反対側の電車に乗って

銀乃沙羅

反対側の電車に乗って

 いつかやってやろうって決めていた。


 それを今日、実行する。


 最寄り駅に着いて、ふうと深呼吸をする。

 改札を抜けて、普段なら左に行くところを、今日はあえて右の階段を降りる。

 そして、いつもとは反対側のホームから、いつもとは反対方向へ向かう電車に乗り込んだ。


 座席に座って、周りを見渡してみる。

 いつもの混雑ぶりが嘘のように、車内には乗客がほとんどいなかった。都内の通勤ラッシュ時の電車内とは、とても思えない。

 向かう方向を変えるだけで、こうも光景が変わるものなのかと実感する。


 会社に電話はした。

 ただそれは、引いてもいない風邪を理由に休みを伝えるものだった。


 きっかけは些細なことだった。

 先週は、上司に仕事を押し付けられた。

 今週は、とあるミスを私のせいにされた。

 その腹いせである。


 現実逃避

 リフレッシュ

 小さな反抗


 そして――好奇心


 会社をサボって、いつもとは反対側の電車に乗って、海を見に行く。

 CMかドラマかは忘れたが、そんな映像を見たことがあった。

 その行動に対する、純粋な興味があったのだ。


 窓から差し込む朝日が車内を柔らかく照らし、まるで昼下がりのような穏やかな時間が流れている。


 この電車は私を終着駅まで運び、そこから私だけのささやかな旅がはじまる――はずだった。


秋川あきかわ先輩?」


「……神田かんだ?」


 ◆


「うまー」


 私の目の前で、美味しそうに蕎麦を啜る女の子を眺めながら、どうしてこうなったのかを考える。


 電車内で声をかけてきたこの女の子――神田とは久しぶりの再会となる。

 挨拶もそこそこに、なぜこの電車に乗っているのかを聞かれ、事の経緯を説明することになった。

 すると神田は「おもしろそうだから私も連れてってください」と言って、当然のように私の隣に座ってきたのだった。

 なんでも今日彼女は休みで、買い物にでも行こうとしていたらしい。


「……なんすか? 人のことジロジロと」


 神田は、高校の後輩だ。

 私の一個下で、同じバスケ部で共に汗を流していた。

 彼女はバスケが上手くて、私達の代の最後の大会では二年生ながらもベンチ入りしていた。


「食事中に肘つくの行儀悪いっすよ」


 仲は悪くなかった、と思う。

 神田は試合の際、私にタオルや飲み物を渡してくれる担当だった。休憩やタイムアウトの度に駆け寄ってきて、団扇であおいでくれたりもした。

 部内で決められた後輩の役割とはいえ、他の子ではなく神田が私に付いてくれたのが嬉しかった。


「ねえってば」

「……聞こえてるよ」

 

 そんな当時の初々しかった神田の記憶を、今の彼女の声がかき消した。

 おちおち物思いにもふけれない。

 あの頃は私に話しかけるにも、どこかおずおずとしていてかわいかったのに。


「食べないなら、先輩のくださいよ」


 そして神田は、当時であれば考えられないような提案までしてくる。


「いや食べるし、自分のあるでしょ」


 私は、自分が注文したものを守るようにお盆を掴んで移動させる。


「……えい」

「ちょっと」


 しかし、神田は隙を見て私の皿から刺身を一切れつまみ、それを口に運んだのだった。


「あ、おいしー」


 私から奪った刺身を咀嚼し、満足そうな表情を浮かべている。

 しかも、彼女が取ったのはマグロのそれだった。


「ねーえ」


 言葉に不満の気持ちをにじませ、眉をひそめる。

 私は自分で注文したものを自分で食べればいいと思う派である。

 普段であれば目くじらを立てることもないが、相手が部活の後輩なら話は別だ。


「先輩、美味しいものはシェアしなきゃ」


 しかし、神田はニヤリと笑ってそんなこと言う。

 その笑顔は、当時私が見た無垢な笑顔とはかけ離れたものだった。


 ――神田って、こんな奴だったっけ?


「……じゃあ、神田のやつもちょうだい」


 気づけば、そう口にしていた。


「え?」

「美味しいものはシェアするんでしょ?」

「あー、まぁ……」


 彼女の言い分に従えば、私にも神田のものを分けてもらう権利があるということになる。

 普段ならそんなことはしないが、後輩にやられてばかりでは少し悔しい。


「んじゃあ、えーと……はい」


 すると神田は、自身の注文した蕎麦セットの天ぷらの中から一つ選んで、私にくれた。

 しかし、それは明らかにメインではない野菜のものだった。


「……それ?」

「愛情が詰まってるんで」

「誰の」

「私の」

「はあ」

 

 神田のしたり顔と、言い訳にもなっていない彼女の言葉に嘆息する。

 自分だけのささやかな旅に、なぜかもう一人ついてきている。


「まぁ、いいか」


 旅の道連れとして、懐かしい顔があってもいいだろう。

 たとえそれが、記憶の中のかわいい後輩とは印象が違う女の子だったとしても。


 ◆


 駅から少し歩いて、この辺ではわりと有名だという海岸まで辿り着いた。

 砂浜を歩いていると潮風が気持ちいい。

 なんなら季節の割に少し寒いくらいだ。


「神田が不良になってて驚いたよ」


 少し前を歩く神田の髪を眺めながら、私はそう言った。

 彼女は眩いばかりの金髪になっていた。生え際が黒く、少しプリンのようになっている。

 私は黒髪ショートの神田しか知らない。


「これは役作りの結果ですよ」

「へー」


 行きの電車内で近況を聞いたが、神田は俳優を目指して上京していたことがわかった。

 私が大学生の頃、久しぶりにバスケ部の同期で集まった際、そんな噂を聞いた記憶がある。

 まさか、本人から直接それを聞くことになるとは思わなかったけれど。


「プロだね」

「全然、そんなんじゃないっすよ」


 適当にそう告げたら、すぐに否定の言葉が返ってきた。

 神田の声色から感情は読み取れない。後ろからだとどんな表情をしているのかもわからない。

 どこかの劇団に入っているらしいが、具体的な話は「まだ下積み中なんで」止まりだった。

 

「先輩こそ、ズル休みなんかして不良じゃないすか」


 話を変えたかったのか、すぐに私のほうに矛先が向く。


「一応、電話はした」

「あっそ」


 本当のところ、彼女は私のこの行動についてどう思っているのだろう。

 社会人のくせにこんなことをして、と内心呆れているのかもしれない。

 まぁそうだったところで、別に構わないけれど。

 

相模さがみ先輩とかと会ってないんですか?」

「会ってないよ」


 ふと神田の口から懐かしい名前が出てきた。

 私の代のバスケ部部長の相模優菜さがみゆうなのことを、神田は言っている。

 優菜は私と仲が良かった。


「大学生の時に何回か集まったけど、最近は全然」


 思えば、高校生になると中学の頃の友達とはそんなに会わなくなった。そして、大学に入れば高校、社会人になれば大学の友人となんとなく疎遠になっていった。


「結婚式には呼ばれたけどさ」


 優菜は昨年結婚した。

 もうすぐ子供も生まれるらしい。

 他の高校の友達も似たようなもので、たまにおめでたい報告が来る。

 ただ、それを祝福するくらいでしか連絡を取り合うことはなかった。


「いろいろ忙しいみたいだしね」

「へー」

「神田は?」

「私も全然。まぁ大学行かずに単身東京来たって感じだったんで」

「そっか」


 それぞれ環境が変われば疎遠になる。

 結婚したり、そもそも物理的な距離が遠ければ、会わなくなっていく。

 そうやって段々と、人間関係は変化していく。

 そういうものだと思う。


 だけど今、私は神田とこんなところを歩いている。


「ここで終わりかー」

「みたいだね」


 海岸の端まで辿り着いて、私達は引き返すことにした。


 ◆


 駅の方に戻りつつ、見つけたカフェに寄ることになった。

 調べずに入ったが、お洒落で雰囲気のいいお店だった。


「あー、高校時代に戻りたいな」


 神田はそう言って、注文したプリンパフェをつつく。

 どうやら甘いものは好きらしい。


「バスケとか、全然身体動きそうもないけどね」


 手元のチーズケーキを切りながら、そう告げる。

 私は、甘さ控えめのデザートが好きだ。


「あの時、先輩ともっと話したかったな」


 そして神田は、そんなことを呟いた。


「話してくれればよかったのに」

「いや無理ですよ、そんな雰囲気じゃなかったし」


 私達の高校のバスケ部は、強豪と呼ばれるようなところだった。

 上下関係もわりと厳しかったように思う。

 部活が休みの日に遊びに行くときも、同学年の子だけで行っていた。


「まぁ、そっか」


 だから神田のことは、部活を通してしか知らない。

 神田にとっての私もそのはずだ。


「先輩は、私の憧れだったんで」


 それでも、神田はそんなことまで言ってくる。


「またまたー」

「いや、ほんとですって」


 からかう意図なのかと思ったが、どうやら本心で言っているらしい。

 初めて聞いた事実に、少し驚く。


 神田はさらに話を続ける。


「なんて言うか――」


「クールビューティーみたいな」

「ぶっ」


 彼女の口から出てきたワードに、思わず吹き出してしまった。

 その拍子にむせてしまい、珈琲を飲んで喉を落ち着かせる。


「……変なこと、言わないでよ」

「いや、ほんとのことなんすけど……」


 冷静だとか、落ち着いているとか、当時はよく言われていた。

 そしてあの頃は、学年一つの違いをとても大きなものに感じたものだ。

 それもあって、私がそんな風に見えていたのかもしれない。


 にしても、クールビューティーはないだろうと思う。


 ◆


 その後、観光地っぽいところを少し歩いた。

 そして、このまま帰る気にもならず、どうせなら一泊しようということになった。


 私にとっては、今日が金曜日だということも大きかった。

 神田にとって、それがどうなのかはわからないけれど。


 宿泊予約サイトで、近くの泊まれるところを探す。

 私はビジネスホテルでもよかったが、「絶対に旅館がいい」という神田の提案から、その条件で探すことになる。


 幸い、良さそうな宿の空きがあり、一部屋予約を取ることができた。

 少し値は張ったけれど、ここでケチケチしても仕方ない。

 気づけば私も、神田と同じような意見になっていた。

 

 ◆


 予約した旅館はとても良い宿だった。

 地元の食材を使った料理を満喫し、露天風呂のある大浴場で疲れを癒やす。

 思いがけず舞い込んだ温泉旅行に、私も神田もはしゃいでいた。


 部屋には既に布団が敷いてある。

 二人とも浴衣姿に着替え、いつでも寝られる状態になっていた。


「最高ですね」

「いや、ほんとほんと」


 売店でお酒とおつまみを買って、部屋にあった小さいグラスで乾杯をする。

 アルコールはそこまで好きではないが、今飲むお酒は美味しいと思えた。


「今まで行った宿の中で、一番いいとこかもです」

「ねー、めっちゃいいとこ」


 神田に同意する。

 それに、直前に予約したことが良かったのか、通常よりだいぶ安く泊まれていると思う。


 だけど、それより気になったことを聞いてみる。


「神田、旅行とか行くんだ?」

「そりゃ、まぁ」

「誰と?」

「え?」


 神田のプライベートなことが気になる。

 思えば、今日彼女と話していて、なんとなく核心の部分は避けて話しているような印象を受けた。

 お酒も入った今なら、少し踏み込んでみてもいいかもしれない。

 

「……まぁ、恋人とか」


 神田の口から、聞き慣れない言葉が出てくる。


「ふーん」

「……なんすか」


 神田の恋愛事情なんて、一切聞いたことがない。

 高校時代にそんな話をすることはなかったし、それ以降のことも当然知らなかった。


「先輩こそどうなんすか」

「私?」

「彼氏とか、いないんすか?」


 神田のことを聞きたいのに、中断されてしまった。

 彼女は都合が悪くなると、質問を質問で返す癖があるらしい。


「今はいないよ」

「……へー、今は」


 彼氏はいない。

 過去に何もなかったわけじゃないけれど、どの人とも将来を考える気にはなれなかった。

 だから、自分のことはあまり話したくない。


「私より、神田のこと聞かせてよ」


 それよりも今は、神田のことが知りたい。


「いや、私のことってなんすか」

「そりゃ恋愛のことでしょ」

「なんでそんなこと言わなきゃいけないんすか」

「別にいいじゃん」

「よくないですよ」

「なんでよ」

「なんでもです」

 

 けれど、いくら引き下がっても、神田は一向に話そうとはしない。

 恋バナくらいしてくれたっていいのに、と自分のことを棚に上げて思ってしまう。


「教えてよ」

「先輩には教えません」

「なにそれ、私には言いたくないってこと?」

「えーと……まぁ、そういうことっすね」


 神田のその発言に、心がざわつく。

 私に心を開いているわけではないという事実に、少し傷つく。


 私の旅に勝手についてきたくせに、と恨みがましい気持ちになる。


「あーあ、もっと早く神田と再会してたらなー」


 子どもじみた言い方だと思った。


「再会してたら、なんなんすか」

「えー、もっと仲良くなってたかも?」


 あるいは未練がましい言い方だったかもしれない。

 でも自分の中で、素直な気持ちを伝えたつもりだった。


「……よく言うよ」


 けれど、神田は拗ねたようにそう言って、そっぽを向いてしまった。


「なに? どうしちゃったの?」


 神田が何に機嫌を損ねたのかわからない。

 それを、つついてみたくなる。


「先輩、気づいてなかったでしょ?」

「え? 何に?」

「……やっぱなんでもない」

「なんだよ、気になるじゃん」


 それを、とても知りたいと思う。


「ねーえ」

 

 言葉に不満をにじませる。

 お酒も入っていたし、神田に絡みたくなったのかもしれない。


「……あー、もう」


 すると神田は髪をガリガリと掻いた後、意を決したようにこちらを向いた。


「当時、当時ですよ」


 そして、そう前置きしてから話を切り出した。


「だから……秋川先輩のこと……」

「私?」

「その……憧れてたっていうか……」

「うん」


「好きだった……みたいな」


 え――


 一気に思考が固まる。

 

「当時ですよ、当時」


 神田はそう念を押す。

 しかし、当時のことだったとしても、受け止めるのに時間がかかった。


 好きだったということは、神田が私にそういう感情を持っていたということで――


「知らなかった」


 頭の中がフリーズし、そんな言葉しか出てこない。


「まぁ、今言いましたし」


 そう答えて、彼女は話を続ける。


「先輩の代の最後の試合、覚えてます?」


 記憶を辿る。

 インターハイ予選で私達のバスケ部は快勝を続け、決勝まで駒を進めた。

 しかし決勝戦で敗れ、全国大会出場の夢は叶わなかった。


 あの時、チームの皆は泣いていた。

 特に、神田は泣いていたっけ。


「あの時、全国に行けたら気持ち伝えようって自分の中で願掛けしてて……」


 神田はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「最終クォーターで出してもらったんですけど、でも私全然シュート決めらんなくて……試合終わっちゃって……」


 神田がそんな風に思っていたなんて知らなかった。


 接戦で、惜しくも負けてしまった試合だった。

 ただそれを、神田のせいだと思った記憶はなかった。


「それで終わったーって思って、先輩見たら――」


「先輩、泣いてなかったでしょ」

「……そうだっけ」

 

 濁したが、たぶん泣いていないと思う。

 悔しかったし、全国には行きたいと思っていた。

 けれど、そこで涙を流すことはなかった。


「それ見てなんか、あー私の一方的な思い込みなんだなーって、なっちゃって……」


 数年越しに、自分の行動が神田に影響を与えていたことを知る。


 子どもの頃は泣き虫だった。

 でも、いろんなことがあって、泣いたって仕方がないと考えるようになっていった。

 バスケにはそれなりに情熱を注いでいたけれど、どこかで折り合いはつけていたのかもしれない。


 そして、あの時の神田の涙には、私のことも含まれていたということで――


「なんか、ごめん」


 謝っても仕方がないと思う。

 ただ、他に言うべき言葉が見つからない。


「いやべつに先輩が悪いってわけじゃないですよ、私の中での話なんで」


 そして神田はまた、ぽつりぽつりと言葉を重ねていく。


「まぁそういうわけで、勝手に失恋しまして……」


「東京行こうって思ったのも、それ吹っ切るためだったりして……」


「いや、もちろん演技に興味はありましたよ? あくまできっかけっていうか……」


 感情がうまく整理できない。


 東京に行ったのも

 吹っ切るため

 私のことを


 マジか――


「あー、もー忘れてください」


 そう言って、神田は自身の顔を両手で覆った。


「こんな話、一生言うつもりなかったんですけど」


 こんな神田は見たことがない。

 当時の神田とも、今日一日話してきた神田とも違う。

 こんな彼女は、初めて見る。


「もしかして、さっき言ってた恋人って……」


 そして、ふと疑問が湧く。


「その……女の人、だったり?」

「まぁそういうことに、なりますかね」


 衝撃だった。


「……引きますよね」

「いや全然、そんなことはないんだけど……その、びっくりしちゃって……」


 本心だった。

 いろいろと、処理が追いつかない。


「……そっか」

「はい……まぁそんな感じっす、ね」


 そして、沈黙が訪れる。

 神田は全て話した。

 私には返す言葉がなかった。


「飲みます」

「あ」


 次の瞬間、神田はロング缶をそのまま呷っていた。


 ◆


 あの後すぐに、神田は潰れてしまった。

 水を飲ませ、吐き気がないことを確認した後、布団に寝かしつけた。

 神田の寝息を聞いて、私も自分の布団に入った。


 お酒に弱いと事前に教えてくれればよかったのに、と思う。

 ただ、私にそれを言う資格はない気がした。


 目を覚ますと、神田のほうが先に起きていた。

 テーブルの上のお酒の缶が目について、昨日と今日がつながっていることを感じた。


 私が「おはよう」と声をかけると、神田は「おはようございます」とはっきり返した。

 そして「いや、飲みすぎました」と言ってニヤッと笑った。


 その顔を見て、まるで昨夜の出来事なんてなかったかのような気がした。

 

 それに安心している自分がいた。

 それを真摯ではないように思う自分も、またいた。

 でもだからといって、私にできることなんて、一つもないような気がした。


 身支度をし、浴衣から昨日の服に着替える。

 昨夜は暗くてよく見えなかった窓からの景色が、今日はやけに目についた。


 朝食も一緒に食べたけれど、言葉は上滑っていたように思う。


「もうそろそろ出ないとヤバいかも」

「そうですね」


 気づけば、チェックアウトの時間が迫っていた。


「忘れ物ないね?」

「はい、大丈夫です」


 簡単に見回りを済ませ、鞄を持つ。


「じゃあ行こうか」


 そして、部屋のカギを持って扉へと向かう。


「あの……」


 しかし、部屋を出る直前に、後ろから声をかけられる。

 振り返って見ると、何やらもじもじした様子の神田がいた。


「一個、お願いがあるんですけど……」

「え、何?」

「一回、その……」


 彼女は伏し目がちに、小さな声で呟いた。

 しかし、その後に発せられた言葉は、はっきりと聞こえた。


「ハグしてほしいっていうか……」


 少し驚く。

 声こそ出さなかったが、目を見開くことくらいはしたかもしれない。


「いいよ」


 でも、拒否するほどのことでもない。

 即答と言っていいくらいには、淀みなく答えた。

 それは私が、今の神田にできることだ。


「じゃあ……」


 そう言うと、神田がためらいがちに私に近づく。


「……」


 そして、すぐに感触がやってきた。


 不思議な感覚だった。


 私はスキンシップが苦手で、可能な限りそういったことを避けていた。

 気持ちが悪いと感じてしまったことだってある。


 でも今は、不快感はない。


 神田の体温を感じる。

 こんな感じなんだと、どこか冷静に考えている自分もいた。

 

 静かな時間だった。


 程なくして、私から神田の身体がスッと離れていく。

 長くも短くもない触れ合いが終わりを告げた。


「どう?」


 私はすぐに口を開く。

 

「ど、どうって?」

「感想」


 聞いてみたくなった。

 神田が私を抱きしめて、どう感じたのか。

 純粋に興味があった。


「えーと……や、やわらかかった?」

「なんか、変態ぽいなぁ」


 神田の意図も、それで満足したのかどうかも、私にはよくわからない。


「えへへ、役得ですね」

「なにそれ」


 でも、「えへへ」と笑う神田の顔は、素直にかわいいと思った。


 ◆


 とくに示し合わせていなかったが、まっすぐ帰ることになった。


「お土産買わなくてよかったの?」


 私は隣に座っている神田に尋ねた。

 私達は今、駅のホームのベンチに座って電車の到着を待っている。


 さっき駅に併設されているお土産売り場に二人で行った。

 でも、レジに向かったのは私だけだった。


「先輩は?」

「お菓子買ったよ」


 質問に質問で返されて、私は正直に答える。

 

「自分用だけどね」


 もし、事前に申請して有給を使っていたなら、同じ部署の人には買ったかもしれない。

 ただ、会社をサボって行った旅行のお土産を、会社の人に渡すわけにはいかなかった。


「へー」


 私の返答に、神田はさして温度なく応じる。

 お土産を買わなくてよかったのかという、私の問いに対する答えは、まだ聞いていない。


「誰に買うんすか」


 そして、その答えの代わりとして、そんな質問ともつかないような言葉が返ってきた。


「えー、普段お世話になってる人……とか?」


 少し考えて、私は世間でよく言われているようなことをそのまま返す。


「いないっすよ、そんな人」


 すると、神田はそう言って、ふいっとベンチから離れ、どこかに行ってしまった。


 電車が来るまでは、しばらく時間がある。

 たぶん、彼女はトイレに行ったのだろう。

 もしそうでなくても、トイレに行ったことにすればいい。


 私はふと、この旅を欲していたのは、もしかしたら神田のほうかもしれないと思った。


 ◆


 土曜日の上り電車は、時間帯からかほとんど人がいなかった。

 ゆるやかな陽光の中、ぼんやりと外を眺める。


 気づけば、神田は寝てしまっていた。

 旅行中はいろいろとあったけれど、帰りは静かなものだ。

 彼女は私の肩に寄りかかって、かわいい寝顔を見せている。


 部活の大会終わりの帰りの送迎バスでは、チームの皆は決まって眠っていた。

 乗り物の中で寝れない質の私だけは、いつも起きていたけれど。

 神田は髪型も印象も変わった。

 でも、今この瞬間だけは、あの時と何も変わらないままに見えた。


 車内から見える風景が、次第に変わっていく。

 自然の割合が減って、段々と建物の割合が増えていく。


 記憶は巡り、あることを思い出す。

 卒業式のことだ。


 式典が終わった後、体育館にバスケ部の皆で集まって、写真を撮り合ったりしていた。

 その時、神田は私に挨拶をしてくれた。

 しんみりした顔で『卒業おめでとうございます』と言った後、何かを言おうとしていたような気がする。

 ただ、すぐに別の部員に引っ張られてしまって、それで神田が遠ざかっていって――


 あの時の神田は、何を言おうとしてたのだろう。


 やっぱり――


「……んっ」


 そんなことを考えていたら、隣から声がした。

 そして、もぞもぞと声の主が動き出す。


「起きたの?」

「……うん」


 私の問いかけに、神田は少し掠れた声でそう答えた。

 眠そうな顔の彼女は、ひどく幼く見えた。


「……今、どこらへんですか?」

「もうあと30分とかで着くよ」


 窓の外を見ると、もうだいぶ見慣れた風景になっていた。


「電車反対旅も終わりか」

「うん」


 抑揚なく呟く神田に、同じ調子で答える。

  

 そこから、互いに口を開くことはなかった。


 ◆


 駅のホームにはそこそこ人がいた。

 そして今、私は神田と相対している。

 彼女はなぜか、私の最寄り駅で降車した。


「じゃあ、その……」


 別れの挨拶を言うべきだと思った。

 でも、なんと言っていいかわからない。


「……気をつけてね」


 少しためてみたけれど、結局そんな言葉しか出てこなかった。

 なんだか締まらない。

 でも、それも仕方ない気がした。


 今回の旅は、休みの日に友達と行く旅行とは種類が違う。

 楽しかったね、また行こうね、と言い合って終わる類のものでは、多分ない。

 こんな旅は私にとって初めてで、こんなシチュエーションももちろん初めてだ。

 正解など見つけられるはずがない。


 最低限の言葉を言って、さらっとその場を後にする。

 それがいいと思った。

 

 しかし、進もうとしても、ある抵抗感がそれを阻んだ。


「……いや、帰れないんだけど」


 振り返って見ると、神田に裾を掴まれていた。

 そして彼女は、無言のまま俯いている。


「どうしたの?」


 できるだけ何でもない風に、私はそう問いかける。


「……帰りたくない」


 消え入りそうな声で、神田はそう言った。


「……」


 その言葉に込められた神田の気持ちの全てを、掬い取ることはできない。

 彼女とはいろんな話をしたけれど、まだまだ知らないことばかりだ。


 でも、日常に帰りたくないという点で言えば――


 私だって、そうだ。

 私だって、そういう気持ちだ。


 だからこそ、旅に出たのだから。


 でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。

 どこかで終わりにしなきゃ。

 日常に戻らなきゃいけない。


 明日は家事も買い物もまとめてしておかなきゃいけない。

 昇格試験の論文だって提出期限が迫っているし、明後日は仕事にも行かなきゃいけない。


 なのに――


 泣きそうな神田を見ていると、私まで泣きそうになる。


 神田とは連絡先も交換したし、会いたければまたいつだって会える。

 この旅の終わりは、そんなに大げさなことじゃない。


 なのに――

 

 どうしてこんな気持ちになるのだろう。


 ふと、小学生の頃に近所で子犬を見かけ、拾って帰ったことを思い出す。

 母親に叱られて、泣きながら元の場所に戻したっけ。

 あの時の子犬は、誰かに拾われたのだろうか。


「うち来る?」


 私の言葉に、神田はコクリと頷いた。

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