山小屋
男は祖国の夢を見ていた。
男の生まれた国は、他国に先んじて特に精肉の取り扱いに長けていた。そこで男は、広く肉で商っていた。そんな、自身が取り扱っている肉の夢を見ていた。
自分は台所にいた。台所で、大きなかたまり肉から、商売用に薄く肉を切り分けてゆく。
余った屑肉や脂身を、今度は包丁で叩くように細かく刻み始めた。
そこに様々な香辛料と薬味、ねぎなどの野菜を混ぜ込む。
自分は
次の場面では、すでに腸詰が茹で上がっていた。良い香りがする。皿の手前にある一本をフォークで突き刺し、男は勢いよくかぶりついた。たくさん香辛料を入れたにもかかわらず、意外なほど味がしなかった。
不思議に思っていると、自分はいつの間にか船に乗っていた。目の前にあったはずの腸詰はすでに失われていた。
暗い。夜だ。空は炭のような黒と、深い黄土色の中間のような色合いだった。強い雨と風が体に突き刺さってくる。凄まじい嵐の真っ只中だった。
そうだ。私は商人の一人として、この船に乗っていたのだ。そして、船が嵐に巻き込まれて。それで私はここに。この、地の果ての島に。
意識を取り戻しても、体の冷たさは依然続いていた。夢から覚めているはずなのに、まだ雨に打たれていたからだ。
男は目を開けた。鮮やかな緑色が目に入る。
森の中だった。太い木の根元で、男は胎児のように身を屈めて眠っていた。
(そうだった。私は、あの雨の降る中を)
ふらふらと歩き続けてやっと山に辿り着き、森の中へ分け入って、何とか少しだけ雨がしのげそうな大木を見つけ、そこで力尽きたのだった。
男はようようと半身を起こした。途端に、ぶるっ、と全身が震える。雨に打たれ続けたせいか、火ぶくれのようになっていた全身の日焼けは嘘のように引いていた。背中の痛みも、自然に身を起こせる程度には遠のいている。
どれくらい眠っていたのか見当もつかない。ほんの数時間だったような気もする。雨はかなり弱くなっており、雨雲も遠のいているようだった。ほんのり陽が差しているようにも感じる。
男は胡坐をかいていた。自分の両足の裏が目に入った。
そこには、小石や木片やとげがびっしりと食い込んでいた。
自分は決して痛みに強い人間ではない。仕事で肉切り包丁をふるっていた時、手元が狂って左手親指の皮を、ほんのちょっぴりすいてしまったことがあった。皮が飛び、覗いた白い脂肪の表面にぷつぷつと赤い血が湧いてゆくのを見ただけでこの世の終わりみたいに喚き、姉を呆れさせた。毎日あんなに鶏を捌き、獣を屠っているのに、と。事実、その傷は少々大げさに湿布を巻いていたらたったの三日で塞がった。
そんな自分が、厚い足の皮があちこち破れてぐちゃぐちゃに石がめり込み、木ぎれの突き刺さった状態でも気が付かずに、全裸で、裸足で数キロと思しき道を歩き続けた。
痛みよりも驚きがあった。痛みはどこか、他人行儀に感じた。とはいえ捨て置けない。痛みをあまり感じないのならばむしろ幸い、とばかりに男は足に食い込んだ忌々しいすべてを取り除いた。そして、すぐそばにある澄んだ水溜まりに両足を浸し、傷口の泥と血を洗い流した。少しだけ見えている傷の赤黒い断面は、夢で見た腸詰と色が似ていた。
夢の中の腸詰は味こそしなかったが、茹でられて張り詰めた皮をぷつっと歯で噛み破る感触は、まだ口の中にはっきりと残っていた。
急に男は、今にも餓死してしまいかねないほどの猛烈な空腹感に襲われた。
(最後に食べたのは、たしか……船の晩飯だ。あの乾パンだ。あの数時間後に嵐が来たんだ)
考えてみると、さほどの時間は流れていない。嵐に合ったのは昨日のことだろう。しかし嵐の海を泳ぎきり、痛む体で炎天下を這い、渇きを何とか癒しながら雨の中を何キロも歩いた体は、著しく消耗していた。一刻も早く何かを口に入れたかった。雨に打たれ放題に打たれ、食べ物も口にしていないせいか、体温が下がっている。
男は両手で腕や胸を強くこすりながらゆっくりと立ち上がり、雨粒を避けるように比較的大きな木の下を伝いながら山の中へと歩を進めた。
雨脚はさらに弱くなり、歩きやすくなった。とはいえ急な山道を、息を切らせて登るうちに体が熱くなってくる。再び背中の日焼けがじんじんと痛み出した。
と、急に木々が切れ、尾根が見えた。その少し下辺りに、不自然な形で倒木が積み重ねられている。男は目を凝らした。
(……小屋だ!)
俄然、体中に力がみなぎった。そこを目掛けて、男は一気に駆け上がった。走るとさすがに足の裏が痛んだが、そんなことにかまっていられなかった。人がいるかもしれない。食べ物や、着るものを分けてもらえるかもしれないのだ。例えば今日、食べ物を口にしなくても死ぬことはないだろうが、こんな、一体どこなのか見当もつかない未開の島で、何日もあてどなく彷徨うことになったとしたら。
とにかくどこか、落ち着く場所だけでも確保したかった。気がはやる。
到着してみると、果たしてそれは粗末な掘っ立て小屋だった。少しばかり広くなった場所に建っていた。
息を弾ませながら、男は小屋の周囲をぐるりと歩いてみる。同じような太さの倒木だけを組み合わせて建てられているようだ。人の気配はまるでしない。
(猟師小屋かもしれない)
狩人の中には、取り決めた猟期のみ自村を離れ、ある特定の獣を追うべく山小屋に棲み付いて狩りに集中する集団もある。この小屋も、そういった類の者達の仮住まいに違いない。男はそう結論付け、朽ちかけた木戸を押し開いた。
一歩足を踏み入れると、ぷんとかび臭い空気が男の鼻をついた。
小屋の中は六畳ほどの広さで、やはり無人だった。入ってわかったが、壁に使われている木々は隙間だらけだ。暗い小屋の中から、隙間を隔てて外が明るく見える。
小屋の外と内の床はまるっきり地続きだった。上がり
壁には鎌や鉈、狩猟用の小刀といった刃物類と、いくつかの弓矢、網、荒縄といった道具がぶら下げられていた。それらに並んで、毛並や色の異なる何種類かの獣の毛皮、鞣された厚い皮革、藁靴もある。
そしてその横、太いかぎのような錆びた金具に吊るされている赤黒いものの正体が、男にはすぐにわかった。
(干し肉だ! 間違いない)
鉤から外すのももどかしく、男は干し肉にかぶりつく。噛み千切り、咀嚼した。長く放置されていたようで、かなり歯ごたえはあったが、塩を使った防腐処理がしっかり施されており、食べたことのない味の肉ではあったが悪くなかった。噛みしめるほどに、しょっぱさの奥から肉の甘味が染み出てくる。若干の獣臭さはあったものの、気になるほどでもない。
(良い仕事をしているんだな)
男の頬には涙が伝った。男は不思議だった。どうして自分が泣いているのか理解できなかった。ただ、
満腹というほどではないものの、取りあえず気持ちも胃袋も落ち着いたので、男は一旦食べるのをやめた。
干し肉は、少しずつならまだ数日は食べつないでゆける程度の量はある。塩分がきつく、消化の悪い干し肉を一息に大量に食べると体に変調をきたすことを、男は職業柄知っていたのだ。こんな薬も何もない場所で体調を崩すわけにはいかない。
男は竹製の座敷の隅にあった、まだ比較的新しい布を小刀で細く引き裂き、包帯代わりにして両足の裏から足首にかけてぐるぐると巻きつけた。そしてその上に
次に男は、壁に掛けられている中から一番大きな毛皮を手に取った。ずしりと重い。最大のものは、男が頭からすっぽりと被ってしまっても長さが膝辺りまであった。
その色は月のない闇夜のように真っ黒だが、頭と四本の足の部分はすっぱりと切り落とされていて、一体どんな動物のものなのか皆目見当がつかなかった。ひょっとすると、自分の国にはいない獣なのかもしれない。
首から腹の下方にかけて正中線に沿って切り開かれており、男はちょうど着物のように前を重ね合わせて身に着けることができた。腰の位置で、適度な長さで切り落とした荒縄を帯代わりに巻きつける。丁寧に鞣されていた毛皮は、身に着けてみると重さの割にやわらかく、しなやかで、しっかりと男の体に寄り添った。動きにくさも気にならない。これで服と靴の問題は何とか解決した。
このままここでぶっ倒れて眠ってしまいたかったが、当座の食べるものも手に入ったのだし、水源も確保しておきたい。しょっぱい干し肉を食べたせいでまたのどが渇き始めていた。
男は、壁にあった鉈を鞘ごと取ると、腰帯代わりの荒縄に差した。そして小屋を出ると、すぐ脇にあった深めの水溜りに顔を突っ込み、雨水をがぶがぶ飲んだ。腹が満ちるまで飲んだ後、残った水で顔を洗った。
雨は止んでいた。重い灰色の雲はもうどこにも見当たらず、空は黄昏れ、桃色から淡いだいだい色に移り変わっている。
(尾根まで上がれば、この辺り一帯が見渡せるはずだ)
男はそう考え、小屋のすぐ裏手の斜面を登り始めた。水分と栄養を体に入れ、屋根のある場所で人心地ついたせいか、小屋を見つける前に比べ足取りは随分軽い。
ほどなく、最も近場の尾根にたどり着いた。男の狙い通り、そこからは周囲を広く見渡すことができた。
自分が登ってきた道の方を見下ろすと、もはや愛着さえ沸き始めている我が小屋が目に入った。その小屋から、目算でほんの五十メートルほど下方に小川が流れていた。
(……やはりだ。あんな見事な革があったんだからな)
皮革を綺麗に鞣すためには大量の清潔な水が必要だ。ましてや、土地を熟知しているはずの狩人が仮設とはいえ小屋を建てるような場所である。すぐ近くに川があるに違いない、と男は踏んでいた。
(あの近さだったら、まず問題ないだろう)
水の問題も解決したようだ。男はほっと息をつく。
次いで、男は振り返り、小屋の反対側の斜面を見下ろした。
どこまでも山が連なっている。少なくとも今、男が見ている高さからは、集落や人家は見つけられない。たとえあったとしても、折り重なるように密生する深い木々に遮られて容易に発見できそうもなかった。高い山には、夕陽が当たっていた。谷間には、低く雲が垂れ込めている。
男は再度、振り返って反対側の斜面に目をやった。
その先を見る。自分が歩いてきた荒地と、砂丘が見えた。その先では、夕陽が燃えている。
鮮烈な赤色だった。胸が締めつけられた。夕陽の斜め左の空には、巨大な虹がかかっていた。その光彩は、男が祖国で見る姿とほんの少しも変わらなかった。
「見ていろ。必ず祖国へ帰ってやる。……いつか、必ず」
この地へ来て初めて、男は言葉を発した。
思わず声に出して誓わずにはおれない。それは、男をそんな気にさせる光景だった。
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