第8話 もしも、はキリがない。

 ダグラスとニコラは、ドライブレコーダーの映像にあった場所に着いた。遠くにエメラード中心部が見えるが、周りには民家も何もない。人通りも、車通りもそんなにない。ダイアモにある山を越えたところにある小さな集落と直接繋がる道だ。大体の人は、ダイアモを経由してエメラードに向かうため、この道はトラックドライバーの抜け道のような扱いになっている。そんな、少し寂しい道の端にある歩道で、2人は血痕を見つけた。現場写真を撮り、血痕を採取した。

「あとで車に戻って検査してみよう。…ニコラ?どうした?」

ニコラは地面に残された血痕を見続けていた。ダグラスは頭を抱えた。

「ニコラ、そんな調子で大丈夫か?」

「え?ああ、問題ないわ。」

「嘘つけ。私情が混ざりすぎて任務に集中できないなら、隊長に言って外してもらうぞ。」

「嫌よ。アリスをちゃんと見つけるんだから。」

「おうおう。頼もしいもんだ。その調子でな。」

ダグラスはニコラの肩をポンと叩いた。時に厳しく、優しく寄り添えるダグラスは、ビルからの信頼が厚く、ジョージは親友で、ジルバとニコラからも懐かれている。顔が結構老けていることをイジられるくらいには歳下からも信用されているのだ。そんなダグラスに声を掛けられたニコラは、気を引き締めた。

 地面に残された血痕を改めて見た2人は、あることに気が付いた。歩道に残る大きめの血痕とは別に、車道に向かって小さな血痕が何個かあった。綺麗な丸ではなく、少し高さがあるところから落ちたような、ギザギザしたような血痕である。

「なんだろう、これ…?」

「普通に考えたら、誰かが血を流す人を抱えて車に乗せたんだろうな。車道には血痕がないから、そういうことだろう。」

「じゃあ、アリス、誰かにどこかに連れて行かれた、ってこと…?」

「可能性は…、高いな。ここ、人通りも車通りも少ないし、血を流しながら歩く人もそうはいない。この道を通った血を流す人っていったら、アリスしかいないな。」

ダグラスは冷静さを装っていたが、内心は最悪の場合を考えてしまっており、頭が真っ白だった。もしも、アリスを連れて行ったのがフューダだったら、アリスを犯罪に利用するに決まっている。そんな考えが頭の中で大きくなりすぎてしまった。

「だ、ダグラス、大丈夫?」

「あ、ああ。悪い。」

ダグラスは一旦深呼吸をした。ニコラが見ても分かるくらいに動揺してしまったことを反省し、心臓の鼓動を落ち着かせた。自分は実動部隊の副隊長だ、と言い聞かせた。年齢に関係なく、こうして気づかせ合うことができる環境を、ダグラスは気に入っている。気づかせてくれたニコラに感謝して、情報を整理するために、2人で車に戻った。

 実動部隊の隊員は武術以外の色んな技術を身に付けなければならない。警察の鑑識作業のようなことは当たり前にできなければならないし、乗り物全般の運転もこなさなくてはならない。何でもできる最後の砦として、世界中の人の希望であり、憧れの対象となっている。何でもできるオールラウンダーになる必要があるため、実動部隊の隊員選抜試験はかなり難しい。ビル、ダグラス、ジョージ、ジルバ、ニコラは、そんな最難関の試験を突破した精鋭だ。そこに突然現れたアリスが試験も何もなく実動部隊に配属された。字の読み書きもままならないアリスの加入には、国際防衛機構内でも反発の声が上がったが、エメラード事件でのアリスの行動で、誰もが認める存在となった。認められなかったとしても、すでにいる5人がアリスのできないこと全てをやろう、と決めていた。

 車に戻ったら、ダグラスが画像解析を、ニコラが血液の検査をした。大きめのワゴン車の中には、色んな機材が詰め込まれており、その場で作業ができるようになっている。1分1秒を争う現場ばかりのため、実動部隊の車は全てこんな感じだ。10分ほどでニコラの血液検査が終わった。

「ダグラス。この血、アリスので間違いないわ。前に採取したアリスのものと型が一致した。」

「やっぱりか。と、なると、あとは映像だが…。」

ドライブレコーダーにアリスとフューダが映っているのはほんの10秒ほどだ。2人が映り始めてからの映像を拡大、鮮明化し、口元の動きを確認する。どんな会話をしたのかを知るためだ。

「アリスと一緒に居続けて気が狂ってたかもしれない、ってフューダは言ってるな。」

「どういうこと?」

「さあ?前の会話が全く分からないからなあ。けど、フューダは笑ってて、アリスは怯えた顔をしてる。」

映像には2人以外の人や車は映っていなかった。フューダ本人が関わった事案で、周辺に何か特別な乗り物が来たということは今まで一度もない。フューダの仲間は車やヘリコプターで行き来しているが、フューダ本人はどうやって移動しているのか不明だ。

「あまり非科学的なことは言いたくないが、フューダは行きたい場所に自由に行き来できる能力があるんじゃないか?1人なら行き来できるけど、自分以外の人は連れていけない、とか。」

「じゃあ、この映像は、フューダが1人で来て、このあと1人で帰ったかもしれないってこと?」

「ああ。何かに乗ってきたのなら、何かが映ってるはずだ。車もない、飛行物体もない、となったら、そう考えてしまうな…。」

「アリスとフューダのあの力を見た後なら、なおさらね。けど、それなら、いいじゃない。アリス、連れていかれてないってことだから。」

「他に手掛かりがない。血痕はエメラードとは逆に向かう車線のところで途切れてた。まずはそっち方面から行ってみるか。」

「動かなきゃ始まらないもんね。」

ダグラスとニコラはアリスを見つけ出すために山側に向かって車を走らせた。


 ベルラッテ国立劇場の楽屋スペースには、小さな箱庭がある。全ての演者の憧れの舞台で、箱庭で休憩を取るほど余裕のある者はそうはいない。しかし、自分を見失いかけていた若い2人には、心を落ち着かせるために必要な場所だった。

「ねえ、セイン。もし、子どもができたら何て名前がいい?」

シャーロットは突然そんなことを聞いた。あまりに突然すぎる質問に、セインは驚いた。

「子どもって…、どうしたんだ、いきなり。」

「いいじゃない。こういう話、女子は学校ではよくするものよ。」

自分は男だし、大体もう大人だし、とセインは内心思っていたが、あまりにも目を輝かせて聞いてきたシャーロットの勢いに負けてしまった。

「そ、そうだなあ。男の子だったら、マゼランとかマルコとかがいいんじゃないか?冒険心があって、視野も広く持てそうだ。」

何だかんだで真剣に考えて、そのうち楽しくなってきたセインも笑顔になっていた。シャーロットも楽しそうで、それが何より嬉しかった。

「いいわね。セインらしい。じゃあ、女の子だったら?」

「うーん…。何がいいかなあ?シャーロットは何がいいんだ?」

シャーロットはもったいぶってクスクスと笑った。セインはシャーロットが何と言うのか、ワクワクしていた。

「私は、女の子だったらアリスがいいわ。好奇心旺盛で、元気な子になってほしいから。色んな人とも出会って、友だちたくさん作ってほしいしね。」

「はは。シャーロットらしいな。」

普通のこんな会話を数分するだけで、お互いに心が満たされ、失いかけていた自分を再び自分の手で掴むことができた。緊張感があるのには変わらないが、お陰で思い描いたように舞台に立つことができた。演者として評価されるに至ったのは、こうして互いを気持ちの面で支え合っていたからなのだ。


 見知らぬ天井。慣れない毛布。落ち着きのある照明。アリスは目覚めるとそういう場所にいた。しばらく状況が分からず、意識もはっきりせず、ボーッと横になったままだった。だんだんと意識がはっきりしてきて、自分の身に起きた出来事を思い出した。ハッとしたアリスは、勢いよく体を起こした。

「痛…。」

胸の下辺りに痛みを感じた。頭も少し痛い。額を触ると、ガーゼが当てられていた。

「やあ。おはよう。」

アリスは声のしたほうを見た。アリスが寝かされていたのはリビングにあるソファの上だった。そのソファの横の椅子に1人の男性が座っていて、その横には別の男性が立っていた。

「え…?えっと…、あの…。」

「君に危害を加える者ではない。安心してほしい。」

椅子に座っている男性はそう言ってアリスを安心させようとした。アリスはまだ状況をよく分かっていないが、2人からは殺気は感じられず、安心はしていた。

「夜、車で移動していたら、君が道端に倒れていた。何があったんだい?」

そう聞かれて、アリスは少し困った。正直に話したら、この2人はどう思うだろうか。フューダのことを正直に話してもいいのか。よく考えて、誤魔化すことにした。

「えっと…、ちょっと、転んじゃって…。ははは…。」

「そんなわけないですよね?頭から血を流して、あばら骨も3本折れてました。打撲痕も体中にあります。普通に転んだだけではそうはなりません。正直に話してください。」

立っている男性に真顔で言われたアリスは、隠せない、と本能的に思い、正直に話した。男性2人はアリスの話を遮ることなく最後まで聞いた。

「…と、いうわけでして。えっと…、親切に怪我の手当までしていただき、ありがとうございます。お2人に何かあってもいけませんから、私はこれで失礼します。」

アリスは痛みに耐えながら立ち上がった。そのアリスの腕を、座っている男性が掴んだ。

「え…?」

「君、名前は?」

「あ、ああ。すみません。名乗りもしないで帰るなんて、失礼ですよね。私、アリス・オリビアと申します。それでは、失礼します。」

アリスは進もうとしたが、男性は手を離さない。むしろ、アリスの腕を掴む力が強くなっていた。

「えっと…、その、これは…?」

男性はハッとして、手を離した。アリスは軽く会釈をして、部屋のドアに向かおうとしたが、立っていた男性がドアの前に来てアリスを出そうとしなかった。

「まだ、私の主の話が残ってます。」

そう言われて、アリスは座っている男性のほうを見た。男性は立ち上がり、アリスの前まで来た。

「僕はセイン・ハッシュドリッヒだ。こっちはマネージャーで良き友人のジェイ。よろしく。」

セインはアリスに手を差し出した。アリスは戸惑いながらも、その手を取って握手をした。

「アリス。さっき、帰ると言ったね?君は身一つで道路に倒れていた。どこに、どうやって帰るつもりだ?まだ、朝日も昇ったばかりだというのに。」

そう聞かれて、アリスは言葉に詰まった。アリスはただ、無関係な人を巻き込みたくないだけだ。起きたことは正直に話したが、これからどうするかまでは言いたくない。

「とにかく、しばらくここで休みなさい。この後、アリスがしたい事のためにも、今は体を休めるときだ。」

後から思えば、このとき押し切ってセインの家を出ればよかっただけだ。しかし、アリスは逆らえなかった。言われた通り、セインの家で少々休むことにした。

 ジェイに上着を脱ぐように言われたアリスは言われた通りにし、上着をジェイに渡した。ジェイは棚にしまってあった裁縫道具を取り出し、市民に切りつけられたアリスの上着を縫っていった。ボロボロの上着はみるみる綺麗になっていった。

「ありがとうございます。ジェイさん、すごいですね。」

「これくらい、どうってことありません。あ、私のことはジェイとお呼びください。」

「…僕のことはセインと呼んでくれ。」

「あ、はい。」

国際防衛機構以外で、初対面で事情を正直に話してここまで良くしてくれる人がいることに、アリスは驚きと戸惑いを隠せなかった。しかし、目の前の2人の優しさを無駄にしたくもない。アリスは言われた通りにした。

 ジェイが食事の準備をしている間、セインはアリスに舞台の台本を見せた。

「台本って何ですか?」

「お芝居をするときのセリフや仕草が書いてある本のことだ。これを全部覚えて、自分なりに演じる人物を創り上げていくんだよ。」

「これ、全部覚えるんですか?」

「そうだよ。台本を持ちながら芝居をしていたら、格好悪いだろ?」

「すごいですね。ん?てことは、セインは俳優さんですか?」

「ああ、そうだ。今日のことをきっかけに、今後応援してくれたら嬉しいな。」

セインは世界的にも有名な俳優であり、知らない人のほうが珍しい。アリスの反応は少し寂しいものがあったが、同時に新鮮さと嬉しさもあった。普段、有名すぎるが故に、バレれば人に囲まれてゆっくりできないし、歓声もすごくて静かに過ごせない。しかし、アリスは知らないが故に、普通に接する。普通に過ごせることの喜びを感じ、また、アリスにも俳優としての自分を知ってもらおう、という仕事へのやる気にも繋がった。

「お2人さん。会話を楽しんでるところ悪いが、ランチができた。」

「おお。ありがとう。じゃあ、こっちにおいで。」

アリスは言われるがままにセインについて行った。よく晴れた朝、ウッドデッキに設置されたパラソル付きのテーブルに朝ご飯が用意されていた。クロワッサンにサラダ、スクランブルエッグ、ウインナー、ミネストローネである。

「さあ、遠慮せずに食べて。」

「ありがとうございます。いただきます。」

3人で食べ始めた。1つひとつの料理がとても鮮やかで、ボンゴレの料理と同じくらい美味しい。

「ジェイが作ったんですよね?すごいですね。全部美味しいです。」

「ありがとうございます。いつもセインの身の回りのことはやってますから、どうってことないですよ。」

3人は食べながら色んな話をした。セインの仕事の話、ジェイの焦った話、アリスの字の勉強の話。穏やかな朝に、彩り豊かなご飯と3人の楽しそうな声が華を添える。

 アリスが最後に食べ終わり、ひと息ついたときに、セインが尋ねた。

「アリス、その…、ご両親はどうしてるんだ?」

少し申し訳なさそうに聞くセインの質問にどうにか答えようと、アリスは頭の中で文章を組み立てた。

「えっと…、先程もお話しした通り、私はフューダの下で育ちました。母は私を産んで数か月後にフューダに殺されました。父には会ったこともないので、どこで何をしているのか、そもそも生きているのか、分かりません。」

アリスが覚えているのは、フューダに殺される瞬間に痛みを隠し切れず苦痛に歪む母の顔だけだ。どんな人なのか、普段はどんな顔なのか、全く知らない。父親は存在するのかどうかも分からないのだ。アリスのその言葉を聞いたセインとジェイは、一瞬互いに顔を見合わせ、どう声を掛けたらいいのか分からなくなった。それを察したアリスは慌てて場を取り繕うとした。

「えっと…、ほら、両親と過ごすことはできませんでしたが、なんとか生きてはこられたので、それだけでも…。」

「悪い。気を遣わせてしまって。無理にそんなことを言わなくていいんだよ。」

セインはアリスの肩に手を置いてそう言った。肩に置いた手はそのままに、質問を変えた。

「じゃあ、もし、父親が生きていたら、会いたいと思うか?」

そんなことを考えたこともなかったアリスは、聞かれて初めて考えた。もし、今後、父に会う機会があったなら、自分はどう行動するべきなんだろう、とじっくり考えた。2,3分考えて、答えを出した。

「私個人としては、会ってみたいです。」

「おお、そうか。そうだよな。」

「しかし…、」

「し、しかし?」

会いたい、というアリスの思いに納得したセインだったが、何か他の思いもあるようなアリスに驚いた。アリスが何を考えているのか、少し怖くなった。

「あ、はい。もし、父が生きていたとして、その方にも今の生活があるわけで、今更私が出てきても困ると思うんです。私のせいで今の生活に支障が出るなら、会わないほうがいいと思います。」

相手のために自分が我慢する。アリスが出した答えはそういうものだった。母を殺され、父には1度も会えずじまいなら、父にだけでも会いたいと思うのは全くおかしいことではない。アリスだって、会いたい、と言っている。しかし、アリスが優先したのは、自分の思いではなく、相手の生活だった。劣悪な環境で育って、どうしてこんなに優しい子に育つことができたのか、セインは不思議に思うと同時に安心した。

「そうか…。そうなんだ…。」

セインは涙を堪えることができなかった。溢れる涙を服の袖で拭い、アリスに背中を向けた。見かねたジェイはセインにハンカチを差し出した。少し落ち着いてから、セインはもう1つ、アリスに尋ねた。

「アリス。もし、両親と過ごせていたら、何をしたい?」

「え?うーん…。」

アリスは少し悩んだ。両親と一緒に過ごす生活も考えたことなんてない。けれども、この質問の答えは案外すぐに出た。

「一緒にご飯を食べて、一緒に散歩して、一緒に笑い合いたいです。」

アリスの理想は、平和な世界で家族が穏やかに過ごせる平凡な幸せだ。特別なことなんてなくてもいい。ただ、平凡な日々を当たり前に過ごしたいだけなのだ。

「まあ、今望んだところで、叶いっこないんですけどね。だから、今は、目の前の助けられる人を助けて、いずれはフューダと決着をつけたいです。」

叶えられない理想を補うかのように、厳しい現実を真正面から受け止めて決着を望むアリスのことを、セインはどう捉えたらいいのか分からなくなっていた。境遇だけ聞けば、可哀想と思ってしまう。可哀想では済まされないくらい辛い日々だったに違いない。やっとフューダの支配から逃れても、フューダを倒すことを考えている。そういった意味では、完全に支配から逃れられていない。きっと、それすらもアリスは受け入れている。フューダと決着をつける、という目標があることで、今もそれに向かって生きているのだろう。

 朝ご飯のあと、セインは自室に籠ってしまった。ジェイが食器の片付けをしていたので、アリスもそれを手伝おうとした。

「アリス様にやらせるわけにはいきませんよ。身体も癒えていませんし、ゆっくりなさってください。」

ジェイにそう言われてしまったため、一度は寝かされていたリビングのソファに戻ったのだが、なんだか落ち着かず、ジェイがいるキッチンに行った。ジェイが皿洗いをしている後ろの椅子に座って、アリスはジェイに話し掛けた。

「あの、どうしてここまで親切にしてくださるのですか?」

「ん?そんなに不思議ですか?」

「は…、はい。素性も分からない人が血を流して倒れてて、事情を聞いたらフューダ絡みで、そんな私にここまでしてくれるなんて、ちょっと人が良すぎるといいますか…。」

フューダに本音を引き出されたエメラード市民を目の前で見て触れたアリスには、セインとジェイの対応が不可解に思えていた。世界中で悪行を働き、恐れられているフューダと接点がある人間なんて、誰も傍に置いておきたくないと思うに決まっている。加えて、妙な力まで発現しているとなると、不気味に思われても仕方がない。国際防衛機構は監視対象や保護対象などとして対応せざるを得ないだろうが、その他大勢は対応義務はない。

「それに、休んでろ、と仰るわりには食事の場所まで移動してましたし…。確かに、意識が戻った時と比べても痛みなんて全くないですし、むしろ治ってる感じもします。分かってたんですか?私の怪我が治ってるって…。」

ジェイはしばらくアリスに背を向けたまま、食器を片付け続けた。ドキドキしながら座るアリスだったが、そんなアリスに片付けを終えたジェイが歩み寄ってきた。すぐ前に立つと、座っているアリスに合わせてしゃがんだ。

「今、アリス様にお話しできることは限られています。ですが、ご安心ください。我々はあなたの味方です。シャイーリャの光に誓います。」

「し…、シャイーリャ…?」

「おっと、少しお喋りが過ぎました。この話をしたことは、セインには秘密にしてくださいませんか?」

「はい…。」

アリスには何のことかさっぱり分からなかった。だが、1つ、セインとジェイは本当に味方だと思えた。根拠なんてない。アリスの勘である。不可解なことは多々あるが、アリスは2人を信じることにした。

 部屋に籠っていたセインが出てきた。両肩を交互にぐるぐると回している。余程肩が凝っているらしい。

「おい、セイン。何したらそんなに肩が凝るんだよ?」

「いやあ、ちょっと、パソコンの整理をしていてね。それに、来月にはまた映画の撮影が始まるだろ?それのセリフも覚えないと。」

「ったく、そこ座れよ。」

リビングに戻ってテレビを観ていたアリスとジェイだったが、ジェイが立ち上がり、自分が座っていたところにセインを座らせた。座ったセインの肩を、肘でぐりぐりとほぐし、手で揉む、ということを何回も繰り返した。

「ジェイは本当にマッサージが上手だな。」

「マッサージ”も”だ。」

アリスにとって、2人のやり取りは見ていてとても穏やかな気持ちになれた。セインのことを主と言っていたジェイだが、変に主従関係があるわけではなく、互いが対等に接している。今のところ、ジェイのほうが負担が大きく見えるが、ジェイはそんなことを苦に思っている素振りは見せていない。むしろ、楽しそうだ。

「ありがとう。だいぶ楽になったよ。」

「もう若くないんだから、ちゃんとストレッチしとけよ。」

やれやれ、といったように、ジェイはセインに忠告した。セインも若くないと言われたことには寂しそうにしていたが、納得はしたようだった。

「まあ、エメラードの舞台公演が中止になったのは残念だったが、ゆっくり休める時間ができたのは良かったよ。」

「セイン、普段は仕事を断らないもんな。これからは無理すんなよ。」

「エメラードの舞台公演?」

「ああ。ベルラッテ国立劇場で1カ月間舞台をする予定だったんだが、エメラード事件の影響で中止になったんだよ。」

エメラード事件は、こんなところにも影響していた。劇場そのものに被害はないが、街は滅茶苦茶になってしまった。アリスは言葉が出なかった。

「先程の話だと、アリス様が劇場を守られたのですよね?」

「えっ?あ、ああ…、はい…。」

「ありがとうございます。あそこはセインと私にとって大切な場所なのです。」

「本当にありがとう。感謝してもしきれないよ。」

「いえ…。私もよく分からないのですが、ああしないといけない気がして…。でも、街を守ることはできませんでした。ごめんなさい。大切な舞台のお仕事を台無しにしてしまって。」

アリスは謝ることしかできなかった。命が助かれば充分だと思っていた。だが、そういうわけではなかった。それは昨日の出来事が証明している。

「私、フューダの娘ではないですが、戦闘術はフューダやその仲間に教わりました。私がもっと命を投げて、体を張らないといけなかったです。きっと、多くの人にとって、私はフューダに育てれた危ない人ですから。自分を大切にする権利なんて、私には…。」

ここまで黙ってアリスの話を聞いていたセインは、アリスの話の途中でアリスの頬を打った。あまりに突然のことで、ジェイは目を大きく見開き、アリスも打たれた頬を手で押さえたままセインを見ることができなかった。

「そんなこと、二度と言うな。」

セインは目に涙を浮かべて、静かにそう言った。ジェイは、こんなセインを今まで見たことがなく、喋ることも動くことも忘れていた。

「アリス。君も、誰かにとっての大切な人なんだ。自分のものであっても、命を粗末にするなんて許さない。」

セインの言葉を聞いて、ようやくアリスはセインの顔を見ることができた。涙を浮かべるセインを見て戸惑った。マイナス要素しか持っていない自分と、ここまで真剣に向き合ってくれる人が実動部隊以外にいた、というのが驚きだった。何と返したらいいのか分からず、アリスは黙ったまま何もできなかった。そんなアリスを見て、セインは我に返った。

「はっ…。ご、ごめんよ。痛かったよね…。」

「いえ、私のほうこそ、ごめんなさい。セインが嫌がることを言ってしまったみたいで…。」

気まずい空気が流れた。遠くのほうで、ドーン、と微かに音がしたが、ここはそれどころではない。無言の時間がしばらく続き、見かねたジェイが口を出した。

「ったく…。まず、セイン。言ってることは正しいが、頭に血が上りすぎだ。」

「はい…。」

「それと、アリス様。この世の中には、生きたくても生きられない人が大勢います。人からどう思われようとも、1度生まれたら人生を全うする義務と権利がある。もっと自分を大切にしてください。」

「は、はい…。」

「はい。分かったら、お互いに握手。」

ジェイの仲介もあり、セインとアリスは握手しながら互いの顔を見た。ちょっぴり恥ずかしく、けれども何かが吹っ切れたような、そんな気持ちになって、自然と笑みが溢れた。そんな2人を見て、ジェイも穏やかな気持ちになれた。

 改めて互いにちゃんと謝ったセインとアリスは、ジェイが見守る中、再び色んな話をした。アリスは知らない事だらけで目を輝かせ、セインもアリスに教えながら話すのが楽しいようだ。中でも、アリスが目を輝かせたのは、舞台や歌のような芸能の話だった。

「この間、夢に出てきた綺麗な女の人がアベマリアを歌ってて、感動したんです。歌を知ったのはこれが初めてなので、他の歌を知らなくて…。」

「アベマリアか。僕も好きだよ。他は、そうだな…。アメイジング・グレイスなんてどうかな?」

そう言うと、セインは機械を操作して音楽を流した。ゆったりとしたメロディと美しい歌声が印象的な曲は、一瞬でアリスを虜にした。

「素敵な歌ですね。それに、夢で見た綺麗な女の人の歌声に似ています。」

「…これは、僕の大切な歌声なんだ。かけがえのない歌声なんだよ。」

セインはどこか寂しそうだった。アリスはそんなセインに気付いたが、どう声を掛けたらいいのか分からなかった。

 そんなとき、遠くのほうからドーンと大きな音がした。驚いた3人は、朝ご飯を食べたウッドデッキに出てみると、山の向こうで煙のようなものが上がっていた。バラバラと小さな砂や石が空から降ってきている。

「なんだ?!」

「奥の集落にある鉱山じゃないか?!」

「鉱山?」

「ああ。アリスが倒れていた道をそのまま真っ直ぐ進むと、アルゲンタという小さな村があってね。小さいけど、チタンが採れる鉱山があるから、世界中から重要視されてるんだ。」

セインがアリスに説明していると、もう一度ドーンと大きな音がした。時間差で、再びウッドデッキに小さな砂や石が空から降ってきた。

「おい!2人とも!逃げろ!岩だ!」

ジェイが声を荒げて空を指差した。セインとアリスがそのほうを見ると、家を潰してしまうくらい大きな岩が降ってきていた。セインは驚き、腰が抜けてしまった。

「おい!セイン!」

「恥ずかしいよ、まったく…。何も守れない。ジェイ、アリスを連れて逃げろ。」

「セインを置いて行けるかよ。」

そう言って、ジェイはセインを抱え上げた。

「アリス様!早く!」

空を見上げたままのアリスにジェイが叫んだ。しかし、アリスはその場を動こうとしない。しばらく降ってくる岩を見てから、アリスはゆっくりとウッドデッキの真ん中に移動し、脚を開いて踏ん張り、両腕を真っ直ぐ空に向けた。

『お願い!』

「…分かってますよ。」

アリスの頭の中で、あの声が響いた。その声に答えるように、アリスは小声で返した。一度目を瞑り、大きく息を吸って、大きく目を見開いた。アリスの青い目は、より一層青く輝き、両手から白銀の光が放たれた。光はセインの家全体を包み込み、大きな岩を粉々に砕いた。光はその後、バリアのようにセインの家をドーム状に覆った。

「あ…、アリス…。」

セインとジェイはその様子を見て驚いた。さっき話に聞いたことが、早速目の前で起きた。想像より強い光は、建物ごと自分達を守ってくれた。2人の前にアリスが歩み寄ってきた。しかし、さっきまでより2歩も3歩も距離を取っていた。

「話はしましたが…、やっぱり驚きますよね?」

俯いてから顔を上げたアリスだが、明らかに無理に笑顔を作っていた。セインはジェイの肩を借りて自分の足で立った。少しでも歩み寄りたくて、少しずつアリスに近づいた。そんなセインとジェイを、アリスは止めた。

「ダメです。気持ちはありがたいですが、セインとジェイも悪く言われてしまいますから。」

アリスは泣きそうだった。必死で涙を堪えている顔を、セインは見ていられないと思った。しかし、ジェイが顔を背けるのを許さなかった。2人はしっかりとアリスを見た。

「私に悪意はありません。守りたい、という気持ちに嘘はありません。ただ、力が普通じゃないんです。恐れられても仕方がありません。」

アリスはまた俯いた。堪えていた涙がウッドデッキの床にポトポトと落ちた。俯いたまま涙を拭い、セインとジェイを見た。

「ありがとうございました。優しくしていただいて、手当と食事まで出していただいて。お2人はこのままここにいてください。事が解決するまでは、この光のバリアが守ってくれます。」

アリスはそう言うと、ウッドデッキの柵を飛び越えて、光のバリアの外に出た。離れていくアリスに向かって、セインとジェイは声を掛けた。

「アリス!君は1人じゃない!僕も君に感謝してる!アリスと話せて、楽しかった!」

「アリス様!普通じゃないなんて仰らないでください!それは、アリス様の大切な個性です!」

家から離れていっていたアリスは一旦歩みを止めた。振り向いて、腕を思いっきり伸ばし、手を振った。

「ありがとうございます!」

最後は自然な笑顔を見せたアリスは、砂や石が降る中を走っていった。光の内側で、セインは涙を流した。

「もっと一緒にいたかったか?」

「当たり前だ。今まで何もしてやってないんだ。もっと世話を焼きたいよ。」

「けど、立派な姿だったな。」

「ああ。…それまでの成長を見たかったよ。」

セインとジェイはウッドデッキの椅子に座って、光のバリアが消えるのを待つことにした。

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