嗤うけだもの
その身の丈は一八〇センチを超えていました。
黒い小山のような獣。ツキノワグマです。月光が照らす山道を、巨大な体を揺らしながら堂々と歩いていました。
かなり大型の個体です。胸には、その名を示す白い斑紋が三日月様を描いていました。
その個体は、何か小さな獣を
じいじいじい。ばりっばりっばりっ。
その音には、フクロウをはじめとした夜の鳥の鳴き声もいくつか合唱のように融けあっていました。
ふと、音が止みました。正確には彼、件のツキノワグマが獲物を噛み砕く音、それ以外の音が止んだのです。
虫や鳥は沈黙し、その気配を消して夜の帳と一体化させました。
そいつが近づいて来ていることに気づいていないのは、彼のみでした。それほどまでに、目の前の獲物に熱中していたのです。よほど腹を空かせていたのでしょう。
濃厚な獣臭が辺り一帯に立ち込めました。それは彼にとって生の匂いであり、また死の匂いでした。地面の小枝が踏み折られる音はもはや、疑うべくもないほどはっきり彼の耳に入っています。
彼はやっと気づき、そして深く後悔しました。何故こいつを、ここまで近づけてしまったのだ。何故気が付かなかったのだ。しかし、もう遅いのです。何もかも。
そいつの前足の一閃のみで、彼の頭蓋は半分近くえぐり取られました。彼は嗅ぎました。その、生の匂いを。そして、死の匂いを。
続いて首根っこに、もう片方の前足をかけられ、地面にねじ伏せられてしまいました。頭蓋をやられてもまだ脳には傷がいっていないと見え、彼はそいつの足の下で狂ったようにもがきました。しかし、それは徒労に終わりました。そいつの足はびくともしなかったのです。まるで根を下ろしているように。
太く成長した木の根の下に、どんな偶然か小さき生き物が潜り込んでしまった。それが、そこから這い出ようと必死にもがいている。しかし哀れながら、決してどうなるものでもない。そんな様子でした。
そいつの目に殺意はありませんでした。あったのは食欲のみ。黒い、小さな丸い目は、彼を食糧としてしか見ていなかったのです。人間が魚を捌く時に殺意を抱くことがないように。その目は、どこか不思議そうに、純粋に食糧のみを見ていました。
やがてそいつは、体重の半分以上を彼の頭蓋を捉えている前足一本にかけました。みしり、と音がして彼の頭蓋は砕けました。
そいつは彼の頭から前足を退け、顔を近づけて少しだけ匂いを嗅ぐと、やおら黒い鼻面を頭蓋の中に突っ込んで脳を喰い始めました。
辺りは静まり返っています。そいつが彼の脳を咀嚼する音だけが、しじまの中でうるさいほどに聞こえていました。
脳髄のあらかたを喰い終わったそいつは、頭蓋から顔を上げ、そのまま後足二本で立ち上がりました。
月光が、血に濡れたそいつの黒い顔をどぎつく照らしました。
ツキノワグマです。しかし体躯は、犠牲になった彼の二回りほどもありました。
そいつの口の端は、片方が不自然な形にめくれあがっています。まるで
そのまま、そいつは天を仰いで咆哮しました。嗤い顔のままで。
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