金太と佐吉
あの子はずば抜けて体が強く、普通では考えつかないような大胆なことをしたり思いついたりするけれど、止め矢はそういうもんじゃない。確実に獲物の急所を狙い、ぎりぎりまで獲物に近寄って、確実に心臓か首か、額を射抜かないと駄目だ。だからこれは観童丸の受け持ちだ。
観童丸は森の地形を完全に記憶してる。そして獣の動きを理屈でわかってるから、おのずと自分と金太が駆ける時も場所もわかる。それをわかった上で観童丸が今いるべき所が、つまり止め矢を獣に放つべき所なんだ。
わかった上で観童丸は動く。とはいえ、頭に血が上った金太は時折、観童丸も知らない動きをする。
「駄目だ! 金太、そっちじゃない‼」
くそ。勢いがついた金太は、まるで
金太より先に、獣が息を切らせはじめた。大きな猪だ。金太の追い方のせいか、猪は観童丸の思惑とは違う方向へ走りはじめてる。
(あの繁みを抜けたらすぐに崖だ)
谷に落としたら、拾いに行くのも一苦労だ。観童丸は必死で駆けた。
唐突に森を抜けた。崖まではそう距離もない。肩で息をしながら、観童丸は前に立つ金太を見やった。
金太もまた息を切らせながら、崖を背に猪の首を片手でつかんでぶら下げてた。指は猪の首根っこに深く食い込んでる。猪の胴回りは、大人の両手くらいの長さがあったみたいだ。たった十四歳の男が片手で持てる代物じゃないことは間違いない。
その腕には汗がねめって光り、筋肉が今にも弾けそうなくらいぱんぱんに張り詰めて、血管が太ったみみずみたいに何本も走ってた。筋という筋、肉という肉の全部に、山の力と森の精気が
金太のもう片方の手には小刀が握られてた。小刀の刃から金太の肘辺りまでにかけ、血で真っ赤に染まってる。刹那、観童丸は金太の血かと思ったけれど、目を凝らすと猪の首が真一文字にざっくりと切り裂かれるのが見えた。
血はなおもぼたぼた落ち続けてる。金太の目は、上弦の月みたいな形に尖ってた。
「金太」
声をかける観童丸を、金太は矢みたいな鋭さでにらみ続ける。身長はもう、観童丸より頭一つぶん高い。
「金太。終わったぞ。よく足で追いつめたな」
見ると、いま金太と観童丸が立ってる所から、少しだけ崖側に行った場所に大きな血だまりができてる。
(金太は、あそこでこいつにとどめをさしたんだ)
ぞっとした。もう数歩で崖だ。あと、ほんの一呼吸ぶん走っていたら谷底へ真っ逆さまの場所に、血だまりはできてた。
全力で駆けた金太は、すんでのところで猪に追いすがり、崖のふちでもがき暴れる猪を力づくで取り押さえて、首根っこに小刀を突き刺したんだ。おそらくは金太のこと、猪を捉える寸前まで力を抑えるようなことはしなかったろう。
(……まったくこいつは。いくら強くなるって誓ったからって、たった数年でこんなにまで……)
観童丸はため息をつき、金太を見た。
金太はまだ肩で息をしながら、尖った目で森のどこかに視線をやっていたよ。
金太の目は尖っていながらも、どこか悲しげだったみたいだ。金太が森の中にいる何を探してるのか、観童丸にはわかってた。
猪の肉は久しぶりだった。
岩屋に運び込まれた時には、観童丸によって丁寧に血抜きされてた。血やはらわたを使った料理もできるんだけど、肉だけで三人がしばらく食べてくには十分の量だったから、それらはバラバラにして川や森に放ち、魚と獣に食わせてやったよ。
まずは首から腹にかけて皮を裂き、これは流れる水に浸しておく。あとで鞣して、着るものや敷布を作るためだね。
そして部分ごとに肉を切り分けてく。例えば背中だったり、胸だったり、腿、肩、尻といった感じで。切り分けたら、次に薄く削ぐように切る。干し肉を作るためだ。漬け汁に漬けたあとで天日干しするから、これはもちろん干して乾くことを考えた厚みで切ってく必要がある。
それらの一切を終えたのちに、余ったくず肉が当座の食べる分だ。余ったくず肉とはいっても、わたし達三人が三日は食べられるくらいの量はあるんだよ。
わたしと観童丸が包丁を振るってる時、金太はちょっと離れたとこで皮を鞣す下準備をしてた。
「観童」金太に聞こえないよう、小声で話しかけた。「金太は最近、たたら場に行ってるのかい」
観童丸はゆっくりと首を振る。
「そうか」
それだけ言って、わたし達はまた自分の作業に戻った。
金太は、鉄を融かして沸かせるたたら場に並々ならぬ興味を持っていたんだ。金太は豪快なところがありながらも細々とした物を作る仕事だって好きだった。例えばいま金太がやっている皮を鞣す作業も、一度教えただけですぐにコツをつかんでしまって、二度目からはもうわたしより上手に全部をやってのけた。鞣した革を縫い合わせて袖なしの上着や短い袴を作ったりもしてたけど、これに至っては教えてもいないよ。何かそういった、物を作る勘のようなもんがあるんだろうね。
そんな金太だから、ごろごろした鉄石とかさらさらの砂鉄からあんなに綺麗で純粋な鉄を生んでくたたら場ってのは、さぞかし魅力な所だったと思うよ。鉄を作るなんて、素人が見様見真似でかじれることじゃないからね。
でも、そんな人がたくさんいる所に金太は行っちゃいけないんだ。あの子が傷つくだけだからさ。
赤みがかった肌の色は、成長するにつれだんだん薄くなってったけど、それでも里にいる人間や、わたしのそれとは明らかに違ってた。そして髪の色は、いまだその名前が示す通りの色だ。とてもじゃないが、普通の人間がすんなりと受け入れられるくらいのもんじゃなかった。
十四歳になった金太はもう悪童に石を投げられるようなことはなかった。そりゃそうだ、そんなことをして金太の怒りに火をつけてしまっては何をされるかわからないからね。悪童にそう思わせてしまうくらい、金太の様相は幼い頃と比べ変わってた。
それでも、石を投げられるくらいならまだましだった。金太が最も堪えたのは、女が金太の姿を見るや露骨に震え上がって逃げだしたり、子供がわっと泣きだしたりすることだ。そんな出来事のひとつひとつは、金太の心に深い傷痕を残していった。
金太を見た。その大きな背中を丸めて、黙々と毛皮を洗い、裏に張り付いた油を小刀で削ぐ仕事に没頭していた。
猪の肉は、手作りの味噌で山菜や芋と一緒に煮る。肉と油の甘さと味噌のしょっぱさが相まって、それはもう応えられない。村はもちろん、都の人間だってこんなおいしいもんは食べていないよ。肉が新しいうちは、瓦とか陶板の上で焼いて塩を振るだけでもすごく美味しいんだ。これはもう、山で暮らしてるからこそ食べられるもんだ。
囲炉裏の火で鍋がふつふつ煮たってきたら、もう観童丸と金太は居ても立ってもいられない。おあずけが解かれるや、わっと鍋の中身を自分達の椀に注いで箸でかきこみはじめた。
しばらくがつがつと食べ進めたのち、急に観童丸が椀から顔を上げて言った。
「金太。狩りが終わってすぐ、おまえ森を見てたろ」
金太は無言で椀の中身をつついてる。
「……
金太の箸がぴたりと止まった。そしてすぐまた動きだした。わたしも箸を止めて、金太に尋ねる。「金太。……最後に環雷を見たのは、いつだい?」
「……もうずいぶん前だよ、おかあ」金太は椀の汁をすすりながら言った。
「ずいぶん前って、どれくらい? もう何年も前だろ」
「そんなのわからねえよ。ずいぶんはずいぶんさ」
金太は口をへの字に曲げ、囲炉裏から離れた。
その夜は、それからもう何度尋ねようが、金太は環雷のことを話そうとしなかった。
わたしは金太にたたら場にはあまり行ってほしくなかった。
けど、家族三人っきり山で一生を終えるわけにもいかない。だから、わたしや観童丸以外の人間に触れることだって本当は必要なんだ。そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、金太はわたしや観童丸に黙ってこっそりとたたら場に行ってたみたいだ。
金太はそこで、
「……佐吉っつあん。佐吉っつあん」
金太は藪の中から、もっこで鉄石を担いで運んでた佐吉だけに聞こえる小声で呼び止めた。声に気づいた佐吉は振り返り、しばらくきょろきょろと辺りを窺った後、藪の中に金太の顔を見つけて微笑んだ。
「……金太ぁ。しばらくだな」
これもまた小声だ。二人の逢瀬は、たたら場にいる佐吉の仲間達には内緒だった。
「すまねえ。おかあと観童がさ、あんまりここには行くなって……」
金太は手に持ったまさかりを佐吉に見せた。
「そうだろそうだろ。
「ああ。待ってるさ」
「あ、金太。あんまり頭を出すなよ。誰かに見つかっちゃうからな」
「わかってるよ」
にんまり笑うと、佐吉は駆け足で
佐吉はたたら場でも一風変わった男だった。歳は三十半ば。たたら場で働いてる男らしい、がっしりした体を持ってて、割合に色男だ。
佐吉が働くたたら場は小高い山のてっぺん辺りにある。一つの村くらいの大きさだ。そこを一本道で下った所にある集落には、佐吉の女房と三つになる息子が住んでた。いったん女衆がたたらを踏み始めると、それは何昼夜にもわたって続くから、そうなると佐吉はやむなくたたら場に泊まり込み、女房と息子のいる家を何日も空けることになった。
それが寂しいかと言うと、もちろん寂しいには違いないけれど、この仕事が好きだから耐えることができるそうだ。しかし好きだからと言っても、佐吉はただの
それでもこの仕事が楽しいと言ってしまう辺りが、この男の一風変わってるゆえんだ。佐吉は、自分が鉄造りに直接関われてるわけではなくとも、こんなふうに物がどんどん生まれてる所が何とも言えず好きなんだ。そんな佐吉だから、金太とも馬が合ったんだろう。
何度もこっそりとたたら場を見に来てた金太を見つけ、佐吉から声を掛けた。おまえも鉄が好きなのかい? と。佐吉はその日も同じように、もっこで鉄石を運んでた。
繁みの中から、もくもくと煙が上がる煙突をそっと眺めてた金太は、突然声を掛けられて驚いた。そして逃げだそうと背中を向けた金太を、佐吉は呼び止めたんだ。
「おいおい、何も逃げることはないだろ。俺が怖いのかい?」
金太は藪にあった大きな葉っぱを使って金の髪を隠しながら、恐る恐る佐吉を見た。佐吉は金太を見て、朗らかに笑ってる。
「……あんたこそ。俺が怖くねえのかい」
青く光る目で、金太は佐吉を見つめた。
「うん?」佐吉は金太をじろじろと見た。「ははあ。聞いたことあるぞ。さてはおまえだな。この山の奥に、金の髪と赤い肌を持った鬼みたいな
「俺は鬼じゃねえ」
金太は目に力を込めた。それを見て、佐吉は慌てて言った。
「ごめんな。そういう噂を聞いたってだけだ。その噂の主を初めて見て、ちょっと珍しかっただけだ。悪かった。俺はおまえのこと、全然怖くなんてないんだよ」
佐吉はばつが悪そうに頭をばりばり掻いた。金太はそれを聞いて、目に込めた力を少し緩めた。「……本当に怖くねえのかい?」
「ああ。怖くない」佐吉は微笑んだ。「綺麗な色の髪の毛だなあ。そんな綺麗な髪、初めて見たよ」
金太は面食らった。……黒くもないこの髪がきれいだって? 佐吉の言ってることがわからずに、金太は黙り込む。
「……まあとにかくさ。降りてこいよ、お前。もうちょっと近くからちゃんと煙突が見える所に連れてってやるからさ」
にこにこしながら手招きする佐吉に促されて、金太は藪から姿を現し、土手を滑り降りて佐吉の前に立った。金太は鞣した黒い革でできた袖なしの上着と、膝までの短い袴をはいてる。肩には、これも黒い猪の毛皮を外套みたいにぐるりと巻いてた。
「大きいんだな、おまえ。本当に童かい? いま何歳だ」
「……十四だ」
「十四だぁ? まるっきり大人みたいな体してるな。名はなんていうんだ?」
「金太」
「金太か。よろしくな金太。俺は佐吉だ」
そう言って佐吉は、金太の肩をぽんぽんと叩いた。
金太は、わたしと観童丸以外の人間と話したことなんかほとんどないんだ。他人とはつまり、金太に石を投げ、金太を畏れる存在でしかなかった。だから佐吉のこの馴れ馴れしさは不思議でしかない。狐につままれたみたいな顔のまま、金太は佐吉に腕を引かれて、佐吉の言うちゃんと煙突が見える場所に行ったんだと。
そこから二人の付き合いは始まったんだ。
「金太。しばらくぶりだけど、おまえ体は鈍ってないか?」
佐吉はにやにや笑いながら大きく四股を踏む。
「佐吉っつあん。俺はずっと森で狩りをやってんだぜ。鈍るわけねえだろ」
金太も不敵な笑みを浮かべながら、佐吉と向き合って四股を踏んだ。
「……っしょいっ!」
佐吉が突然金太に体ごとぶつかった。でも金太と佐吉の予想通りに、金太はちっとも動かなかった。
佐吉だって腕っぷしには自信があった。たたら場の仲間達と相撲を取ることもあったけれど、そこでも負け知らずだった。金太よりも腕が太く、体が大きい男だって何人もぶん投げてきた。それなのに。
(一体こいつの体はなんだ。中に鉄でも入ってんのか?)
動かないんだ。いや、動かないっていうんじゃなく、動かそうとするこっちの力を感じて、その力をどこかに逃がされてるみたいな。金太は体がすごくやわらかいから、岩みたいに堅く重い感じじゃないそうだ。やわらかいのに、ただ、足だけが地面にしっかりと縫い留められてるみたいな。金太との相撲には、不思議な、不気味な手応えのあやふやさがあった。
そして、佐吉が押し疲れて少し力を弱めた刹那、金太の体が今までとは打って変わって、今度は岩みたいに固く重くなる。そう感じた時には遅い。
宙を舞ってることにすら、佐吉は気づけなかった。舞っていたんだろうが、いつの間にかふわりと地面に寝かされてる。力づくでぶん投げられた、って感じはまったくなかったんだ。
「ほい、佐吉っつあん。これで俺、十四勝目だ」
「……腹が減ってたからだ。飯を食ったあとだったら、今日は負けてなかったかもしれん」
「こないだは満腹だったから動きが鈍くて負けた、って言ってたじゃねえか」
「ちえっ」
佐吉は仏頂面で、殊更ゆっくりと立ち上がった。立つとわかる。投げられたのに、体のどこにも痛みはなかった。
「……金太。おまえは本当に相撲がうまいんだな」佐吉はほとほと感心した。「俺はどうやったらもっと相撲がうまくなると思う? おまえのその……力の逃がし方っていうか、なんていうか……力を込めずに相手を投げるって一体どうやるんだ?」
そんなことを佐吉に問われても、口下手な金太に説明なんてできない。金太は真面目な顔をして腕を組み、うーむと考え込んだ。
「佐吉っつあん。前も言ったけど俺、佐吉っつあん以外の誰とも相撲を取ったことがねえんだよな。だから、それはよくわかんねえんだ。勝手にできちまうんだよ」
「ああ、そうか。そう言ってたな」
佐吉は思い出した。金太が熊と相撲を取ってたことを。
山で育ち、里にもめったに降りない金太は、子熊が遊び相手だったんだ。罠にかかってた子熊を助けだし、傷の手当をしてやってるうちに、いつしか友達みたいになっていった。いつもそばには観童丸がいるものの、やっぱり金太も寂しかったんだね。
熊は成長が早いから、子熊といってもすぐに背丈は金太と同じくらいになった。そうなると目方は金太よりもずっと重い。金太と子熊はふざけて、よく取っ組み合いをしてた。わたしはそれをはらはらしながら見てたよ。だって相手は、いくら懐いてたとはいえ野生の獣だ。牙だって爪だって持ってる。金太の体がいくら大きくて普通の子よりもずいぶん力が強かったとしても、ふと野生の本能が目覚めないとも限らないだろ? 実際、子熊がちょっと力を込めただけで、金太はあえなく地面に押さえつけられてたよ。金太はそのたびにひどく悔しがって、体を鍛えた。重い荷物を背負ったまま山野を駆けまわったり、大きな岩に体をぶつけたり。
でもたぶん金太は獣と組み合ってくなかで、何か人間離れした戦い方というか動きというか、力の使い方を体で覚えていったんだろう。獣の体に秘められた力は、人間ではどうにも計り知れないもんがあるからね。犬だろうが猪だろうが猿だろうが、本気で人間を殺す気で向かってきたなら、人間は丸腰じゃあ勝てないだろう。熊なんて言うに及ばずだ。
そんな熊と、多少の怪我をしながらも毎日のように組み合ってた金太だったから、人間では相手にならないのも当たり前だった。まあそんなことを金太が理屈でわかってるわけもないけれどね。
「そうだったそうだった。くくり罠から助けた子熊とな。……まあなぁ、熊って強いからなあ、おまえも強くなるはずだよ。人間相手じゃもう誰も勝てないな。村の奴らなんかじゃあ、とてもとても……」
佐吉の言葉に対し、金太は吐き捨てるように言った。
「へっ。相撲どころか、村の奴らは俺に触れることすら気味
金太の突然の剣幕に、佐吉はしどろもどろになった。
「うーん、まあ、そんな奴らばっかりでもないよ、村の連中も」
「興味ねえよ。大嫌いだ、村の奴らなんか。みんな死んじまやいいんだよ!」
金太はきつい目で佐吉を睨み、すぐに佐吉の慌てた表情を見て後悔した。目を逸らして、取り繕うように言った。
「……村人じゃあ相手にならねえよ。せめて侍じゃなきゃ……」
「お侍?」
「ああ。俺はいつか侍と相撲を取りてえ。そして俺の強さを認めさせて、俺を侍にしてもらうんだ。だからもっと強くならなきゃいけねえんだよ」
佐吉は感心したように頷いた。「そうか……おまえ、そんなことを考えてんだな」
「笑うかい?」
「笑わねえよ。おまえくらい強けりゃ、夢じゃないかもな」
佐吉はにっこりと笑った。金太もつられて、少し照れながら微笑んだ。
「……そういえば金太。おまえは里のもんと話さないから知らないだろうけどな。今、熊の話が噂になってるんだ」
金太は怪訝な顔をした。「熊の噂?」
「ああ」佐吉はぐびり、とのどを鳴らしてつばを呑んだ。「最近、この辺りに恐ろしい人喰い熊が出るんだ」
金太と佐吉は、たたら場いちの大きな煙突が見える土手に並んで座ってた。そこは佐吉の仲間や、たたら場で働く他の職人やなんかにも見つかりにくい、言ってみれば二人だけが知ってる秘密の場所だった。
金太は佐吉の握り飯を一つ分けてもらった。佐吉の女房が作る握り飯が、金太は大好きだった。かわいそうなことに、米も麦もほとんど食べたことない金太だったから、ただの麦の塩むすびでも気を失ってしまうくらいの美味しさだったみたいだ。
目の色を変えて握り飯をほおばる金太を見て、佐吉は申し訳なさそうに言った。
「すまんなぁ、金太。来るとわかってたらもう一つ握り飯を作らせたのにな」
「いや、俺が急に来たんだから仕方ねえよ。俺の方こそ佐吉っつあんの昼飯をもらっちまって……。ごめんな、腹ぁ減らねえかい?」
「一つくらいじゃあんま変わらねえよ。子供が気を使うなって」
佐吉はからからと笑った。
金太は手についた粒を残らず舐めとりながら、しげしげと佐吉の横顔を見る。
佐吉には、少し頭の足りないところがあった。計算も苦手だったようだし、難しいことは考えようとしない男だった。そのぶん、大きな心を持ってたみたいだ。金太の姿を、初めは珍しがったものの、すぐにまったく気にしなくなった。それどころか、金太を実の息子みたいにかわいがってくれたみたいだった。金太も、佐吉をまるで父親みたいに見てたんだろうね。金太は、実の父親を知らないもんだからさ。
「……佐吉っつあん。さっきの話の続き、してくんねえかな」
「さっきの?」
「人喰い熊の話さ。最近この辺りに出るって噂のさ」
「ああ、あの話か」佐吉は渋い顔をした。「俺も聞いた話だ。よくは知らないよ。でもな、出るんだよ、この辺に。俺の村からうんと下ったとこの一本松の村でもな、夜中に一家三人が喰い殺されたらしい。まずは亭主が、前足の爪で頭を横殴りにやられて一発でお陀仏だ。で、次に女房が悲鳴も上げるひまなく、胸を噛み破られた。そこにはまだ小さい赤ん坊がいてな。亭主と女房のはらわたを食べてる音が延々してる中で、かわいそうな赤ん坊はずっと泣き続けてたんだと」
「……その赤ん坊は?」
佐吉は首を振った。「亭主と女房のうまいとこを喰ってから、赤ん坊の頭を咥えて山へ去って行った。灯りもつけてない真っ暗な部屋で、赤ん坊がやたら泣き叫んでるのを変に思った隣の独り者がな、見に行ったんだよ。したらおまえ、そんな場面に出っくわしたんだ」
「その、見た奴は無事だったのかい?」
「ああ。熊も腹が満ってたんだろうな。もうその頃には、ほとんど泣いてなかった赤ん坊を咥えたまま、熊は独り者をちょっと見たあと、ゆうゆうと歩いて山へ向かったんだ。そらあもう、恐ろしいったらなかったろう。独り者は、朝になっても昼になっても体の震えが止まらなかったらしい。……だって金太、その熊はな」
佐吉は立ち上がって金太の方を向き、両腕を頭の上で大きく広げた。「こぉんなにでっかかったらしい。いや、信じられない話だけどな。俺らが知ってる熊のな、おおよそ倍はあるんじゃなかろうか、ってのが独り者の話だ。まあ夜目だからな、定かじゃあないが」
佐吉はそこまで一気にしゃべって、ため息を一つつくとまた金太の隣に腰を下ろした。金太は黙ったまま、佐吉の話に耳を傾けてた。
「だからさ、金太。おまえも森で狩りとかやってるだろ。気ぃつけろよな。ほら、熊はでかい音を立ててたら近づいてこないし」
「……ああ。気をつけるよ」
「あ。あとそれからな。でかいってことともう一つ、その大熊には特徴があったんだ。そいつがあったから、また余計にその独り者はびびりあがっちまったようだけどな」
佐吉は人差し指を一本、自分の口の端に引っ掛けて吊り上げた。「そいつはな、
人差し指を使って、口の端を歪ませた佐吉の顔。確かに不気味だった。そして、金太にはすぐわかった。
環雷だ。その人喰い熊は、環雷に違いない。ってね。途端に、たった一つきりしか食べてない握り飯が胃にもたれだした。
ほんとに同じ熊でも金太の友達とはえらい違いだよなぁ、と佐吉は眉をしかめて言った。
そのあと、佐吉は自分の仕事に戻った。
金太も樵の仕事に戻ろうと思ったけれど、佐吉から興味深い誘いを受け、もう少したたら場に残ることにした。作業場の熱を逃がすための天窓から、鉄を鍛えてる様子を覗かせてくれる、って話だったんだ。環雷のことで心がひどく乱れてたけど、金太はこれもめったに見られるものではないと思い、佐吉に教えられた件の屋根に、一人でひっそりと登った。
登ってみると、なるほどその場所は他の作業場からも死角になるし、急な山の斜面を背にしてる。べったりと腹這いになれば、あとは下で作業をしてる
髪の色が目立ってはいけないと思い、金太は屋根に葺いてあった茅を何本も引き抜き、肩まで長さがある金の髪に混ぜ込んで目立たなくした。
そうして金太はやっと天窓からそうっ、と顔を覗かせる。と、熱の塊りみたいなものが金太の顔をなぶった。それは思わず悲鳴を上げてしまいそうな熱さだった。そりゃそうだ、下では大量の鉄が炉の中でどろどろに溶けてる。顔全部を晒してると、あっという間に火ぶくれができてしまうだろう。
だから金太は、さらにそうっ、と片目だけを天窓から覗かせるようにした。それでもそう長くは持つまい、と金太は思った。
すっかり融けてしまった鉄のことを「水」と呼ぶけど、確かに金太が思ってたよりもそれはさらさらで、本当に真っ赤に光る水みたいに見えた。
その赤い水を、砂でできた鋳型に手子が流し入れる。鋳型はたくさんあった。いくつもいくつも、鋳型に水を流し入れた。鋳型には、水を流し入れるための竹筒が刺してある。この竹筒は、真っ赤に燃えさかる水を流し入れた時に燃え尽きるんだ。燃える時の白い煙が、型からぶすぶすと音を立てて上がった。
ややあって、次も手子によって砂の鋳型が壊され、砂が取り除かれてく。金太は口の中で唸った。果たして、壊れた鋳型から現れたのは、金太が勝手知ったる樵のための道具だった。
(まさかりだ。まさかりを造ってたんだ)
ほの赤い、生まれたてのまさかりだった。手子はまだ熱いまさかりを金鋏でつまむと、灰壺の中に沈めた。そうして粗熱を取ったあと、今度は低い温度の油に浸した。油に火が回り、刹那燃え上がる。
じりじりって音が油から聞こえると、手子は金鋏を油から引き揚げた。まさかりはもう赤くはない。鈍く銀色に光ってた。
少し離れた所では、手子が金鋏で捉えたまま、座布団ほどもある大きな金床の上にまさかりをごろりと横たえてた。それを合図に、打師が二人がかりで金槌を振るう。さっきとはまた違う大きさのまさかりだ。鉄が鉄を打つ鈍い音が、作業場のあちこちから聞こえはじめた。金太の目がらんらんと光った。
(……とっかんかん……とっかんかん……)
見入りながら、金太は心で拍子を打った。打たれるたびに火花が散って、鉄に混ざってた不純なものが取り払われてく。やがて音は明らかに変わった。鈍さが鋭さに変わったんだ。
もう一度軽く炭で焼き、また油に漬けて揚げる。そしてすっかり冷えたまさかりは、その場で粗く砥がれていった。最後に、刃についた砥ぎ汁が木綿で拭われた。
まさかりはもはや、水面みたいな銀色に輝いてた。金太の目には、一本の軽い藁草でも何の抗いもなくすっぱりと切れてしまいそうなほど鋭く見えた。
(なんてきれいなんだ)
金太は思わず呟いた。そして顔の熱さに堪えきれなくなって、天窓から離れ仰向けになった。
その姿勢でも、背中は作業場に籠った熱でじんわりと熱い。
背に熱を感じながら金太は、自分の腰に差していたまさかりを抜き、まじまじと見た。
いつだったか。どこかの樵が、深く木に食い込ませすぎて抜けなくなってしまい、捨て置かれてたのがこのまさかりだ。それを金太が力任せに引き抜いて、自分のものにした。
刃は金太が川で何度も砥いだ。柄は金太の力に負けて、二度も根元から折れてる。そのたびに新しい強い柄をこしらえ、直して使ってきた。愛着はあるけれど、でも今見た生まれたてのまさかりのような、ほとばしるほどの美しさは感じられなかった。
金太はまさかりを腰に差し直した。そして、環雷のことを考えて気持ちを重くした。
(信じらんねえ。……本当にあの環雷が)
自分の知ってる環雷は、あの相撲を取ってた子熊だった。手足の短い子熊。桑の実に目がなかった子熊。それ以外の姿を考えることは、今の金太にできなかった。
(……でも襲われてんのは、けったくそ悪い村の連中だ。俺には関係ねえ……)
環雷が金太やわたし達の前に姿を現さなくなって、もうずいぶん経ってた。
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