第5話 決してゼロではない。

 セインは急いでベルラッテ国立劇場に向かった。若手俳優として、色んな作品に出演しているが、今一つ手ごたえがなかった。世間の期待と評価とは裏腹に、自分の中身が空っぽのように感じていた。そんなセインの唯一の心の支えは、恋人の存在である。美しい容姿、美しい歌声、非の打ち所がない演技。どこを見たって世界的大スターの恋人だ。悩んでいたり、落ち込んでいたりしていたら、包み込むような優しさを向け、楽しかったり、幸せだったりしたら、仲良く分け合える。相手が大スターだからではなく、相手と自然に接することができる、というのがセインにとっては何よりの幸福であった。恋人もまた、セインと同じように、歌手として、俳優としての悩みが絶えず、セインと一緒にいられる時間はかけがえのないものであった。

 劇場の前で、恋人は待っていた。手を振ると、振り返してきた。互いに忙しく、芸能の仕事をしているため、人目を盗んで、人が少ない時間に時間を作って会っているのだ。

「ごめん。待たせた。」

「ううん。そんなに待ってないわ。それに、あなたが来るのを待つ時間も、あなたの事しか考えられなくなるから、私は好きよ。」

数か月前に、芸能ニュースとしてセインの熱愛報道が出た。相手が相手なだけに、世界中から驚きの声が上がった。関係者に対して申し訳ないとは思ったが、一番は恋人に対して迷惑を掛けてしまったという思いが強かった。だが、恋人は笑っていた。放っておけばいい。私たちで、俳優も自由に恋愛できるようにしてあげるチャンスだ。前向きな言葉に、セインは救われた。

 報道が出てからも、変わらずに時間を見つけては会っていた。話すだけの日、共に夜を過ごした日。どれもかけがえのない時間だ。そして、今日は、恋人がワールドツアーに旅立つ前に少しだけ時間を作ったのだった。

「明後日からツアーか。忙しいな、相変わらず。」

「お互い様でしょ?ツアーは楽しみだけど、セインに会えなくなるのが嫌だわ。」

「僕だって寂しいさ。でも、ステージで輝く君を見られるのが楽しみな部分もある。」

「あら、それなら、どのステージも気を抜けないわね。」

笑顔が絶えない時間が続いた。いつまでも続いてほしい気持ちでいっぱいなのだが、そうはいかない。

「そろそろ時間ね…。」

「そうだな。じゃあ、ツアー頑張って。応援してるよ。」

「あ、待って。」

帰ろうと立ち上がったセインを、恋人は引き留めた。不思議そうな顔をするセインは、また元の場所に座った。

「私の家の話、覚えてる?」

「ああ。忘れるほうが難しいさ。それに、今日もあそこに監視役がいるじゃないか。」

劇場の柱の陰に、ジェイがこちらを見ながら立っていた。

「こんな家だけど、それでも私のこと、好きでいてくれるの?」

「当たり前だ。僕は君に惚れたんだ。家がどうだって関係ない。」

「…セイン。ありがとう。そ、それとね…。」

恋人はお腹を撫でた。とても恥ずかしそうに、モジモジしながら、セインの手を握って、セインの手を自分のお腹に当てた。

「できたみたいなの…。」

「…本当?本当か!」

「あ、あの、その…。」

「待って。君がツアーから帰ってきてから、ちゃんと時間を作って、僕から言わせてほしい。」

ジェイは呆れたように見つめていたが、本人たちは幸せいっぱいの笑顔で、泣きながら抱きしめ合った。

 そんな2人の幸せな時間は、たったのそれだけで終わってしまう。小型戦闘機のようなものが、2人の頭上で空中待機したかと思ったら、1人の男がロープで降りてきた。

「お前は誰だ?俺の邪魔をするな。」

そう言うと、男はセインに向かって黒い閃光のようなものをぶつけた。セインは劇場の柱に隠れていたジェイの足元まで吹っ飛ばされた。

「セイン!」

「安心しろ。君は俺が守る。」

男はそう言うと、セインの恋人の動きを封じ、小型戦闘機に戻っていった。セインは何もすることができず、届きもしない小型戦闘機に向かって手を伸ばすことしか出来なかった。

「…ト。シャーロットー!」

その後、セインはジェイによって病院に運ばれた。


 なんとか銃撃をかわしながら逃げるアリスとブラスは、ベルラッテ国立劇場の前に来た。劇場の前は広場になっており、避難指示が出ているためか人は1人もおらず、広場のど真ん中に2人だけで立っているという状態だ。

「これが、劇場というものですか?」

「ああ。これまで、選ばれた人達が多くの人に幸せを届けた場所さ。」

広場は何もなく、身を隠せないため、早くこの場から離れるのが正解だ。だが、アリスは劇場の建物そのものや雰囲気に引き寄せられていた。一度も来たことがないこの場所で、懐かしさに似た妙な感覚になっていたのだ。

「アリス、どうした?泣いてるのか?」

ブラスにそう言われたアリスは、そこで初めて自分が涙を流していることに気が付いた。フューダのアジトでは、泣いたら一発殴られるのが決まりだった。アリスは気持ちを落ち着かせ、気合いでよく分からない涙を引っ込めた。

 広場に来てから、不気味なくらいに静かになった。アリスは劇場の柱の陰にブラスを降ろし、再び広場に戻ろうとした。そんなアリスの腕を、ブラスは掴んだ。

「アリス、どうするつもりだ?そんな体なんだ。休むんだ。」

ブラスの医師としての言葉だ。だが、アリスも譲らない。

「ブラスさんは、国際防衛機構が失ってはいけない人材です。だからこそ、フューダは狙ってる。ずっとあいつの傍にいたんで、分かります。」

何かを感じたのか、アリスは広場のほうを見た。ライフルを持った人物が3人、広場の中央に向かって歩いていた。ブラスの肩を掴んだアリスは笑顔だった。

「どうせ、ここから逃げたって、彼らは追って来ます。私も、いつまでブラスさんを守り切れるか分からない。ビルさん、言ってました。応援に行かせたって。ここで終わらせるつもりで私が戦えば、ダグラスとジョージはここに来てくれます。ブラスさん、あなたが助かる道は残します。」

そう言って、アリスは広場に向かった。アリスが劇場の建物から離れると、建物が丸ごと光のカーテンのようなものに包まれた。その光はすぐに消えた。ブラスはアリスを追いかけようとしたが、見えない壁があるようで、光のカーテンの外側には出られなかった。

 ライフルを持った3人は広場の中央に立って待っていた。アリスも、ゆっくり歩いて広場の中央に向かった。アリスが目の前に来ても、3人はライフルを構えなかった。ただ立っているだけの無言の時間がしばらく流れた。3人は困惑した顔になり、仲間同士、視線で会話していた。そのうちの1人がようやく口を開いた。

「な、なあ。お前が、アリスって奴か?」

「そうですが。何か御用でしょうか?」

「いや、ただ、想像してたより、チビだし、弱そうだな、って思ってよ。」

「チビで痩せてるのが今の私なので、そこはお許しください。」

3人はざわついた。みんな、アリスの事を少しバカにしたように笑っている。しかし、アリスは何とも思っていなかった。これ以上に酷い扱いを、これまでの人生で散々経験してきているからだ。

「で?ご用件は?私をチビだとバカにしに来ただけで、これだけのテロ行為はしませんよね?」

アリスは話を進めた。ここまで、気配だけでフューダが絡んでいると分かったが、真の目的が全く分からなかった。ブラス殺害は目的の1つではあるだろうが、出来ればラッキーくらいな感覚で、真の目的ではないように思っていたのだ。

「そうだな。君が劇場に隠したおじさんを殺させてくれないか?」

「お断りします。」

「そうか。じゃあ、それは諦める。」

ものすごく潔く諦めてくれたことにアリスは驚いた。諦めてくれなかったら、力づくで制圧するだけだと身構えていたアリスは、少し拍子抜けした。

「それなら、その代わりに、アリス、君をフューダ様の下に連れて帰る。」

「お断りします。それに、あなた方はフューダの側近ではないですよね?連れて帰るなんてできないのでは?」

フューダのアジトにいたのは、フューダが信頼する何名かの側近と、鍛え抜かれた選ばれし戦闘員だけである。今、アリスの目の前にいる3人は、そんな人物には見えない。

「俺たちじゃないさ。」

「は?」

3人のうちの1人がボソッとつぶやいた。アリスは妙な不気味さを感じた。

「僕たちは捨て駒。世間から捨てられて、どうせ死ぬ運命だった。」

「どうせ死ぬ私たちに、フューダ様は最期に役を与えてくださった。」

「俺たちは、その役を全うするだけだ。」

3人一斉にライフルを構え、アリスに向かって発砲した。全てを避けきれなかったアリスは、腹に2発、脚に1発、弾を受けてしまった。広場に倒れたアリスを、3人が踏みつけた。苦しむアリスに、3人は容赦なく銃口を向けた。

「僕は昔からいじめられてたんだ。可愛いものが好きで何が悪いんだ?友だちができなくて、人との付き合い方が分からなくて、結局就職も出来なかった。」

「私は親がアジア系だからって、それだけで差別されたわ。親は白人から執拗に暴力を振るわれて死んでしまった。」

「俺は野球をしてた。プロを目指してた。だが、たった一度のエラーで世界中から誹謗中傷された。プロのチームが全部手を引くくらいにな。」

夢も希望も打ち砕かれ、社会から取り残された若者の、悲痛な叫びだった。キラキラして見えた外の世界に潜む闇に、アリスは傷口以上に心が痛んだ。

「…だからって、ここまでしなきゃいけなかったんですか?」

「は?」

「フューダの口車に乗せられて犯罪者になって死んだら、救われるとでも思ったんですか?」

アリスの言葉を聞いた3人は、より一層、力強くアリスを踏みつけた。腹と脚、それにロープが外れてしまった肩からも、血が出続けている。思わず苦しむ声が出てしまったアリスは、なんとか意識を保っている。ブラスのいるところからもはっきりと見えていた。ブラスは見えない壁をドンドンと叩いているが、どういうわけか出られない。

「救われるなんて、思っちゃいないさ。」

「僕達はこれで用済み、ってことくらい分かってる。」

3人の顔は、怒りと悲しみがぐちゃぐちゃになっていた。人は絶望して追い込まれた時、こんな顔になるのだろう、とアリスは心のどこかで思った。

「けどね、これくらいやらないと、私達の気が晴れないの。これくらいやって、社会を滅茶苦茶にして、あなたみたいな良い子ぶった弱い子をボコボコにしなきゃ、死にきれないのよ。」

3人はアリスの体を劇場に向かって蹴り上げた。小柄で痩せているアリスの体は、思ったより劇場側に転がっていった。アリスは立ち上がろうとしたが、体が思うように動かない。アリスがもたついてる間に、3人はアリスに銃口を向けた。

「君を殺して、そこのおじさんも殺す。国際防衛機構を弱体化させた俺たちは、唯一の功績を持ってあの世に逝くんだ。」

3つのライフルの引き金は、無情にも引かれてしまった。

 アリスは諦めていない。向かってくる弾丸は、アリスにはとてもゆっくりに見えていた。まだ時間はある。アリスはそう思っていた。だが、解決策が浮かばない。ゆっくりとはいえ、動かない体をこのままこの位置に置いていたら、間違いなく頭から爪先までの全身に被弾する。どうしたら体は動くのか、どうしたら弾丸を浴びずに済むのか。ブラスを逃がすまでは負けられない。色々考えたアリスだが、体は動かなかった。

 周りにいた誰もが、これでアリスは終わると思った。発砲した3人はもちろん、ブラスもそう思った。だが、アリスの中に、救いの手を差し伸べるものが現れた。

『手の平を地面につけて。』

フューダのアジトから助け出されたときに聞こえた声が、アリスの頭の中に響いた。アリスはその声を信じて言う通りにした。

「ランド…フォース…。」

意味の分からない言葉が自然と口から出てきて、アリスは自分で驚いた。しかし、その言葉の後に、地面が壁のように盛り上がり、全ての弾丸を防いだ。何が起きているのか分からず、アリスはまた驚いたが、そのお陰で体を起こすことができた。

 地面から盛り上がった壁が崩れ落ち、アリスは壁の向こうにいた3人を見た。みんな唖然としていて、起き上がっているアリスに化け物を見るような視線を浴びせた。

「おいおい…、何なんだよ…。聞いてないぞ…?」

「現実でありえるのか…?」

「化け物退治ってことかしら…?」

3人はゆっくり、無理矢理笑い出した。再びライフルを構えて、銃口をアリスに向けた。また来る、と身構えたアリスだが、そのとき、3人の内の1人が腕を撃たれてその場にしゃがみ込んだ。叫びながらしゃがんだ仲間に驚いた他の2人は、どこから撃たれたのかと、辺りを見回した。どこか見つけられない内に、残りの2人も1人ずつ肩や腕を撃たれた。弾丸が飛んできた方向をアリスが見ると、遠くのビルの屋上に人影があるのを確認した。撃ったのはニコラであるが、アリスは誰かまでは分からなかった。ニコラはすかさずダグラスとジョージに連絡を取った。

「ダグラス、ジョージ。アリスはベルラッテ国立劇場の前の広場よ。相手は3人。すぐに向かって。」

「さっき、微かに銃声が聞こえたが?」

「準警戒区域に近い警戒区域のビルから撃ったわ。もちろん、命中よ。」

「さすが、実動部隊が誇る射撃の名手だな。」

ダグラスとジョージは急いでベルラッテ国立劇場に向かった。

 撃たれた3人は自暴自棄になった。ライフルを手に取り、乱射し始めた。アリスは先程の地面の壁をもう一度作り出し、弾を防いでいた。これでは、仮にダグラスとジョージが駆けつけたとしても、ブラスを連れて逃げることができない。何とかしなくては、と思ったそのとき、再びあの声が頭の中に響いた。

『あなたは特別な子。あなたならできる。みんなを、この場所を、守って。』

誰かも分からないその声は、不思議とアリスを心地よくさせた。この最悪な状況でも、何とかなるような気にさせた。ニコラが撃った弾の1つはライフルの1つに命中していたらしく、しばらくしたら使えなくなっていた。残りの2つも弾がかすめていたようで、暴発に近いことになっていた。このままでは、あの3人の命も危ない。アリスは壁を崩し、3人の前に出た。アリスを見た3人は、ライフルを捨て、アリスに殴りかかろうとした。アリスは気持ちを落ち着かせ、腕を真っ直ぐ前に伸ばし、両手のひらを3人に向けた。白銀の光が集まり、3人に向かって発射された。

 とても眩しい光だった。ブラスは思わず目を瞑り、ゆっくりと目を開けると、騒動を起こした3人とアリスが広場の中心部で倒れていた。劇場を丸ごと覆っていた光のカーテンのようなものは、一瞬、少しだけ揺らめいて消えていった。さっきまでブラスがそれ以上出ることを防いでいた壁のようなものも無くなり、ブラスはアリスのもとに駆け寄った。同時に、ダグラスとジョージも広場に到着した。ブラスはアリスを抱き上げ、ダグラスとジョージは気絶している容疑者の3人を拘束し、アリスとブラスに駆け寄った。

「先生、無事ですか?」

「見れば分かるだろ!僕は無傷だ!僕なんかよりアリスだ!重傷、いや、重体だ!早く治療ができる場所に行かせてくれ!」

ブラスは取り乱していたが、無理もない。限界をとっくに超えていた小柄な少女が、その状態で戦い続けてこのザマだ。医師として何も出来なかったことが悔しいのだ。ダグラスは容疑者3人の引き渡しをジョージに任せ、ブラスとアリスを連れてエメラードの国立病院に向かった。

 一方その頃、首脳会議の会場でも騒ぎがあった。ベルラッテ大統領の机に弾丸が撃ち込まれたのだ。会場は一気にパニックになった。そんな会場に、ビルが先頭で何人もの保安関係者が突入し、ベルラッテ大統領に銃口を向けたのだ。

「ど、どういうつもりだね?」

銃口を向けられた大統領は、何が何だか分からない、といった状態だった。他の首脳達もあまりの急展開に開いた口が塞がらないようだった。

「とぼけるな!本物のベルラッテ大統領は、先程トイレで縛られているのが見つかり、保護した。お前は何者だ?」

ビルに問われた贋物の大統領は、静かに笑い出した。椅子から立ち上がり、変装を解くと、若い男が現れた。他の首脳達は、ボディガードに守られながら部屋から退出した。

「我はフューダ様が下僕。フューダ様のためならば、この命、すぐに献上する。」

そう言うと、懐から銃を取り出した。だが、その銃は、窓の外から狙撃されてすぐに使えなくなった。手元で銃を壊されて一瞬怯んだ若い男は、最後はあっさりと確保されたのだった。

「悪いな。私の仲間は皆優秀なんだ。」

ビルは男にそう言い、警戒区域にあるビルに向かって親指を立てた。そこにはジルバがいた。ジルバもニコラ同様、射撃レベルが高く、世界でこの2人に追いつける者はいないとさえ言われるレベルだ。

「さすがだな、ジルバ。」

容疑者の連行を地元警察に任せ、ビルはジルバと話した。

「あの様子だと、今回限りの使い捨て要因だな。」

「まあ、そのお陰で被害が甚大にならずに済んだんじゃないですか?」

「ああ。本当に、フューダの目的は首脳達ではなかったみたいだな。」

「首脳会議がこのような形で邪魔される、なんて、失態以外の何物でもありません。フューダにとっては収穫はゼロではないはずです。」

「ああ、そうだな。」

ビルに連絡があったのは、会議に突入する30分前だった。ベルラッテ大統領が偽物、もしくはフューダの仲間の可能性があること、フューダの本命はアリスであるかもしれないこと、ジルバとニコラが手短に説明した。連絡を受けたビルはベルラッテの大統領府に連絡し、出発時の大統領の写真を確認すると、今会議に出ている大統領には本物の大統領にあるはずの耳の付け根のほくろがないことが分かった。すぐさま防犯カメラを確認し、トイレに行った前後での入れ替わりが発覚した。トイレに向かい、本物の大統領を保護、そして現在に至る。

「しかし、よく気付いたな。」

「色んな事が起こりすぎて、準警戒区域にばかり気を取られてましたから、一度ニコラと整理したんです。普通はこんな騒ぎなんだから、会議は中止するはずなのに、国の威信とかなんとか言って続けるのは不自然だと思ったんですよ。」

騒ぎが起こらなかった警戒区域にいたからこその冷静な判断だと、ビルは感心した。若い力は、確実に育ってきている。

「それに、準警戒区域にあんなに爆発物を仕掛けたり、銃撃するのも不自然です。狙いが先生なら、狙撃だけでいいはずですから。」

確かに、ブラスは医療担当者だ。実践で戦える技術はない。狙うなら大がかりな仕掛けをせずとも、おびき出して狙撃すればいい。あんなに派手な破壊行動をするのは、それほどの人物を狙っているから、と考えるのが妥当だ。フューダが今一番狙いたいのは、救い出されたばかりのアリスであろう。自らが鍛え上げたアリスなら、どういう身のこなしか分かるし、あの光の力を警戒して当然だ。

 容疑者がパトカーで連行され、動揺が収まりきらない首脳達を安全な場所に移動させている最中、ダグラスから一斉通信が入った。

「ダグラスだ。みんな、今いいか?」

全員が問題なしと回答し、ダグラスは続けた。

「今、先生の知り合いの病院にいる。アリスがヤバい。肩と脚に1発ずつ、腹に2発被弾して、出血がひどい。おまけに、爆発したときに瓦礫が直撃したり、粉じんを吸い込んだりで、重体だ。今、先生が手術してる。」

全員が愕然とした。ニコラとジョージは見てはいたが、いざ言葉で説明されると、辛いものがあった。誰も何も言えない時間が数十秒続いた。

「おい、ニコラ。間に合わなかったのか?」

ジルバがニコラに投げかけた。ニコラは、絞り出すように答えた。

「スコープを覗いた時には、お腹から血を出して3人の容疑者に銃口を向けられてたわ。だから、慌てて1人のライフルを撃ち抜いた。」

ジルバが怒鳴ろうとしたのを遮るように、ジョージが続けた。

「ニコラがそうしてくれなかったら、アリスは動けてなかった。ニコラがその後も他2人を狙撃したから、アリスはまたあの光を放つ時間ができたんだよ。」

フューダのアジトから抜け出した時に放ったあの光を、アリスはまた放ったのだと、全員が知ったのはそのときだった。あの時も光を放った後、アリスは倒れていた。相当エネルギー消費が激しいのだろう。小さなボロボロの体でそんなことをしたのだから、体への負担は相当なものだったであろう。

「そういえば、先生が言ってたんだが、光とは別に地面から壁を作って弾避けにしてたらしいぞ。」

思い出したようにダグラスは補足した。身のこなし、持久力、さらには非科学的な力。アリスは何かが特別で、フューダはそれを狙うか潰すかしたがっている。

「…うん。なにはともあれ、みんなよく頑張った。誰も悪くないし、誰かがいなかったら何もできてなかっただろう。ダグラスは手術が終わるまで病院にいてくれ。ジョージ、ジルバ、ニコラは首脳会議の会場前に集合だ。」

エメラード事件と呼ばれることになるこの日の出来事は、世界中の人々の記憶に焼き付いた。


 相変わらず、お気に入りの場所でコーヒーを飲んでいたフューダのもとに、部下が1人やってきた。ニヤリと笑うフューダに対して表情を変えず、報告を始めた。

「フューダ様、エメラードの件でご報告に上がりました。」

「おっ!待ってたよ。」

コーヒーカップをテーブルに置き、フューダは椅子に座った。部下は淡々と報告を始めた。

「まず、ブラス・クラネリの殺害は達成されませんでした。アリスが守っていたため、素人では指一本触れることすらできなかったようです。」

「構わないよ。国際防衛機構の弱体化を狙ったが、まあ、ブラスが生きてたって俺らが勝てるさ。」

意外と寛大な判断を下すフューダは、余裕の表情だ。できればラッキーくらいにしか思っていなかったらしい。部下はそんなフューダに驚くことなく、表情は相変わらず変わらない。

「次に、変装術ですが、確実に腕が上がっています。ですが、細かいところに気を配る余裕、変装対象の行動コピーにはまだまだ課題があります。」

「技術向上の余地は十分にある。続けていこう。会議はどうなった?」

「はい。途中まで進み、バレた後は大混乱です。会議は無効となるでしょう。」

「いいじゃないか。充分だ。」

各国首脳に対し、自分たちが脅威となることを見せつけることができただけでも、フューダにとっては収穫だ。それに、会議のために動いたお金もドブに捨てさせた。この積み重ねは、各国の国力を削ぐのに有効なのだ。

「さらに、我々の兵器ですが、充分な威力を確認しました。改良を重ねるとしても、今のをベースにしていけばよろしいかと思われます。」

エメラードの準警戒区域を半分以上破壊した爆発物、銃は、フューダの部下たちが丹精込めて造り上げたものである。どの大国より優れていて、どの大国より脅威になる。最大の特徴は、素人でも扱えてしまう、というところだ。だからこそ、アルバイト感覚の若者でもすぐにフューダの戦士となれるのだ。フューダは報告を聞いて、満足そうに頷いた。

「最後に、アリスですが、オリビア家の波動を感知しました。光の覚醒は近いかと。さらに、大地の波動も感知しております。やはり、母親の力を受け継いでいるようです。」

フューダの目は赤黒く輝いた。禍々しいものを放ってはいるが、高らかに笑っている。部下は表情を変えることはなかったが、3歩後ろに下がった。

「いやあ、面白くなってきた。2つも発現したか。そうか、成長したなあ。」

フューダは立ち上がり、コーヒーカップを手に取り、窓際で飲み始めた。ゆっくりと飲み干し、窓の外を見つめた。

「一番の収穫だ。ったく、なんで俺の前で発現しなかったかなあ?まあ、いいさ。覚醒したそのあとに、直接会いに行こうか。」

部下は一礼をして部屋を出た。部下が出た後、フューダは笑いが止まらなかった。あれだけ待ち望んだことが、今、ようやく起きようとしている。自分と渡り合える人物の登場に、フューダの心は踊っていた。


 アリスの手術は8時間後に終わった。手を尽くしたブラスは手術室から出てすぐに、長椅子に座り込んだ。そんなブラスに、ダグラスは缶コーヒーを差し出した。ブラスは受け取り、ゆっくり飲み始めた。

「アリス、どうですか?」

ブラスの横に座ったダグラスは、静かに聞いた。コーヒーを二口飲んだところで、ブラスが答えた。

「助かる確率は五分五分だ。弾は急所は外れてるが、出血がひどい。瓦礫、粉じんのダメージも大きい。やれることはやった。あとは、あの小さくて華奢な体が持ちこたえるかどうかだ。」

ブラスは泣き出した。自分の目の前で実際に人が傷つくのを見たのは初めてだったのだ。しかも、自分を守るために、アリスは倒れた。もし、これでアリスが助からなかったら、ということを考えると、ブラスは涙を我慢することができなかったのだ。そんなブラスの横で、ダグラスも同じ缶コーヒーを飲んでいた。辛さを隠しきれていないブラスを見ていられなかった。

「…アリスは先生を恨むと思いますか?」

ブラスはダグラスのその言葉で、床ばかり見ていた視線をダグラスに向けた。ダグラスは真っ直ぐ缶を見ながら続けた。

「アリスはそんな子ではないですよ。そんなに絡んだことのない俺が言うのもおかしな話ですが。」

ダグラスは静かにそう言うと、缶に残っていたコーヒーを飲み干した。空になった缶を指ではじいて、ブラスのほうを見た。

「逃げ続けた直後に、こんなに必死になって自分を助けようとしてくれた先生を、アリスは恨まないですよ。それに、先生が無事で、アリスは安心してると思いますよ。」

ブラスは、さっきとは違う涙を流した。ダグラスは、そんなブラスの横に居続けた。

 ブラスの涙は1時間後には枯れ、多少は気持ちが落ち着いた。集中治療室にいるアリスの容態確認のため、ブラスは席を立った。ダグラスは手術の結果とブラスの様子を実動部隊の隊員に伝えた。

「…と、いうわけなので、隊長、先生の話し相手になってあげてくださいね。一番仲良しなんですから。」

「お、おう。分かった。アリスは本部に戻れないのか?」

「無理に決まってるでしょう。少なくとも、意識が戻らないことにはどうにもなりませんね。」

冷静に伝えているように思えるダグラスだが、悲しさや悔しさは当然ある。もっと早く先生とアリスを見つけられていたら、と思うと責任を感じずにはいられない。

「とりあえずは、本部で取り調べを受けてる先生のお友達が病院に戻ってきてから、引継ぎをして、先生と俺は本部に戻ります。」

「分かった。頼んだぞ。」

ブラスだけでなく、実動部隊の隊員全員の話を聞いてやる必要がある、とビルは思った。今、本部の仕事部屋にいるジョージ、ジルバ、ニコラも今回の件では精神的負担が掛かってしまった。先程の会話で、ダグラスも少々気持ちが荒れているように感じた。みんなのためにも、アリスには生き延びてもらいたい、とビルは願った。

 別室で取り調べを受けているブラスの友人は、ブラスにメールを送った覚えはないと証言した。パソコン、スマートフォン、タブレットを調べたところ、パソコンが何者かに不正アクセスを受けた痕跡が見つかった。このあと、持ち物検査、身体検査を受けて、ようやく解放である。取り調べの様子を見たビルは、フューダとの関係はないと感じた。挙動が犯罪者のそれとは全く違う。病院に帰った後も、安心してアリスを預けることができる。

 翌日、ブラスの友人は解放された。フューダの仲間でなくても、利用されたら長時間の取り調べを受けなければならない。それだけ、フューダは脅威なのだ。夕方頃になって、ダグラスとブラスが本部に戻ってきた。実動部隊、医務室のスタッフが出迎えた。ブラスは明日1日休んでからの復帰である。エメラード事件は一区切りついた。

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