづいた。男は頭巾を取る。

「……やっぱり白奴火しらぬいだったか。久しぶりだな」

 イーヴァが嬉しそうに言った。白奴火と呼ばれた頭巾の男はむっつりとした表情でイーヴァを見た。

「戻ったか、イーヴァ。……で、どうだったんだ。諸国漫遊の旅とやらは」

「積もる話は山ほどだ。戻ってきた理由についても話したい」

 この国の言葉がわからないシュタインは呆気にとられていた。展開のすべてがシュタインの予想から大きく外れていた。わけもわからずただ呆けているシュタインを、白奴火がじろりと睨む。「そっちの男は」

「これが戻ってきた理由の一つだ」

「信用できる男なのか」

「俺がここまで連れて来ているんだ。とにかく、まずは里で休ませてくれないか。もうじき陽が暮れる」

 ふん、と白奴火が鼻を鳴らした。

「……白奴火様。盗賊どもの死体は如何しましょうか」黒装束の一人が白奴火に尋ねた。

「川の下辺りに並べて晒しておけ。武器を以て我らの領域を侵すとこうなるのだ」

 ぼんやりと黒装束を見ているシュタインに、イーヴァが話しかけた。

「彼らが山の斜面に棲んでいるというただそれだけの理由で、農民や都の人間からは〈坂民さかたみ〉と呼ばれている。さんか、と略されたりもしているようだな。十三年前、父親の仇を討てずに死にかけていた俺は彼らに拾われ、命を救われたんだ」

 イーヴァの言葉を白奴火は聞き咎めた。

「今その男にサンカと言ったろう。その呼び名を出すんじゃない。俺達を無暗と畏れている里の奴らが勝手につけた名前だ。その名を聞くと腹が立つ」白奴火は吐き捨てるように言った。「俺達は山民やまたみだ」



 山民の隠れ里には、なるほど坂の民と呼ばれるに相応しい要素が多分にあった。

 シュタインの目には、緩やかな山の斜面に、まるで一つの村が田螺たにしのようにへばりついているように見えた。斜面の最も下方には大木で設えられた大きな山門があり、その山門から同じく大木の塀が村をぐるりと一周している。数十戸ある民家は、村の中央に鎮座している社殿のような建物から放射状に等間隔で散らばっていた。斜面のあちこちには巨大な岩が出っ張っており、その岩の形を利用して何やら訓練施設のような建物やいくつかのやぐらが、やはり大木によって組まれていた。

(……まるで要塞だ)

 シュタインは山門をくぐってから落ち着きなく、ずっと周囲の風景に目を奪われ続けていた。

 シュタインは決してこの国の文化に詳しいわけではないが、それでも小屋に住んでいる頃はしばしば里の様子を伺いに降りて行っていた。その時に見た家々の形とこの村のそれとは、異国人のシュタインから見ても明らかに異なっていた。同じように板塀と土で造られてはいるのだが造形がまるで違うのだ。

 人々の服装もどこか違う。女の服は里のものとあまり変わらないものの、男の服は、前を合わせているという点では同じだが、下半身の造りがまるっきり違った。膝から下に布が幾重にも巻かれており、走ったり動いたりするのに都合が良さそうだった。そして女も男も一様に、色は墨のような黒だ。

 そして何よりシュタインが目を瞠ったのは、その容姿の美しさだった。

 あくまでシュタインの祖国、つまり神聖ローマ帝国における美的感覚を鑑みて、男も女も子供もみな整った顔をしている。鼻が高く、彫りが深く、目が大きい。この国の人間にはあまり見られない顔立ちだった。どちらかというと、シュタインやイーヴァに近い雰囲気があった。

「どうだ、シュタイン。人々の顔が懐かしい感じだろう」

 軒先に野菜を吊るしている女をぼうっと見ながら歩いていたシュタインに、イーヴァがにやにやしながら言った。

「……ああ、本当に。美しい人が多い村だな」

「しかも、男も女も皆背の高い。あの顔立ちで体も大きいから、俺の容姿もさほど珍しがられなかったんだ」

 シュタインは小屋で見た青年の、平たくて丸い顔を思い出した。

「何故そんな容姿なのかは俺も知らない。山民は何百年も前に、海を渡ってこの地に移ってきた一族の末裔なんだそうだ。この国に多くいる民族とは、そもそも生い立ちが異なる。……だが、それ以上は聞いても教えてくれないんだ。やっぱり俺だってよそ者だからな」

 その文化を継承しているから、着る物も食べる物も生活様式もすべてこの国のそれとは少し異なるんだ、とイーヴァは続けた。

 通り過ぎる男の一人が、イーヴァ! と名を呼んだ。おう、とイーヴァが片手を上げて応じると、その手を上げたままで素早く奇妙な動きをした。対する男も、あー、と笑顔で答え、同じように両手を素早く動かし、身振り手振りでイーヴァに何かを伝えた。男は大声で笑いながら歩き去って行った。

「今、何をしたんだ?」

「今? ……ああ、手話だよ」

「シュワ?」

「手で話す、と書いて手話だ。山民はこの国の言葉と手話を混ぜて会話するんだ。手の動かし方ひとつに様々な意味がある」

「……手話か……ジェスチャーみたいなことかい?」

「もっとずっと複雑だ。ここでは子供だって皆手話を使いこなす。でも、普段はあまり使わないよ。ちなみに今のは、卑猥な話だったからあえて手話を使ったんだ。女子供に聞かれてはかなわん」

 イーヴァは大声で笑った。つられてシュタインも笑った。

「楽しそうだな、イーヴァ」

「まあね。懐かしの我が里だからな……いや、浮かれてばかりもいられないがね」



 シュタインはまず、里の中央にある社殿のような建物に通された。そこで湯を使わせてもらい、埃と垢を落とした。そして湯から上がり、通された部屋に一人で座っていると、女が膳を二つ持って入ってきた。

 肌の色が透けるように白い、まだあどけなさの残る美人だった。ほんの少し垂れ下がった目はぱっちりと大きく、瞳はとび色だった。小さく薄い唇は血のように赤い。鼻も小さく、ほっそりとしていて形が美しい。総じて、恐ろしいほど整った顔だった。

 やはり墨色の、ひざ丈の着物を着ている。女はにっこり微笑むと、膳の一つをシュタインの前に置き、食べるような身振りをしてみせた。

「……ありがとう」

 挨拶や、いくつかの簡単な言葉はシュタインも覚えていた。と、女は軽く頷いて、左手の甲をシュタインの方に向け、薬指と小指だけを立てて上下に動かすような仕草を作った。そしてまた微笑むと、もう一つの膳をシュタインの膳の横に並べて置き、一礼して部屋を出て行った。

 シュタインは膳に取り掛かることにした。米の飯と汁、そして野菜と肉を煮合わせた物が椀には盛られている。小さな徳利と猪口も添えられていた。

 悲喜院で食べた粥も素晴らしい味だったが、ここの料理も思わず唸ってしまうほど美味だった。酒もさらりとしていて、実に飲みやすかった。ワインよりも上品な味だ、とシュタインは思った。

 夢中で食べ、飲んでいるところにイーヴァが入ってきた。シュタインはほっと胸を撫でおろした。「これっきり戻って来なかったらと心配したよ」

「いや、年寄りは話が長くてかなわん」

「今、とても綺麗な女性ひとが食事を持ってきてくれた」

 イーヴァはシュタインの横にどかり、と座った。「綺麗な女? どんな女だったんだ?」

「色が白くて、華奢で……この国の言葉でありがとう、と言ったつもりだったけど、発音が悪かったか伝わっていないようだったよ。手話で返事をされた」

「……ああ、なるほど。それはゆきだな」

「ゆきさんと言うのか。とにかく美しかった」

「確か歳の頃もおまえと同じくらいだ。あの子は耳が聞こえないんだよ」

「耳が?」

「ああ。赤ん坊の頃に高熱を出したんだそうだ。それで耳が聞こえなくなった。だから相手の唇を読む。おまえがありがとうと言ったことは唇の動きでわかったんだけれど、言葉を発することができないから手話で返すしかなかったんだな」

「それは申し訳ないことをした。……謝らなきゃあ」

「いいって、気にするな。本人だっていちいち気にしてやしないよ……それより俺も腹が減ってるんだけどな」

「ああ、すまない。食べてくれよ」

 まともな食事も酒も久しぶりだ、と言ってイーヴァは料理に取り掛かった。

 食べながら、イーヴァはまだシュタインにしていない話を始めた。

 この山民には独特の掟や風習があった。例えば肉食である。

 平地に住む農民と違い、山民は基本的に狩りで生計を立てていた。つまり獲った獣の皮革や毛皮、牙や爪などを都に卸し、その対価で生活をしているのだ。よって食べるものは、農家より買い上げた米や麦、里の中の畑で採れたわずかな野菜、そして皮を剥いだあとの獣の肉だった。

 皮革も毛皮も、馬具や侍装束などを作るには絶対数必要であったため、都からの需要が途切れることはなかった。何より山民の里は女子供合わせても百人に満たないほどの規模であったので、これらの方法で一族が十分に食いつないでゆくことができた。

 そしてそのやり方が成り立っているということは獲物がある程度一定してあるということを指し示しており、すなわち山民の狩りの腕前が一級品であることも意味している。

 山民の男達はどれも狩りの達人だった。放った矢が一撃で獲物の急所を貫かないうちは、男達の間で一人前とは認めてもらえなかった。山野を駆ける時は鹿のように迅く、木々を縫って跳ぶ時は猿のように軽やかに、獲物を仕留める時は熊のように一撃で、というのが山民の男達の合言葉だった。

 狩りを滞りなく進められるよう、弓矢や山刀の使い方以外にも、山民の男達は多彩な技を持っていた。その一つが手話である。見つけた獲物に気づかれることのないよう、物音を立てずに連携を取る必要のある時、山民の男達は表情と手話を組み合わせてこれをこなした。

 他にも山言葉という、男達が山中でしか使わない言葉もあった。手話と、この山言葉を使いこなせることが山民の男において成人を意味する。

 また獲物に近づくため、もしくは獲物に気づかれないための工夫も、シュタインの想像をはるかに超えていた。彼らは猪を獲る時は猪、鹿を獲る時は鹿、それぞれの血や排泄物を体中に塗りたくり、人間の匂いを消すのである。そして時には、人ひとりがやっと入れるほどの大きさの穴を掘り、体に汚物を塗ったままの状態でその穴にすっぽり入る。入ったら枯葉をその穴と体との隙間に入れ込んで、編傘で入り口にぴたりと蓋をするのだ。そうして編傘のわずかな隙間から外を覗き、三日だろうと四日だろうと獣道のそばで息を殺し、水を舐めながら獲物を待つ。

 それが合理的な狩りの方法だからそうしている、と山民は言う。自分達、ひいては人間すべてはあくまで山に棲む獣の一種であり、つまり自然のことわりの中に生きることが最良のやり方なので、どれだけ山に溶け込めるかが大事である……というのが山民の考え方である。

「俺はその考え方に感銘を受けたんだ。確かに血や排泄物を体に塗るのは抵抗があるよ。だが、そういった行動や彼らの獣を屠る時の手際も含めて、どれもが慈しみと尊敬の心に基づいていると俺は見ているんだ」

「慈しみと尊敬の心?」

「そうだ。人間は生きるために何かの命を奪う。彼らは、自分達が自然の理の中で生きていることを知っているからこそ、命を奪うことにも真摯なんだ。だから獣に余計な精神的緊張も、無駄な苦しみも与えない。殺す時はいさぎよく、必ず一撃だ」

「……一撃か」シュタインは、盗賊ののどをまさに一撃で掻き切った男達の手際を思い出した。確かに盗賊達は死の一瞬前まで、自分の真後ろに立つ山民の存在にすら気づいていなかったようだった。

「……しかし、イーヴァ。あの盗賊達は……あれは殺す必要なかったんじゃないのか? 適当に痛めつけて追っ払っておけば……」

「それはまた別の問題だ。そんなことを続けていては、一族はとっくに歴史の闇に葬られていた。山民は莫迦ばかじゃない。自分達の生き方が時代にそくしていないことだってよくわかっているさ。だから自分達の領域を理解し、守っている。狩りだって範囲を決めてやっている。都にも特定の人間しか降りて行かない。一族の人数も一定以上は増やさない。……とにかく国には迷惑をかけないよう自分達でやっているから国も干渉しないでくれ、ということなんだよ。だからあんなふうに、ずけずけと領域に踏み込んできた不躾ぶしつけな奴らは慈しみの心を以て一撃で殺す」

「不可侵条約のようなものか」

「そうだ。そうやってずっと世の中とバランスを取ってきた。……だいたい、殺した相手は盗賊だからな。帝にとっても頭の痛い存在だったことは間違いないのさ」

 シュタインは曖昧に頷いた。一応納得はしたが、いまいち合点がゆかないとも感じる。

 しかし十三年前のイーヴァの命を救った恩人の一族であることは事実だ。そしてそのイーヴァは自分にとって恩人も同然だ。

「まあ、おまえが言いたいこともわかる。だがまずはここで、俺と一緒にしばらく暮らしてみるんだ。俺の口から説明するだけではらちがあかん。時間をかけて一緒に暮らすうちに、肌で色々なことを理解していけると思うんだがな」

 シュタインは頷いた。「あんたがこの国の言葉をぺらぺら話せることにも納得がいったよ」

「手話を組み合わせるから覚えやすいんだ。シュタイン、まずは簡単な手話だけでも覚えた方がいい。あれは本当にすごい文化だ。あれを覚えると言葉で伝えることの無意味さを痛感するぞ。無駄な会話が少なくなって、本当に伝えるべきことをはっきりと伝えられるんだ」

 シュタインはゆきの顔を思い浮かべた。

「わかった、覚えてみるよ。……ところでイーヴァ、あんたはそんなに好きなこの村をどうして出て行ったんだ?」

「ああ、それは――外の世界を見たかったからだな。何せここは閉鎖的な村だから。一通り言葉も覚えられたし、この国のルールも教えてもらった。だから、一度普通の人々や暮らしというのも見てみたくなったんだよ。で、半年以上あちこちを見て回ったのちに、あの悲喜院に辿り着いた」

「そうか。……で、どうだったんだ? イーヴァの目から見たこの国は」

「シュタイン、おまえも手痛い目に遭ったからわかるだろう。山民の一族と同じように、この国は本当に閉鎖的だ。前も話したが、この国独自の地理的条件がこの国にいびつな人間関係と陰にこもった性質を生んでしまっているように思える。ここは、まだまだこれからの国なんだ。……まあ見てろ。これからだ」

 イーヴァは独りごとのように言って、徳利に残った酒を一気に飲み干した。酔いのためか、いつの間にかイーヴァの目はどろりと濁っている。

 シュタインはイーヴァから視線を逸らし、またゆきのことを考えた。

 そして、まずは挨拶の手話から始めよう、と決心した。



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