反対側の電車に乗って
銀乃沙羅
反対側の電車に乗って
いつかやってやろうって決めていた。
それを今日、実行する。
最寄り駅に着いて、ふうと深呼吸をする。
改札を抜けて、普段なら左に行くところを、今日はあえて右の階段を降りる。
そして、いつもとは反対側のホームから、いつもとは反対方向へ向かう電車に乗り込んだ。
座席に座って、周りを見渡してみる。
いつもの混雑ぶりが嘘のように、車内には乗客がほとんどいなかった。都内の通勤ラッシュ時の電車内とは、とても思えない。
向かう方向を変えるだけで、こうも光景が変わるものなのかと実感する。
会社に電話はした。
ただそれは、引いてもいない風邪を理由に休みを伝えるものだった。
きっかけは些細なことだった。
先週は、上司に仕事を押し付けられた。
今週は、とあるミスを私のせいにされた。
その腹いせである。
現実逃避
リフレッシュ
小さな反抗
そして――好奇心
会社をサボって、いつもとは反対側の電車に乗って、海を見に行く。
CMかドラマかは忘れたが、そんな映像を見たことがあった。
その行動に対する、純粋な興味があったのだ。
窓から差し込む朝日が車内を柔らかく照らし、まるで昼下がりのような穏やかな時間が流れている。
この電車は私を終着駅まで運び、そこから私だけのささやかな旅がはじまる――はずだった。
「
「……
◆
「うまー」
私の目の前で、美味しそうに蕎麦を啜る女の子を眺めながら、どうしてこうなったのかを考える。
電車内で声をかけてきたこの女の子――神田とは久しぶりの再会となる。
挨拶もそこそこに、なぜこの電車に乗っているのかを聞かれ、事の経緯を説明することになった。
すると神田は「おもしろそうだから私も連れてってください」と言って、当然のように私の隣に座ってきたのだった。
なんでも今日彼女は休みで、買い物にでも行こうとしていたらしい。
「……なんすか? 人のことジロジロと」
神田は、高校の後輩だ。
私の一個下で、同じバスケ部で共に汗を流していた。
彼女はバスケが上手くて、私達の代の最後の大会では二年生ながらもベンチ入りしていた。
「食事中に肘つくの行儀悪いっすよ」
仲は悪くなかった、と思う。
神田は試合の際、私にタオルや飲み物を渡してくれる担当だった。休憩やタイムアウトの度に駆け寄ってきて、団扇であおいでくれたりもした。
部内で決められた後輩の役割とはいえ、他の子ではなく神田が私に付いてくれたのが嬉しかった。
「ねえってば」
「……聞こえてるよ」
そんな当時の初々しかった神田の記憶を、今の彼女の声がかき消した。
おちおち物思いにもふけれない。
あの頃は私に話しかけるにも、どこかおずおずとしていてかわいかったのに。
「食べないなら、先輩のくださいよ」
そして神田は、当時であれば考えられないような提案までしてくる。
「いや食べるし、自分のあるでしょ」
私は、自分が注文したものを守るようにお盆を掴んで移動させる。
「……えい」
「ちょっと」
しかし、神田は隙を見て私の皿から刺身を一切れつまみ、それを口に運んだのだった。
「あ、おいしー」
私から奪った刺身を咀嚼し、満足そうな表情を浮かべている。
しかも、彼女が取ったのはマグロのそれだった。
「ねーえ」
言葉に不満の気持ちをにじませ、眉をひそめる。
私は自分で注文したものを自分で食べればいいと思う派である。
普段であれば目くじらを立てることもないが、相手が部活の後輩なら話は別だ。
「先輩、美味しいものはシェアしなきゃ」
しかし、神田はニヤリと笑ってそんなこと言う。
その笑顔は、当時私が見た無垢な笑顔とはかけ離れたものだった。
――神田って、こんな奴だったっけ?
「……じゃあ、神田のやつもちょうだい」
気づけば、そう口にしていた。
「え?」
「美味しいものはシェアするんでしょ?」
「あー、まぁ……」
彼女の言い分に従えば、私にも神田のものを分けてもらう権利があるということになる。
普段ならそんなことはしないが、後輩にやられてばかりでは少し悔しい。
「んじゃあ、えーと……はい」
すると神田は、自身の注文した蕎麦セットの天ぷらの中から一つ選んで、私にくれた。
しかし、それは明らかにメインではない野菜のものだった。
「……それ?」
「愛情が詰まってるんで」
「誰の」
「私の」
「はあ」
神田のしたり顔と、言い訳にもなっていない彼女の言葉に嘆息する。
自分だけのささやかな旅に、なぜかもう一人ついてきている。
「まぁ、いいか」
旅の道連れとして、懐かしい顔があってもいいだろう。
たとえそれが、記憶の中のかわいい後輩とは印象が違う女の子だったとしても。
◆
駅から少し歩いて、この辺ではわりと有名だという海岸まで辿り着いた。
砂浜を歩いていると潮風が気持ちいい。
なんなら季節の割に少し寒いくらいだ。
「神田が不良になってて驚いたよ」
少し前を歩く神田の髪を眺めながら、私はそう言った。
彼女は眩いばかりの金髪になっていた。生え際が黒く、少しプリンのようになっている。
私は黒髪ショートの神田しか知らない。
「これは役作りの結果ですよ」
「へー」
行きの電車内で近況を聞いたが、神田は俳優を目指して上京していたことがわかった。
私が大学生の頃、久しぶりにバスケ部の同期で集まった際、そんな噂を聞いた記憶がある。
まさか、本人から直接それを聞くことになるとは思わなかったけれど。
「プロだね」
「全然、そんなんじゃないっすよ」
適当にそう告げたら、すぐに否定の言葉が返ってきた。
神田の声色から感情は読み取れない。後ろからだとどんな表情をしているのかもわからない。
どこかの劇団に入っているらしいが、具体的な話は「まだ下積み中なんで」止まりだった。
「先輩こそ、ズル休みなんかして不良じゃないすか」
話を変えたかったのか、すぐに私のほうに矛先が向く。
「一応、電話はした」
「あっそ」
本当のところ、彼女は私のこの行動についてどう思っているのだろう。
社会人のくせにこんなことをして、と内心呆れているのかもしれない。
まぁそうだったところで、別に構わないけれど。
「
「会ってないよ」
ふと神田の口から懐かしい名前が出てきた。
私の代のバスケ部部長の
優菜は私と仲が良かった。
「大学生の時に何回か集まったけど、最近は全然」
思えば、高校生になると中学の頃の友達とはそんなに会わなくなった。そして、大学に入れば高校、社会人になれば大学の友人となんとなく疎遠になっていった。
「結婚式には呼ばれたけどさ」
優菜は昨年結婚した。
もうすぐ子供も生まれるらしい。
他の高校の友達も似たようなもので、たまにおめでたい報告が来る。
ただ、それを祝福するくらいでしか連絡を取り合うことはなかった。
「いろいろ忙しいみたいだしね」
「へー」
「神田は?」
「私も全然。まぁ大学行かずに単身東京来たって感じだったんで」
「そっか」
それぞれ環境が変われば疎遠になる。
結婚したり、そもそも物理的な距離が遠ければ、会わなくなっていく。
そうやって段々と、人間関係は変化していく。
そういうものだと思う。
だけど今、私は神田とこんなところを歩いている。
「ここで終わりかー」
「みたいだね」
海岸の端まで辿り着いて、私達は引き返すことにした。
◆
駅の方に戻りつつ、見つけたカフェに寄ることになった。
調べずに入ったが、お洒落で雰囲気のいいお店だった。
「あー、高校時代に戻りたいな」
神田はそう言って、注文したプリンパフェをつつく。
どうやら甘いものは好きらしい。
「バスケとか、全然身体動きそうもないけどね」
手元のチーズケーキを切りながら、そう告げる。
私は、甘さ控えめのデザートが好きだ。
「あの時、先輩ともっと話したかったな」
そして神田は、そんなことを呟いた。
「話してくれればよかったのに」
「いや無理ですよ、そんな雰囲気じゃなかったし」
私達の高校のバスケ部は、強豪と呼ばれるようなところだった。
上下関係もわりと厳しかったように思う。
部活が休みの日に遊びに行くときも、同学年の子だけで行っていた。
「まぁ、そっか」
だから神田のことは、部活を通してしか知らない。
神田にとっての私もそのはずだ。
「先輩は、私の憧れだったんで」
それでも、神田はそんなことまで言ってくる。
「またまたー」
「いや、ほんとですって」
からかう意図なのかと思ったが、どうやら本心で言っているらしい。
初めて聞いた事実に、少し驚く。
神田はさらに話を続ける。
「なんて言うか――」
「クールビューティーみたいな」
「ぶっ」
彼女の口から出てきたワードに、思わず吹き出してしまった。
その拍子にむせてしまい、珈琲を飲んで喉を落ち着かせる。
「……変なこと、言わないでよ」
「いや、ほんとのことなんすけど……」
冷静だとか、落ち着いているとか、当時はよく言われていた。
そしてあの頃は、学年一つの違いをとても大きなものに感じたものだ。
それもあって、私がそんな風に見えていたのかもしれない。
にしても、クールビューティーはないだろうと思う。
◆
その後、観光地っぽいところを少し歩いた。
そして、このまま帰る気にもならず、どうせなら一泊しようということになった。
私にとっては、今日が金曜日だということも大きかった。
神田にとって、それがどうなのかはわからないけれど。
宿泊予約サイトで、近くの泊まれるところを探す。
私はビジネスホテルでもよかったが、「絶対に旅館がいい」という神田の提案から、その条件で探すことになる。
幸い、良さそうな宿の空きがあり、一部屋予約を取ることができた。
少し値は張ったけれど、ここでケチケチしても仕方ない。
気づけば私も、神田と同じような意見になっていた。
◆
予約した旅館はとても良い宿だった。
地元の食材を使った料理を満喫し、露天風呂のある大浴場で疲れを癒やす。
思いがけず舞い込んだ温泉旅行に、私も神田もはしゃいでいた。
部屋には既に布団が敷いてある。
二人とも浴衣姿に着替え、いつでも寝られる状態になっていた。
「最高ですね」
「いや、ほんとほんと」
売店でお酒とおつまみを買って、部屋にあった小さいグラスで乾杯をする。
アルコールはそこまで好きではないが、今飲むお酒は美味しいと思えた。
「今まで行った宿の中で、一番いいとこかもです」
「ねー、めっちゃいいとこ」
神田に同意する。
それに、直前に予約したことが良かったのか、通常よりだいぶ安く泊まれていると思う。
だけど、それより気になったことを聞いてみる。
「神田、旅行とか行くんだ?」
「そりゃ、まぁ」
「誰と?」
「え?」
神田のプライベートなことが気になる。
思えば、今日彼女と話していて、なんとなく核心の部分は避けて話しているような印象を受けた。
お酒も入った今なら、少し踏み込んでみてもいいかもしれない。
「……まぁ、恋人とか」
神田の口から、聞き慣れない言葉が出てくる。
「ふーん」
「……なんすか」
神田の恋愛事情なんて、一切聞いたことがない。
高校時代にそんな話をすることはなかったし、それ以降のことも当然知らなかった。
「先輩こそどうなんすか」
「私?」
「彼氏とか、いないんすか?」
神田のことを聞きたいのに、中断されてしまった。
彼女は都合が悪くなると、質問を質問で返す癖があるらしい。
「今はいないよ」
「……へー、今は」
彼氏はいない。
過去に何もなかったわけじゃないけれど、どの人とも将来を考える気にはなれなかった。
だから、自分のことはあまり話したくない。
「私より、神田のこと聞かせてよ」
それよりも今は、神田のことが知りたい。
「いや、私のことってなんすか」
「そりゃ恋愛のことでしょ」
「なんでそんなこと言わなきゃいけないんすか」
「別にいいじゃん」
「よくないですよ」
「なんでよ」
「なんでもです」
けれど、いくら引き下がっても、神田は一向に話そうとはしない。
恋バナくらいしてくれたっていいのに、と自分のことを棚に上げて思ってしまう。
「教えてよ」
「先輩には教えません」
「なにそれ、私には言いたくないってこと?」
「えーと……まぁ、そういうことっすね」
神田のその発言に、心がざわつく。
私に心を開いているわけではないという事実に、少し傷つく。
私の旅に勝手についてきたくせに、と恨みがましい気持ちになる。
「あーあ、もっと早く神田と再会してたらなー」
子どもじみた言い方だと思った。
「再会してたら、なんなんすか」
「えー、もっと仲良くなってたかも?」
あるいは未練がましい言い方だったかもしれない。
でも自分の中で、素直な気持ちを伝えたつもりだった。
「……よく言うよ」
けれど、神田は拗ねたようにそう言って、そっぽを向いてしまった。
「なに? どうしちゃったの?」
神田が何に機嫌を損ねたのかわからない。
それを、つついてみたくなる。
「先輩、気づいてなかったでしょ?」
「え? 何に?」
「……やっぱなんでもない」
「なんだよ、気になるじゃん」
それを、とても知りたいと思う。
「ねーえ」
言葉に不満をにじませる。
お酒も入っていたし、神田に絡みたくなったのかもしれない。
「……あー、もう」
すると神田は髪をガリガリと掻いた後、意を決したようにこちらを向いた。
「当時、当時ですよ」
そして、そう前置きしてから話を切り出した。
「だから……秋川先輩のこと……」
「私?」
「その……憧れてたっていうか……」
「うん」
「好きだった……みたいな」
え――
一気に思考が固まる。
「当時ですよ、当時」
神田はそう念を押す。
しかし、当時のことだったとしても、受け止めるのに時間がかかった。
好きだったということは、神田が私にそういう感情を持っていたということで――
「知らなかった」
頭の中がフリーズし、そんな言葉しか出てこない。
「まぁ、今言いましたし」
そう答えて、彼女は話を続ける。
「先輩の代の最後の試合、覚えてます?」
記憶を辿る。
インターハイ予選で私達のバスケ部は快勝を続け、決勝まで駒を進めた。
しかし決勝戦で敗れ、全国大会出場の夢は叶わなかった。
あの時、チームの皆は泣いていた。
特に、神田は泣いていたっけ。
「あの時、全国に行けたら気持ち伝えようって自分の中で願掛けしてて……」
神田はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「最終クォーターで出してもらったんですけど、でも私全然シュート決めらんなくて……試合終わっちゃって……」
神田がそんな風に思っていたなんて知らなかった。
接戦で、惜しくも負けてしまった試合だった。
ただそれを、神田のせいだと思った記憶はなかった。
「それで終わったーって思って、先輩見たら――」
「先輩、泣いてなかったでしょ」
「……そうだっけ」
濁したが、たぶん泣いていないと思う。
悔しかったし、全国には行きたいと思っていた。
けれど、そこで涙を流すことはなかった。
「それ見てなんか、あー私の一方的な思い込みなんだなーって、なっちゃって……」
数年越しに、自分の行動が神田に影響を与えていたことを知る。
子どもの頃は泣き虫だった。
でも、いろんなことがあって、泣いたって仕方がないと考えるようになっていった。
バスケにはそれなりに情熱を注いでいたけれど、どこかで折り合いはつけていたのかもしれない。
そして、あの時の神田の涙には、私のことも含まれていたということで――
「なんか、ごめん」
謝っても仕方がないと思う。
ただ、他に言うべき言葉が見つからない。
「いやべつに先輩が悪いってわけじゃないですよ、私の中での話なんで」
そして神田はまた、ぽつりぽつりと言葉を重ねていく。
「まぁそういうわけで、勝手に失恋しまして……」
「東京行こうって思ったのも、それ吹っ切るためだったりして……」
「いや、もちろん演技に興味はありましたよ? あくまできっかけっていうか……」
感情がうまく整理できない。
東京に行ったのも
吹っ切るため
私のことを
マジか――
「あー、もー忘れてください」
そう言って、神田は自身の顔を両手で覆った。
「こんな話、一生言うつもりなかったんですけど」
こんな神田は見たことがない。
当時の神田とも、今日一日話してきた神田とも違う。
こんな彼女は、初めて見る。
「もしかして、さっき言ってた恋人って……」
そして、ふと疑問が湧く。
「その……女の人、だったり?」
「まぁそういうことに、なりますかね」
衝撃だった。
「……引きますよね」
「いや全然、そんなことはないんだけど……その、びっくりしちゃって……」
本心だった。
いろいろと、処理が追いつかない。
「……そっか」
「はい……まぁそんな感じっす、ね」
そして、沈黙が訪れる。
神田は全て話した。
私には返す言葉がなかった。
「飲みます」
「あ」
次の瞬間、神田はロング缶をそのまま呷っていた。
◆
あの後すぐに、神田は潰れてしまった。
水を飲ませ、吐き気がないことを確認した後、布団に寝かしつけた。
神田の寝息を聞いて、私も自分の布団に入った。
お酒に弱いと事前に教えてくれればよかったのに、と思う。
ただ、私にそれを言う資格はない気がした。
目を覚ますと、神田のほうが先に起きていた。
テーブルの上のお酒の缶が目について、昨日と今日がつながっていることを感じた。
私が「おはよう」と声をかけると、神田は「おはようございます」とはっきり返した。
そして「いや、飲みすぎました」と言ってニヤッと笑った。
その顔を見て、まるで昨夜の出来事なんてなかったかのような気がした。
それに安心している自分がいた。
それを真摯ではないように思う自分も、またいた。
でもだからといって、私にできることなんて、一つもないような気がした。
身支度をし、浴衣から昨日の服に着替える。
昨夜は暗くてよく見えなかった窓からの景色が、今日はやけに目についた。
朝食も一緒に食べたけれど、言葉は上滑っていたように思う。
「もうそろそろ出ないとヤバいかも」
「そうですね」
気づけば、チェックアウトの時間が迫っていた。
「忘れ物ないね?」
「はい、大丈夫です」
簡単に見回りを済ませ、鞄を持つ。
「じゃあ行こうか」
そして、部屋のカギを持って扉へと向かう。
「あの……」
しかし、部屋を出る直前に、後ろから声をかけられる。
振り返って見ると、何やらもじもじした様子の神田がいた。
「一個、お願いがあるんですけど……」
「え、何?」
「一回、その……」
彼女は伏し目がちに、小さな声で呟いた。
しかし、その後に発せられた言葉は、はっきりと聞こえた。
「ハグしてほしいっていうか……」
少し驚く。
声こそ出さなかったが、目を見開くことくらいはしたかもしれない。
「いいよ」
でも、拒否するほどのことでもない。
即答と言っていいくらいには、淀みなく答えた。
それは私が、今の神田にできることだ。
「じゃあ……」
そう言うと、神田がためらいがちに私に近づく。
「……」
そして、すぐに感触がやってきた。
不思議な感覚だった。
私はスキンシップが苦手で、可能な限りそういったことを避けていた。
気持ちが悪いと感じてしまったことだってある。
でも今は、不快感はない。
神田の体温を感じる。
こんな感じなんだと、どこか冷静に考えている自分もいた。
静かな時間だった。
程なくして、私から神田の身体がスッと離れていく。
長くも短くもない触れ合いが終わりを告げた。
「どう?」
私はすぐに口を開く。
「ど、どうって?」
「感想」
聞いてみたくなった。
神田が私を抱きしめて、どう感じたのか。
純粋に興味があった。
「えーと……や、やわらかかった?」
「なんか、変態ぽいなぁ」
神田の意図も、それで満足したのかどうかも、私にはよくわからない。
「えへへ、役得ですね」
「なにそれ」
でも、「えへへ」と笑う神田の顔は、素直にかわいいと思った。
◆
とくに示し合わせていなかったが、まっすぐ帰ることになった。
「お土産買わなくてよかったの?」
私は隣に座っている神田に尋ねた。
私達は今、駅のホームのベンチに座って電車の到着を待っている。
さっき駅に併設されているお土産売り場に二人で行った。
でも、レジに向かったのは私だけだった。
「先輩は?」
「お菓子買ったよ」
質問に質問で返されて、私は正直に答える。
「自分用だけどね」
もし、事前に申請して有給を使っていたなら、同じ部署の人には買ったかもしれない。
ただ、会社をサボって行った旅行のお土産を、会社の人に渡すわけにはいかなかった。
「へー」
私の返答に、神田はさして温度なく応じる。
お土産を買わなくてよかったのかという、私の問いに対する答えは、まだ聞いていない。
「誰に買うんすか」
そして、その答えの代わりとして、そんな質問ともつかないような言葉が返ってきた。
「えー、普段お世話になってる人……とか?」
少し考えて、私は世間でよく言われているようなことをそのまま返す。
「いないっすよ、そんな人」
すると、神田はそう言って、ふいっとベンチから離れ、どこかに行ってしまった。
電車が来るまでは、しばらく時間がある。
たぶん、彼女はトイレに行ったのだろう。
もしそうでなくても、トイレに行ったことにすればいい。
私はふと、この旅を欲していたのは、もしかしたら神田のほうかもしれないと思った。
◆
土曜日の上り電車は、時間帯からかほとんど人がいなかった。
ゆるやかな陽光の中、ぼんやりと外を眺める。
気づけば、神田は寝てしまっていた。
旅行中はいろいろとあったけれど、帰りは静かなものだ。
彼女は私の肩に寄りかかって、かわいい寝顔を見せている。
部活の大会終わりの帰りの送迎バスでは、チームの皆は決まって眠っていた。
乗り物の中で寝れない質の私だけは、いつも起きていたけれど。
神田は髪型も印象も変わった。
でも、今この瞬間だけは、あの時と何も変わらないままに見えた。
車内から見える風景が、次第に変わっていく。
自然の割合が減って、段々と建物の割合が増えていく。
記憶は巡り、あることを思い出す。
卒業式のことだ。
式典が終わった後、体育館にバスケ部の皆で集まって、写真を撮り合ったりしていた。
その時、神田は私に挨拶をしてくれた。
しんみりした顔で『卒業おめでとうございます』と言った後、何かを言おうとしていたような気がする。
ただ、すぐに別の部員に引っ張られてしまって、それで神田が遠ざかっていって――
あの時の神田は、何を言おうとしてたのだろう。
やっぱり――
「……んっ」
そんなことを考えていたら、隣から声がした。
そして、もぞもぞと声の主が動き出す。
「起きたの?」
「……うん」
私の問いかけに、神田は少し掠れた声でそう答えた。
眠そうな顔の彼女は、ひどく幼く見えた。
「……今、どこらへんですか?」
「もうあと30分とかで着くよ」
窓の外を見ると、もうだいぶ見慣れた風景になっていた。
「電車反対旅も終わりか」
「うん」
抑揚なく呟く神田に、同じ調子で答える。
そこから、互いに口を開くことはなかった。
◆
駅のホームにはそこそこ人がいた。
そして今、私は神田と相対している。
彼女はなぜか、私の最寄り駅で降車した。
「じゃあ、その……」
別れの挨拶を言うべきだと思った。
でも、なんと言っていいかわからない。
「……気をつけてね」
少しためてみたけれど、結局そんな言葉しか出てこなかった。
なんだか締まらない。
でも、それも仕方ない気がした。
今回の旅は、休みの日に友達と行く旅行とは種類が違う。
楽しかったね、また行こうね、と言い合って終わる類のものでは、多分ない。
こんな旅は私にとって初めてで、こんなシチュエーションももちろん初めてだ。
正解など見つけられるはずがない。
最低限の言葉を言って、さらっとその場を後にする。
それがいいと思った。
しかし、進もうとしても、ある抵抗感がそれを阻んだ。
「……いや、帰れないんだけど」
振り返って見ると、神田に裾を掴まれていた。
そして彼女は、無言のまま俯いている。
「どうしたの?」
できるだけ何でもない風に、私はそう問いかける。
「……帰りたくない」
消え入りそうな声で、神田はそう言った。
「……」
その言葉に込められた神田の気持ちの全てを、掬い取ることはできない。
彼女とはいろんな話をしたけれど、まだまだ知らないことばかりだ。
でも、日常に帰りたくないという点で言えば――
私だって、そうだ。
私だって、そういう気持ちだ。
だからこそ、旅に出たのだから。
でも、いつまでもこうしているわけにはいかない。
どこかで終わりにしなきゃ。
日常に戻らなきゃいけない。
明日は家事も買い物もまとめてしておかなきゃいけない。
昇格試験の論文だって提出期限が迫っているし、明後日は仕事にも行かなきゃいけない。
なのに――
泣きそうな神田を見ていると、私まで泣きそうになる。
神田とは連絡先も交換したし、会いたければまたいつだって会える。
この旅の終わりは、そんなに大げさなことじゃない。
なのに――
どうしてこんな気持ちになるのだろう。
ふと、小学生の頃に近所で子犬を見かけ、拾って帰ったことを思い出す。
母親に叱られて、泣きながら元の場所に戻したっけ。
あの時の子犬は、誰かに拾われたのだろうか。
「うち来る?」
私の言葉に、神田はコクリと頷いた。
反対側の電車に乗って 銀乃沙羅 @ginno_sara
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